花折る人
その日は秋分だった。わたしは苔むした石の鳥居が連なる小さな神社にいた。神社に奉納される伝統の踊りを眺め、わたしは、こういう時期もあったっけ、と考えていた。
この地域に伝わる踊りは男の踊りと女の踊りの二通りあって、男の踊りは勇壮で、女の踊りはなよやかだとよく言われていた。両方とも二十人ほどが輪になり、くるくる回りながら掛け声をかける。少年の部、青年の部があり、わたしがそのとき見ていたのは少年の部の女の踊り。小学校高学年から中学までの女の子たちは、甲高い声を上げて全く同じに回り、円の上を移動する。手にしているのは飾り立てた竹。振るたびにしゃかしゃかと鳴るのは中に豆が入っているからだ。地味な浴衣に派手なたすきをかけて、編み笠を頭にかぶせて手ぬぐいで顔を隠している。だから顔が見えない。
そのせいか、彼女たちは匿名の誰かにも、過去のわたしにも見えた。
笛の音が鳴る。竹の横笛は素朴な音を立て、同じフレーズを繰り返す。観客は、神社に祭られている氏神様を除けば老人ばかりだ。少年の部の子供たちの保護者もいることはいるが、行事を取り仕切る仕事に就いていたりするから忙しい。老人たちはがやがやとしゃべり、踊りを見ているのかわからない。たまに批評が入っているから見てはいるのだろうが、大抵は自分の健康について、近所の人の消息について、話をしている。
自然の木が生えた山を背景にしたこの神社の鳥居と囲いは石造りで、かなり古い。建物はそれほど大きくない木造だ。悪戯で石の珠を抜かれた狛犬の間を抜け、奥の奥に行くと小さな祠のようなものがあり、子供たちは近づいてみては恐れて逃げる。ここは氏神様の祠だ。建物の横には小さな祠があり、何が祭られているのかは知らない。氏神様以外の誰かだろう。子供たちは夏の夜にこの神社で踊りの練習をせねばならず、氏神様たちに見つめられている気がしながら踊らなければならない。
昼に行われるこの秋分の行事は、それほど怖くはない。明るいからだ。視線を感じることも少なくなり、ただ笛の担当のおじさんにあとで怒鳴られないよう失敗しないことだけが大事であるかのように、ただ踊る。わたしは子供たちの気持ちが手に取るようにわかる。退屈の一言だ。終わるととてもほっとする。浴衣はきついし、暑い。秋分と言っても、温暖化が進んだ九州の町のことだ。暑さは応えるに決まっている。氏神様に喜んでもらえるよう、という気持ちは現代の彼らにはない。それでも、どこかで見られている気はする。
わたしは、八年前まで彼女らと同じように踊っていた。青年の部には加わっていないけれど、この神社のこの行事について、細かなことまでわかる。
笛が高く鳴り、踊りは終わった。女の子たちは円から列になって衣擦れの音をさせながら神社から出て行く。あれ、と思った。二十人ほどの女の子たちの一人が、また戻ってきたのだ。そして真ん中の建物に入っていく。建物の中には作業をする大人たちがいた。女の子はその中に紛れ込み、出てこなかった。
わたしはじわじわと思い出した。子供のころ、こんな違和感を何度か味わった。色々な出来事。たくさんの思い出。その中に、こういった奇妙な事象があった。何だったか。
「きい、久しぶりやん」
肩を叩かれ、びくりとした。顔を見て、驚く。大きな目と、にかっと笑った丸い顔。少し太ったけれど、これは幾子、通称いっちゃんだった。小学校時代、この地域でのリーダー格だった。わたしはいっちゃんに散々いじめられたのを覚えている。大人しいわたしはいっちゃんと、腰巾着の陸子、通称りっこに無視されたり、きつい言葉を投げつけられた記憶がある。もちろんいつもではなく一時期だったが辛い体験だった。地域に彼女らがいる限り、わたしは生きることなど不可能だと思ったのを覚えている。
