祖国への船出
「私が最初に乗った船を下りたのは働き始めて8年ほど経った頃でした。仕事にも慣れ、後輩もでき、様々な言語を覚え、全てが安定していました。その時もいつものようにワインを満載し、始まったスペインへの航海はいたって順調でした。しかしビスケー湾のちょうど中ごろに差し掛かっていた夜、船倉の見回りをしていた私は、梁からロープで吊るされた1人の船員の姿を目にしました」
「自殺・・・ですか?」
ルフェーブルは頷いた。
「私が仕事を教えていた、まだ十代の、ちょうど私が初めて船に乗った時と同じくらいの少年でした。よく笑い、よく働く明快な少年で遺書も残されておらず、原因は全く分からずじまい。それから私は少年が命を絶った船倉に入る事を極端に恐れるようになり、その後すぐに船を下りました。当時の船長の伝手で港で魚や果物を売る仕事をしていた私に、あるグループがその少年に「教育」と称して理不尽な労働をを課していたのを知ったのはしばらく後の事でした」
ルフェーブルの視線が下へと下がる。
「私は彼を見守る立場にありながら、それに気が付くことができなかった」
「あなたのせいではない」
そういうべきだったのだろうが、飯牟礼はあえて何も言わずに黙っていた。恐らくルフェーブル自身はそれを望んでいない。なぜかそう感じたからだ。
「その後復帰されたのですか?」
代わりに飯牟礼は問いかけた。ルフェーブルは顔を上げる
「いきなりは無理でしたが、その後積み荷の上げ下ろしから徐々に慣らしていき、再び船乗りとして仕事ができるようになりました。幸い・・・というのは不謹慎ですがあれから大小さまざまなトラブルはあれど、私の乗る船から不幸な乗員が出る事はありませんでした」
部下が自ら命を絶つ。飯牟礼自身には経験こそなかったが、軍においても軽視できない重大な問題であり、特に海軍においては陸軍に比べて年間自殺者の数は多い。いつ自らが経験するかも分からないこの問題について考えたのは過去一度や二度ではなかった。