2 はじまりは、空腹とともに~
蒸し暑い部屋に、ファンの音が回転していた。
扇風機である。六畳一間の―――この昼間のマンションには現在、他に人がおらず、すぐ近くの公園では団地の奥様方が、子供たちを遊ばせる楽しげな声が聞こえてくる。とても賑やかで、平和な街の一角なのだが、モニターの前に座る桂庭恵一にとっては、反対に地獄のような時間であった。
じりじりと、焼け付く日差し。
チラ、と恨めしげに太陽を見上げる彼の頬には、汗の粒が滴っている。モニターに向かって作業をするたびに、指の振動をつたって、顎の雫がしたたり落ちる。
―――もう。一週間だ。
そろそろ、終わりにしたい。桂庭は、思わずネクタイの紐を緩めた。
「…………うぐ。ま、まずは入稿のためのレイアウトを決定して…………だろ? そんで、雑誌『アンプル』の打ち合わせのための資料を作成して。ああっ、くそ。何でこういう時に限って、頭が回らないんだ。エアコン! ……は壊れてるし。冷蔵庫のコーヒー……げっ、切れてやがる!?」
現代社会の闇。
それは、こんな零細記者のところまで波が押し寄せてきていた。現在桂庭はケチな三流記者をやっており、各地に取材に赴いては、雑誌社にコラムを持ち込んでいる。
食っていくためには、働かねばならぬ。しかし、趣味のために働くことをケチると、後になって自分に返ってくるのである。…………三流記者とはそういうモノである。
彼が書く記事を載せるためには、約一週間ほどの地獄の作業が待っていた。
「……うぐ。食いたい……。何か、マトモな飯が食いたい。冷麺でもいい。丼でもいい。…………ああっ、でも、どうせ食べるなら口の中に幸せがいっぱい広がるような、そんなご飯が食べたいな……。大地の恵みだ。丼なら、うな重。しかも、甘いタレが網の上で香ばしく絡んで、焼いたウナギも火の中でホロホロに白身が溶けているような……脂がのった……」
ジュルリ、と。思わず白いシャツの袖で、口をぬぐった。
「ああっ、せっかくだから焼き肉でもいい……。俺、頑張ったよな? すげえ仕事頑張ったよな。だったら、せめて自分にご褒美で、とびっきりの上ロースと、カルビをスパイスの効いた秘伝のタレで、胃袋にぶち込みたいな……。焼きたての、あのカリカリとした食感。肉汁が網からしたたって、下の炭火と弾けて、―――〝じゅわっ〟、と香りが広がるんだ。午後の店内で一人焼き肉。…………以外と、コリコリとした〝ノミ〟も上手いんだよなぁ。ビールが進む」
また、いつものが始まる。
桂庭という男がこういった行動を取るとき、大抵は他のことが手につかず、両手を広げながら―――ちょうど、演奏者が手を開くように―――この世の美味について語り尽くし、舌が回らなくなるまで妄想の世界へと飛び立つのである。
その時間は多いときで十分、少ないときで一分である。
この日は、たまたま途中で現実へと呼び戻された。『ぐるるるるるるるるる――――』と情けなく鳴る、自分のお腹が呼び戻したのだ。
「いかん……。そろそろ、雑誌社に、打ち合わせに行くか」
腕時計を確認し、慌ててパソコンをカバンに突っ込む。
『どうせまた、怒られるんだろうなぁ』と編集部との会話を予想し、暗くどんよりとしたオーラをまといつつマンションを出て大通りへ。今月は原稿の出来高が悪く、一つも掲載されていないので『収入なし』という苦境に陥っていた。
マンションを出ると、通りには飲食店の誘惑が待っている。
様々な匂いで桂庭の行く手を遮ってくる午後の通りを前に、彼は『ほぼゼロ』であった通帳の残高を思い出しながら、途方に暮れるのである。入店できないと分かっていても、行きつけの寿司屋の前を未練がましく通ってみる。
すると、
「―――事故だ」
「――危ねえ!!」
通行人の声。それと、遅れてクラクションの音が聞こえてくる。
桂庭は遅れて通りのほうを見渡した。歩行者用の信号が『赤』になっていることも分からず、小さな女の子が通りを渡っている。その手には、彼女が買ってもらったらしい―――炎天下の下のソフトクリームが握られており、親の姿は見えなかった。だが、彼女は夢中でそれを食べており、信号の変化に気がついていない。
街の空気が、凍りついていた。
(…………お、おいおいおい。……これぁ。ちょっとシャレにならんぜ!?)
