約束された命
約束された命
第1章 変わらない日常
幸せだなあ、と思う。何も変化がない毎日。
平日は朝6時30分に起きて、8時に家を出て、急行電車で4駅先の職場へ向かう。そして、9時、始業時間。終業時間が18時。残業がないわけではないが、まあ、ほとんどない。
そして、帰りに晩御飯の買い物と、DVDを借りる。そして食事を作って、DVDを見ながらの食事。それが終われば洗濯、そして寝る。土日は休みだから土曜は映画を見に行く、しかも1人で。日曜は部屋の掃除をして寝るだけ。
こんな毎日。
3年間もこんな生活を続けていると、何だか自分がいてもいなくても誰も困らないんじゃないかと思ってしまう。28歳にもなって家にいるのもなんだし、と思って一人暮らしを始めてみてはみたものの、家族がいないというのはこんなに寂しいものかと実感する毎日だ。
勿論電車で何駅か先に両親がいるわけだから寂しければ逢いにいけばいいのだが、行けば行ったで、結婚話で責められて終わる。
4年生大学を出てから特別やりたいこともなかったので、普通に就職して寿退社でもできればいいか・・・なんて思ってたけど、結局結婚に踏み切ることができず、29歳になり、職場ではすっかりベテランのお局様扱い。今の若い子達を見ていると本当に生き生きとしていて輝いている。仕事以外に生きがいを見つけ、アフター5を趣味や友人達との飲み会やデートに使っている。
そういえば私も20代前半はそんな毎日を過ごしていたかもしれない。だから付き合っている人がいても結婚なんてお互い考えられなかった。
仕事以外の生きがい・・・昔は歌を唄っていた。20代前半は路上ライブなんてものもやっていたっけ。でも、いつしか現実というものに飲み込まれていき、今の刺激のない日々に落ち着いてしまった。そういえばあの頃の仲間達はどうしているのだろう・・・などと考えることもたびたびある。
「結婚?」
「そうよ、お兄ちゃん結婚するんだって」
「そう・・・」
「あんたが結婚するのを待ってたみたいだけど、まあ、待てなくなったんでしょうよ」.
母親の言葉に棘がある。
「ねえ、母さん、結婚ってそんなにいいもの?」
「ま~た始まった、あんたの『結婚ってそんなにいいもの?』」
口調が柔らかくなった。母は私がこのフレーズを言うといつもそうだ。
「答えにくい質問をしないで。だけどね、結婚しないと将来あんたが寂しい思いをするのよ。守るべき家族を持ちなさい、律」
そして、答えはいつもこうだ。母は結婚して幸せではないのだろうか?ただ寂しいから結婚したのだろうか?この答えを聞く度に私はそう疑わずにはいられない。
父と母は恋愛結婚だったと聞いている。高校で教師をしていた母はそこに業者として入っていたサラリーマンの父と結婚して、兄と私を産んだ。
でも母には内緒だが、私は母が高校時代熱烈な恋をしていたと、母の友人である私の中学の先生から聞いた事がある。
母と母の友人の安藤先生は愛する人を同じ病気で失っているのだと聞いた。母はその人を忘れられずにずっと苦しんでいた、と。
でも母を見ているとそんな熱烈な恋をしたとは思えないし、自分を見ても、そんな母と同じ血が流れているとは思えない。母に聞いてみたい気がずっとしていたが、父がいるのにそんな事聞けないし、きっと母だって答えられないはずだ。それに、聞いたとしても私には理解できないだろう。
第2章 大人の男
「で、どうなのよ?」
「何が?」
「何が?ってとぼけなさんな。あんたが営業部の富野さんにモーションかけられてるって社内じゃ噂になってるのよ」
同僚の小山内杏子が楽しそうに話し掛けてきた。自分も社内恋愛をしているから私も仲間に引き入れようというのだろう。
「食事に誘われただけよ」
「で?」
「断った」
「何でよ~」
「期待されたくない」
「相変わらずクールだねえ」
「あんただったら行くの?」
「富野さんじゃあ、ないね」
「でしょ」
「あっ、来週新しい主任が来るって聞いた?」
「ああ、そう言えばそんな話が」
「楽しみよねえ」
「あっそう、興味なし」
「クールだねえ」
クール、それが社会人になってからの大体の私の印象だった。別に冷たい対応をしているつもりはないし、熱くならないわけじゃない、こと音楽に関してはとても熱くなるし。でも仕事上でそんなに熱くなるつもりはない。勿論、それが恋愛であっても熱くはなれない。
翌週末、私は営業部から頼まれていた資料を作成するのに忙しかった。兄の結婚のこと
があるので家に帰ってくるよう言われていたからできれば残業はしたくなかった。
「君、ちょっとお茶を入れてくれないか?」
課長に声をかけられた。去年異動してきた中年で太っていて、あまり好きなタイプではなかったが、上司に嫌われるとやっかいだ。
「今手が離せないので、申し訳ありませんが、他の人に頼んでもらえますか?」
私は一応手を止めて、立ち上がって答えた。
「いやあ、他のみんなも忙しそうだし」
私は周りを見回した。女性は忙しそうだが、男性は手が空いている人もいた。
「舟木さんは手が空いてるようなので頼んでください」
「舟木君は男性だろ」
「それが何か関係あるんですか?」
「君は男性にお茶くみをやらせるのか?」
「女性だろうが男性だろうが手が空いてる人がやればいいと言っているんです。すいません、私本当に忙しいんです」
私は座って作業に取り掛かった。
「君!ちょっと失礼だろ」
肩をつかまれた。私は腹が立って、その手を掴んだ。
「さっきから君君っておっしゃいますけど、私には桜井律という名前があるんです。それにお茶くみは女の仕事だと思ってる男尊女卑の考え方はもう古いと思います。今は女だって責任ある仕事をしているんです」
「はははは」
後ろから笑い声が聞こえた。低い男性の声だ。
「あっ、すいません。ちょうど私の手が空いてるので、私がいれますよ」
とその男性は笑顔で言った。
「君は主任だろ。そんな事しなくていい」
課長はそう言って、別の女性社員のところへ行った。全く、私が言った意味わかってんだろうか、あの狸は。
「勇ましいですねえ、桜井さん」
あれ?誰だっけ?声は聞いたことあるんだけど・・・。
「今週の月曜に自己紹介したつもりですけど」
「あっ!すいません。確か新しく赴任してきた主任・・・お名前が確か・・・」
やばい、確かあの日もボーっとしてて内容が頭に入ってなかった。
「柳本和也です」
「あっ、すいません」
私は申し訳なくて頭を下げた。
「いやいや。忙しかったんでしょ、仕事続けて下さい」
と言って笑顔を見せて自分のデスクへと戻っていった。
柳本和也の第一印象、さわやか。
「40歳。あれほど散々噂してたのに、律ってば聞いてなかったの?」
「あっ、うん。ごめん」
「柳本和也、40歳。バツ一。有名大学を卒業して、H商事に入社。それから海外を転々として、35歳で日本に戻ってきて第2営業部主任。現地の女性と結婚してたらしいけど、日本に帰ってからはうまくいかなくなって37歳で離婚、子供はいない。で、今年の春、うちがヘッドハンティングしたってわけ。経歴としてはまあまあ悪くないわよ」
「でもH商事の営業主任だったのに、わざわざうちの総務部長の椅子に座る必要ないんじゃないのかな」
「うちの第2営業部の部長と知り合いって聞いたけど」
「でもH商事の営業主任やってた人間がうちみたいな会社の総務主任になるなんておかしな話よね」
「あんたって本当に変わってるわね。そんなのどうでもいいって、なんせうちの総務に新しい風が吹いたんだからいいじゃん」
新しい風ねえ、それほどかっこいいとは思わないけど、優しそうだし、落ち着いた男の魅力はあるのかもしれないなあ。
私は何とか仕事を定時に終わらせることができ、エレベーターの前に立っていた。
「桜井さん」
「え?あっ、お疲れさまです」
そこには噂の柳本主任がいた。
「何とか仕事は終わりましたか?」
「はい。そのせつは助けて頂いてありがとうございました」
私は珍しく笑顔で応対していた。すると柳本主任は驚いた顔をして
「聞いていた印象と違いますね」
「え?」
「クールな人だと聞いていましたけど」
誰だよ、んなこと言ったの。
「でしょうね」
「笑った方がいいですね」
と言った笑顔があまりにも爽やかで私は動揺した。その時エレベーターがきて、私は急いで乗り込んでから
「お疲れ様でした」
と言った。少し鼓動が速まっていた。大人の男性にあんな風に言われたのは初めてだった。
とりあえず、翌週からは主任の事を意識したくなくてあまり顔を見ないで済ませられるように仕事をしていた。
そして、週末。
「桜井さん」
「はい」
「手が空いたら営業部へ行って、加納課長から依頼されている資料を取ってきてもらえない?」
「わかりました」
営業部か・・・気が重いなあ、富野さんに会ったらどうしたらいいやら。まあ、営業に出てれば会わないわけだし、可能性は低いや。とは言え営業部ってすごく苦手、何か男も女もプライドの塊って感じの人ばかりだし。制服でいるってだけでどこか馬鹿にされている視線を感じないわけでもない。まあ、被害妄想だけど。
「律!」
この声は・・・沙織だ。あ~、面倒くさい。
「沙織じゃん、営業部はどう?」
「何だか忙しくて残業残業の毎日よ、女じゃなくなりそう。同じ会社にいるのにほとんど会わないなんて不思議よね」
「そうね」
相変わらず嫌味な女。同じ大学で、同じ会社に就職したけど、3年前に営業部への異動願いを出して試験に合格して、今じゃバリバリのキャリアウーマン気取り。
「で、富野さんとはどうなってんの?」
「は?」
「何よ、とぼけちゃって」
どこまでこの話は広がってるんだ。全く面倒くさい。
「どうもなってないわ。私好きな人いるし」
「え?嘘?律好きな人いるの?ちょっと誰よ、会社の人?あっ、もしかして最近入ったっていう総務部の主任だったりする?」
うるさいなあ、全く。で、何で主任が出てくるかな。
「なわけないでしょ。とにかく私急いでるから」
「ちょっと、律」
早く加納課長に会わなきゃ。
私は早足で営業部に行き、何とか資料を受け取ることができた。で、とりあえず早足で下の階へ降りる。エレベーターなんて待ってたらまた誰に遭遇するかわからないもの。
で、非常階段の扉を開けた途端、誰かとぶつかって資料が落ちた。
「あっすいません、大丈夫ですか?」
「いえ、私も慌てていて」
って、この声は
「桜井さん?」
「主任!何で主任が階段なんかで」
「エレベーターなんか使っていたら体がなまりますからね」
「だからといって会社で」
「たまにですよ」
また笑う。それに、いつもゆっくりと話す上に、私みたいな平社員にまで丁寧な言葉遣い。
「桜井さんも運動ですか?」
「いえ、私は急いでいて」
「だったら急いだ方がいい」
そう言って落ちた資料を拾い集め、渡してくれた。
「ありがとうございます」
すれ違う時、香水のような匂いがした。
それから私はその香水の匂いがすると、近くに柳本主任がいるのだと意識するようになった。その意識は心地良いものだった。そして、上司と部下という関係もうまくいっていた。柔らかい話し方や、上司ぶらないところから私達部下もみんな彼を慕っていた。
「歓迎会?」
「そうそう、主任が来てからもう2ヶ月たつのにやってなかったでしょ?で、ちょうど仕事も落ち着いてきたから今週末あたりどうかな?って、律はどうする?参加するよね」
「うん、大丈夫」
私はその話を聞いて少し浮かれていたかもしれない。仕事以外で柳本主任と接するのは初めてだから、職場を離れるとどんな人なのかを知りたいと思った。とは言え、職場の飲み会なのだが。
その1週間は長いようで短いようで、何となく落ち着かない1週間だった。週末になり、私は少しおしゃれをして会社に行った。そんなことはここ数年なかったことだったので私自身驚いていた。
飲み会はとりあえず盛り上がった。主任もそこそこ飲めるらしく、まわりに合わせながらもマイペースで飲み続けていた。私はアルコールが苦手だったのでしらふでその様子を眺めていた。
「主任って彼女とかいるんですか?」
どこかのあほ女がすごい質問をした。まあ、私も興味ないわけじゃない、っていうか興味があったので、あからさまにならない程度に耳を傾けた。
「いやあ、離婚したばかりだからねえ。しばらくは女性はいらないかな」
と照れたように言った。
なるほど・・・と思い、いないことにホッとしながらも『しばらく女性はいらない』という言葉に寂しさを感じた。
「へえ、そういうもんなんですか?俺は彼女と別れたばっかりだけど逆に寂しくて欲しくなるけどなあ」
と男性社員が言った。
それをきっかけに恋の話で場は盛り上がっていった。私もそこそこ合わせるように話したが、彼氏がいるわけでも好きな人がいるわけでもない私としては合わせていたとは言えないかもしれない。
「そう言えば桜井さんって営業部の富野さんから」
やばい
「断ったからもうその話はしないで!」
私はいつもよりも厳しい口調で、話し始めた男性社員の話のこしを折った。
「はあ・・・桜井さんは仕事以外でも厳しいっすね。そんなんじゃ男が寄ってきませんよ」
と年下の男性社員が言った。あのねえ、そういうことをこういう場で言うなっつうの。
「あのねえ、余計なお世話よ」
私は軽く言い返してとりあえず、その場はまた盛り上がった。徐々にお酒がみんなまわりはじめた頃、私は思い切って主任の隣の席に座ってみた。が、話しかけることができなかったので、黙ってソフトドリンクを飲んでいた。
「桜井さんがアルコールが駄目なんて意外だなあ」
といきなり話しかけられた。
「え?ああ、よく言われます。めちゃくちゃ呑みそうだって」
「確かに」
と笑った。本当に優しい笑顔をされる方だなあ、と見ていたら
「その目・・・」
「え?」
「いや、何でもないです」
という具合に不思議な空気が流れた。が、
「とりあえずみんな酔ってきたし、時間も時間なんで一次会はおひらきとします。この後、飲みなおすもよし!カラオケもよし!ってな感じでよろしくお願いします」
という幹事の言葉で何となくその場は何事もなかったようにおひらきとなった。
私はとりあえず疲れていたので帰ることにした。主任はと言えば、一人身だし、主役だし、ということでニ次会に連れていかれた。
私は主任の『その目』と言った時のことが忘れられなかった。あの後、一体何を言おうとしたのだろう。
第3章 年下の男
翌週、とりあえず仕事をして、その時の主任の態度も別段変わりもなかったので、私も気にしないことにした。
総務部の部屋を出て、給湯室を覗くとたくさんの女性社員が固まって盛り上がっていた。
その中にいた友人で同期の横川環が目を輝かせながら私に寄ってきた。
「律!」
「はい?」
「すごいよ」
「何が?」
「近くのエクサカフェにかっこいい子が入ったんだって」
「はあ?」
「だからエクサ」
「わかったけど、それでみんな盛り上がってんの?」
「そうそう!24歳なんだけど、かっこいいの!」
「あのね、いい年してそんな若い子に興味もつなって」
「見に行こう!」
「え?」
「他の人にとられたくないし、私達もたまには目の保養ってのをしないとね」
「え?」
「行くよ!」
「え?ちょっ、ちょっと環!」
私達はまだ3時だというのに制服のまま会社を飛び出して、そのカフェに行った。というか無理やり連れていかれた。
通勤時の往復に前を通ることはあっても入ったことは数回、これといって特徴のあるお店ではなかった。そのお店が確かに最近賑わっていたから新メニューでもできたのかと気にはなっていたが、並んでまで何かをする気にはなれなかった。
店に行くと、やはりいつものように人が並んでいて騒いでいた。誰もかれも目が生き生きと輝いていた。しばらく並んではみたが、残してきた仕事も気になるし、そこまでしてその男の子を見たいとは思わなかったので、帰ろうとした。
「ねえ、環、やっぱり私」
「邪魔なんですけど」
「え?」
少しハスキーな声がして振り向くと、そこに髪を茶色に染めたひょろっと背の高い若い男の子が買い物袋を両手に抱えて立っていた。その彼を見た途端、目が離せなくて、しばらく動けなかった。
「あの」
彼がまた口を開き始めたので私は慌てて、
「あっ、ごめんなさい」
と言って、店への入り口付近から脇へよけた。
胸がどきどきしていた。一目惚れというのがあるのならこういうものを言うのかもしれない。彼の目は私が今まで見たこともないほど魅力的だった。もしかしてかっこいい男の子というのは彼のことだろうか、もしそうだとしたらライバル多過ぎ。
「何ボーっとしてんの?」
「え?え?あ、ああ、えーと今のがそのかっこいい子?」
「は?ああ、あの子もまあかっこいいけど、そうじゃなくて中でドリンク作ってる子よ
」
私は中を覗いてみた。確かに今ドリンクを作ってる子は整った顔立ちだし、笑顔が爽やかで良い。好感度は高いとは思うけど、私の目はまた自然にさっきの彼を探していた。
いた!店の奥で、買ってきたものを冷蔵庫などに閉まっていた。背の高さは175cmくらいと普通なのだろうけど、とにかく細くて、とてもすらっとして見える。そして目だ。
「え?」
目があって驚いた。私、そんなに熱い視線送ってたのかな。馬鹿!
