5
何やら気配を感じて振り向くと、そこに佇む一人の女。萌葱の着物に桜色の帯、風に流れる漆黒の長い髪。それは夢に見た愛しい人の姿。一瞬の困惑の後、それは驚きに変わり、そして心の底からこんこんと喜びがあふれ出す。ついに、その愛らしい瞳に己の姿が映りこんだ。
積年の思いで、互いに駆け寄り手を伸ばす。しかし絶望が二人の間に立ちふさがった。感情に任せて伸ばした手は光となって消えてしまう。境界を前にして二人は向き合い、やるせなさで涙がこぼれた。
二人を隔てる壁が、消えない。
これを越えれば消えてしまう運命は彼女とて同じこと。自分たちに科せられた運命をこんなに忌々しく思ったのは初めてだった。
愛しい人を目の前にして触れることさえ叶わない。これほど酷なことはない。
少しでも近くに感じたくて境界に手を這わす。一寸か、たったそれだけの距離が越えられない。彼女もそれに合わせるように境界をはさんで手が重なる。するとそこに歪みが生まれる。その弾みで手が触れ合い、すぐさま指を絡ませてそのまま彼女を引き寄せた。
彼女が境界を越えると共に二人を隔てた壁は弾けて消えた。抱きしめたその腕の中で初めて感じるぬくもりが愛おしくてたまらない。
やっと出会えたこの喜びを伝えたいのに、涙ばかりで言葉にならない。
抱きしめる腕に力をこめると、彼女が背中に腕を回してそれに答えてくれる。胸に顔を埋める彼女の涙で衣が濡れる。
それほどそうしていただろう。しばらくして彼女がおずおずと顔を上げた。頬に残った涙の後を指で拭ってやると照れくさそうにはにかんだ。それから彼女は何かを言おうと言葉を探しているようで、ためらいながらも口を開いて、しかしすぐに辞めてしまった。なんとなしに彼女の言わんとすることが思い当り、視界の端に入りこんだそれを指し示す。
「ほら」
それは季節外れに咲いた一輪の桜。その花を見た彼女が小さく笑う。
「また、あなたなのね。やっぱりせっかちな子」
しかし言葉とは裏腹に、紡がれる声は穏やかで。彼女は嬉しそうに桜に口づけた。
椛の葉が祝福の思いで華麗に舞い踊る。
一輪だけ咲いた桜が秋風に揺られて、静かに二人を見守っていた。
とある神社の境内に桜と椛が寄り添うように立っておりました。彼らは支えあうように互いの枝を絡ませながら枝葉を広げているのです。
この桜は不思議なことに、春には蕾を固く閉じたまま、決して花咲くことはございません。秋になると紅葉する椛の傍らでいっせいに美しい花を咲かせるのです。椛の鮮やかな紅と優しい桜色が織り成す四季を超えた共演は、とても幻想的で、この世のものとは思えぬ美しさでございます。その季節はずれに咲く桜の花は恋い焦がれる想いが生んだ奇跡の花でございました。
<了>
最後まで読んでくださってありがとうございました。
感想などございましたら、お気軽に書き込んでくださいませ。
よろしくお願いいたします。