祖国への船出
ふいに後ろから靴底が甲板をコツコツと叩く音が聞こえた。それがだんだんと自分に近づいてきていることを察し、飯牟礼は振り向いた。
そこにいたのは、あちこちが擦り切れた古い茶色の鞄を右手に下げ、この空の様に青い目をこちらに向ける髭を蓄えた初老の男だった。
新しい、その目深に被られたその帽子の中心には、大日本帝国海軍の証である桜と錨が重なる紋が飾り付けられていた。それは初めてこのフランス人と出会った際に、飯牟礼が贈ったものだ。
揃いの帽子を被った2人はお互いに敬礼をするとどちらからともなく近づき、握手を交わした。
「イイムレ、この日を迎えられたことをあなたに感謝しなければなりません」
日本までの回航間、この艦を操るフランス人艦長、ルフェーブルは、決して高いとは言えない英語力の飯牟礼でさえも、容易く理解できる英語でそう言うと、その握りをいっそう強めた。
何度か共にした酒の場において「あとどれだけ海に出られるか分からない」と言っていたのとは裏腹に、その鋳鉄のような手には、現役軍人である飯牟礼と変わらないほどの力がこもっている。
「それはこちらが言うべき言葉です艦長、日本までの回航をどうぞよろしくお願いします」
そう言うと飯牟礼は頭を下げた。そして顔を上げると、日本人、そしてフランス人回航員が忙しく動き回る甲板に目を向けた。そしてルフェーブルも同じようにそちらへ目を向ける。
「皆が一生懸命に働いてくれています。正直なところ不安でした。あなた方は日本はもちろんのこと、世界中の国々を訪れた。しかし我々のほとんどは外国へ足を踏み入れた経験などなかったのです。そして悲しいことに、外国に対して良くない偏見を持つ者も決して少なくありません」
ルフェーブルが小さく頷くのを見て、飯牟礼は最後の一言は余計だったとすぐに思った。慌ててそれを訂正する。
「失礼しました。お気を悪くされたのでしたら謝罪いたします」
一瞬空気が淀んだ気がしたが、ルフェーブルが口を開き、言葉を繋ぐ。
「少しだけ昔話をしてもいいですか?」
飯牟礼の返事を咳払いでかき消すと、ルフェーブルは口を開いた。