「入るよ」
「え?」
え~?入るの?ちょ、ちょっと心の準備が・・・と思ってるうちに環に手を引かれて、店内に入った。
「忙しくなってるから、ゆきもドリンク入って」
「あ、はい」
え?え~?来るの?
「いらっしゃいませ、店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「何になさいますか?」
環と店の可愛い女の子が会話している。私はとにかく顔が上げられない。
「で、律は何にするの?」
「え?え~と、アイスロイヤルミルクティで」
「じゃあ、それで」
とにかく環はばりばり高い声で可愛く答えてる。好感度アップを狙ってだな、まったくこういうところは見習いたいような見習いたくないような・・・。
環のドリンクはそのかっこいいとかいう子が作っていて、私のドリンクは彼が入れていた。渡される時、手が震えてしまっていたかもしれない。
「どうぞ」
「ありがとう」
渡される時、手が震えてしまった。彼を見ると、目があった。ちょっと長めの茶色の前髪から覗く彼の目は悲しみを含んだ目だった。私はその瞳にひきこまれていった。
「ね!かっこいいでしょ?彼。じゅんいちっていうのよ」
席についた後、環は興奮しまくりで私のおかしな様子になど気付く余裕はなさそうで安心していた。
「まあ、律はあのもう1人の少年の方が気になって仕方ないって感じだけど」
「え?」
「わからいでか」
「まじで?」
「全くわかりやすい奴だなあ。あれじゃ本人にだってばれてるよ」
「嘘!」
私は大声を出してしまった。
「あはは。やばい、おもしろい。律がそんなに取り乱すの初めてみた気がする。すごい!あの子ってすごいね」
環は大笑いしてる。
「ちょ、ちょっと環やめてよ。じゅんいち君だっけ?本性ばれちゃうよ」
「おっとやばいやばい。でもさあ、かなり笑えるよ」
「もう」
「でもあの子ってたぶんだけど、じゅんいち君よりも若いよ、確か。もしかしたら10代かも」
「うん・・・そんな気はしてた」
そう、私はさっきからずっと違和感を感じていた。彼は若い。それも私の手の届く範囲の若さなどではなかった。たぶん、まだ未成年だ。この歳になって未成年に惚れるなんて、手を出したら犯罪だ。どうしよう・・・。
でもまだ今なら引き返せる。単なる一目惚れ。もう会わなければこれはアイドルに恋するただの女で終われる。もう二度とこの店には来ないようにしよう。
私はそう決心して、店を出た。もう彼の顔は見ない。見たらきっとまた惹かれてしまう。
でも、私の頭の中から彼が消えることはなかった。たった一度聞いた『ゆき』という呼び名、本当の名前は何だろう。彼が笑うことはあるんだろうか、あの瞳は一体私に何を・・・馬鹿な事だわ。私に何かをってわけじゃないのにどうしてそう思うんだろう・・・。
ああ、嫌だ。彼のことを考えるだけで胸がどきどきする。逢いたくなって苦しくなる。逢えばもっと苦しくなるのに・・・。でもまだ今なら引き返せる。
それから1週間、私は通勤ルートを変えた。あの店の前を通れば中を見て、彼の姿を見たくなる。
「最近何かあったんですか?」
「え?」
そこには柳本主任が立っていた。
「あ、いえ別に・・・何か私ミスでも?」
「いや、そういうわけではありませんが、最近桜井さんは考え込んでることやボーっと宙を見ていることがあるもんですから」
「え?」
「いや、別にいつも見てるわけじゃないですよ」
と少し顔を赤らめている柳本主任を見ていると何だかおかしくなってしまった。
「何か?」
「いいえ、別に何かあったわけじゃありません。ただ、少し疲れているだけだと思います」
「そうですか。じゃあ、また今度良かったら食事にでも行きませんか?」
「え?主任とですか?」
「嫌ですか?」
「いえ、そういうわけでは・・・。で、二人でですか?」
「嫌ですか?」
「いえ、そういうわけでは」
と言って、その会話の面白さに二人で笑ってしまった。
「じゃあ、また連絡します」
「はい」
「では、この資料を営業部の近藤主任に渡してきてもらえますか?」
「はい」
私は少し浮かれていた。男性から誘いを受けるのは今までになかったわけではないが、こんな風に何の迷いもなく誘いを受けるのは久しぶりだった。
エレベーターの前に立った時、
「あの」
「え?」
「○○会社の第2営業部って何処ですか?」
私は書類を持ったまま固まってしまった。そこにはカフェで働いているゆきと呼ばれた少年が立っていた。手にコーヒーの入ったビニール袋を下げている。
「あの」
「あっ、え、えーと、第2営業部?第2営業部は6階になるんですけど」
私が働いているビルはいろんな会社がいろんな階にばらばらに部署があるので初めて来る人にはわかりにくいのだ。
私はどきどきして、彼を見ることができなかった。エレベーターが来るまでの時間がこんなに長いと感じたのは初めてだ。沈黙が辛い。
やっとエレベーターがきたけど、ここは3階で、他に誰も乗っていない。ということはこのままエレベーターも二人きりってことだ。
私は先にエレベーターに乗り、6階のボタンを押した。彼が隣に立った。やっぱり背がそこそこ高い。コーヒーの香りに混じって、少し男っぽい匂いがした。香水の匂いとは違う、彼自身の匂い。
なんて考えてると余計に恥ずかしくなった。
沈黙が辛い。どうしていいかわからなくて私は
「配達もするんですか?」
と聞いた。
「え?あっ、はい」
彼は本当に驚いたみたいだった。
「そう・・・大変ですね」
「仕事ですから」
彼はあっさりと答えた。驚いた。まだ10代なのにこんな言葉がさらっとでてくるなんて。しかも見た目は何だか軽いチャラ男みたいなのに。私は驚きで彼の顔を凝視してしまった。
「驚き過ぎです」
彼が少し笑った。
「え?」
その時、6階にエレベーターが到着した。
「ありがとうございました」
彼はそう言ってエレベーターを降りて歩いて行った。
「駄目だ」
私は自分の仕事も忘れて、そのまま3階に戻った。
「律、あんたそこで何してんの?」
「環・・・私、自分を見失いそう」
「え?」
私は環にさっきあった出来事を話した。
「そりゃ駄目だね。とにかく避けようとしてるのが余計思いを募らせるんだよ。何度も会って、顔を見て、仕事ぶり見て、それほどでもないって思えば冷めるよ。所詮10代のガキなんだから薄っぺらいもんだよ」
「24歳の男にはまってる女に言われたくない」
「彼は別!っていうか、これは恋じゃないからね」
「アイドルに憧れるみたいなもん?」
「まあ、そういうもんだね」
「私もそうかな・・・」
「まあ、それを確かめるには何度も会いにいくしかないでしょ」
「ねえ、もしかしてあの純一とかいう子に会いたいが為にそう言ってない?」
「それもある」
環はいたずらを見つかった子供みたいに無邪気に笑った。同い年なのに本当に幼いんだから。
でも環が言うのも一理ある。恋愛なんて否定されればされるほど燃え上がり、駄目だと思えば思うほどはまっていくものだ。私はすっかりそのパターンにはまっているだけかもしれない。
などと思ったのは大間違いで、その後、私は仕事が終わるとそのカフェに行くようになった。毎日彼がいるわけではなかったが、大抵はいた。
そして彼の仕事ぶりを見ても、とてもじゃないけど薄っぺらじゃないし、慣れないお客様には少し硬い表情だけど、常連さんなどと話すときの彼の笑顔は可愛くて仕方がなかった。
2週間毎日通っているうちに彼が真野雪という名前で18歳という事がわかった。
そして1ヶ月経って、いつものようにレジでオーダーしていると
「暇なんですか?」
「え?」
「毎日毎日、デートする相手もいないとか?」
と24歳の純一という青年に言われた。
「平日ってデートするの?」
「俺達若者はしますけどね」
「あっ、そう。私達大人は平日仕事で忙しいから週末にしかしないの」
「平日が忙しそうには見えませんけど」
と笑われた。
「あのねえ」
「デートする相手もいないの。だから純一君デートしてよ」
環が大胆にもそう言う。
「俺忙しいです。雪に頼めばいいんじゃないですか?」
「え?」
私は動揺してドリンクをつくる場所にいた彼を見た。
「俺も忙しいです」
彼は普通にそう言った。
「そっかあ、バンド活動あるもんな?」
「え?」
「へえ、雪君ってバンドやってんの?どうりでかっこいいと思った」
環がそう言った。こいつはいつから彼のことを名前で呼ぶ程親しくなったんだ。
「まだ見習いですけど」
「って事は律と話が合うんじゃない?」
「え?」「え?」
私は驚いて環を見た。
「律って?」
「ああ、この子の名前。この子、以前バンドでボーカルやってて」
「環!」
「何よ、別にいいじゃない」
環がそう言ったとき、次のお客様が来て、私達はそのまま前に進んで彼からドリンクを受け取った。彼は意外と普通にしていた。
バンド・・・、彼が音楽をやっているなんて・・・。
「なんであんなに怒ったの?」
「え?だって・・・昔少しかじったってだけだし、今は」
「あのね、共通の話題があれば親しくなれるかもしれないじゃない」
「でも私はもう音楽は」
「それでも律、あんた好きなんでしょ?雪君のこと」
「ちょ、ちょっと環」
そう言ったところで携帯が鳴った。会社?なんだろ?トラブル?
「はい、桜井です」
「柳本です」
「はい」
「忙しいところ申し訳ありません。今大丈夫ですか?」
「はい」
「この前言っていた食事の件ですが」
「はい?あっ、はい!」
そうだ、そう言えばそんな話が
「何?何なの?」
環が小声で聞く。
「明日、仕事が終わった後、青山でどうでしょう?」
「青山ですか・・・はい、大丈夫です」
「じゃあ、仕事の都合もあるのでまた明日、連絡します。お疲れ様でした」
「あっ、お疲れ様でした」
「何よ!トラブル?青山がどうかした?」
環が聞いてきた。
「主任と食事に行く約束してたんだった」
「え?え~!何ですって?」
彼がチラッとこちらを見た。別にやましいことがあるわけじゃないのに、私は目をそらしてしまった。
「何よそれ」
「前に誘われてたの」
「へえ、あの人がねえ」
「何よ」
「別に」
それからたわいもない話をして、帰ろうとした時、純一と呼ばれる男の子が環に声をかけてきた。
「今日ラストまでいれるんだったら一緒に飲みに行きませんか?」
「え?嘘!」
「駄目ですか?」
「駄目じゃない!駄目じゃない!」
環はちぎれるんじゃないかって思うほど首を振った。
「じゃあ、そういうことで」
「うんうん」
「あっ、律さんだっけ?律さんも一緒に行きませんか?雪も一緒に行くし4人で」
「え?あっでも」
「いいじゃない、そうしようよ」
私は彼を見た。彼は自分には関係ない話だとでもいうようにもくもくと後片付けをしていた。
「うん」
「決まり!」
環と純一君は二人で盛り上がっている。私は・・・。
店の後片付けが終わるのを待って、私達は4人で店を出た。私服姿の彼はTシャツにジーンズ、で、上に薄手のシャツを羽織っている普通の格好なのだが、それがやけに新鮮でまぶしかった。
環と純一君は二人でさっさと歩いて行ってしまい。私達は取り残されたまま気がつくと二人で並んで歩いていた。私達はまわりからはどう見えるんだろう。
「明日」
彼が口をひらいた。
「え?」
「明日、仕事じゃないんですか?」
「あっ、うん、そうだけど」
「遊んでていいんですか?」
「別に、たまにはいいんじゃないかなと思って」
「そうですか」
「それに、環が嬉しそうだから」
「三井さんも俺もご馳走してもらえるから」
「わかってるわよ。環も絶対にわかってる。それでも嬉しいのよ、一緒にいられるってだけでね」
「そう言って何でもおごってくれるのが女の人だけど」
「え?」
「あなたもそうなんだ」
「え?」
「ごちそうさまです」
そう言った彼の顔は私の知らない男の顔だった。
予想通り、散々飲んで食べた分の支払いは環と私になった。でも飲んでいる時の環は本当に幸せそうで楽しそうにしていた。それの代金だと思えば私はそれでもいいと自分を納得させたけど、さっきの彼の顔が忘れられない。
「なんですか?」
「え?」
「さっきから俺の顔ばっか見てますけど」
「別に・・・」
「気になることあったら言えばいいじゃないですか」
彼は飲んだせいか少し饒舌になっていた。それは楽しげにも見えるし、やけになっているようも見える。
店から出て、自然に私達は2人ずつに別れた。というより、会計を済ませて環達二人はさっさと何処かへ行ってしまって、私達は取り残されたのだ。そして、終電もなくなり朝まで何処にいればいいのかわからないまま彼と二人で歩いていた。
「ねえ、年上におごられるのは当たり前?」
「そうですね。俺と一緒にいたかったらお金を出すし、おごってくれるし、俺が欲しいものは買ってくれる。それは年上だろうと年下だろうと女の人はみんなそうする」
そう言って私を見た顔は大人びていてびっくりした。こんな表情もするの?
「何でそういうの聞くの?」
「別に・・・ただ、そういう世界で生きてきたのかなって」
「そういう世界?」
「私は、そういうことやっぱりしたくないし」
「だったらさっきのは何ですか?」
「さっきのは環のこともあったし」
「言い訳だね」
「え?」
「どうでもいいですけど」
そう言った彼の表情は暗く、そして、初めて見たときに感じた孤独な瞳。
「ねえ」
私は彼の肩に触れた。その瞬間、びくっとして怯えるような表情で私を見た。何?
