45.危機に駆けつけるのは
私は走った。ひたすらに、走りつづけた。学校のなかを。
周りを見渡す。
「誰か! お願い、助けて!」
叫んだ。必死の思いで、お母さんを助けてほしいと。
でも、誰も振り向かない。私が見えていないんだ。声が聞こえていないのだ。
今の私は、お母さん以外には見えないのだと再確認した。
「お願いです! 助けてください!」
それでも、私は叫ぶ。叫び続ける。
体は先ほどの出来事で、痛む。でも、今はそんなの関係なかった。痛みよりも、お母さんのことが気がかりだった。
誰か。助けてくれる誰かを見つけなくちゃ。そんな思いで、必死に叫ぶけど。
誰も振り向いてはくれない。
「どうしよう……」
よろよろと、私は立ち止まる。
お母さんに助けを呼ぶと言いながら、結局誰にも声が届かなかった。
このままじゃ、お母さんが……!
「誰か、助けて……!」
呟いた声は、周りの声にかき消されてしまう。
「ユリシスさま!」
その声に、ハッとなる。
見れば、お父さんが男の子たちに囲まれていた。
「ユリシスさま、お体はもう大丈夫なのですか」
「我ら一同、心配しておりました」
「お前たち……」
お父さんは、頭が痛そうな顔をしていた。
「いい加減、僕から離れたらどうだ? 僕には僕の時間というものがあるんだ」
「ユリシスさま、何故そのような……」
「我らは、ただユリシスさまを敬愛しているだけなのです!」
「だから、それが僕の邪魔になると言うんだ」
私は話しているお父さんたちのほうに、走った。
「ユリシスさん! サラさんを助けて!」
必死に呼びかけるけれど、お父さんの視線は私に向かない。それでも、私は呼びかけ続けた。
「お願いします! サラさんを、助けてください!」
お父さんは、周りの男の子たちに話していた。
やはり、私の声は届いていない。
でも、諦めるわけにはいかないのだ。
「お願いだから──お父さん!」
そう叫んだ時だった。お父さんの話す声が途切れたのは。
そして、きょろきょろと周りを見回す。
「ユリシスさま?」
お父さんの取り巻きが、その行動を不思議そうに見ている。
「いや、今子供の声が……」
その言葉に、私は希望を見た。
だから、続けて話しかける。
「ユリシスさん! サラさんを助けて! サラさんは中庭にいて、大変なの!」
「サラが!」
やはり、声は届いている。良かった、お父さんに届いて本当に良かった。
「ユリシスさま、何を仰っているのです?」
「サラとは、ユリシスさまが目の敵にしていた、あの女のことですか?」
取り巻きの言葉に、お父さんは眦を吊り上げた。
「うるさい! 僕は行く! ついてくるな!」
「あっ、ユリシスさま!」
お父さんは走り出した。私は、ついて行く。本当に中庭に行ってくれるのか、心配だったからだ。
走りながら、お父さんは杖を取り出す。
「サラ、待っていろ……!」
お父さんはそう呟くと、走る速度を上げた。向かう先は、中庭のようだ。
私の声は届いたのだ。
「良かっ、た……!」
痛みが再び私の体を襲ったけれど、それよりも安堵のほうが強かった。
「サラ……!」
お父さんが中庭にたどり着く。
お母さんは黒い靄に巻き付かれた状態のままだった。
「ユリシスさま……!」
お母さんが叫ぶ。
その顔は苦しそうだ。
「なんだ、この靄は……。サラ、待っていろ! すぐに、助けてやる!」
お父さんが杖を掲げた。
「風を司るシルフよ、我に力を! 聖なる風!」
ごうっと、お父さんの周りを風が渦巻く。
お父さんは杖を振り下ろそうとした。
『邪魔はさせぬ!』
「なに……!」
お父さんの風と、声の風がぶつかり合う。
力は拮抗していて、お父さんの操る風はかき消されてしまった。
「なんだ、この声は……」
『我はようやく、シルスヴァーンの魂を見つけたのだ。邪魔はさせぬ!』
「シルスヴァーン……ジャクルト国の英雄の名前か。何故、その名が今出てくるのだ」
お父さんは訝しげに呟いた。
そして、再び杖を掲げる。
「だが、僕はサラを絶対に助ける!」
「ユリシスさま……」
お母さんが、感動した声でお父さんの名前を呼ぶ。
「シルフよ!」
『させぬわ!』
声の放つ風が、お父さんに向かおうとしていた。
私はとっさにお父さんの前に飛び出す。
両手を広げて、衝撃に耐える。
緑のぽわぽわも、私の周りに集まっていた。
風が、私の体にぶち当たる。
「ぐ……っ!」
「精霊さん!」
お母さんが叫ぶ。けれど、私は痛みに耐えた。お父さんの術の邪魔はさせない!
