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時は慶応、暦は春分。
見事に咲き乱れる満開の桜。春を待ちわびた蕾たちは互いに競い合うように、その全身で春の訪れを告げている。
女は咲き誇る桜を見て嬉しそうに微笑んだ。
「こんなに華やかで美しいのは、いったいどれほどぶりだろう。美しい姿を見せてくれてありがとう」
満開の桜を見つめて春の訪れに感謝し、今年も無事に蕾が開いたことに安堵した。しかし、その笑みの裏には涙を隠している。
隣の椛を見上げれば相も変わらず葉を青々と茂らせて、しっかりと地に根を下ろし、雄大に構えている。
ゆっくりと椛の方へ歩き出す。頭上に伸びる桜の枝が次第に減っていき、枝の先端のところで足を止めた。
女はそこから椛を見つめ、その場で崩れるように座り込む。
「私が目覚める春だというのに、貴方はいつも眠ったままで。私がこれほど恋焦がれて貴方を待つのに、逢いたいという願いは叶わない。こんなにもお側におりますのに、すれ違ってばかりの私たちは永遠にお目にかかることはないのでしょうか」
彼を想って、もうどれほどの経ったかわからない。これまで一度も逢うことは叶わず、声を聴くことすらできないままだ。
一筋の涙が頬を伝う。一度溢れた涙はとめどなくあふれ出し、萌葱の着物に染みをつくる。顔を手で覆っても指の間から涙が次から次へとこぼれ落ちる。
一枚の花びらが女の肩に舞い降りる。その想いをくんで風に乗り、周りの花びらも巻き込んで旅に出る。
ひらりひらりと舞う花びらは風に運ばれ、社の中へ……
* * *
時は慶応、暦は立冬。
椛たちが最後の一枚まで紅で染まり、秋晴れの空の元で鮮やかに浮き上がり、椛をよりいっそう美しく見せている。
男は椛の幹によりかかり、秋の風を感じながら色づいた椛を眺める。
「今年はいつにも増して美しい色づきだ。皆が無事に冬を迎えられそうで本当によかった」
喜びの言葉とは裏腹に、男の表情は愁いを帯びて悲しみの色を滲ませている。
ゆっくりと桜の方へ歩みを進め、頭上に伸びる枝が途切れたところで立ち止まる。見えない何かに阻まれて、それより先は進めない。それに抗い手を伸ばすと伸ばした先は霞みがかるように掻き消えた。手を戻すと消えた部分は元に戻り、こぶしを握るとしっかりと力が入る。
「私が目覚めて待ちわびているのに、貴女の瞳は閉じられたまま。これほど貴女を想ってもこの声は貴女に届かない。透き通るように美しい貴女に触れたくて伸ばした手は運命によって掻き消えた。このまま永久に逢えぬというならば、いっそ消えてしまおうか」
悲痛に顔を歪めて握った拳を見つめる。拳を開くと手のひらの上に一枚の椛の葉が舞い降りた。椛を振り返れば風に舞う色づいた葉たち。彼の憂いた心を慰めるように。
風に乗って舞う葉を静かに見送った。自分の手は届かなくても、あの葉が彼女に触れられるなら。それ以上は、望まない。
風に舞う椛の葉はたくさんの仲間を連れて旅立った。
花びらの待つ社の中へ