「何?どうしたの?」
「別に・・・何ですか?」
「始発までどうするの?」
「ああ、店で仮眠とろうと思ってますけど・・・OLさんにはそういうサバイバル的なの駄目ですか?だったらカラオケとか・・・ホテルとか」
「いいわ!お店で」
「ムキになることでもないと思いますけど」
と少し笑った。
「別にムキになってるわけじゃないけど・・・」
「おごってくれるならカラオケでいいですけど」
「おごりません!」
「変な女」
「え?」
「いや、別に」
そして、二人でお店に戻った。外で二人でいる時は確かに二人っきりなのだが、まだまわりに人がいたから何とも思わなかったけど、こうして改めて密室?に二人きりでいると何を話していいかわからない。
「有線かけます?怒られるかもしれませんけど」
「あっ、うん」
「何か飲みます?」
「え?いいの?」
「いいと思います。ばれたら怒られますけど」
「じゃあ、いつもの」
「アイスロイヤルミルクティーでしたっけ?」
「あっ、うん」
嬉しかった。まあ、確かに1ヶ月毎日同じメニューをオーダーしてれば覚えるわな。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
しばらく沈黙が続いた後、彼が口を開いた。
「バンドやってたって・・・本当ですか?」
「うん」
やっぱりその話になるか・・・。
「やめた理由って・・・俺なんかが聞くのは・・・」
「よくある理由よ。バンド内でのやりたい方向性の違い、それから・・・現実・・・」
「現実って」
「メジャーデビューできないならやってても意味ないし」
「どこまでも夢を追いかけるって事は考えなかったんですか?」
「それは・・・」
私は何故か言葉が出てこなかった。この話を今この初めて二人きりになれた時間にしたくなかった。
「俺、バンドでベースやってます」
彼はその空気を読んだのか、明るい口調で話題を変えた。
「ベースなんだ」
「不器用だからそれしかできなくて」
「不器用だからベース?」
「そっ、他にやれなくて」
「でもかっこいいから何やっても人気でそうね」
「ですかね・・・」
彼はまた暗い表情をした。あの孤独な瞳・・・。
「そんな」
「え?」
「そんなにかっこよくもないか」
私はつとめて明るくそう言った。
「え?」
「だからそんなにかっこよくもないって言ったの。だって純一君に完全に負けてるし。そうそう、さっきの何よ、俺と一緒に過ごしたくてお金を使う女がたくさんいるみたいな」
「そんな言い方してない」
「しました。全くナルシストもいいところよね」
「あのなあ!」
「私はしない!」
「え?」
「あんたといる為に無駄なお金なんて使ったりしないわ」
「するね」
「しない」
しばらく沈黙があって、
「変な女」
彼はまたそう言った。そして、昔の自分の話を少ししてくれた。
「ホストしてたんですよ」
「え?」
「まあ、スカウトされたし、金もなかったんで」
「何でやめたの?」
「・・・むいてなかったんですよ」
「そう?」
「なんですかその意外そうな反応は?」
「だってかっこいいし、口もうまいし、女には貢がれるのが当たり前だったんでしょ?」
私は少しいじわるめに言ってみた。
「顔だけってのが・・・。それに・・・」
またあの暗い目をする。
「俺、詩を作ったんです、聞いてくれます?」
「詩?」
「雨、雨が俺の体を打つ・・・痛くて・・・」
心地よい声、私は仕事で疲れていたのと、彼といる極度の緊張で途中で寝てしまったらしく、朝になり、彼から起こされた。
「仕事遅れますよ」
「え?あっ!嘘!やばい!」
私は時計を見て慌てて上着を着て、店を出た。このままじゃ昨日と同じ服で出勤だ。しかも
「桜井さん」
「へ?」
「もう間に合いませんって」
と言って彼は笑った。その笑顔がとても爽やかで私は観念した。
「着替えないんですか?」
「着替えがないんだから当たり前でしょ」
「確か制服ですよね」
「でも出勤は」
「俺の服着ます?」
「え?」
「俺も制服だし」
「あなた帰らないの?」
「俺今日朝ですから」
「でも帰りは?」
「あっ、そうか」
「そうだ!お昼に服を買いに出て着替えるわ。で、あなたに返しに来る」
「OLさんって余裕あるんだね」
「なけなしだっつうの。それにカード払いしかできないし」
「だったら早く着替えた」
「おはようござ・・・います」
朝のもう1人のスタッフである若い女の子が来て、私達二人を見て、少し悔しそうな顔をして奥に入って行った。
「大丈夫?」
「何とかなります。じゃあ、俺が着替えたら服渡します。あっ、顔は?」
「会社でどうにかするわ」
「じゃあ、トイレで着替えてください」
「うん」
私は今の今まで彼が来ていた服を着た。華奢だとはいえ、やはり彼は男の子で、私が着るとシャツはだぼだぼだし、ジーンズなんてぶかぶかで長い。でも何より彼の温もり、匂い、彼の汗の匂い、普通なら嫌なはずなのに、私はどきどきした。これでは彼に抱かれているみたいだ。頬が赤くなって私はしばらくトイレから出られなかった。
「早く出てください」
さっきの女の子の声だ。明らかに怒っている。
「ごめんなさい」
私は彼の服を着て外に出た。
「それ・・・雪君の」
彼女は私を見て小さくつぶやいた。
「ぶっかぶっかですね」
彼が出てきた。
「かなりね」
「いいんじゃないですか、おしゃれですよ」
彼は笑っている。
「何か飲みます?」
「いい、ありがとう。とりあえず誰かいるかもしれないから会社に向かうわ」
「そうですか」
「お昼になったら服を返しに来るけど大丈夫?本当は洗って返したいけど」
「少ししか着ないんですから大丈夫ですよ」
「ありがとう。じゃあ、また後でね」
私は彼にそう言って、店を出た。さっきの女の子は泣きそうな顔でこちらを見ていた。彼女、もしかして・・・。
第4章 告白
会社に着いてから私は重要な事を思い出した。今日は確か主任と
「桜井さん?」
「へ?」
後ろに立っていたのは紛れもなく主任
「主任!」
「今日は早いんですね、しかも・・・」
主任は私の上から下までを見た。
「そういうのが今流行っているんですか?」
「いえ・・・」
「悪くないです、可愛くて」
「え?」
主任は微笑んで、すたすた歩いて行ってしまった。可愛い・・・などと言われて喜んでいる場合じゃない。そう言ってくれてもこんなスタイルで青山に食事になんて行けないわ。
「へえ、それって昨日雪君が着てた服じゃん」
ロッカーの前で環と会った。環は昨日と同じ服だ。
「あんた昨日と同じ」
「別にいいじゃん、朝帰りって感じでさ。それよりあんたみたいに男の服着てる方がやらしいよ」
「やらしいって」
「で、そこまで発展したって事?」
「は?」
「だからやっちゃ」
「なわけないでしょ!あんたこそどうだったのよ」
「後でゆっくり話そうよ」
そう言って、環はさっさと着替えて出て行ってしまった。
私はとりあえず顔を洗って、化粧品を借りて、仕事に向かった。とりあえず仕事はちゃんとしないと・・・って思ったけど、少し眠かった。
お昼休みに近くの百貨店に入り、上着を買って、ジーンズショップに入って、ジーンズを買ってそのままその服を着て、店を出た。その袋に彼の洋服を入れて、小さなカードに『ありがとう』と書いて添えた。
彼の店は相変わらずお昼というのもあり並んでいて、とてもじゃないけど洋服を返せるような感じではなかった。これは私が途中で仕事を抜けるしかないけど、時間もわからないしどうしよう・・・。
とりあえず私はそのまま会社に帰り、2時ごろに彼の店に電話をした。
「今日は17時までです」
彼は事務的に答えていた。
「今から休憩時間になるので取りに行きます」
「へ?でも制服」
「大丈夫です」
彼はそう言って電話を切った。どうしよう・・・私は慌てて下に降りようとして
「桜井さん」
「へ?あっ、はい」
主任だった。
「急いでいますか?」
「いや、あの・・・その」
どうしよう・・・
「昨日もらった計算書なんですけど、気になることがあって」
「え?間違ってましたか?」
私は主任から慌ててその書類を受け取って、目を通した。
「すぐに確認して報告しますので」
私はそう言って頭を下げると、デスクの下にあった紙袋を持って階段で降りた。階段で降りたというだけでなく、私は彼に逢えるというのもあって胸が高鳴っていた。今朝まで一緒にいたのに、またすぐ逢いたくなるなんて・・・。
階段を降りても彼はいなかった。よくよく考えたら今から休憩時間で取りに行くと行っただけで“今すぐ”とは言わなかった。しまった・・・って事は今からどれくらい先に取りにくるかわかんないじゃん。
紙袋を持ったまま困っていたら、入り口に彼の姿が見えた。
「あっ!」
「あれ?下で待っててくれたんですか?俺がいつ来るかわからないのに」
「そう、それ今気付いたの」
と言って、私は紙袋を渡した。彼の物を返す、少し寂しい気がした。何か彼の身につけているものをいつも持っていたい。
「部署、わかりますよ。だからこれからは大丈夫です」
「うん。・・・ってこれから?って?」
「じゃあ、俺戻ります」
「あっ、うん」
彼は走って戻って行った。私はその後ろ姿をずっと眺めていた。
「ふ~ん」
「え?」
そこには沙織がいた。しまった~、やばい奴に見られた。
「今の子ってあのカフェでバイトしてる子でしょ?もしかして好きな人って」
「そんなんじゃないわよ」
「ムキになるところが怪しいんだけど」
「沙織、あんたねえ」
「桜井さん」
主任が立っていた。
「さっきの件なんですけどいいですか?」
「あっ、はい」
私は沙織を睨みながらその場を去った。
「仲が悪いんですか?」
「え?あ、ああ、そうですね。助けてくださったんですよね、ありがとうございます」
「いえ。今日、待ち合わせなんですが、青山2丁目駅に20時で良いですか?」
「え?は、はい」
そうだ。今日は主任と食事だった。覚えているようで彼が絡むと忘れてしまう。そう言えば私シャワーも浴びてないや。一旦帰ってシャワーを浴びよう。
仕事が終わり、家に帰るとどっと疲れが出た。少しでも横になったら眠りそうだ。さすがに昨日は無茶をしたかもしれない。
シャワーを浴びると少しすっきりした。私は着替えて駅に向かった。時間より少し早めに着いたけれど、主任はそれより早く来ていた。
「すいません」
「いや、こちらが早いだけなんで気にしないで下さい。では行きましょう」
主任が予約してくれたお店は本当に適度に高級なお店だけど、それでもOLが来れそうなきさくな感じのお店だった。
「素敵なお店ですね」
「頑張って探しました」
主任は照れたように笑った。
食事をしている間の会話はとりとめのない仕事の話だった。少しお酒がまわってくると主任は饒舌になってきた。
「桜井さんはお付き合いしてる方はいないんですよね?」
「ええ」
「好きな人がいたりするんですか?」
「え?」
どうしよう・・・。確かに今は気になる人がいる。だからといって10歳も年下の彼とどうにかなるとは思えない。
「いえ、いません」
嘘をついてしまった気がする。
「私は・・・離婚してから女の人とお付き合いしたりするのは避けてきたんです。まあ、もてないし、自分にその気がなくてもあっても関係ないんですけど」
「そんなこと」
「でも、最近気になる女性ができて・・・自分でも戸惑っています」
へ?もしかしてこの流れは告白?いやいや、もしかしたら単なる恋愛相談かもしれない。ここで先走った考えは危険だわ。
「そうなんですか」
しばらく沈黙が続いて、
「出ましょう」
と主任が言った。お金を出すつもりでいたのだが、結局ご馳走になる事になった。
「行きたい所があるんですけど」
主任はそう言って、ある建設途中のビルの前に立った。
「ここは?」
「僕の知り合いが携わっている建設中のビルです。もうすぐ出来上がるんですけど、ここの屋上から見る景色が最高なんです。行きましょう」
主任はそう言って、私の手を掴んだ。それがあまりにも自然で驚いた。ずっと前から付き合っているみたいな感覚。
とりあえずエレベーターがあるかが心配だったけど、建設の為の業務用エレベーターがあって安心した。
屋上に着くと、少し風が強く、肌寒く思えたけど、それでもそこから見える東京の夜景や、星は言葉にできない程綺麗で、何も言えなくなって、ただ見とれてしまった。
「桜井さん」
「はい」
主任が私の頬に触れた。私はいつのまにか泣いていたようだ。
「あなたが好きです」
私は驚いて、主任の顔を見返してしまった。
「何」
「いきなりだと思うかもしれないけど、僕はずっと悩んできた。でも、今、桜井さんの涙を見て、確信しました。僕はあなたが好きです」
多少酔ってはいるのだろうけど、主任の目は真剣だった。どうしたって嘘や冗談で言ってるとは思えない。私は嬉しいのに戸惑っていた。
もし、真野雪に出会っていなければ私はここで迷うことなく主任の思いに答えることができただろう。
「付き合うというのはお互いの立場上簡単じゃないのはわかっています。ですから返事はすぐでなくていいです。勝手かもしれませんが、僕は僕の今の気持ちをわかって欲しかっただけなので、それを桜井さんに押し付けるつもりはありません」
「はい」
私はそうとしか答えられなかった。主任は自分の背広の上着を私の肩にかけてくれた。
「大丈夫です」
「わが総務部の大切な事務に風邪をひかせるわけにはいかないですから」
といつものように笑った。
「それは主任も同じです」
と、私も笑った。
その後、何事もなかったように普通に駅まで送ってくれた主任は最後に
「今日言った事は嘘じゃないですから」
と言った。
私は曖昧に微笑んだだけだ。帰りの電車の中、本当にどうしていいかわからずに窓の外の景色を眺めていた。こんな事環に相談できるわけもなく、私は学生時代の親友に電話して相談することにした。ただ、まだ頭の整理ができていない。
第5章 年下の男との恋
日曜、私はとりあえずゆっくり考えてみた。けれど、結論など出るはずもなくまったりと一日を過ごした。
月曜、私はカフェの前を通ることができなかった。朝、彼がいるかはわからないけど、逢いたくなかったのだ。
「今日も行くでしょ?」
「え?ああ、う~ん、パスしたいなあ」
「どういうこと?」
と言われても同じ会社の人間にこの話はできない。でも、逃げてても仕方ないし、別に彼が私を好きってわけじゃないんだから後ろめたさだって感じる必要もない。
「やっぱり行くわ」
「何よそれ」
環は不審そうな顔をしていたが、まあ純一君に会えるわけだからそれでいいんだろうな。
仕事が終わってから私達はいつものようにカフェに行った。純一君は相変わらず女の人達と楽しそうに話していて、正直、環の気持ちを考えるとこの店に来るのはどうかな・・・と思ってしまう。
「ねえ、純一君って特定の彼女とかつくらないの?」
「へえ、桜井さんがそんな事言うなんて俺に興味でもあるの?」
「あるわけないでしょ」
「だろうな。桜井さんの好きなのはゆきだろうし」
「ちょ、ちょっと」
私は慌ててフードのところにいる彼を見たけど、聞こえてるのか聞こえてないのか、殆ど無反応。クールな奴だなあ、まあ、慣れてるんだろうけど、こういうのって。
「桜井さんってこの間ゆきとこの店に泊まったんでしょ?」
「え?どうして」
「八重ちゃんが怒ってたからなあ」
と楽しそうに言った。
「八重ちゃんってあの可愛い子?」
環が言った。
「そうそう、彼女、ゆきが好きなんだよ」
「そうなの?ライバル出現じゃん」
「あのねえ、ライバルとかじゃないし」
それにライバルになんてなれっこない。彼女はまだ21歳だから彼とだって釣り合う。だけど、私は全然釣り合わない。
彼を見ると、彼はこちらを見て笑っていた。笑ってる意味がわからないわ。でもその笑顔が私は大好きだった。
それからしばらくずっと、私は彼と過ごす事が多くなった。二人で飲みに行く事もあるし、そのまま彼の家に泊まり、二人でビデオを見ることもあった。CDショップへ行ったり、カラオケに行ったり、まわりからも付き合っているような感じに見えていたかもしれない。ただ、『好きだから付き合って』と言うたびに、彼はそれを拒否していた、いろんな理由をつけて。そして、何度彼の部屋に泊まっても肉体関係をもつこともなかった。そんな時間がずっと続いていた。
何度彼に失恋しても彼と一緒にいる事を諦めることができずに、自分が彼の何になるのかわからないまま傍にいた。でも逢いたい時に逢えるわけでもなく、メールで連絡してもあまり返事をくれなかった。時々それに耐え切れず、何度も柳本主任と遊びに行っていた。
ある日、私がカフェに行くと、彼は私服でオープンカフェでいつものように詩を書いていた。
「今日はもう終わり?」
「はい」
「そっか」
「ここで飲みます?」
「いいの?」
「いいですよ」
「でも、詩書いてるんでしょ?邪魔にならない?」
「いつも散々邪魔してるくせに」
「え?私邪魔してるの?」
「時々」
「ごめん」
「さっさと注文してきたら?」
私は荷物を置いて、中のカウンターへ注文をしに入った。
「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?」
確か、八重ちゃんと言われていた子だ。確実に機嫌が悪い。私はいつものドリンクを注文して、それを持って外へ出た。とてもいい天気で気持ちが良い。
「ライブはもうすぐ?」
「はい、まあ採用されるかどうかはわかりませんけど」
「行きたいなあ」
「駄目です」
「何でよ」
「何ででもです」
少し笑うと彼は照れたように目をそらした。そんな仕草も好きだ。私はどんどん彼を好きになる。こんなんじゃ主任の気持ちになんて答えられない。
「悩みあるんですか?」
「え?」
「そんな顔してましたけど」
「別に・・・」
「大人の悩みは子供にはわかりませんからね」
そう言った彼の瞳にまた陰が差した。
「恋の悩みに大人も子供もないでしょ」
「・・・へえ、恋の悩みなんですか。俺でよかったら相談にのりますけど」
本人にできるわけないでしょ。
「桜井さん?」
「しゅ、主任!」
私は驚いて立ち上がった。
「どうしてここに?」
って言った後に、そう言えば会社の近くなんだし、会ってもおかしくないんだと思った。
「何だか女子社員に人気のあるカフェだと聞いたので、来てみたんですが、桜井さんも良く来るんですか?」
「あっ、はい、たまに」
「たまにっつうかほぼ毎日ですけど」
彼が小声で言った。こいつ!
