さよならユートピア
【第60回フリーワンライ】お題
硝子の向こう 新品だったのに
この夜が明けたら ユートピア
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
今日も夜がやってきた。
私は指一つ眉一つ動かさず、静まり返った店内をじっと眺める。朝も夜も静かな店だが、外の騒がしさがない分静寂が際立っている。私にある感覚は聴覚と視覚だけだから、より差を感じるのかもしれない。
硝子の向こうの景色に思いを馳せる。私の手が、足が、体が動いたらどんなに嬉しいだろう。今すぐこの小さな硝子の棚から抜け出し、赤いドレスを振り回して夜を踊り明かすだろう。
私は、ここから出て行きたいと願っていた。私に意識が芽生えた頃からずっとだ。私に意識が生まれたのが、作られた瞬間だったのか、作られてから何年もたった後だったのか、それはわからない。ただ意識を自覚して、周りの世界を認識できるようになったときには、私は既にこの硝子の棚の中にいた。困った笑い顔が張り付いてとれない男の営む人形屋の棚の中に、飾られていた。
私はいつも売れ残った。この店繁盛はしていなかったが、たまに新商品を入荷し、たまにお客は来ていた。けれど、どんなお客も私を買おうとしなかった。私と同じ棚に仕舞われていた人形を買い取ったあるお客の言葉を、私は今でも覚えている。
「古いにもほどがあるよ」
私の心は傷つかなかった。痛みなんて感じなかった。痛みの感覚など知らないし、そもそも心なんてありはしない。
それから店主の男は私を慰めるようになった。店の閉店時間を過ぎると、男は毎度人形の手入れをする。髪を梳かし、埃を払いながら、男は私の手を撫でた。
私は新品のまま、売れ残り続けた。誰も遊んでくれないみじめな人形だ。
誰も遊んでいないから、新品だ。新品のまま、店の棚に並んでいる。しかし男がかかさず手入れをしてくれているとはいえ、年々劣化していった。新品には違いないが、新品とは言えなかった。今では、新品なのに中古として売り出されている。
でも、それも今夜でおしまい。
私が売れるわけじゃない。何十年も売れなかったのに、明日売れるなんてありえない。
この店が取り壊されるのだ。それにあたってお前を処分するんだ、ごめんよごめんよと、男は私の手を包む両手を震わせていた。
私はこの店主が、困った笑みをし続けてしわが深くなった男が愛おしいし、彼も私を愛おしく思っているだろう。
けれど、私はモノで、人形だ。人間ではないし、生物でもない。その境は大きく、揺るがない。
明日、店が取り壊される。それと一緒に私も壊される。
この夜が明けたら、全てが壊されるのだろう。この店も、私の体も、思い出も。
私の体が壊されたら、私の意識はどこにいくのだろう。視覚も聴覚も、どこにいくのだろう。今まで大事にされてたから、壊されたときのことは何も判らない。
ああ、何もかも中途半端に持ってしまった。意識も、感覚も、想いも。これなら無い方がよかった。くれるのなら、全て欲しかった。
もし私の体を自由に動かせたのなら。きれいな赤のドレスをなびかせて踊り明かし、きらびやかな夜の街へ飛び出したことだろう。自由を謳歌したことだろう。
けれど、自由に動けなかったから。この何十年も店主と一緒にいることが出来たし、見守ることが出来た。最後まで、名前を知ることは出来なかったけど。
朝日が店に差し込んでくる。
さよなら、私のユートピア。