3 出会ったのは、腹ぺこ女神様!
目が覚めると、そこは見慣れない空間だった。
どこまでも白い世界が広がり、海が見える。天地に存在するのは、それだけ。
その中に、円形の広場があり、桂庭はそこで目覚めた。
正直、こんな場所を知っているのなら『お前は電脳世界の出身か』と常識を疑われてしまう場所だった。白い水平線は、どこまでも続き、もし白い空間に終わりがあるのだとしたら、~光年という時間をかけてたどり着くような先だと思えた。
桂庭は、どうやら寝かせられていたらしい。
「お目覚めですか? ずいぶんと眠っていましたね」
「な。なんだ、あんた」
一人の、あまりにも美しすぎる女が立っていた。
儚げで、とても大きな瞳が特徴的だった。
澄んだ瞳は、人間的に疑われるようなことをしてきていない証だろう。気弱そうなところがない。日本人離れした美人さんで、整った目鼻立ちと、指通りの良さそうな長い水色の髪は、西洋のお人形さんのようだった。
スタイルの良さも、桂庭が目を瞠るほどだった。
そんな女の子は、金色のリングを腕にしていて、背中まで伸ばした水色の滝のような髪には、黄金色の貴族がしそうな髪留めがされている。
―――何というか、美人に服は関係ない。というが。彼女がこういった装飾を身につけていると、まるで、避暑地に海辺に来るお嬢様に出会ったような気分になる。ドキドキするというか。『俺なんかが、話しかけていいのかなぁ』みたいな。
だが、目を奪われてばかりもいられない。
…………この〝少女〟の正体が何者なのか。それを探らなければ。
「あんた、誰だ。俺はどうしてここにいる」
「―――普通、水族館で水槽に入れられた魚は、『どうして俺は捕獲されている』なんて言うでしょうか? フライパンで焼かれる卵は、『どうして焼かれるのか』なんて考えるでしょうか?」
「うっわ、面倒くさそうなヤツだな……」
桂庭は、思いっきり引きつった顔をする。
初対面にやや失敗しそうである。質問に質問で返しているし、なんだか、世慣れしていない空気を感じる。――たぶん、〝話したいことを話す〟タイプの子だ。
コミュ障の典型例である。
「ええと……つまり。俺は今、水族館の魚と同様だと。逃げたくても、逃れられない場所にいて、封じ込められているのも一緒だ、と?」
「肯定です。一回でそれを聞き取るなんて、やりますね」
「…………どうも」
「あなたは、現在そういった立場に置かれているのです。戻ろうとしても戻れない。帰ろうとしても――帰れない」
と、少女は指を立てて、言ってくる。
自分が知りたかった情報とも少し違うし、こんな妙ちくりんな謎かけを発する意図が分からなかったが……ともかく、状況を理解する断片は拾っておかねば。仕事でも戦争でも、現地の人間が優しくしてくれとは限らない。知りたい情報は、すべてかみ砕いて親切に教えてもらえる前提ではなく、自分で学ばねば。
目の前の女の子は、そんな桂庭の様子に、『うん、うん』と頷いている。
「わたしの名前は、フィア。女神の『フィア・レイル』です」
「……? 女神……?」
おいおい、なんか妙ちくりんなこと言い出したぞ、この女。
「ここの世界は、〝神扉の異世界〟といいます。この世に数多く存在する異世界のうち――とても小さく、消極的な役割しか果たさない世界。
簡単にいうと、橋渡しです。―――あっちの質量が足りていなかったら、こっちの人間を送り込み。こっちの樹木や動物たちが足りていなかったら、こっちから生命を送り込む。よくありますね。そういう、輪廻転生の〝扉〟を司っております」
「……い、いやいやいや! よくありますよね、じゃねえよ! よくねえよ! こんな場所。だいたい、あんたは結局なんなんだ。あんたが管理する〝扉〟ってのも、ちっとも分からないんだけど!」
「あなたが、先ほど通ってきた〝扉〟ですよ」
と、女神さまとやらは端正で整った顔を上に向け、そこに渦巻く『扉』――白い渦巻きを指さす。
「あなたは、人生半ばにして死んでしまいました。死因は、幼い女の子を庇っての交通事故。そのお志はとても立派なのですが、いくらか動機に不純なものを見つけました」
「な、なんだよ。不純って」
桂庭は、怯んだ顔で一歩後ずさる。
…………そういや、ここに連れてこられた(?)ことや、死亡時に頭を打ったショックで一時的な記憶が吹っ飛んでいたが、桂庭は自分が『死亡した』直後のことを思い出していた。交通事故だ。自分は、はねられたのだ。
事故の現場に居合わせて、見知らぬ女の子を庇った。
…………そのこと自体は、賞賛、拍手喝采で讃えられて然るべきのはずなのに、なぜか、少女の眼光を前にしたら、どうも竦んでしまう。
「…………あなたは、『食いしんぼう』です」
「……へ?」
「もっと、寿命を大事に使ってください! あなたを転移させたとき。その、あまりにも凄まじい『現世への食欲の未練』のオーラを感じ取ってしまい、私は何とも言えなくなりました。
人間に欲求があるのは知っています。他の神々も、そんなことを言っていました。――私は、詳しくないし。そんな欲求なんかに興味はありませんが、〝性欲〟とか、〝怠惰欲〟とか……もう、本当に救いようがない。 そして、最後は〝食欲〟です!」
「……は、はあ」
なんで俺、白い世界で女の子に怒られてるんだろ?