「あれ?そのシャツ」
「え?」
あ~~~!やばい、彼の今日着てるシャツは私が前に着ていたシャツだ。そんなのずいぶん前なのに何でそんなもの覚えてるの?
「それって」
「え?これですか?」
「いやすまない、何でもないんです。じゃあ、僕はコーヒーを買って帰ります」
と主任は何事もなかったような笑顔をみせた。
「良かったらサンドイッチもどうぞ」
と彼は言った。
「君は?」
「ここのバイト君です」
「そうですか」
主任は変わらない笑顔でそう言うと中へ入って行った。
私はゆっくりと席に座った。
「何?今の」
「へ?」
「別にいいですけど」
途端に機嫌が悪くなる。一体どうしたらいいのか。
「会社の上司なの」
「だから?」
「だから・・・なんて言うか・・・朝から男の人のシャツを着てたなんて知られたら、変に思われて仕事上差し支えるじゃない」
「男の人か・・・」
「へ?」
「いや、別に。けど、やっぱり大人って面倒くさいですよね」
少し機嫌が良くなった気がする。よし!このまま乗り切ろう。
「面倒くさいわね」
「じゃあ、桜井さん、お疲れ様」
主任が出てきた。
「お疲れさまです」
私は立ち上がってお辞儀をした。
「ほらね、面倒くさい」
と、彼は笑った。
「あなたもバイトとはいえ働いてるんだからちゃんと挨拶とかできないと駄目よ」
「説教ババアみたいですね」
「ババアって何よ」
「だって30歳でしょ」
「何で知ってるの?」
私は自分の年齢を言った覚えがないので驚いた。
「三井さんから聞きました」
「って事は環か・・・」
「別に年齢とか関係ないと思いますけど」
「そうね・・・」
それからたわいもない話をして私達は別れた。
数日後、主任から電話がかかってきた。また週末の食事のお誘いだった。そう言えばずいぶん前に言われたお付き合いの返事をしていないままだった事を考えると、この食事の誘いを受けるのはどうかと思ったが、断る勇気もなくて、私は受けた。
私はこの間のオープンカフェがとても気に入って、1人の時はそこでお茶を飲むことにしていた。
暗くなってきて、そろそろ帰ろうとした時、ふらふらしたおじいさんらしき人が私に話しかけてきて、そのまま隣のテーブルに激突して倒れた。怖くなって私は店に飛び込んだ。
「ゆきくん!」
彼はあいたテーブルを拭いて戻ってくるところだった。
「どうしたんですか?」
彼は心配そうに駆け寄ってくれた。
「外、外でおじいさん」
私は動揺してうまく説明できなかった。彼は急いで外に出て、おじいさんに駆け寄って
「大丈夫ですか?立てますか?」
と聞いて、聞きながら椅子とテーブルを元に戻し、その椅子におじいさんを座らせて急いで中に入り、掃除道具を持ってきてテーブルの上にあった小さな植物を掃除した。そしてその間も酔っ払っているおじいさんの話を聞いてあげていた。
おじいさんは食べ物が欲しくて、御飯が食べたいと言ったけど、彼は優しく
「御飯か・・・うちはパンしかないんです。すいません」
と言って、おじいさんは納得したのかそのままそこを立ち去った。
「大丈夫?」
笑顔でそう言った彼はすごく大人に見えた。そして、私はもう迷わず彼が好きだと言える程に彼に惹かれていた。
「うん、ありがと」
「からまれやすいですよね」
「そう?」
「前もからまれてた」
「そうかも」
「一緒に帰ります?」
「え?」
「またからまれそうだし」
と彼は笑った。
それから私は中で彼がバイトを終わるのを待って、そして一緒に帰った。彼は駅まで送ってくれた。
彼は私が改札を抜けるまでいつも見守ってくれている。
そして、親友にここ最近あったことを相談した。
「悩むことないじゃん。だってその上司だとさ、金もあるし、地位もある。まあバツ一ってのは一応マイナスだけど、それを差し引いたとしてもその彼よりは全然良い!だって、その10代の彼は金もないし、地位もない、ただバンドやってる顔だけ良いフリーターでしょ」
「優しいよ」
「そんなの普通。あのね、あんたはその彼を好きだからそう思うだけ。それだって、もしかしたら年上の女性を騙して貢がせようとしてるから今は優しくしてるだけって可能性大だよ。冷静になりな」
「でも、彼は」
「目を覚まして冷静になって考えなさい。そんな男選んだら遊ばれて傷つくだけ、そして後には何も残らないよ」
でも、彼は・・・彼はそんな人じゃないと言いかけて、私は彼について何も知らないことに気がついた。
私が知ってるのは無邪気な笑顔と不器用な優しさ、そしてその裏にある彼の暗い瞳だけ。でもあの暗闇が私を捕らえて離さない。
「いい歳なんだから、理想の恋じゃなくて、ちゃんと将来の事考えた方がいいと思うよ。お付き合いの返事だって何も催促せずにずっと待ちつづけてくれてたんでしょ、いい人じゃない」
親友の言う事はもっともだった。理想の恋なんて追いかける歳ではない。もう追いかけられる歳ではない。
第6章 年下の男との別れ
週末、私はまた環とカフェに行った。
「今日も飲みに行く?」
「私はいいよ。二人で行ってきなよ」
「ゆきと一緒にいたいんですよね」
純一君がそう言った。
「そんなんじゃない。明日約束があるから・・・」
「デートですか?」
「そんな感じかな」
「え?」
純一君と環が二人顔を見合わせて困惑している。
「またまた~、桜井さんってば見栄はらなくていいですよ」
「見栄なんてはってないわよ」
「はいはい」
二人は笑って、店を出て行った。
「じゃあ、私も帰るわ」
「もうすぐ終わるんで一緒に帰りましょう」
彼が洗い物をしながら言った。
「いい。1人で帰れるから」
「・・・じゃあ、そうしてください」
その時の彼の顔は見なかった。だって、見たらきっとあの暗い瞳をしている。その瞳を見たら私は突き放せなくなる。店を出た途端、涙が止まらなくなった。
翌日、私は主任との食事でお付き合いすることをokした。そして、その翌週、雪君は同じバイト先の女の子と付き合った。
「な~んだかな」
「何よ」
「何で雪君と付き合わなかったの?」
「何でって向こうは私のこと好きじゃなかったからよ」
「そうは思わないけど」
「いいの、私にも彼氏がいるし」
「いまだ教えてもらってませんが」
「秘密よ」
とりあえず、上司と部下が付き合っているなんてばれたら大変な事になるし、私と主任はまわりに内緒の関係が続いていた。
そして、雪君と私は自然に友人というか知り合いという関係になった。
あの日から半年が経った今も、私は彼が好きだ。だけど、彼はいつも私に対して一線を引くようになった。
付き合って1年が経った頃、和也に海外事業部への辞令が出て、1年間イギリスへ行く事になった。
和也から結婚を申し込まれたけれど、私はすぐに答えることができず、戻ってきたら答えると言った。和也は不安そうな顔をしていたが、結婚ともなると私は臆病になってしまった。1年間、自分の心を騙して和也と付き合ってきた、この先もずっとそれが続くのかと思うと耐えられなかったのだ。
私は自分の気持ちを整理したくて、雪君と二人で逢うことにした。
「彼氏が海外に行くんですよね」
「うん」
「結婚とか申し込まれました?」
「え?」
「一緒に行ってくれとか・・・、まあ年齢的にありえる話ですから」
「そうね・・・」
「で、俺に話って何ですか?」
「彼女とはうまくいってる?」
「いってますよ」
即答だった。
「そう・・・」
「そんな話をする為に俺を呼んだんですか?」
「私、・・・私、雪君のこと・・・初めて会った時から好きだった。今でも好きよ」
私はこれまでの2年間、心の中に溜めてきた気持ちをようやく吐き出すことができた。
「知ってました」
「え?」
「けど、だからどうだっていうんですか?」
「どういう意味?」
「出会った時、俺はまだ18歳で櫻井さんは29歳だった、無理でしょ。今だってそうだ。俺はまだバイト、あなたはOL。そして二人の歳の差は何年経っても埋められない」
「歳は関係ないって」
「忘れました」
「だったらどうして家に泊めたりしたの?何で一緒に過ごしたりしたの?」
「楽しかったからです。泊めたのは・・・寂しかったからです・・・」
私は涙も出なかった。これまで私にとっての楽しい出来事は全て彼にとってはどうでもいいことだった。
「結婚した方がいいです」
「けいな」
「え?」
「余計なお世話よ!」
「でしょうね」
しばらく沈黙が流れた。
「話は終わりですか?」
「終わりよ」
私はもう彼の顔を見る事ができなかった。もう、知り合いでもいられない。
私は家に帰ってから泣いた。これでもかというくらい大声を出して泣いた。これまでの2年間、私は彼だけを思い続けた。だけど、他の人とお付き合いしていた。その報いなのか?
関係ないわ!彼がいい加減なだけよ!最低!あんな奴!・・・って思うのに、浮かんでくるのは彼との楽しい思い出だけ。
あれが全部・・・『楽しかったからです』確かにそう。楽しかった。だけど、それは、私は好きな人と一緒にいられたからだわ。だけど、彼は違った。ただ寂しかったから、一緒にいるのは私でなくても良かった、って事だ。
こんなのってない・・・こんな終わりになるくらいなら最初から出会いたくなんてなかった。好きになんてならなければ良かった。
第7章 母の恋
私はしばらく家でふさぎこんでいたけど、逆に馬鹿馬鹿しくなって、いろいろ遊び歩くようになった。だけど、一日だって彼を思わない日はなく、何度も涙が出てくる。和也とはほぼ毎日メールをしているし時々電話もする。恋人との仲は順調だと言えるのにどうしてこんなに毎日辛いのか。
実家に行ったとき、私のそんな状態をおかしく思った母が部屋に入ってきた。
「何かあったの?」
「別に・・・」
「そう?そうは見えないけど・・・」
しばらく沈黙が続いた後、私は前から聞きたかったことを思い切って聞いてみることにした。
「母さんは昔大恋愛をしたって・・・それって本当?」
「え?」
母は困惑した顔をした。
「安藤先生から聞いた」
「そう・・・」
母は諦めたようにため息をつくと
「大恋愛と言えるのかわからないけど、高校時代にとても大好きな人がいて・・・その人は・・・」
母が辛そうな表情をする。母のそんな表情を初めて見た。私はもしかしたら酷い事をしているんだろうか?でも聞きたい、今聞きたい。
「病気で死んでしまったんだよね」
母は少し驚いた顔をした後、穏やかな表情になった。
「違うの?」
「安藤先生はそう言ったのね」
「違うの?」
「そうとも言えるわ。でも正確には違う・・・彼は・・・自殺したの」
「じ、さつ?って事は・・・安藤先生の彼女も?」
「その事も聞いたの?」
「同じ病気で亡くなったってことだけ」
「そう・・・。同じ病気、そして自殺だったって事も同じ」
「話すのは辛い?」
「辛いわね」
「そう・・・」
「あなた、何かあったのね?それはもしかして恋愛のこと?」
「うん」
「すごく好きな人がいるの?」
「うん」
母は優しい表情になった。
「長くなるけど大丈夫?」
「うん」
途中から涙を堪える母を見ているのが辛くなった。でも母は最後まで話さなければと思っていたのだろう、途中何度も深呼吸をして、涙を堪え、話してくれた。
私は途中から泣いてしまった。何度も謝りながら涙を拭いた。
母が高校時代にそんな恋愛をしていて、大切な人をそんな形で失ってしまっていたなんて想像もしなかった。母の中にそんな熱い思いがあるなんて30年間も娘をやっていて気が付かなかった。
「父さんは知ってるの?」
「ええ。彼の話は有名だったから」
と涙をぼろぼろこぼした後、腫れぼったい目をして苦笑しながら言った。
「それに、話さずにはいられなかったの。例えお父さんを傷つけるとしても私の心の中に彼は永遠に生き続ける、そのことに背を向けて生きていくことはできなかった。だからそれでお父さんに拒否されても文句は言えないし、そうして欲しかった。都合のいい話よね」
「お父さんは受け入れてくれたの?」
「そうね。仕方ないだろうって言ってた」
「仕方ないか・・・。確かにそうかも」
「で、あなたの恋はどうなってるの?その様子だとうまくいってないみたいだけど、確か、あなた年上の何とかいう上司にプロポーズされたって言ってたわよね、やっぱり遠距離恋愛はうまくいかない?」
「そっちじゃないの」
「そっちじゃないって・・・まさかあんた浮気」
「浮気じゃない!本気よ!」
「だったら年上の何とか」
「柳本和也」
「そうそう、その柳本さんが浮気って事になるじゃない」
「そうとも言える・・・」
「話してみなさい」
私は母親に今までの雪君と和也との経緯を話した。時計の針はもう朝の5時を指している。
「あなたはその雪君の言った事が本当だと思っているの?」
「え?」
「だって彼はあなたを突き放さきゃいけなかった。例え恨まれても憎まれてもあんたが何の未練もなく柳本さんの元に行く為には断ち切る為に突き放さなきゃいけないって思ったんじゃないかしら、あくまでプラスに考えればだけど。けどまあ、普通に考えて20歳そこそこの子供に考えられることじゃないから本音だとも考えられるけど」
「あいつはガキじゃないわ」
「色眼鏡で見てるんじゃない?」
「惚れてるんだから仕方ないじゃない」
母は笑った。
「悠二も私を突き放すために嘘をついた。あいつはまだ17歳だったし、そういう事もあるわね」
と言った。
「もし、もしもよ、雪君が私の事を好きだったとして、だとしたらお母さんが好きだった悠二さんみたいに不治の病って事?そんな事ってあるわけないわ。だとしたら彼が私を突き放す必要なんてない、だから本当に私が嫌いなんだとしか思えない」
「嫌いって言われた?」
「言われてないけど好きだとも一度も言われてないわ!」
「律・・・あんた本当にその彼が好きなのね」
私の目にはまた涙が溢れていた。もう彼の為に流す涙は枯れ果てたと思っていたのにまだ残っていたんだ。
「もう、どうしようもない。あいつには長く付き合ってる彼女がいるし、私には他の人と結婚した方がいいって言ったわ。お母さんだってそう思ってるでしょ?」
「私の意見はこの際関係ないでしょ」
「でも結婚しろって」
「律本人にとっての幸せな結婚ってのが前提にあるのを忘れないで」
「結婚なんてできない、あいつはまだ21歳だし、私のことなんて好きじゃないんだし」
「だったらきっぱり諦めなさい」
「そんな簡単じゃないから苦しんでるんじゃない!」
「だったら最初から柳本さんを逃げ道にしなきゃ良かったのよ。あんたが少しでも柳本さんに揺れた時点で、彼を手に入れる道は閉ざされたのかもしれないわね。律、本当に欲しいものは一途に思い続けてこそ手に入るものよ。それにタイミングを逃してしまったらうまくいく可能性はほとんどない、と思うけど・・・」
「わかってる・・・わかってる・・・」
「律・・・ゆっくり考えなさい」
「うん」
母の話は興味深かった。というより、私にはやはり母の血が流れているのだと認識できるものだった。誰かを本気で好きになる力が私の中にはある。
母は本当に好きな人と一緒にはなれなかったけど、私はまだ頑張れるのかな。
第8章 痛み
数ヵ月後、あのカフェがなくなるという噂を耳にした。
「飲みに?」
「そう、純一君が飲みに来ないか?って、あのカフェももう閉店だし・・・」
「そう・・・」
「雪君に会うのは嫌?」
「向こうが嫌なんじゃないかな」
「別に気にしてないみたいよ」
「そう・・・」
別に気にしてないか・・・そういうものかもしれないな。
「わかった。行くわ」
週末、私はそのカフェで開かれるという飲み会に参加した。てっきり雪君の彼女もいるのかと思ったらいなくて驚いた。
「彼女は来てないみたいよ」
「そう・・・」
彼は遠くにいて、他の人と楽しそうに話している。
「来てくれて良かったよ」
純一君が飲み物を持ってきてくれた。
「何で?」
「いや、何となくこのままだと気まずいのかな・・・と思って」
「何か聞いてるの?」
「何も・・・ただあいつの様子を見てるとわかるから」
「私がふられたってだけよ」
「そうなるとは思ってたけど」
「え?」
「悩んでたから」
「何を?」
「歳の差、その他もろもろ」
「そう・・・」
「だけど、たぶん好きなんだと思うよ」
「え?」
「種類はわからないけど」
と純一君は笑って言った。そして、また女の子達の輪の中に入って行った。
彼を見ると、彼はこちらを見ていた。私と目が合うと、その目をそらした。彼の瞳はあの頃と変わらない。幸せじゃないの?何故そんな孤独な瞳をしているの?
