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時は天正、暦は春分。
ある神社の境内に桜一本、椛一本。丈比べをするかのように並び立つ。
暦は春でも風は冷たく、彼らが花をつけるには早いようで、桜と椛は互いにその蕾を固く閉じていた。そんな中で桜が一輪だけ自信たっぷりに咲いている。
それを見つけた女が、先走って咲いた一輪の花に手を伸ばす。
「他の皆はまだ眠っているのに、お前は一人で咲いてしまったのですね。せっかちな子」
女は目を細め、愛おしそうに花を見つめて呟いた。枝から手を放して桜を見上げると、その一輪がよりいっそう存在を主張する。あとの蕾たちはまだ眠りについたまま。彼らが目覚めて美しく花開くのはもう少し暖かくなってから。
桜の幹まで歩み寄り、その根元に腰を下ろすと幹に背中を預けて隣の椛に視線を移した。椛は葉を茂らせて、小さな赤い蕾たちが立夏を心待ちにしているようだ。悠然と立つ椛を見つめて独り言ちる。
「貴方は今頃いかようにしていらっしゃることでしょう。私がこんなに恋焦がれているなんて、きっと貴方は露ほども知らないのでしょうね」
女は小さくため息をついて瞼を閉じる。瞳の裏に映るのは濃紺の衣に身を包んだ恋しい人。
彼の人に触れたいと願うも待ち人は現れず。明日こそは、と幾日も待ち続けて今に至る。それでも女は諦めない。いつか来るその日に思いを馳せて。
少し強い風が通りすぎるのを感じて瞳を開く。そこに広がるのはいつもと同じ風景で。何もないと分かっていても少しだけ淡い期待を抱いてしまう。そして女は吹き抜ける風に想いを乗せた。これほどまでに焦がれる想いが彼の人の元へ届けばいい、と。
女の想いを乗せた風は、優しく早咲きの桜を揺らしていった。
* * *
時は天正、暦は立冬。
境内の椛が冷たい北風に吹かれて揺れる。暦は冬と言われても、枝の葉が鮮やかに色づくのはもう少し先のこと。しかし青い葉の中で一枚だけが、既に色を変えていた。
男はその葉に目を留めて、笑みを浮かべて呟いた。
「まだ色づくには早いだろうに。そんなに急がずとも良いというものを」
椛の木を見上げると、一枚だけ色づいたその葉は良く映える。これから椛は冬に向かって最後の一仕事。
隣の桜は既に葉を落とし、すっかり冬を迎える支度をしていた。それは見るからに寒々しいが、桜が冬を越すには必要なこと。
男はため息をつき、憂いを帯びた目で桜を見つめる。
「貴女は今頃何を思っているだろう。この想い、いかにすれば貴女の元に届くのか」
桜に重ねて思うのは、萌葱の着物の愛しい人。着物の色に白い肌が良く映えて、その姿に思わず息をのむ。
けれど、どれほど想っても彼女が現れることはない。こうして待つようになってから、どれだけの時が過ぎただろうか。
一陣の風が吹いて一斉に椛の枝が揺れる。風に乗せて祈るのは、この想いが彼女の元に届くように、と。