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時は元禄、暦は春分。
五部咲きの桜の下で女は静かに佇んでいた。目の前で春風に吹かれて桜の枝が揺れる。花も、蕾も、舞うように。
しかし女の視線は桜のその先。青々と葉を茂らせた椛だけを見つめていた。その葉が風に吹かれて緩やかに揺れ、葉が重なり合ってさらさらと鳴る。
女は手の中に一枚の花びらが飛び込んだ。しばらく見つめてそっと胸元で握りしめて呟いた。
「私が毎年待ち続け、私がこんなに貴方を恋い焦がれているなんて、きっと貴方は知らないでしょう。行き場のない私の想いは貴方を求めて彷徨うのです」
恋しい人を待ち続けている女にとっては残酷なほどに、ただただ時が過ぎていく。
いつも逢い見えるのは眠りの中で。何か言いたげなそぶりを見せて、それでも声は聞こえない。こちらが問いかけようにも己の声も届かない。目覚めた時には誰もいなくて、どれほど待っても現れはしない。
彼はいつも夢の中。夢を渡る幻想の旅人。
脳裏に浮かぶ朱色の帯が脳裏に焼き付いて離れない。着物の袖から伸びる骨ばったその手に触れることができたなら、どんなに幸せか。
春風が女の頬を優しく撫でる。逢いたい気持ちを胸に抱いて今日も風に想いを乗せた。
桜の枝が揺れて花が散る。風に乗って花びらが舞い、舞い上がった花びらは境内をくるりとめぐって旅を終えた。
* * *
時は元禄、暦は立冬。
葉が半分ほど色づいた椛を悲しげに見つめる男が一人。その隣で木枯らしに身を震わせている桜は葉を散らし、紅葉した椛の隣では、その姿は寂しげなものに映る。
椛を下から仰ぎ見ると、紅に染まりだした椛たちと色づく前の葉の共演は、限られた時のしか見ることのできない趣深い情景である。
男は風に舞う椛の葉を一枚つかんで胸に抱く。
「貴女を想うと時の流れは穏やかで……未だに貴女は現れず。この想いは行く当てもなく闇に迷い込んだかのごとく。切なさで胸が締め付けられる」
眠りの中で見る彼女はいつも悲しみを帯びた微笑みを浮かべていて、その顔を曇らせるすべてのものから守りたいのに、それができない己が憎らしい。
風に吹かれて踊る漆黒の髪も、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳も、どれをとっても愛おし。どれほど会いたいと願ってもこの手は届かず、声も届かず。どうすることもできないままに、ただ時を重ねるだけで、彼女への想いは募るばかり。もうどれほどの歳月が流れたことか。
色づいた葉たちが風に煽られ宙を舞う。椛の葉になって風に乗れば彼女に会うことができるだろうか、そんなことを考える。
せめてこの葉に想いを乗せて。逢いたい気持ちが彼女に伝わるように。