彼がゆっくり私に近づいてきた。
「元気そうですね」
「雪君も」
しばらく沈黙があった。
「バンド活動はどう?」
「やめたんです」
「やめた?そう・・・」
その先を聞こうとして、やめた。もう踏み込めない領域なのかもしれないと思った。昔は何でも聞けたのに。
「次の仕事は?」
「バイトが決まってます」
「そう。じゃあ安心ね」
何気ない会話。だけど上っ面だけをすべる会話。会話しているのに少しも心が通わない。
「元気でね、もう会うこともないと思うけど・・・」
「縁があればきっとまた会えますよ」
「縁ね・・・。私、帰るわ」
「送りますよ」
「いいわ、ありがとう」
「ごめん、環、帰る」
「え?あっ、うん」
これ以上彼を見ていられない。だって彼があの瞳をしている限り、私は惹かれずにはいられないから。
家に帰ると、和也からメールが届いていた。毎日のように届く彼からのメール、たわいないことも一生懸命私に伝えようとする彼の誠意。私はまた涙を流した。
カフェがなくなってからの彼の消息は私にわかるはずもなく、完全に私達は切れた。これでやっと私は一途に和也を愛せる。そう思って毎日を過ごしているのに、雪君のことを思わない日は一度もなかった。
そんなとき、前のバンド仲間の聡史から一度だけライブで唄わないかと誘われた。もう何年も唄っていないし、自信もなかったので断るつもりだった。けれど、久しぶりに会うのも悪くないと思い、一緒に呑む事にした。
「コラボレーション?」
「そう。とりあえずまあバンド活動辞めてしまった奴を集めて久しぶりに騒ごうっていう企画」
「だから私を誘ったの?」
「まあな、俺はお前の歌声好きだったし、唄うのがまだ好きならもう一回やってもいいんじゃないかって」
「ライブの経験なんて殆どないわよ私」
「確かに路上がほとんどだったもんな」
「メンバーは全然知らない人達なの?」
「みたいだな」
「おもしろそう・・・」
「だろ!」
「だけどボーカルが私でいいの?」
「俺がドラムなんだから大丈夫だよ」
「それもそうね」
と私は笑った。
「おいおい」
聡史が私の頭をはたいた。
数日後、その集まりがあって私は参加してみることにした。今、何もやらないでいると頭があいつで一杯になっておかしくなりそうだった。
「仕事の合間に練習とかするんですか?」
そこに集まったのは私と同じくらいの年齢の人達だった。
「当然です。俺達は音楽が嫌いになったわけではなく、何らかの理由があって辞めた。まあ、夢と現実っていうのが一番でしょうけど・・・。とにかく仕事と両立させるのが一番重要になってきます」
「そんなので良いものができるんでしょうか?」
「やるんです。時間をかければ良いというものでもないでしょうしね」
「確かに・・・」
「不安ですか?」
「ええ」
「大丈夫です」
その代表の人は私より若いけれどしっかりしていた。確かにここまで来てしまったからには不安なんて感じている余裕なんてない。やるしかないんだ。
それからの私は毎日仕事終わりに唄う歌の歌詞を覚える、音を覚えるのに必死だった。声も以前のようには出ないからスタジオを借りて1人で練習したりもした。
仕事中に眠ることもあったけど、かなり充実した毎日を過ごしていた。
そんなとき、環から食事の誘いがあった。
「忙しい?」
「大丈夫、息抜きも必要だし」
そう言って、私は環と居酒屋へ行った。そんなに大きな居酒屋ではなかったけど、いつこんな隠れ家的な飲み屋を見つけたんだろう。
「入る前に言っておくけど、ここ、雪君がバイトしてるんだ」
「え?」
「純一君が教えてくれた」
「まっ、待ってよ、彼、雪君は私が行くって知ってるの?」
「たぶん純一君が先に行ってるから知ってると思う」
「たぶんて・・・あいつ嫌がるよ」
「でも会いたいでしょ?」
「そりゃ会いたいけど、あいつの気持ち考えたら」
「とにかく行こう」
そのお店は地下にあった。私はその階段を降りながら、深い闇に落ちていく気がした。
最初にお店に入った時は彼の姿はなく、安心したような、期待はずれでがっかりしたような複雑な心境だった。
「純一君!」
「おう!」
「お久しぶり」
「お久しぶりです」
純一君は相変わらず爽やかな笑顔でまわりの女性の視線を集めている。そんな人と環は一体どんな関係を続けているのだろう。そう言えば自分の事で頭が一杯で聞いてなかった。
「ここで雪が働いてるの聞いた?」
「うん、でもいないみたいね」
「いるよ」
「え?」
「いらっしゃいませ」
そこにはとりあえずお客様だから愛想よくしているのか笑顔の雪君が立っていた。
「じゃあ、とりあえず飲み物かな」
「じゃあ、私はグレープフルーツジュースで」
私は相変わらずのソフトドリンク。彼はそれを繰り返して、環の注文を聞いてその場を去った。
「怒ってない?」
「戸惑ってはいるだろうけど怒ってはないさ。あいつはもうふっきてるだろうし」
「ふっきってる?」
「そう、何とも思ってないよ」
そう言われると寂しい気がする。じゃあ
「どうして私をここへ?」
「あそこ」
純一君は少し離れた席のオーダーをとっている女の子を指差した。その先には見覚えのある女の子がいた。
「彼女・・・」
「そう、あいつら一緒に働いてるんだよ」
「現実を見せて忘れさせようって思って?」
私は涙を堪えるのに必死だった。
「ほらね、いつまでもそんな状態じゃどうしようもないでしょ」
「純一君」
環が見ていられなくて口をはさんだ。けれど純一君は続けた。
「あいつはもう先へ先へ歩いてる。桜井さんだけが、過去に留まったまま動けないでいるんだ。あいつはもう桜井さんが思ってるあいつじゃないし、彼女と未来を生きようと」
「やめて!」
その場にいた人達がみんなこちらを見た。勿論雪君もその彼女も
「帰るわ!」
「いつまで逃げてるつもりなんです」
「逃げる?」
「あなたは逃げてるだけだ。それがどれだけ」
「三井さん、もういいです」
後ろにグレープフルーツと環のオーダーしたカシスウーロンを持った雪君が立っていた。
「お待たせしました」
彼は普通にふるまっている。
「ちょっと店の外に出て」
小声でそう言った。
「フードは何か?」
「あっ、ああ、じゃあ」
私は彼がオーダーを聞いた後、さりげない動作で店の外に出て行った。
「ごめんなさい」
私は一番に謝った。
「どうしてうまくいかないんだろな」
彼はため息交じりに言って、ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「三井さんは俺の為を思ってあなたを連れてきてくれたんだろうけど、あなたには逆効果だった?」
彼はタバコの煙を吐いた。店を出てから私と目を合わせようとはしない。
「まだ俺のこと好きなんですか?」
「悪い?」
「悪いですね。っていうか重いし、迷惑です」
相変わらず私の目を見ようともしないで淡々と語る。
「俺は今の彼女のこと好きだし、あなたの気持ちに答える気は全然ありません」
「ただ思ってることもいけないことなの?」
「それが重いんです。思ってるだけってできるんですか?見返りを求めないなんて言えるんですか?そんなの無理でしょ!だったらここできっぱり諦めて下さいよ!」
やっと私の事を見た。私のことが憎いという目で見られる。こんな目で見られるなんて・・・。
お母さん、私に力を頂戴。こんなことで終わりにしたくない。
「それは私の気持ちの問題だからあなたには関係ない」
「何で俺の気持ちがわからないんだよ・・・あなたのは単なるエゴなんですよ、恋でもなんでもない。もう、思われてることだけでも迷惑なんです」
私はその場で泣くこともできなかった。
「わかった。もう迷惑かけないわ。さよなら」
私は階段を降りて行き、店に入るなり荷物を持った。
「律」
「ごめん。帰る」
階段を上がると、彼がまだタバコを吸っていた。私は彼を見ないで隣を通り過ぎた。
これで本当にさよならだ。
家に着いてから私は足元から崩れ落ちた。立ち上がることができなかった。ほんの少しでも彼が私を思ってくれているならとどれだけ期待しただろう。迷惑と言われてもそれはどこか彼の本音ではないことを願った。突き放す為の演技だと思いたかった。なのにその全ての期待が裏切られた今、私にはもう何も残っていない。彼を思い続けていくだけの材料はもう何一つ残されてはいない。
第9章 同性愛
「かなり声が出るようになりましたね」
「ええ、何とかまわりにかき消されないくらいには・・・だけど、今のままじゃ表現には乏しい気がして」
「まだ時間はありますよ」
ライブまで後2週間に迫っていた。とりあえず私は彼への思いをふっきる為にひたすら声を出す訓練を積んだ。何もしない時間を作りたくなかった。何も考えたくなかった。
「やるじゃん」
と聡史が言った。
「まだまだだよ」
ライブでは全部で4曲。3曲はノリの良い曲だけど、1曲はバラード。代表であるギター担当の萱野さんが作った曲。とても悲しい曲。この歌詞を見ていると雪君との事を思い出さずにはいられない。そして涙を堪えずにはいられない。
その夜、萱野さんから食事に誘われた。
「難しいですか?」
「え?」
「『VOICE』という曲です」
「ええ・・・音程がというよりも感情が・・・」
「思ったように唄っていただければいいですよ」
「この曲は萱野さんの経験から生まれた曲ですか?」
「・・・ですね」
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、いいんです。桜井さんが唄いにくいというのはきっと辛い恋をなさっているからですよね。違いますか?」
「・・・はい」
「だったら唄えますよ。逆に桜井さんだから唄えるのかもしれません」
「萱野さんはその彼女の事、諦められたんですか?」
萱野さんは一瞬考えた後、照れくさそうに言った。
「女性じゃないんです」
「え?」
「僕は・・・同性愛者なんです」
しばらく言葉が出なかった。世間に同性愛者が多いのは知っていたけれど、自分とは接点がないと思っていたからだ。
「軽蔑しますか?」
自嘲気味に笑った萱野さんは素敵な詩も音楽も作れるし、人に優しくもできる、軽蔑に値する人間ではなかった。
「いいえ、それは偏見でしかないと思います。人を愛するという気持ちでは相手が同性だろうと異性だろうと関係ないと思います」
萱野さんは素敵な笑顔を見せて
「桜井さんが言うと正直な意見なんだと実感できます。あなたと一緒にやれてすごく嬉しいですよ」
と言った。
「こちらこそ」
「そう言えば質問に答えていませんでしたね」
「え?」
「諦めてはいません。彼は・・・女性と結婚しています。でも僕は諦めることができず、まだ友達として彼の傍にいます」
「苦しくはありませんか?」
なんと言う馬鹿な質問だろう。苦しいに決まっている。
「彼を好きになってからずっと苦しかった。もう慣れましたよ」
「相手の人は萱野さんの気持ちに気づいていらっしゃるのですか?」
「打ち明けたときからずっと変わってはいないと知ってはいるのでしょう。でも僕が意思表示をしない限りは気付かないふりをしているのだと思います」
「ずるい人ですね」
「ええ。でもずるい人だからこそ、僕はまだ傍にいられるんですけど」
と笑った。その笑顔は本当に幸せそうだった。本当にその人の事が好きなんだなあ。ただ傍にいるだけで幸せなんだ。
「異性には興味がないんですか?」
「今はありません。彼に出会う前は異性が好きだったんですけどね」
「そうなんですか?不思議ですね・・・」
「本当に不思議そうにおっしゃるんですね」
「だって・・・」
「確かに僕も戸惑いました。彼と出会ったのは8年前です。僕が20歳で、彼は25
歳でした。そして僕にも彼にもお互い付き合っている女性がいました。最初は友人だったんです。それがいつしか僕の方だけ愛情に変わっていった」
「きっかけは何だ、あっ!すいません根掘り葉掘り聞いてしまって」
「いえ、いいんです。きっかけはたわいもないことです。僕と彼は同じバイト先だったんです。僕がバイトで彼が社員。いろいろ教えてもらっているうちに共通の趣味があることがわかって、というか同じ音楽が好きで、話が合ってっていう感じですかね。それで好きなバンドのライブを見に行くついでに二人で沖縄に旅行に行く事になって、その旅行中僕が海で溺れてしまった時、彼が飛び込んで助けてくれた。でも僕は足に大きな怪我をしてしまい、しばらく沖縄を離れられなくなってしまった。その間、彼が一緒にいてくれて僕の看病をしてくれていたんです。きっかけと言えばその事件をきっかけに彼に惹かれていったというのでしょうね」
「何だかドラマチックですね」
「そうですか?」
萱野さんは笑った。
「あの・・・失礼な事をお聞きしていいですか?」
「何でしょう?」
「恋というからには肉体関係を望む気持ちがある、ということですか?」
「ええ。ですが、彼はノーマルですからね、望むだけ無駄です」
「でも萱野さんもノーマルだったんですよね?」
「ですね」
「不思議・・・」
「桜井さんの反応はおもしろいですね」
「え?」
「とても素直で」
「萱野さんは私よりも年下なのにすごく落ち着いてる、どうしてですか?」
「たぶん普通じゃないからでしょうね」
と萱野さんはまた笑った。
「桜井さんの恋はもう終わったのですか?」
