ビーフシチュー
第110回フリーワンライ
【お題】一口だけ 本当は知ってた 立つ鳥あとを濁さず
60分一本勝負でしたが修正点が多々見つかったため、結果1時間以上かかっています。
「今日はありがとね。おかげで助かったわ」
「いーえ。たっくんいい子だったし、このくらいだったらいつでも呼んでよ」
「ありがと。何か飲む?」
「生」
「昼間から飲むものじゃないわよ。麦茶でいいかしら?」
「うん。お願い」
雪江は流れるようにコップと麦茶を用意して、居間に運んできてくれた。エプロンを脱ぎ始めた雪江を見て、勿体ないなあと思った。
「顔に何かついてるかしら?」
「いや、中学生のころから変わってないなあって」
「童顔で悪かったわね。明美のほうこそ変わってないわよ」
「そう?」
「えーと、ほら、いろいろ」
一泡吹かせようと頑張る雪江に思わず目を細める。
雪江は相変わらずだ。そして、あたしの雪江に対する想いも、相変わらずだ。
「それよりほら、他に準備しなくていいの? 今年の結婚記念日は夫婦史上最高のものにするんでしょ?」
「そうだった! アレもコレも、まだ準備できてない!」
「ふふ。雪江のことはあたしが一番よくわかってるのよ」
「でも、明美のことは私が一番よくわかってるわ」
「そうかしら? で、準備はどうするの?」
「うん、ごめんね明美。まだたっくんの相手しててくれる?」
「もちろん。雪江は私に何でも頼ってくれていいんだよ。独り身だしね」
「ありがと。じゃあ道具とかいろいろ準備しに外出てくるから、よろしくね」
「うん」
「あ、あと鍋は1時間以上煮込まないといけないからそのままにしといてね。間違っても味見しちゃだめよ」
「わかってるって。いってらっしゃい」
「うん。いってくるわ」
玄関の閉まる音。鍵同士で奏でる金属音。軽自動車が動き出すエンジン音。
これで、雪江は出て行った。
「さて」
あたしはたっくんを、雪江の大事な息子を持ちあげてソファに寝かせる。
そして、台所にゆらりと立った。
鍋のふたを開け、まだ煮込みが足りないビーフシチューをおたまで小皿に掬う。今日、彼女の夫が最初に食べるはずだった物を、お先に一口頂く。
強烈な苦みの温かくどろっとしたものが、喉を通ってゆっくりと体内に流れていく。ああ、これで、あたしは満足だ。
いささか早く聞こえてきたエンジン音。すぐに回される鍵の音。慌てたようなうるさい足音。
「ただいまー」
雪江は照れくさそうに私に笑いかける。
「肝心なお財布を忘れて戻ってきちゃった。こういうところが中学の頃から変わんない――」
しかし、私がいる場所を見て表情が一変した。
「明美!」
急いで駆け寄ってきて私は肩を掴まれ、前後に揺さぶられた。雪江の顔が近いなあ。
「えーと、ほら、明美、えっと、なんて言いたいんだっけ」
いつもおっとりとしている明美はきれいだけど、慌てている明美はとってもかわいらしくてほほえましい。
「食べたよ」
私が告げると、雪江は絶句した。
「なんで」
わなわなと口を震わせる雪江。そんな表情も、私にとっては愛しかった。
そしてはっと目を開いて、私の眼を見上げてきた。
「もしかして、気づいてた?」
「もちろん」
「本当に?」
「雪江がビーフシチューに毒を入れて、夫を殺そうとしたことでしょ?」
雪江の肩が一瞬上がるが、彼女は変わらず私を見上げている。まるで何もかも見逃さないようにしているように。
視界がゆがんできた。愛しの雪江の顔がぼやけてくる。毒が回ってきたのか、毒を自覚してようやく表層に出てきたのかはわからないが、あまり時間はなさそうだ。
「それじゃあ、もしかして」
「うん。その罪をあたしに被せようとしたこともわかってるよ。雪江はあたしのこと一番よくわかってるもんね」
輪郭さえもぼやけてきた。喋れば喋るほど毒の回りが加速していっている気がした。
「でも、それは」
ああ、泣かないで。声を震わせないで。あたしはあなたの泣き顔が見たくて、したわけじゃないの。あなたの顔がどこにあるのかさえわからないけれど。
こめかみに強い衝撃が走った。
「明美!」
彼女の声がぼんやりと聞こえる。たぶんあたしは倒れたのだ。そこの認識さえおぼろになってきている。
あたしは、あなたに夫を殺してほしくなかった。
もしあなたが決意してやり遂げたなら、たとえ殺しであったとしても、きれいに清算してしまえるでしょう。あたしのことも一緒に清算したでしょう。
あなたのことを想って罪を被っただろうあたしを、仕方ないものとして片づけたでしょう。
それだけは嫌だったの。
立つ鳥跡を濁さずなんて。
どちらにしてもあなたの元を去るのなら、あたしはきれいに去ってあげない。
濁して濁して濁して、呪いのようにあたしの存在を一生あなたの元へドロドロに絡みつかせてあげる。
自身の思惑と異なるこの殺しが何故起こったのか、理解に苦しむでしょう。自分が原因であるはずなのに、原因がわからない。
それでいいの。わからないまま苦しむように、あたしはつきまとってあげる。
罪悪感という名のあたしの想いを、すべてあなたにあげる。
あなたのことをずっと変わらず想っているから。
あなたのことを一番よくわかってるのは、あたしだから。