そう肩をすぼめて、疑問を感じてしまう桂庭だったが、彼女の剣幕にはなぜか逆らえない。それが、『自分の寿命を、大切にしないんですから!』なんて言われた日には、なおさらだ。
「あなたは、女の子をかばった『体』で死亡しましたが――。実のところが違うことは、女神であるこのフィアにはお見通しです。あなたは、美味しいものを求めて、飲食店の匂いだけでも嗅ごうとして、〝違った道〟を探索して事故に遭いましたね。浅ましいことです。ここで事故に遭わなくとも、きっとまた別の違った受難を受けて、そして抗うこともなく、またあなたは命を落としていたでしょう。……どうですか、恥ずかしくないですか? 情けなくないですか??」
「…………。特には」
けろりと、桂庭は答える。
死ぬほど食べ物が好きなのである。趣味や仕事の熱意のためならば、時として、手段を選んでいられないのも、男の性。
そのせいで外国を旅したこともあったし、だったら、食べ物に伴う危険というものについても、覚悟はしているつもりである。だから現地の言語や、危険用語にも通じていたし、旅行先で危険地帯に足を踏み入れて、高山や崖っぷち、危険生物のいる国立公園、そして軍隊の警戒する境界線など――踏み込んで死んだとしても、そいつが覚悟不足だったり、なめていた、としか言いようがない。自分の責任としか思わない。
もう一度、言う。
―――桂庭は、食べ物にそれほどまでに命を賭けている。
「な、なんて人ですか! あなたは。これだけ言っても、反省するどころか、ギラギラとした情熱的な目を向けてきて!」
「だって、食べ物が好きなんです。本当なんです」
「で、ですが! 現に食べ物を起点として、災いに巻き込まれているではないですか! あなたは。死んだんですよ!?」
もっと自分の命を大事にしていてください。と。
女の子は言って、怒る。
そのムキになった眼差しが―――すごく近くにきていた。桂庭は驚き、そして気がついたが、彼女の宝石のような、コバルトブルーの瞳がすぐ目の前に迫っていた。どうやら、『会話』に夢中で、気づいていないらしい。
彼女は彼女で、自分の役割――というか『仕事』に、熱心なのだ。
「……な、なんておバカさん……。これはもう、手綱を締めて、首にわっかをつけてリードを引く人が必要ですね……。無茶をしないように」
「つってか、俺もう、すでに死んでますよね? いまさら、危険がどうこう、ってわけでもないと思うんですが」
「……ち、ちょうどいい。いえ、そんなあなたと、『わたし』だからこそ、今回のことは都合が合致しているのかもしれません。声をかけて、良かったかも……」
「?」
だが、なんだか、女神はごにょごにょと口を動かしている。
一体、なんなんだ。桂庭がその続きを待っていると、
「―――そんな食欲お化けさんに、一つ取引があります」
「……?」
「というか、お願いですけど。たぶん」
「…………?」
「…………私を、ここから連れ出してください」
疑問符を浮かべる彼を前に、女神は『コホン』と咳払いをして、言った。
…………そのことを、言ってしまった。
「……………………、はい?」
「どこでもいいです。どこか、好きなところに。――いいえ、実は、行き先はもう決めています。『南国』――そう、食糧事情も豊富で、緑が多く、旅をするのに適した気候が多い……そんな〝異世界〟の土地を、私は探していたんです」
ビジョンが、浮かぶ。
まるで画面だった。女神様が自分の世界で、細い指を向けると、そこにはいくつもの風景、青空、緑の密林、そして人の行き交う異国の街中――そんなものが、次々と映し出される。
って、
「―――旅行のパンフレットじゃねえか!? やってること!」
「……だ、だって! 仕方ないでしょう! わたしは行き先をあらかじめ調べておかないと、不安になるタチなんです!」
だから、それも丸っきり、『旅行女子』のそれなのだが。
――気分は、アレだろうか。OLが仕事に疲れて、ふうっと午後の休憩中、ビルの屋上のフェンスにもたれかかって、『――旅に出よ』と呟く、アレ。けっこう声音がマジだし、思わず出てきた心の声は、その非現実的な逃避行に対して、けっこう真面目に考えていたり……的な。