白い鉄柵のフェンスを乗り越えて、桂庭は大通りに向かった。
これも、食の神様のお導きか。桂庭が今日この通りを通過しなければこんな『事故』に遭遇しなかったし、あの女の子も、大人たちが動けないまま轢かれていたかもしれない。しかし。桂庭は、それでも向かってくるトラックに負けずに前進した。
驚き、硬直する女の子を抱える。
―――同時に、クラクションの波が押し寄せてくるように、その轟音ごと『衝撃』に巻き込まれるのが同時だった。庇うように抱えて、それから自分がサンドバックのように叩きつけられるのを感じる。
…………女の子は?
そう、顔を上げた彼に、
「…………ごめんなさい……っ、ごめんなさい。私が、目を離したばかりに……娘が。あなたが、トラックに轢かれて……。な、なんてお詫びをしたらいいのか。ど、どうしたら」
(…………助かった、のか)
意識が、飛んでいたのか。
事故直後となっていた大通りに、野次馬の喧噪が満ちていた。その中に、桂庭が寝かせられている。すでに、身分証を見られていたのか、警察と病院に連絡が行っているらしかった。だが、助かるのは厳しいだろう、というのは少女の母親の顔を見て思った。母親と、助けられた女の子が近くに立っていた。
女の子は、幸い無事なようだ。
「お、じさん……。ごめんなさい……」
「……っ、はは。まだ、お兄さんなんだが」
おっさん扱いはしないでくれよ、という冗談を言う顔にも、力が入らない。
全く。なんて日だ。
食べ物に執着したばっかりに。
…………いや、考えてみると、桂庭の人生って食べ物が中心に回っていた気がする。
食べ物に困らず贅沢をするために社会人になったし、最初の勤務先は食べ物の名店が並ぶところを中心に決めたし。寿司屋ののれんをくぐる瞬間が好きだった。うなぎ屋のせいろを開けるときと、そこで密閉された甘い匂いと、錦糸タマゴのふかふか感を見る瞬間が楽しみだった。
夏なら、かき氷もいい。あのシャリシャリとした綿のような白い氷の軽さの中で、じわっと口に広がる冷たさがよかった。氷ミツをかけてもいい。練乳をたらして、甘く甘く食べるのも極上だった。
南国フルーツを食べたさに、東アジアへの海外へと周遊旅行をしたことがあった。北の大地へと旅行したときは、有名な海鮮系でなく、地元の人たちが行くような地味な店ばかりを回った。必ず写真に収めたし、また再訪するのを楽しみにしていた。
……ああ、食ったなぁ。俺の人生。
たっぷり食ったわ。
そんな不埒な思考で、奇妙な幸福感を味わっていたとき、ふと女の子が握っているソフトクリームを見た。この子が無事であったことも安心したが、さらにソフトクリーム…………この子にとって、世界で一番、価値がある食べ物かもしれない。それが零れて、地面に落ちなかったことが、なぜだか桂庭の人命とか倫理よりも、ホッと安心してしまう何かを感じるのだった。奇妙な感情だった。
『―――ぐるるるるるるる』
「「あ」」
先ほどまでの食べ物の〝脳内イメージ〟が残っていたせいか、遅れて反応を示した体に、桂庭は今度こそ苦笑してしまう。なんて正直な体だ。メタボ気味のくせに。それでいて、しっかりと『もうダメだな』と自分の寿命も感じ取ってしまっているのだ。母娘が驚くのも、無理なかった。
最後の最後まで、食いしん坊で、欲張りな体だったなぁ。
眠るように。物語の余韻を楽しむように瞳を閉じる桂庭の頭に、そんな感情が宿っていた。だんだんと、眠く虚ろな意識を、深いところに吸われていく。
暗くなった。
眠たい。
そして、意識が水の淵に沈んでいくように、どこか深いまどろみの中に吸い寄せられていくのだった。
…………何年も、何十年もの、長い時間の中に眠るように。