「私の恋は・・・終わらせられました」
「終わらせられた?」
「彼には恋人がいて、私が単に思い続けている事も迷惑だと言われました。何も望まない恋なんてない、だから迷惑なんだと言われたんです」
「そうですか・・・お二人の関係がよくわからないので何とも言えませんが」
「聞いてくださいますか?」
「いいですよ、僕でよければ」
萱野さんの笑顔に私は全てを話した、彼と出会ってからの約3年間を。
「大丈夫ですか?」
私は泣いていた。萱野さんが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫です」
「僕は彼のことを知らないから何とも言えませんが、彼はまだ子供なのかもしれません」
「子供?でも彼は精神的に大人な気がします」
「精神的に大人でも恋愛に関しては子供なんです」
「どういう意味ですか?」
「彼はあなたの前で大人でいたいんです。歳の差がある分、余計にそう思う。あまり年の差がなければ彼は大人でも子供でもいられる、そして男でいられる。だけど、あなたの前ではあくまで男ではなく年下の男の子なんです、そう見られてしまうし、そうなってしまう。男にはプライドがあります。あなたといるとそのプライドが保てなくなる、それが嫌だったんですね、たぶん」
「どうすればよかったんですか?」
「過去を振り返ってやり直すことができるなら簡単でしょうが、そうはいきません。あなたと彼の歳の差が縮まることもありません。だとしたら、あと何年も待ち続けてそれほど価値観が変わらない歳になるのを待つしかありません、同じ大人な年齢までです」
「待つ?同じ大人な年齢まで・・・」
「簡単ではありません。待ち続けても必ずしも彼が振り向いてくれるとは限りませんからね。下手をすれば待つ事が無駄になり、あなたの人生そのものをめちゃくちゃにしてしまう結果になるかもしれない。そんなことになったら大変ですよ」
「確かに大変ですね・・・」
「あなたを思い、結婚を申し込んでくれた人がいるならその人と一緒になるのも一つの選択だと思います」
「・・・」
「とにかくライブに彼を呼んでみたらどうです?」
「え?」
「あなたが輝いている姿を見せてみて、何かが変わるかもしれません。何も変わらない可能性だってあるとは思いますが」
「でも迷惑かけないでって」
「これが最後のわがままだって言えば彼ならわかってくれます。そんな気がします」
萱野さんとの付き合いは浅い、ちゃんと話したのだってこれが初めてだ。それなのに萱野さんの言葉は不思議と説得力があった。不思議な人だと思った。
「ライブに誘う?」
「うん。・・・駄目、かな?」
環はしばらく考えた後
「いいんじゃないかな」
と答えた。
「実はあの後、雪君の様子おかしかったの。何がどうって言えないんだけどね。たぶん律を傷つけたこと、気にしてたんだと思う。律の事嫌いじゃないと思うもの。来てくれるかどうかわからないけど、一応誘ってみてもいいと思うわ」
「ありがとう。環がそう言ってくれると心強いわ」
「何だか律のそんな晴れやかな顔を久しぶりに見た気がする。その萱野さんって人すごいね!付き合っちゃえばいいのに」
「それは絶対無理」
「何で?」
「いろいろあるのよ」
私は笑った。本当に久しぶりに笑った。
それからの私は音楽に没頭した。萱野さんの作った曲を心をこ込めて唄えるように、そしてそれを彼に聞いてもらえるように。
ライブの1週間前に私は彼の仕事場に行き、ライブのチケットを渡した。来てもらえるかどうかはわからないけど。
ライブのことを話した時、彼は一瞬驚いた顔をしたが、しばらくして『前向きに検討します』とはにかんだ笑顔で答えた。
第10章ライブ
ライブ当日、私の心臓は壊れてしまうんじゃないかと思うくらい激しく鳴っていた。
「律、何ビビってんだよ」
聡史が言った。
「ビビるに決まってるでしょ。ライブなんて今までだってそんなに経験ない上、めちゃくちゃブランクあるんだから」
「大丈夫だって、みんなそうなんだし」
「あんたは気楽でいいね」
「そうでもないけどな」
「みなさん、次ですけど大丈夫ですよね」
萱野さんが満面の笑顔でやってきた。
それでみんなの気持ちがほぐれた。私も彼が来ている来ていないに関わらずこのライブに全力を尽くそうと思った。
私はバンドのメンバーが前奏を演奏してるところに入っていくという段取りだった。足が震えて仕方なかった、でも声だけは震えちゃいけない。
「痛!」
頭が痛い、どうしよう?こんな時に偏頭痛?
私は首にかけてあるクロスのネックレスを握り締めた。これは彼がいつもつけていたクロスと似たものが欲しくて買ったものだった。
音が始まり、私は震える足を前に出した。はじめの一歩。私の声と同時に歓声が上がる、お客さんの顔は見えないけれど、私は全ての歌に心を込めて唄った。そして、ラストの曲、
『VOICE』になった。
私はそこにいるかどうかわからないけど、雪君に届くようにその曲を唄った。会場が驚くように静かになる。私はその場に彼と私しかいないような気持ちになり、最後には泣いてしまった。唄い終わった後にたくさんの拍手と歓声。私は頭を下げて、その場を後にした。
「すごいじゃん律!」
私は息があがっていた。
「もう、駄目かも・・・」
そして私はその場で崩れた。差し伸べられた萱野さんの手
「ありがとう、桜井さん」
「萱野さん」
「落ち着いたら言って下さい。あなたに紹介したい人がいます」
私は萱野さんの微笑でその紹介したい人が萱野さんの好きな人だとわかった。
息を整えて、汗を拭いた後、私は萱野さんの後について行き、その野瀬仁さんという男性を紹介された、
「素晴らしいパフォーマンスでした」
「いえ」
野瀬さんはこちらが恥ずかしくなるほど、かっこいい人だった。
「彬が絶対に惚れるから聞きに来いって言うだけの事はありました」
「そんな!」
私は萱野さんを見た。
「彬の気持ち、あなたの気持ちがシンクロして、すごく心に響きました」
この人はやっぱり萱野さんの気持ちを知っているんだ。
「せつない恋の曲・・・私にとっては一番の名曲です」
「僕もそう思います」
そう微笑んだ萱野さんの思い人は、萱野さんと同じ気持ちなんだと思った。この人は萱野さんが好きなんだ。だけど、いろんなしがらみがそれを許さないだけで・・・。
「そう言えば、桜井さん、彼は来てくれていたんですか?」
「・・・わからないんです」
「探してみたらどうですか?」
私はライブ会場の外に出て彼を探してみたけれど、彼の姿を見つける事はできなかった。やはり来てくれなかったのかもしれない。
とりあえず、駄目もとで電話してみた。
5回のコールの後、彼が出た。
「はい」
「あ、えーと、桜井です」
「はい」
「あの・・・ライブ、無理だった?」
「・・・行きましたよ」
「え?」
「びっくりしました。俺なんかよりずっと音楽の才能あるじゃないですか」
「そんなことないよ」
「・・・あのさい・・・」
「え?何?」
「良かったと思います。これからも頑張ってください」
「え?ちょ、ちょっと待って」
「・・・」
「あの、あの最後の曲、私」
『あなたのは単なるエゴなんですよ、恋でもなんでもない。もう、思われてることだけでも迷惑なんです』
彼のあの時の声が言葉が蘇る・・・怖い、言えない。頭が痛い、薬を飲まなきゃ。
「え?」
「あ、あの」
「もう電車が来たんで切ります」
もう二度と話せないかもしれない。この機会を逃したら二度と伝えられないかもしれない。
「待って!」
「・・・」
「あの最後の曲はあなたを思って唄った。あなただけの為に唄ったの」
「・・・」
「ごめんなさい」
「謝るなら最初から言わないで下さい」
「ごめ」
「どうしていいかわからなくなる」
「え?」
それだけ言って電話が切れた。
最後、電車の音や喧騒にかき消されそうになっていたけど、聞こえた彼の最後の言葉。
『どうしていいかわからなくなる』
耳に残る彼の声、言葉。どういう意味?
私はその言葉が耳から離れないでいた。あれはどういう意味なんだろう?彼はもしかして迷っているの?まさかそんな事あるわけない。だって思われてるだけで迷惑だって言ったわ。
『実はあの後、雪君の様子おかしかったの。何がどうって言えないんだけどね。たぶん律を傷つけたこと、気にしてたんだと思う。律の事嫌いじゃないと思うもの』
それは1人の人間としてよね。恋愛感情じゃないはず。
第11章 恋と愛
それから何もできないまま3ヶ月が経った。
「来月帰るよ」
和也から電話が来た。そうだ、確か1年で和也は帰って来るって言っていた。そして帰ってきたら結婚の返事をしなくちゃいけないんだ。
私はこの1年、雪君を忘れた事など一度もない。それなのに和也と結婚することなんてできるの?このまま彼の気持ちがはっきりわからないまま結婚してしまっていいの?
『あいつはもう先へ先へ歩いてる。桜井さんだけが、過去に留まったまま動けないでいるんだ。あいつはもう桜井さんが思ってるあいつじゃないし』
純一君の言葉が蘇る。
『悪いですね。っていうか重いし、迷惑です』
『俺は今彼女のこと好きだし、あなたの気持ちに答える気は全然ありません』
『何で俺の気持ちがわからないのかな・・・あなたのは単なるエゴなんですよ、恋でもなんでもない。もう、思われてることだけでも迷惑なんです』
雪君の言葉が蘇る。
こんなにはっきりしているのに、どうして私は彼への思いを断ち切ることができないんだろう。
『変な女』
『俺はそんなに子供なんですか?大人と子供ってそんなに違うんですか?俺と桜井さんは何がどう違うんですか?』
『俺が買ってきます。だから帰りましょう』
『送りますよ。桜井さん一応女だし』
『泊まればいいじゃないですか、俺ん家からの方が仕事場近いし』
『帰らないで下さい。何で帰るんですか?』
頭の中で彼の優しかった時の言葉が蘇る。あれが全て幻だったなんて思いたくない。でも寂しかったからかもしれない、年上の女を騙してお金を巻き上げようと思ったのかもしれない。
『どうしていいかわからなくなる』
それでも構わない、始まりはどうあれ私は彼を愛している。
『簡単ではありません。待ち続けても必ずしも彼が振り向いてくれるとは限りませんからね。下手をすれば待つ事が無駄になり、あなたの人生そのものをめちゃくちゃにしてしまう結果になるかもしれない。そんなことになったら大変ですよ』
そうですね、大変ですよね、萱野さん。だけど、嘘をついて和也と結婚生活を続けていくことなんてできないよ。
でも野瀬さんは嘘をついて結婚生活を続けているのだ。
「仁と話したい?」
「ええ、駄目ですか?」
「駄目ではありませんが」
数日後、私は萱野さんに連絡をとった。
「彼が・・・恋人が海外から帰ってきます。そしたら私は結婚するかしないかの選択をしなくてはいけなくなります」
「それで何故仁に会いたいなんて思うのですか?」
「野瀬さんは・・・萱野さんを恋しく思いながら女性との結婚生活を続けていらっしゃいます。それは辛くないのか?どうして続ける事ができるのか知りたいのです」
しばらく沈黙があった。
「仁は・・・仁がたとえ僕を好きでも、それは倫理的に許されないからです。不倫というだけではすまされません、相手は男なんです。桜井さんの場合とは全然違う」
「でも野瀬さんはあなたを思っています。でも彼は私を思っていません。どちらが辛いのでしょうか?」
「困った質問をされますね」
苦笑している萱野さんが想像できた。
「わかりました。仁に連絡をとってみます」
それから1週間後、野瀬さんの都合がついたというので、会うことにした。ただし、萱野さんは抜きだ。私は野瀬さんの本当の気持ちを知りたかった。
「驚きました。桜井さんが僕と会いたいなんて」
「すいません。私、どうしても野瀬さんに聞きたいことがあって」
「僕で力になれることなら」
「聞きたいのはたった一つ。嘘をつきつつ結婚生活を送っていること、辛くないんですか?」
野瀬さんはグラスを持とうとした手を止めて驚いたように私の顔を見た。
「こんなところでいきなりこんな質問をして、まだ会うのは二度目なのに、なんて失礼な女だと思われたかもしれません。私はこの際どう思われてもかまいません。ただ、知りたいんです、どうしても」
「こんな質問をする為に僕を呼び出したこと、彬は知っているのですか?」
野瀬さんは同じポーズのまま私の顔を見ずに言った。
「はい・・・」
嘘はつけなかった。
「・・・そうですか・・・。まったくあなたという人は・・・何故僕達の関係を」
「気付いていないと思ってるんですか?萱野さんはそこまで馬鹿じゃありません」
「君に彬の何がわかるというんだ!」
野瀬さんは私の顔を見た。それは憎しみに満ちた目だった。この目を知ってる、雪君が最後に私を見た時の目と同じ。悲しみと憎しみが混じった瞳。
「何もわかりません。ただ、私にわかるのは萱野さんは野瀬さんを愛している、それを野瀬さんがわかっていること、そして、野瀬さんもまた萱野さんを愛している、それを萱野さんがわかっているって事だけです」
野瀬さんは表情を変えないまま
「君は何もわかっちゃいない。君がわかっているのは目に見える事実のみだ。それがどんなに苦しいことか」
「私にわかるのはその事実だけで十分です」