「…………人間でも、異世界の女神でも、一緒なんだなあ……」
「い、一緒にしないでください! 私は、ただ、毎日の任務に疲れ切っていて! 他にもさばいてくれる神様はいるし、毎日毎日、このなにも変わらない異世界で、白い空間の中訪れる『死者』たちを、別の何万って数える世界に送っていく―――そんな、毎日なんて!」
両手を握りしめ、子供が『ちがうもん!』と親を見上げてくるような、そんな潤んだ瞳で睨みつけてくる。
「私は……その。他の世界についてはあまり詳しく知りません。一度も、この白い世界を出たことがないのですから。―――だけど、だからって、他の女神たちは仕事を押しつけてきすぎなんです。
一度、他の世界を見てきて…………お灸を据えてやらないといけないんです。だから、これには目的があることなんです。〝食べる〟とか、〝眠る〟とか―――。そういう人の欲求なんて、くだらないし、わたしは知りません。ですが」
女神は言う。
――向かうのは、そんな〝人の世界〟。
色々なことがあるだろう。
当然外に出たらお腹が空くだろうし(――今の女神は、信じられないことに、空腹がないらしい。ずっと動ける、合理的な神としての仕組み)、危険だってあるかもしれない。街の歩き方も分からないし、一度迷ったら、遭難してしまうかもしれない。話す人もいない。〝女神〟という立場をぬきにして、話すことがない。話題がない。変に思われたら怖い。
「…………なんか、乙女だなぁ。女神様って」
「――しょ、食欲お化けさんになんか、言われたくないです!」
だから、どうしてこの女神、さっきからファイティング・ポーズなのだろう。
ともかく、桂庭は思った。要点はつまり、『自分の異世界への案内人』をして、ついてきて欲しい。そのかわり、転移――知識も、技術も、体の大きさだって、そのまま、女神の持てる最大限の権限を使って、送る。というのである。
「…………よく知らんが、いいのかよ? そんなことして。ダメっぽい響きがするんだけど」
「ダメです。本当なら、御法度です」
「おいおい!?」
「でも、後悔はしません。カツラバさんが一緒なら!」
キリリと、締まった顔で断言する。
――だから、それって『一緒に罰を受けて』ってことなんじゃないですかねえ!? と桂庭は本気で焦る。そんな変な企てに乗っかってしまって、下手したら桂庭まで『神様の世界を乱した罪!』なんてものを押しつけられ、言語を絶する罰というものを受けるかもしれない。
「――い、嫌だよ!」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「だから人の話聞けって!? お前、女神様だからって、一人で不安だから俺を巻き込もうとしているだろ!?」
「人助けだと思って下さい。あなたも、なにもみすみす『別の世界の食べ物を食べられるチャンス』を見逃したくはないでしょう。ええ、そうです。女神は欲求に寛大なんです。どうぞ、異世界の食べ物に向かっていってください」
その美少女が、袖を引っぱり。ひっつくようにしてその術式を使うのである。
どうやら、女神の『転生術』とやらは、こうしないと本人たちに使えないらしい。白い世界に青色の美しい〝光りの糸〟が集まってきて、それが絡まるように、一つの意志に導かれるように『魔法円』を形作る。
桂庭と、女神(?)フィアの足下に広がった。
「―――この神界の。女神フィアが命じます。今より。我が契約の意志は光りとなり、赤。青。紫。緑。黄――――。五つの光りの元素は、一つの『魔法円』となる。今こそ、異界の門への道は紡がれたり」
その手の中にある、金色と、象牙の装飾のされた杖を―――地面に突き立てるのであった。
光りの鱗粉が降りそそぎ、世界を覆っていた白が、少しずつ収束をしていく。
ミステリーな円模様である『魔法円』の光りが、次第に集まり、桂庭たちを覆っていくのであった。
「―――どこか、遠い世界へ!」
女神の小さな口が動き、そして立体的な―――完成した巨大で精密な『魔法円』に乗せられ、桂庭の体が吹き飛んだ。
視界が、白く染まるのであった。