4抜歯のメリット?
「おはようございます」
世界中に広まった流行病の影響で、マスクが常となり本当に助かった。接客業をしていると、マスクのありがたさをしみじみと感じる。そしてまさか、ここでさらにマスクに感謝することになるとは思いもしなかった。
月曜日、いつも通り出社して更衣室に入ると、平野さんと安藤さんがすでに着替えをしていた。彼女達は、仕事中はマスクをつけているが始業前と退勤後は外している。今も着替えの途中でマスクをしていない。
「おはよう。あれ、今日は朝からマスクをしているのね」
「珍しいわね。倉敷さんが朝からマスクをしているなんて」
「ええまあ。ちょっと……」
二人は私の挨拶に気付いて、すぐに挨拶を返してくれた。そして、マスクをつけていることを指摘してきた。素直に親知らずを抜いたことを告白しようとしたが、なんとなく言いづらくて言葉に詰まる。
「おはようございます。紗々先輩。痛みはどうですか?旦那さん、襲ってきませんでした?」
「おはようございます!倉敷先輩、無事出社できてよかったですね。まさか、先輩にそんな性癖があるとは思いませんでした」
私が話さなくても勝手に話を進めてくる二人がやってきた。当然、その二人とは河合さんと梨々花さんである。二人は私の顔を見るなり、大げさに私を指差してくる。安藤さんと平野さんは何のことやらわからない様子で、視線を私と河合さん達の間で行ったり来たりして首をかしげている。
それにしても、勝手に話を進め過ぎである。そもそも、襲ってくるとか性癖とか意味不明過ぎる。その言葉が出てくる経緯はわかるが、それを安藤さん達の前で堂々と口にしないで欲しい。
「なんだかよくわからないけど、大変だったのねえ」
「今時の若い子は大変ね」
「あの、別に大変だったわけじゃ、いや、大変でしたけど、実は私、金曜日の有給で」
「紗々先輩、金曜日に親知らずを抜いたみたいですよ。だから、大変だったらしいです」
「そうなんですう。私は抜いたことないんですけど、抜いた後も痛むって聞きますから」
あろうことか、安藤さんたちは河合さん達の他人から聞いたら意味不明の言葉に勝手に納得しかけている。これは私のただでさえ低い評価がさらに低くなってしまう。慌てて声をかけるが、途中で遮られる。
遮られるのも嫌だが、なぜ、自分の事を他人の口から説明されなくてはいけないのか。ただ自分の口から【親知らずを抜いた】ことを伝えるだけだ。それすら邪魔するとはいい加減にして欲しい。こっちは痛み止めを飲んでいるとはいえ、負傷していると同じなのだ。もう少し、いたわりの態度や行動、言葉があってもいいのではないか。仮にも会社の先輩なんだぞ!と声を大きくして言いたくなった。
とはいえ、そんなことを言ったらキリがない。常に叫んでいなくてはならなくなってしまう。仕方なく私はさっさと着替えを済ませて更衣室をでることにした。
「それで、先輩、今回は随分と性欲丸出しでしたけど、どうしたんですか?歯を抜いて、頭のねじも抜けたんですか?」
「あのねえ、梨々花ちゃん、それを言うなら、紗々先輩の煩悩を閉じ込めていた親知らずが抜けて、一皮むけた、でしょう?先輩、ああいう作風も私は好きです!」
昼休憩になり、いつも通り、私と河合さん、梨々花さんの三人での休憩となったのだが、控え室に入った瞬間、二人は週末にあげた小説の感想を私に伝えてきた。しかし、感想にしては余計な言葉が付随している。親知らずは親知らずであり、それ以外の何物でもない。それを抜いたところで頭のねじも煩悩も解き放たれることはない。
親知らず抜歯のメリットは奥歯の虫歯予防とか小顔効果などの限定的なものだ。いったい、何をどうしたらそのような発想になるのか。彼女達の頭の方が私は心配だ。
「それで、実際のところはどうなんですか?やっぱり、痛みはありますか?」
私が黙ったままなのを心配してなのか、今度は真面目な口調で話し掛けてきた河合さん。ここで無視するのは大人げないので正直に答える。
「朝、痛み止めの薬を飲んできたので、今は痛くありません。ただ、朝飲んだので、そろそろ効果が切れると思います。なので、また午後からの仕事に支障が出ないように、お昼を食べたら新たに薬を飲んでおこうと思います」
「そうですか……。私も痛かったと思うんですけど、大学生の頃なので、あまりよく覚えていないんですよね」
「倉敷先輩はあの話し、薬が効いていた時に書いたんですか?それにしては随分と荒々しい感じがしましたけど、いえ、別に面白くなかったとかではないですよ」
「ああ、朝から騒いでいたアレ、ですか。アレは……」
彼女達が普段通りのテンションに戻ったようでよかった。週末に投稿した話については、まあ、勢いで書いたものだ。書いていた時のことを思い出し苦笑する。
「痛み止めって、連続の服用回数が決まっているみたいで、効果が切れたからと言って、すぐ次の薬という訳にはいかないらしいです」
ということで、私が新たに投稿した小説は、痛み止めが切れた夕食後から就寝前に書かれたものだ。そのため、痛みに悶えながらの執筆だった。
「じゃあ、痛いときに書いた方が、性欲が爆発しているってことですか?それなら」
「もう、痛いのはこりごりです」
とんでもないことを言い始めたのは河合さんだ。そんなこんなで、痛み止めが切れかけてきて、痛みがもどってきたところで昼休憩が終了し、私は新たな痛み止めを飲んで午後の仕事を頑張るのだった。
ちなみに、顔の腫れについては、容姿に関してのデリケートな話題なのか、マスクをしてお昼を取っていたが、二人から指摘されることはなかった。そのあたりは謎に空気を読んでいるらしい。よくわからない二人である。