「だったら君が知りたいのは何だ!俺達をかきまわして知りたいのは何だ!」
「奥さんを愛しているんですか?」
「・・・君がそれを知ってどうなる?」
「知りたいんです」
「興味本位なら」
「違います」
私は野瀬さんの顔をまっすぐ見据えて言った。
「私は、愛してはいけない人を愛しました。その人は私の気持ちを、ただ思うだけの気持ちすら迷惑だと言いました。彼には恋人がいます。そして、私にも結婚を申し込んでくれるほどの恋人がいます。だけど、私はその恋人を選べないんです」
野瀬さんはようやく私から視線をはずした。グラスを持ってそれを一気に飲み干し、次のお酒を注文した。
「取り乱してすいませんでした」
ようやくクールダウンしたように野瀬さんは言った。
「いえ、私こそ、デリケートな問題だと知りつつも聞いてしまって申し訳ありませんでした」
「意味がわからないんだ。その話だけを聞くと桜井さんの完全なる片思いで、彼は迷惑しているんだろ?だったら結婚を申し込んでくれてる恋人を愛するように努力するより他に方法はないんじゃないだろうか」
「確かにそうですね」
「もし、その恋人を愛せないなら他の恋人を探せばいい、愛せるような新しい恋人を」
「無理です」
「どうして?」
「和也を愛せないなら他の人はもっと愛せないからです」
「君は君なりに彼を好きだということか」
「はい。ただ雪君以上には愛せないというだけです」
野瀬さんはしばらく黙っていた後、静かに
「あの曲はその彼を思って唄った、というわけか」
と言った。
「はい」
野瀬さんはもう丁寧な言葉遣いではなくなっていた。飲み物も3杯目だ。
「それであの質問なわけか」
「立場は全然違うと思うんですけど・・・」
「僕が彼女と結婚すると決めたのは、彬を愛していると気付いたからだ」
野瀬さんは話し始めるとまたお酒を飲み始めた。
「彬もそうだろうけど、僕も男を好きになるなんて初めてだった。最初は動揺したよ。彬に告白された時に本当なら嫌悪感を感じるだろうに、僕は何も感じなかった。何もだよ。
普通に『ありがとう』と言っただけだった。その時、彬は微笑んで『こちらこそありがとう』と言った。その時からだよ、僕が彼に惹かれていったのは、でも認めたくなかった。認めたくなくて付き合ってる女以外とも寝たよ。でも寝ても寝ても彬の事が頭から離れない。あいつが俺を好きなら抱いてやろうとも思ったよ。だけど、できなかった。彬の笑顔を見ていたらそんなことできるはずもない。酒に溺れるようになった俺を見て、彬は自分のせいだと責め、目の前から消えるとまで言った。俺はそうさせたくなかった。だから結婚したんだ」
一気に話した後、野瀬さんはまたお酒を飲み干し、新しいお酒を頼んだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、もう若くないが、これぐらいは平気だ」
「萱野さんを繋ぎ止める為に、奥さんと結婚したんですか?」
「ああ・・・全く最低だな」
「お子さんは」
「いるよ、二人。子供の事は愛している。だけど、いまだに妻だけは愛せない。君と一緒で好きなのは好きなんだ。たぶん、妻以外じゃ結婚しなかっただろう」
「自分だけ楽になろうなんて本当にずるい人ですね」
「確かにそうだな。彬は俺を一途に思って、結婚すらしない。自分が同性愛者だということさえ恥じることもなく・・・。俺はそんな彬の強さを愛しているんだ」
「萱野さんが強くなれるのは野瀬さんを愛しているからです。野瀬さんのは愛じゃないのかもしれない。私も、雪君を愛しているつもりでいるけど、雪君の言うとおりそれは単なるエゴなのかもしれない」
「エゴ?」
「雪君に言われたんです。桜井さんのは恋でも何でもない、単なるエゴだって」
「エゴか・・・」
「まあ、愛なんて私には全然わからないんですけどね」
「彬は・・・辛いのかな・・・」
「慣れたって言ってました。野瀬さんを好きになってからずっと辛いからって」
野瀬さんは静かに涙を流した。
私はその涙を見ないふりして、目の前のドリンクを飲み干した。
野瀬さんも彼なりに萱野さんを愛しているのかもしれない。そして、私は・・・。
「仁と話して何か変わった?」
「はい、何となくですけど」
「そっか・・・」
「萱野さん」
「はい」
「まだ野瀬さんを愛し続けるんですか?」
沈黙があった。
「桜井さん、僕は仁を愛してるとは思っていません、愛なんてわかりませんから。ただ、仁を思っているのに他の女性と付き合ったり結婚したりするのは相手に失礼だと思っているだけです」
「誠実なんですね」
「そんな良いものじゃありません。いつか、時が仁への気持ちを風化させてくれる時が来るでしょう、そうしたら他の方とお付き合いなり結婚なりしますよ」
と笑った。
「そうですか」
「律、君が出した答が何であれ、間違った後悔だけはしないように」
「ありがとう、彬」
私達は奇妙な友情で結ばれた、そんな気がした。
第12章 命の選択
それから1週間後、和也を乗せた飛行機が成田空港へ降り立った。
「律!」
空港で出迎えた私に満面の笑みを見せた和也はまた少し1人の男性として魅力的になった気がした。
「おかえりなさい」
「元気だった?」
「ええ、いろんな事があったけど」
「そうか。僕にもいろんな事があったよ。お互いに話していると半年くらい経つかな」と笑って、私の手を握った。懐かしい感触。
「会社には?」
「来週の月曜に挨拶に行くよ。週末は律と過ごしたい」
「金髪美女の誘惑には負けなかったの?」
「何度か負けたよ。だけど、やっぱり律がいい」
「正直ね、浮気したって事?」
「違うよ、少し心が揺らいだって事、体は潔癖だよ。律こそどうなんだよ」
「私も体は潔癖よ」
「そっか」
そう、体は・・・。
「荷物を置くのに家に戻るよ。そこでゆっくりしよう」
「ええ」
和也の家に戻る電車の中で携帯が鳴った。そこには環の名前が・・・。
「ごめん、電話みたい」
「電車内だよ、降りてからかけなおせば?」
「急用かもしれない。わざわざ電話してくるなんて」
私は比較的人のいない車両へ移動しながら電話を受けた。
「もしもし環?何?私今電車・・・え?何?」
「だから、雪君が・・雪君が刺されて病院へ」
私は頭の中が真っ白になり、足に力が入らなくなってその場に座り込んだ。
「もしもし、ねえ、もしもし、聞いてるの?律?律!しっかりして!」
「大丈夫ですか?」
電話越しの環の声と近くにいた男性との声が反響してうまく聞こえない。
「律!ねえ!」
「もしもし」
「え?」
「横川さん?」
「そうですけど、・・・柳本主任?」
気が付くと私は和也に肩を抱かれていた。
「律はとてもじゃないけど電話に出られそうにない」
大丈夫、出られる、聞かなきゃ、何があったか聞かなきゃ、それなのに私の体は動かない。
「何だって?それで?ああ、わかった。○○大学附属病院だね、わかった。すぐに連れて行く」
和也は電話を切ったみたいだ。○○大学附属病院?何?病院?病院って事は・・・
「律!律!しっかりするんだ律!律!」
頬を叩かれた衝撃で私は正気を取り戻した。
「和也!ねえ、和也、雪君は?ねえ、雪君は」
「律!落ち着くんだ。救急車で運ばれてとりあえず命は取り留めたそうだ。だから今から○○大学附属病院へ向かう。そこに彼は無事でいるから」
「ぶ、じ?・・・無事なのね!」
「ああ」
「無事・・・生きてるのね」
「律、立てるか?」
「ええ」
気がつくとそこには何人かの乗客と車掌さんがいた。
私と和也は事情を説明して、謝り、その場を離れた。
「一緒に行くよ」
「和也には関係ないわ。先に家に戻ってて」
「でも」
「疲れてるでしょ?本当に大丈夫だから」
「大丈夫って・・・さっきみたいになったら」
「大丈夫よ。彼が無事だってわかっただけで随分楽になったから」
「一緒に行きたい。それじゃ駄目か?」
こう言い出したらきかない。
「わかった」
それから電車に乗っている間、私達は一言も口をきかなかった。私の頭の中には雪君のことしかなかった。隣に和也がいることさえ忘れていた。刺された?一体誰に?何故?とにかく頭の中はこの事件で一杯だった。また、頭が痛くなった。最近頻繁に偏頭痛が起こる。
「環!純一君!」
受付で聞いた病室の前に環と純一君が座っていた。
「律!」
「桜井さん!」
「遅くなってごめん。で、雪君には会える?」
「一応、面会はできるけど」
と言って、和也を見た。
「お久しぶりです、主任」
「久しぶりだね」
私はそんな二人の会話を無視して、病室のドアを開けて中に入った。呼吸器をつけられた彼が眠っている。機械は正常なリズムを表している気がした。でも大丈夫そうには見えない。
「ゆ、雪君・・・」
うまく言葉にならない。言葉を発しているつもりなのに声にならない。私は彼に触れた。
「ゆき、雪君、雪君、ゆき、ゆき・・・・・」
私は彼に触れながら何度も呼びかけた。でも彼は動かない、反応しない。生きているのか心配になって機械を見るけど心臓は動いているようだ。
「律・・・」
環が私の肩を抱いた。
「どうして?どうしてこんなことに・・・」
私は泣き出していた。
「律、冷静に聞ける?」
「・・・聞けるわ、教えて」
「とりあえず部屋を出よ」
私は環に引きずられるように病室を出た。そこには純一君と和也が座っていた。
「律、雪君を刺したのは川辺由梨さん、って言って、雪君が付き合ってた彼女なの」
私は涙で腫れた目を大きく見開いて環を見た。
「どういう」
声が出ない。
「雪君、彼女に別れようって言ったんだって」
「・・・いつ?」
「1週間前。で、その時は彼女も納得してくれたって・・・でも、昨夜の夜中、雪君の部屋で口論になって、そして・・・取り乱した彼女が雪君を」
その後は口をつぐんだ。
「なんで・・・」
「ちゃんと話した方がいいんじゃないの?」
純一君が言った。
「何を?」
「とにかくこれは桜井さんにも関係あると、俺は思うから」
沈黙が流れた。
「じゃあ、僕は帰るよ、律」
私はその声で初めてそこに和也がいる事に気がついた。
「ごめん、和也」
私は和也の顔を見ないで言った。今は見れない。環は和也に頭を下げた。
「主任、今日、帰ってきたの?」
「うん」
「じゃあ、俺は一旦帰るよ」
純一君が言った。
「私も帰るよ。律はどうする?」
「いるわ」
「そう・・・」
二人を見送った後、私はしばらく廊下で1人、頭を整理していた。
1週間前、ライブから数日後、雪君は彼女に別れを切り出した。どうして?原因は私?まさか・・・。
『どうしていいかわからなくなる』
あれは、私が彼を迷わせてしまった?だから・・・。
頭が痛い・・・。
私は片手で頭を抑えながら病室へ入った。
寝ている彼の顔に触れる。
「ごめんね」
泣きながら、私はそのまま寝てしまったみたいだ。そして、目が覚めた時、あまりの頭の痛さにトイレで吐いてしまった。
昔から頭痛もちだったので、疲れが出たのかと鎮痛剤を飲んだ。それでも頭の痛みが取れない、そう言えばここ数日、頻繁に頭痛薬を飲んだ。いろんなストレスで頭が痛いのかと思っていたけど・・・。
病室に戻ると、鎮痛剤の作用なのかまた眠気が襲ってきた。
目を覚ますと雪君が起きていた。
「何で?」
少し掠れた声で言う。
「環から連絡をもらったの。大丈夫?痛む?」
「少し・・・」
しばらく沈黙が続く、何を言えばいいのかわからない。頭が痛い。鎮痛剤は効かないの?
「あんたのせいじゃないから」
「え?」
「まわりがいろいろ詮索して、あんたのせいだとか言うかもしれないけど、あんたは関係ないから」
「じゃあ、何で別れようなんて」
「彼女が嫌いになったからです」
何で?何でいつまでもそんな・・・。頭が痛い。
「私は和也と別れる」
「・・・勝手にすればいい」
「好きよ、雪君が」
彼が私を見つめる。懐かしい感覚。彼はいつも目を合わせないように恥ずかしそうに横を向くけど、その後、じっと見つめる癖がある。
「何でまたそういう事言うんだよ。どうしようもないって言ってるだろ」
考えがまとまらない。頭が痛い。
「どうして欲しいなんて思わない。私は自分の気持ちに嘘をつきたくないだけよ」
「俺は・・・痛!」
「ちょっと、大丈夫?今は話さない方がいいわ、傷に障るから」
「俺のことなんてほっとけよ」
「どうして・・・」
涙がこぼれる。私は彼の前で初めて涙を流した。
彼は驚いたような顔で私を見た。そして、ゆっくり手を伸ばして私の頬を流れる涙を拭った。その瞳はいつもの暗い瞳ではなく、優しい眼差しだった。
「・・・俺は」
その瞬間、頭に激痛が走った。
「痛!」
「おい」
「大丈夫よ、大丈夫」
「でも顔色」
また激痛が走った。そして、私はそのまま意識を失った。消え行く意識の中で何度も「律」と私の名を呼ぶ彼の声が聞こえていた。
どれくらい、意識を失っていたのだろう。次に目を覚ました時、目の前に母の心配そうな顔。
「律!」
「か、あさん?」
「大丈夫?」
「うん、少し頭がボーっとするけど」
「そう」
「今、先生を呼ぶわね」
「お母さん、私」
母の動きが一瞬止まった。
「先生を呼びに行くから待ってなさい」
母はいつもよりもずっと優しい表情で私の顔を見て言った。私は母のその様子と病室が個室だった事で自分が重い病気なのだと覚った。最近ずっと頭が痛かった。脳の病気?
