祖国への船出
「私が初めて船乗りとして甲板を踏んだのは今から50年前、まだ16の時でした。この船の半分程度しかない商船でしたが、そこには言語も皮膚の色も目の色もまるで違う者たちが多く乗っていました。特に私は雑用すらまともにこなせないような少年でしたので、そんな彼らが怖くてたまらなかったのを今でも覚えています」
飯牟礼は小さく頷く。ルフェーブルは再び咳ばらいをした。
「力も弱く、体も大きくない私ができた仕事は、体格に合う小さな荷物の運搬と甲板の掃除、そして配食くらいなものでした。自分でも分かるくらいに要領も悪く、場の空気を悪くしてしまうこともよくありました。航海初日の夜に月を見上げながら家族の顔を思い出し、涙で頬を濡らしていました。郷愁というものです。経験はありませんか?」
ルフェーブルに問われ、飯牟礼は軍に入ったその日を思い出していた。故郷から遠く離れた地で、これまでに面識のなかった者たちとの厳しい規律に縛られた集団生活。
自ら選んで進んだ道ではあったが、たった1日でぬるま湯から熱湯へと変わったかのような環境の変化は、予想をはるかに超えるほどの負荷を心身に課していたらしい。
その日の消灯後、部屋中からすすり泣く声が聞こえていた。自分は神経の図太い人間だと思っていたが、自らを育んでくれた家族と故郷の事が一瞬頭をよぎったその瞬間大粒の涙が溢れ出し、いつの間にか眠りについた時まで枕を濡らしていた。
「はい。よく覚えています」
誰かに話したことなどなかったが、恥ずべきことだとも思わなかった。同じ経験をしているルフェーブルが相手ならばなおさらのことだ。
「幸い、戦力外にも等しい私を邪険に扱う者はいませんでした。同じ釜で作られた食事を笑顔で口に運び、ワインで満たされた酒瓶を片手にはしゃぎあえば、たとえ国籍や言語が違えどその者がどんな人間なのかは分かります」
ルフェーブルの表情が微かに緩む。それを見て、ルフェーブルは決して先ほどの言葉を悪態として捉えてはいなかったことを感じ、飯牟礼は静かに胸を撫でおろした。