尿意はいつも突然に
人から提示されたお題 お題【満タン】
「遅刻遅刻ー」
可愛らしく、少女漫画の冒頭台詞を口にしていたのもほんの数分前の話だ。
それは突如として、私に襲い掛かってきた。
穏やかな風、温かな光り、心安らかにする匂い。
それらが爽やかな朝を演出しているというのに私ときたら。
ひきつる表情筋、強張る下半身、ぎこちなくなる体さばき。
今日から新学年を迎えることとなった活発な女子高生には到底思えない不審さが、私の登校姿にあることだろう。
しかしこれは仕方のないことなのだ。
迫り来る尿意に、誰が逆らえるというのだろう。
私の頭の中に浮かぶ不安は、数分前とは別物へと変化してしまった。
口にする言葉が、「遅刻」から「漏れる」へと変わってしまうことに、何の抵抗もなかった。
「漏れる漏れるー」
元気を保とうと可愛らしく口にしてみるものの、漏れることに何の可愛らしさも見当たらない。軽減されることもなく、時間経過に従って、尿意は高まっていく。
「あ、あきらめないぞ」
高ぶった波に唇を噛み、耐え忍ぶ。
諦めはいいほうだと思う。
テスト終わりのご褒美に買ったかすてらプリンを弟に食べられた時はチョコプリン3個のおつかいだけで済ませたし、風邪で友チョコがもらえなかった時は後日デリシャスチョコビッグパフェ2杯を食べることで気持ちを晴らした。
「あれ? 割と私食い意地張ってる?」
それに、諦めがいいというより、妥協で代替が得意というか。
「いや、そんなことより」
食い意地張っているだとか、最近お腹のお肉が気になりだしたとか今はどうでもいいのだ。
考えなければならないのは膀胱への危機をどう凌ぐかで、これは諦めてはいけない問題なのだ。今はそれさえこの頭と体が認識していればいい。
漏らすことを諦めるようでは、女の子ではないと思う。幼い頃はそれでいいかもしれないけれど、今は立派に成長した恋に恋する女の子なのだ。それに、率先して漏らすことに幸せを感じるような感性を持ち合わせてもいない。
「うう。くる」
強い波が来た。歯を食いしばり、太ももに力を入れて、耐える。ぶるぶると振るえ、今にも負けそうになるけれど、更に力を入れて耐える。どうにか耐える。耐えてもらわないと困る。耐えろ私。
「それもこれも、あいつのせいだ」
原因として思い至るのは朝食のときの行動だった。
弟が私の牛乳をも飲み干して、代わりに緑茶なんて促してきたのだ。私も私で朝に緑茶を飲むなんて大人っぽいよね、なんて思考に陥って、それを受け入れたのもまずかった。弟がまた調子に乗って「リョクチャ、満タンで!」なんて言うものだから私も「満タン入りまーす!」と湯飲みでがぶ飲み一気飲みをやってしまったのだ。
私も悪いが勧めた弟が一番悪い。きっかけは弟だからだ。ノッてしまったのは、血のせいだ、きっと。
原因より結果が重要なのだけれど。
「学校まであと半分、くらい……?」
辺りを見回し、現状把握を行う。もちろん、下半身に力は込めたままだ。
右手に見えるは中学校、左手に見えるは住宅街。
この住宅街に友達住んでいたっけ、記憶にない。こっちは駄目。
私が中学生だったら、この中学校に駆け込んでトイレに入り全て解決なのだけど。あいにく私は高校生だ。
どちらも駄目。くそう。それじゃあ、距離と尿意を計算してみようではないか。
現在地を考えると、高校までかかる時間は普段の歩きで10分といったところで、今の状況が続くと仮定すると2倍近くはかかりそうだ。尿意は下半身ダム決壊を100とすると、85くらい。
うん、圧倒的にまずい。
「頑張るんだわたし―!」
少しでも前へ進もうとちょこちょこと足を動かす。たまに歩きの振動が変に作用してダム決壊値が95まで跳ね上がる時があるけれど、その一瞬に全力を込めればどうにか耐えられた。むしろ、それを凌ぎきった後の気の緩みに対する踏ん張りが大変だった。