しばらくして母と一緒に中年の少し太った医者がやってきた。その医者はわざとらしい程の笑顔を見せて
「具合はどうですか?気持ち悪かったりしないですか?」
と聞いた。
「はい」
その医者は軽く頷くと、自分を主治医の金子ですと名乗った。そして、ベッドの横にある椅子に腰掛けるとゆっくりと話し出した。
「桜井律さん、これからあなたの病気について説明します」
私はその金子という医者の言う言葉が理解できなかった。最後の方などは声が響いて何を言っているのかを聞き取ることもできなかった。響くことなどない部屋なのに・・・。
「お母さん!」
私の大声に先生と母が驚いた。
「何?」
「耳鳴りがするの、先生に出て行ってもらって」
「でもあなた耳鳴りがするなら先生」
「出てってもらってって言ってるの!」
私は天井を見たまま誰も見ないで言った。
「わかりました。選択権はあなたにあります。よく考えて答えを出してください」
冷静な声の医者。むかつく。確かに自分のことじゃないんだろうし、こんなの日常茶飯事なのだからいちいち動揺していたら仕事にならないんだろう。仕事なんだし、私情なんて挟まない。そこに自分の感情や相手の感情など考慮にいれない。それは私が今の今までやってきたことだ。誰を責めることができるというのだろう。
「律・・・」
母が傍に来た。
「お母さん・・・先生の言うことよく聞き取れなかったの。後で教えてくれる?」
「律」
母が私の手をそっと握った。
よく見ると母の目はすごく腫れていたし、白髪が増えてすごく老けた気がした。この1週間、私が眠っていた間、すごくすごく苦しんで泣いたのだろう。
「お母さん、傍にいてくれる?」
「当たり前でしょ」
母は優しく言った。
私は眠った。そして、眠る前にふと雪君の顔が目に浮かんで逢いたくなった。
次に目が覚めた時、母はちゃんと傍にいてくれた。
「お母さん、先生が言ったこと、ちゃんと話して欲しいんだけど」
「わかったわ」
母が話す事で私はようやく自分の今置かれている状況がわかった。そして、選択権が私にあると言った理由も。
「考える時間はどのくらいあるの?」
「・・・後1週間」
「1週間・・・そう」
自分の命の選択をする時間がたった1週間。
「たとえば・・・たとえば私が死を選んでも、お母さんは私の選択を認めてくれるの?」
母は悲しそうな顔をした。
「私はまた大事な人を失おうとしているのね。どうして私が愛する人は私の前から消えていこうとするのかしら・・・。認められるわけがないわ。死を選ぶより、苦しくても生き続けて欲しい。律が私の目の前からいなくなるなんて考えられないし、考えたくない・・・。だけど、これは律の人生であって私の人生じゃない、私のお腹から出た瞬間から律の人生は律が決めるようにできているの。でも、ごめんなさい、ごめんなさい、あなたをそんな体に産んでしまったのは私・・・どうして・・・」
「母さん、やめて」
母は泣いていた。
「ごめん。しばらく1人でいたい」
「わかったわ」
母が病室を出て行ってから、私はまた同じように天井を見つめた。そして、私は初めて涙を流した。
私の脳の一部で血が固まっていて、その血の塊が私の脳の一部を圧迫している。それはたくさんのストレスで知らない間に進行していた。1週間後に手術をしなければ私は1月先にでも死んでしまうかもしれない。でも手術をしても後遺症が残る。視力を奪われるかもしれない、言語障害、半身不随、どんな後遺症が残るのかわからない。しかも手術をしても完全に治るわけではない。
選択権・・・手術を受けるか受けないか・・・。受ければ死は回避できる、でもそんな風になってまで生きる意味があるだろうか・・・。
数年前までの私は何の悩みもなく、ただ毎日を生かされるままに生きていた。私など死んでも誰も何とも思わないのではないか・・・そんな風に毎日を生きていた。そんな幸せがどんどん壊されていく、私のたわいもない日常がどんどん壊されていき、生きていくことさえ許されないのか。
病室のドアがゆっくり開いた。
「雪君?」
退院したのか、彼は私服姿だった。
「立場が反対になってしまったわ」
私は流している涙を拭いて、体を起した。
「おい、無理すんなよ」
彼が駆け寄ってきた。
「無理なんてしてないわ」
「座っていい?」
と聞いた。
「ええ」
しばらく沈黙が続いた。
「あの日は驚いたでしょ、ごめんね」
「いや・・・」
「もしかして私の病気のこと・・・」
「お母さんから聞いた」
「母から?」
「俺、桜井さんのお母さんが昔好きだった人の甥っ子なんだって」
「え?」
「真野悠二、それが俺の叔父の名前」
「真野悠二・・・」
「俺の親父の弟で俺が生まれる前に亡くなってる人なんだけど、俺がその叔父さんにそっくりらしくて」
「真野悠二さんの甥・・・」
「俺のことお母さんに話してたの?」
「うん」
「だから話してくれたんだと思う」
「そう・・・」
「時間がないみたいだから言いたい事言っておきたくて」
「憎まれ口?もう喧嘩したくないんだけど」
「桜井さんがどんな選択をするにしろ、これだけは知っておいて欲しい」
彼が軽く深呼吸をした。
「俺、桜井さんが好きだよ」
「え?」
「たぶん、出会った日からずっと好きだった」
「何言ってるの?私が病気だから?病気だから同情してそんな事言ってるの?それともうちの母親に頼まれた?そう言えば律が生きてくれるからって言って頼まれたの?やめてよそういうの」
「桜井さん!桜井さん!ちょ、ちょっと律!律!」
気がつくと彼が何度も私の名前を呼んで私の肩を掴んでいた。
「違う!」
「違わないわ!ずっと私の気持ちを迷惑だって言い続けて冷たい視線で私を見てた。ただ思い続けることさえ迷惑だって、この前だって私のせいで怪我したわけじゃないって言った。ほっとけって」
「俺が悪かった!でも誰かに頼まれたからとか同情から言ってるんじゃないことはわかって欲しい」
「わかるわけないわ・・・あなたは私を拒絶し続けた。私が病気にならなければ気持ちを伝えるつもりだってなかったくせに・・・」
「・・・この前、あんたが倒れたあの日、あの涙を見て、俺は我慢できなくて言いそうになった」
「我慢?私にはそれがわからない。どうして我慢する必要があるの?どうして私の気持ちに答えられないの?どうして拒絶し続けるの?」
私は彼の腕を掴んでいた。また頭が痛くなってきた。
「それは・・・」
彼は私から目をそらした。
「雪君!」
「歳の差があり過ぎる。俺はあんたに守られるだけで守ることができない。あんたは俺を幸せにしたいと言ったけど、俺はあんたを幸せにできない。あんたにとって俺はいつまでもガキでしかない。そういうのが嫌だったんだ。俺は男として誰かを守りたいし、誰かを幸せにしたいと思った」
「今でも、同じなの?」
痛い、頭が割れそうに痛い。だけど聞かなくちゃ、今聞かなきゃずっと聞けない気がする。
「同じと言えば同じかもしれない。ただ、桜井さんが俺を諦めてくれない限り、俺の気持ちも終われなかった」
「どうして、彼女に別れ、ようって言ったの?」
痛みのせいなのか段々彼の顔が見えなくなってきた。先生を呼ばなきゃ・・・。
「自分の気持ちに嘘をついて付き合うのに耐えられなくなった。あいつといてもあんたの事ばっかり考えるし、それ」
「ゆき・・・」
「え?」
痛みで目が霞む、言葉が出なくなる。言わなきゃいけない、今言わなきゃきっともう言えない。私は自分の命が消えていくのを感じていた。そして初めて生きたいと思った。雪と生きていきたいと心から望んだ。涙が出てきた。
「おい!ちょ、桜井さん!」
「き、いて」
「先生!先生呼ばなきゃ!」
「まっ・・・て」
「でも!」
私は今ある力の全てで彼がボタンを押すのを止めた。だけど、私の意識は次第に失われていき、暗闇の中へ落ちていった。
雪に伝えたいことがあった。それなのに私はこのまま死んでしまうの?そう思ったら悲しくなった。
「りつ」
「え?」
「りつ」
暗闇の中で男性の声が聞こえた。
「雪?雪君なの?」
「違うよ。俺の名前は悠二、真野悠二だ」
「まのゆうじ?真野悠二ってあの、お母さんの元恋人?」
「そう」
「って事は死んでる人よね」
「だね」
少し笑った気がする。でも声が雪にそっくりだ。
「まあ、甥っこだし、顔も似てるからな」
「私今しゃべった?」
「いや、意識が流れてくるんだ。考えている事も伝わってくるから変な事考えない方がいいよ」
「変な事って?」
また笑い声が聞こえた。でも姿はいつまでたっても見えない。本当はお母さんが誰よりも愛した人なら顔を見てみたい。
「それは無理だ」
あっ!
「本当は俺も逢って話がしたいが、それもかなわないどころかこうやって話してる時間もあまりない」
「どうして?」
「俺は自殺してる。それはこの世界でも罪だ。でもどうしても君を救いたくて」
「救う?」
「君はまだかろうじて生きているが、このままだと死んでしまう」
「もう、いいわ。このまま生きていたって後遺症に苦しむわけでしょ?そんなの絶対嫌だもの。家族や愛する人に迷惑をかけてまで生きていきたくないわ」
「でも君はさっき最後に雪と生きていきたいと願っただろ」
「あれは衝動的な考えっていうか・・・」
「とにかく今死んではいけない」
「あなたに関係ないじゃない」
「華が悲しむ」
「え?」
「このまま娘の君が死ねば華は自分が愛する人は全て死んでしまうと思って自分を責めてしまう。そんな生き方はさせたくない」
「そ、そんなの母さんの為だけを思ったあなたの勝手な考えであって、後遺症で苦しむ私の事なんて何も考えてないじゃない!」
「そうじゃない!」
「怒鳴らないでよ!」
「・・・ごめん、でも違うんだ」
「何が違うのよ」
「俺がここに来たのはその後遺症も出ないようにする為だ」
「どういう意味?」
「俺の魂を君にあげる。そうすれば君は後遺症がなく生きていける。ただし・・・」
「ただし?」
「華が死ぬまでだ」
「・・・それってどういう意味?」
「君は華が死んでから1年後に死ぬ」
「え?」
「ごめん、俺が望めるのはそこまでだった」
「どういう意味?」
「これ以上説明はできない。君にして欲しいのは僕の魂をもらってもらう事だ」
「・・・納得いかない」
「え?」
「だってあなた自殺して罪を背負ってるんでしょ?そんな人の申し出を簡単に受け入れるとは思えない。まあ、死神みたいなのがいると仮定して・・・そいつは何かあなたに条件を出したんじゃないの?」
「・・・・」
「あ~!何であなたには私の思考が読めて、私にはあなたの思考が読めないのよ!」
「とにかく魂」
「納得できる答えを聞くまでは私はその方法を聞かないし、やらないわよ」
「・・・ったく、忘れるところだった、君は華の娘だったな」
本当に声だけを聞いていると雪君と話しているみたいだ。ただ17歳で亡くなったわりには大人っぽい話し方だけど。
「わかった、答えるよ。ただし、聞いたら承諾してくれる?」
「それは聞いてみないとわからない」
「ったく、時間がないっていうのに」
「早く話して」
「俺が・・・生まれ変われない、それだけだ」
「な!何で?何でよ!そんなの駄目!」
「君には関係ない!」
「お母さんが悲しむ!そんなの駄目だよ!」
「今君が死んでも華は悲しむんだよ!」
「でも!」
「生まれ変わっても俺が華と出会えるとは限らない。でも今君が目を覚ませば華は悲しむことも苦しむこともない。華だって生まれ変わって俺と出会えるなんて思って」
「思ってるわよ!」
「え?」
「お母さん、言ってた。生まれ変わってもう一度あなたと出会いたい、そしてまた恋に落ちて、今度こそ二人で幸せになるんだって。お母さんはその未来を信じてるのよ!」
「華・・・。だけど、無理だ・・・」
「死神に頼むならそっちを頼みなさいよ」
「とにかく」
「とにかく魂はいらない」
「頼む!」
「・・・悠二さん、私、生まれ変わったらお母さんと悠二さんの子供になりたいなあ」
「律・・・」
「私、生きてる悠二さんに逢いたかった。でももし悠二さんが生きてたら私は生まれてないし、雪とも出会ってない。やっぱり悠二さんが死んでくれてて良かったのかも、感謝しなきゃね」
「律、君は・・・」
ふと、誰かが私を抱きしめてくれた気がした。すごく温かい。このまま抱きしめられていたい。
なんて思っていたら急に目の前が明るくなって何も見えなくなった。
「何?ねえ、何が起こったの?ねえ、ねえ悠二さん!悠二さんってば!」
「さよなら」
「え?」
「ちょ、ちょっと」
どういう事なの?私、どうなっちゃうの?
そのまま私はまた意識を失った。まあ、悠二さんと話している時既に意識を失っていたのでこれは失ったとは言わないかもしれないけど。
第13章 約束された命
「律?」
「律!」
声が聞こえて私はうっすらと目を開けた。そこには白い、見慣れた天井。
「病院?」
声が掠れて自分でも何をしゃべったのかわからない。
「そう!そうよ!」
母の声
「母さん?」
首がまわらなくて母の顔は見えなかった。そしたら目の前に急に母の顔が見えた。
「母さんよ」
私は笑った。母の顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。
「とりあえず先生を呼ぶから待ってなさい」
翌日からたくさんの検査をした。そして、検査の結果、私の脳にあった腫瘍は綺麗にとれていて、なおかつ後遺症もないという奇跡的な結論が出た。
「一体何がどうなったのか?」
金子先生も驚いていた。
私はそれを言われて初めて意識を失ってからのことを思い出した。
「悠二さん!悠二さんどうしたんだろ?」
「え?」
花瓶に花を挿していた母が驚いて私を見た。
「あんた、今、何て?」
「私、意識を失っているときに真野悠二さんと話したの」
「彼と逢ったの?」
母の顔に赤みが差した。
「逢ってはいないの、声だけ。悠二さん、私が後遺症がなく回復する為に自分の魂をくれるって言ったの。母さんの為に」
「私の?」
「このまま私が死んだら華が苦しむ、悲しむって。華は自分が愛した人間が先立っていくことに耐えられなくなるからって」
「悠二が?・・・」
「うん、でも自分は自殺という罪を犯したから、私に魂を与えるためには自分が生まれ変わるのを諦めなきゃいけないって、その覚悟を、悠二さんはしてた」
「そんな・・・じゃあ、あなたがこうして奇跡的に回復したのは悠二が魂をくれたおかげで、そのために悠二は・・・」
母さんの目から涙が出た。
ほらね、悠二さん、だから言ったじゃない、母さんは悠二さんを諦めてないんだって。
「母さん、もう一つ言わなきゃいけないことがある」
「え?」
「自殺の罪はもう一つ条件があって、私は母さんが死んだ1年後までしか生きられないらしいの」
「え?」
「・・・でも不思議なの。私と悠二さん、最後まで争ってたの。悠二さんは生まれ変わっても母さんと出会う確率が低いから、その低い確率にかけるよりも今私が戻るほうが母さんの幸せだって。でも母さんは生まれ変わって悠二さんと出逢いたいって言ってた、だから魂なんていらないって。で、争っていたときに急に誰かに抱きしめられた気がして体と心が温かくなったの、そしたら急に目の前が明るくなって、で、今に至るって事なの」
母が黙ってしまった。
「信じられない話よね。私だって母さん以外にこの話をするつもりないもの。きっと誰も信じてくれない。信じてくれるのは母さんだけだと思ったから話したんだけど」
「すぐに信じるのは無理だけど、あなたがこうやって奇跡的に助かった事を考えると信じるしかない。だけど悠二が・・・」
「でも私、頑なに悠二さんから魂入れ替わりの方法聞かなかったの。だから魂の入れ替わりしてない気がする。だから希望がないわけじゃないと思う」
「律・・・」
「母さん、大丈夫、悠二さんは生まれ変わってくるよ」
「ありがとう、律。・・・ねえ、律、悠二は元気そうだった?」
「死んでるのに元気そうも何もないけど、だけど、素敵な人だった印象がある。あの時、最後に抱きしめてくれたのはきっと悠二さんだったんだ。あの温もりは悠二さん・・・って、母さん、もしかして怒ってる?」
「べ、別に」
「娘にやきもちやかないでよ」
「やいてません!」
久しぶりに二人で心から笑った。ねえ悠二さん、きっとあなたは生まれ変わって母さんと出逢えるよね。
「律!」
「え?」
ドアが壊れそうなくらいの勢いで開いて、雪君が現れた。
「ゆ、雪君?」
「あんた、生きてんのかよ!」
その場に立ち尽くしたまま私を指さして言った。
「う、うん」
「ったく、びびらせんなよ」
と言ってその場に座り込んだ。
「ちょ、ちょっとそんなところに座り込まないでよ」
「じゃあ、私は買い物に出かけてくるからごゆっくり」
母さんはそう言って私を見ると微笑んで部屋を出て行った。
「雪君、ごめんね、いろいろ心配かけて・・・」
「ほんとだよ全く」
「ねえ」
「ん?」
「あの時の告白、撤回してもいいよ」
「え?」
「だって、あの時は私が死ぬかもしれないって」
「関係ねえよ!」
「雪君」
「あの時も言ったけど、あんたがあの時ああいう状況にならなくても俺はあんたに気持ち伝えてた。・・・と思う・・・わかんねえけど・・・けど、気持ちは間違いない」
私はとても不器用な雪君があまりに可愛くていじわるを言いたくなった。
「だったら私と結婚する覚悟はある?」
「え?」
案の定うろたえている。
「そ、それは、それはまだ」
「嘘よ」
「え?」
「私、まだまだ結婚する気ないし」
「それはまずくない?あんたもうすぐ」
「何?」
「いや・・・なんでもないです」
私達は久しぶりに昔のような会話をした。そして微笑みあえた。そう、私はこういう空気が大好きなんだ、だからずっと雪君といたいと思った。
まだまだ結婚しないと言ったのは、悠二さんの言葉を信じるなら私は母が死んだ1年後に死ぬと聞いたからだ。母が死ぬのが今から何年後かわからない以上何とも言えないけど、それが近い未来だとしたら私の結婚相手は早いうちに配偶者を亡くす。
それがわかっていて結婚するのが怖いだけだ。
とにかく私は今目の前にある幸せを大切にしていこうと思った。いつ消えるともしれないこの命を大切にして生きていきたい。