最低条件
【第116回フリーワンライ】
お題:指先へのキスは冷たいもので
幸せになりますようにと、ただ、それだけを
「うわ。広いね」
「ええ。私自慢の屋敷ですから。ご自由にご覧になってください」
伯爵の勧めるままに、あたしは豪華な屋敷内を見回った。新しくもなく、伯爵一人しか住んでいないという割にはきれいで、高価そうな絵画や壺が飾られているため、住む場所というよりは博物館といった印象のほうが強かった。
屋敷中をゆっくり見回りつつ、一階のホールであたしを目で追いかける伯爵を一瞥する。あたしの視線に気づいたのか、にこやかにほほ笑んできた。
「ほんとによさそうだから困る」
再度屋敷を見回りながら、伯爵と出会った時のことを思い返す。
コンビニに寄るかどうかを迷いながら塾から帰る寒い夜のことだった。
暗闇に隠れていたのか、あたしが考え事していたのかはわからないけれど、伯爵は唐突にあたしの目の前に現れた。今と同じ黒のシルクハットに黒のスーツといったマジシャンを思わせる風貌をしていたため、余計にそう感じたのかもしれない。見た目はあたしと10個も離れてなさそうで親しみやすそうなのに、どこか現実離れした印象を受けた。
彼は言った。あたしに一目ぼれした、生活の一切を自分が引き受けるから一緒に来てほしいと。
いわゆるプロポーズであると思う。
真夜中、初対面の相手に、しかも成人男性が女子高生に、プロポーズをしてきたのだ。
どう考えても変質者。心情を無理やり理解すると、恋は盲目といったところかもしれない。
「え、無理」
思わず口に出してしまった。すると伯爵はとても穏やかに理由を尋ねてきた。あたしは頬をひくつかせながらも、申し出をやんわり断りつつ笑顔でそれに応える。このような輩は、意見を全否定すると何をしだすかわからないと、何かのメディアで見聞きしたのが頭を渦巻いていた。そして逃げ去るタイミングも計っていた。
その話の中で伯爵は、衣食住やお金のことも気にする必要ない、と言ってきた。全て有り余るほどあると。
だったら後日見せてくれるようにと約束をつけ、その場を離れることが出来たのだった。
もちろん、その後約束を反故にする気しかなかったのだけれど、再び塾帰りに出会った今日は逃げることが難しかった。そこで、実際に屋敷を見て回り、難癖をつけて断ってやろうと思いついて、今に至る。
「ホテルでここ案内されても割といい値段払ってしまいそう」
抵抗している自分が阿保らしくなるくらい、素敵なところだった。伯爵もいい人そうで、悪いところが見えそうにない。お金の心配もなさそうだった。
「どうです? 決心はつきましたかな?」
あたしが1階に降りてくると、伯爵は嬉しそうに訊ねてきた。この屋敷を見たのなら、もう断ることはないという自信があるのだろう。実際その気持ちを抱くのはわかる。
「うーん」
あたしは自分の頭と心を整理する。
あたしには、明確な夢がない。こんな職業に就きたいという夢や、こんな人と結婚したいという夢がない。あるのは、10億円欲しいとかありえそうもない欲望だけで、幸せになりますようにと、ただ、それだけを思い生きてる普通の女子高生だ。
だからその最低条件を、幸せに生きていけることを満たせるのなら、伯爵と一緒に暮らしてくのも悪くないんじゃないか。受験勉強を必死にやらなくてもよくなるだけでもプラスだ。そう、思った。
「わかった。いいよ」
「おお、本当ですか!」
「うん。あたしを幸せにしてくれるんでしょう?」
「もちろんですとも」
伯爵はすっとあたしの元へ歩み寄り、跪いてあたしの左手をとる。その左手に顔を近づけ、薬指にキスをした。指先へのキスは冷たいもので、そこから人の温かさが感じとれなかった。
驚いて左手をひっこめて伯爵を見やる。
伯爵はあたしを愛しそうにほほ笑んだ。
「これからよろしくお願いしますね、ミーナ」
「ねえ。今、あたしに何かした?」
「ええ。一緒になるんですから、私と同じヴァンパイアになってもらわないと」
「は?」
そうして、あっけなくあたしは人としての人生を終えた。
最低条件を、見誤った。
幸せになるとか、そんなこと以前に、満たしておくべき最低条件があったんだ。
でも、そんなことを想像できる人っている?
人じゃなくなる人生を歩むことになるなんて。
第6話「心の抵抗」の前の話になります
1話だけでも楽しめるように書いているつもりですが、
両方読むとさらに楽しめる、はずです。