それでもどうにか歩みを進めていると、目の前に祝福の地が見えた。
その名は、コンビニ。
「ああ……!」
思わず声が漏れる。下は漏れてない。
コンビニがこうも神々しく見えてたのは、生まれて初めてだ。
現代どこにでもコンビニありすぎだよ、なんて言っていた昔の私に説教してやりたい。コンビニはどこにでもあるからいいんだ、と。
コンビニという名の希望に一歩一歩近づいていき、下半身の違和感に気づいて、はたと足を止めた。尿意が減っている。今までお腹の下あたりで、たぷたぷに溢れそうだった尿意の存在感がなくなっているのだ。
「あれ、私は今まで格闘していたよね?」
下腹部を試しに摩ってみるが尿意は感じられない。視線をおろして確認するも濡れている気配はなかった。現在進行形でたれ始めているということもなさそうだ。
尿意がおさまっている。
私は尿意に勝ったのだろうか。
いや、これは波が引いたのだ。決壊値25ってところ。気楽に走れる余裕さえある。多少筋肉を弛緩させても崩れる気配はない。
「よし」
走ろう。
即座に、けれど力の入れすぎで逆効果にならない程度の速度で、地面を蹴って前へ進む。
走れば5分強で学校へ着くはずだ。この調子が続けばコンビニのトイレを使わずとも、学校で間に合うだろう。コンビニでトイレを借りるのは少し恥ずかしいし、間に合うなら学校の方が断然いい。
1分後、私は後悔する。
「トイレ行っておけばよかった」
戻るべきか否か。
現在決壊値98である。
もはや自分が力をいれているのかどうかすら分からない。下半身の感覚がうまくつかめない。漏れそうな感覚はあるので、漏らしてはいないのは確実だろうけれど。
「あっ」
左手の先に、公園が見えた。横断歩道を渡ってすぐのところにある。あそこに公衆トイレはあったかな。どうだったかな。わからないけれど、悩む時間はない。
自身でも奇妙と思うフォームの早歩きで歩道を横断し、公園に入る。どこだ。公衆トイレはどこだどこだどこだ。
あ、あったトイレ。
「えんっ」
トイレ発見と同時に気が緩み、決壊値が99に。変な声も出る。
まだだ。まだ油断はしてはいけない。トイレに座るまで私は1ミリたりとも油断は禁物なのだ。トイレ直前にして漏らすなんて、愚の骨頂も骨頂、愚骨頂点だ。
決壊値99.6になるも、ようやく公衆トイレにたどり着く。タイミング悪く掃除とか、使用禁止の看板も置いていなかった。私の勝利だ。
個室に駆け込み、便座に座る。ほっと力を抜いて、これまで強張らせていた体の緊張を解いた。
勝利も勝利、大勝利だ。
「ふぅー」
至福のひと時。緊張からの解放。目を閉じ、息を吐いて、穏やかな時間に感謝する。耳を澄ませば大喝采が聞こえてきそうだ。それくらい、達成感に満ちていた。この快感をしばらく味わっていたい。
「あ」
気づいた。
「あっ、これ」
今気づいた。
ようやく気づいた。
むしろ気づきたくなかった。
解放感と快感に頭を支配され、感覚に気がいかなかったのだろう。支配していた感覚が薄れ、自分に襲い掛かっている現実に、気づかされた。
遅刻するか否か、なんて問題じゃない。
「うん」
下肢に伝わる温かみを、水分を含んだ下着を肌で感じ取り、天井を仰いだ。
頬にも温かい液体が流れていくのを感じた。
「へへっ。これは、うん。ダメだ」
諦めはいいほうだと思う。
「遅刻」が「欠席」へと変わってしまうことに、何の抵抗もなかった。
「――もしもし、私。――うん、あのさ、今から私の下着の替えと制服の替え持ってきてくれない? ――なんで、じゃない。元はと言えばあんたのせいなんだから。中学校はまだ時間あるじゃない。――そうよ、うん。――場所は地図送るから、よろしくね」
自嘲気味に笑って、ため息をついた。
「どうして下脱がなかったんだろう、私」