「聖なる風!」
声の風がやんだ時、お父さんの声が響いた。
杖を振り下ろすお父さん。
声の風とはまったく違う、清涼な風が辺りを包む。
お父さんの風は、お母さんに巻きついた靄を吹き飛ばした。体が自由になり、地面に膝をつくお母さん。
『おのれぇぇぇ! 我の力が、不完全ゆえ遅れを取ったが……。完全に復活した時には、見ておれよ! 我はシルスヴァーンの魂を手に入れるのだ!』
声は悔しそうに呻くと、次第に小さくなっていった。
「サラ……! 大丈夫か!」
お父さんがお母さんに駆け寄る。
お母さんは、弱々しく頷いた。
「ええ、大丈夫よ。でも、精霊さんが……」
「精霊?」
「ユリシスさまを連れてきてくれた子よ」
「あの声は、精霊のものだったのか……」
お母さんとお父さんがそう会話している間、私は地面に倒れ伏していた。
散々攻撃を浴びせられた体が、悲鳴を上げている。
お父さんに体を支えられたお母さんが、私のもとに来る。
「精霊さん……」
「サラ、さん」
力なく応える私に、お母さんは目に涙を浮かべている。
今にも泣き出しそうなお母さんに、私は何とか笑顔を浮かべた。
「体は、何とも、ないですか……?」
「ええ、精霊さんとユリシスさまのおかげよ。ありがとう、精霊さん……!」
ほろほろと、お母さんは涙を流した。
私は、自分の手を見た。透けている。
どうやら待ち望んでいた瞬間がきたようだ。
「精霊さん、大丈夫よね? また、会えるわよね……?」
「サラさん……。はい、私は帰るだけです。きっと、また会えますよ」
不安そうなお母さんに、私は断言した。大丈夫、きっと会える。
意識が朦朧としてきた。消耗し過ぎて、いつもとは帰り方が違うようだ。
「お母さん……、また会いましょう」
「え……?」
目を瞬かせるお母さんの顔が、だんだん薄れていく。
ああ、ようやく帰れる。その安堵感から、私は目を閉じた。
体が重い。寝間着が汗でぐっしょりと濡れている。そんな不快感から、私は目を覚ました。
見慣れた天井が見える。私とお兄ちゃんの子供部屋だ。
帰ってきたんだ。
ふと、右手に違和感を覚えた。誰かが、右手を握っている?
のろのろと重い頭を、動かす。ずるりと何かが額から落ちた。感触から、濡れたタオルのようだ。
私は、ベッドの横を見る。そこには、お父さんがいた。祈るように、私の右手を両手で包み込み、目を閉じている。
「お願いです。冥界の王よ、まだこの子を連れていかないでください……!」
悲痛な声で、お父さんは呟いている。
状況が理解できない。
何故、私はお父さんに右手を握られているんだろう。
何故、こんなにも体がだるいのだろう。
私はお父さんをじっと見た。
「お、とう、さん……」
呼びかけて驚いた。喉がからからだったのだ。
そして、更に驚く。お父さんがはじかれたように、伏せていた顔を上げたのだ。
「サキ! 気がついたのですか!」
「う、ん。おとう、さん。のど、かわいた」
私がそう言うと、お父さんは立ち上がった。
「待っていなさい! すぐに水を持ってきますから!」
「うん……」
部屋から出て行ったお父さんと入れ代わりに、お兄ちゃんが部屋に入ってきた。
「サキ……」
お兄ちゃんは憔悴した顔で、泣いていた。
「お、にい、ちゃん。どこか、いたいんですか……?」
「違うよ、サキ。嬉しいんだよ。サキが目を覚ましてくれて」
そう言うと、お兄ちゃんは袖で涙を拭い。ベッド横に置かれた椅子の上にある水桶に、私の額から落ちたタオルを浸した。ギュッと絞ると、再び私の額に置く。ひんやりとした感触が、気持ちいい。
「サキ、覚えてないの? サキは、三日もの間、高熱が出て意識不明だったんだよ」
「おぼえて、ません……」
むしろ、私は二日ほど過去の世界にいた。それが関係しているのだろうか。
お兄ちゃんは、また水気を帯びた目を私に向けた。
「サキが無事で良かったよ。僕、心配でどうにかなりそうだった……!」
「お、にい、ちゃん……」
ぽろぽろと涙を流すお兄ちゃんに、私はなんと言えばいいのか分からなかった。
すると、水の入ったコップを持ったお父さんが部屋に入ってきた。
「サキ、持ってきましたよ。飲めますか?」
「うん……」
お父さんに手伝ってもらい、体を少し起こす。コップを傾けてもらい、水を飲んだ。からからだった喉が潤っていく。
「まだ飲みますか?」
「もう、大丈夫です」
お父さんはコップを私から離すと、ゆっくりと私の体を横たえた。
「苦しかったりしませんか」
「うん。ちょっとだるいです」
「熱がまだこもっているのかもしれませんね」
お父さんは心配そうに私を見ている。こんなお父さん、新鮮だ。
「ユーキも僕も、心配しましたよ。意識が戻って、本当に良かった……!」
「ごめんなさい……」
「謝らなくともいいんですよ。貴女が無事だった。それだけで、今はいいんですから」
「そうだよ。サキが目覚めてくれただけで、僕嬉しい」
「うん……」
たくさん心配をかけてしまったようで、申し訳なかった。
もしかしたら、私が出したという高熱は、過去で謎の声に攻撃されたせいかもしれない。
「さあ、ユーキ。貴方もあまり寝ていないでしょう。ここは僕が見ていますから、貴方は寝ていなさい」
「うん……」
お兄ちゃんはお父さんに促され、しぶしぶ部屋を出て行った。たぶん、熱が移るといけないから、別の部屋で寝ているんだろう。
「お父さん、心配かけてごめんなさい」
ベッド横にもう一脚あった椅子に座ったお父さんに、私は謝った。
お父さんは優しく微笑んだ。
「ですから、謝罪はいいんですよ。今は元気になることを考えなさい」
「うん……」
「さっ、起きていては体に毒です。今はゆっくり眠りなさい」
「はい」
お父さんの言葉を聞きながら、私はゆっくりと目を閉じた。
眠気はすぐにきて、私は深い眠りのなかに落ちていった。