しかし、いっちゃんとは中学時代に対等な関係になった。グループが別になったのだ。そのお陰でいっちゃんはわたしに苛々せずに済み、わたしは安穏としていられた。互いに距離を保つことができた。
高校以降は、成人式でしか会っていなかった。それも、挨拶をしただけ。だからこうしていきなり再会するのは驚きだった。彼女が地元で保育士をしているのは知っていたが。
「いっちゃん、何でここにおると?」
わたしは中学校のときの感覚を思い出しながら、いっちゃんに話しかけた。いっちゃんは笑う。
「いや、暇やったけん。お母さんに踊りでも見て来いて言われてさ。でも地味やね。そろそろ帰ろうと思っとったとこ。きいは?」
「わたしは夏休みで帰省中さ。ちょっと遅い夏休みやけど」
本当は仕事を辞めて帰ってきていた。
わたしは昔から何事もてきぱきとこなせない性質だったが、それが災いして年上の女性社員に嫌われてしまった。無視、きつい言葉。小学生のときにいっちゃんたちから受けたそのままのことを、彼女から受けた。同期の社員からは辞めることはない、と言われていたが、わたしの中の状態が限界だった。それで、辞めた。子供時代の自分ほどにも忍耐力がない、と自嘲してしまうくらい情けない。それにこの先をどうするべきか何も考えていなかった。
いっちゃんは夏休みだというわたしの嘘を信じたようだった。わたしは陽気そうに続ける。
「青年の部、見るか迷うね。でも確かに飽きてきたね」
「そのほうがよかよ。うちも帰るし。ねえ、きいは見た?」
ぎくりとした。
「女の子、一人中に入ったまま戻らんよね。見た?」
「見た。やっぱあれかな。氏神様かな」
いっちゃんが怪談話をするかのような表情になる。
「わからん。でも噂になったよねー、子供時代。誰かが何かしとるぎ、いつの間にか人が増えると。どれが増えた人間かわからんと。ホラーんごたったよね」
「そうそう」
里美が相槌を打つ。
「でも悪かことはしんされんとよね。増えるだけ」
わたしがうなずく。
「そうそう、それにいいこともしてくんさったよね。助けてくれたこともある」
「何やっけ?」
里美が訊くのでわたしといっちゃんがめいめいに考える。最初に思い出したのは、わたしだ。
「あー、皆で川を上ったことあったやん?」
それはこういう話だった。
小二の夏休みにいっちゃんの家に遊びに行ったとき、いっちゃんは退屈して、わたしとりっこを連れて近くの川を上り始めた。浅い川だ。ちょろちょろと沢蟹が歩いていて、草が生い茂るだけの、整備された川。わたしたちは歩いた。疲れた、とか、帰ろう、とは言わなかった。いっちゃんが怒るからだ。いっちゃんを怒らせてはならなかった。意地悪な言葉を吐かれる。
川を上れば上るほど山に近づき、どんどん草が多くなり、原始的なものになっていった。コンクリートの平らな川底は石だらけになる。わたしは、段々怖くなっていった。このまま帰れなくなるのではないか。そういう気がした。足元をうろちょろする沢蟹の子たちが、不気味でならなかった。
「そろそろ、帰ろうか」
いっちゃんが、気が済んだのか、はたまたわたしのように怖くなったのか、そう言った。わたしはうなずき、りっこもそうした。わたしたちは、川を下り始めた。
しかし、一向に帰れない。川の岸はいつの間にか高くなっていて、自分たちがどこにいるのかもわからない。わたしは泣き始めた。続いてりっこ。そして、堰を切ったように、いっちゃん。里美だけが泣かずに歩いた。
「泣いたらいかんよ。気弱になったら帰れんよ」
そう励ましながら、里美は先頭を歩いた。わたしたちはそれについていった。べそをかきながら歩いていくと、まだ明るいうちに川に入った地点に戻れた。わたしたちはほっとし、顔を見合わせた。しかし、励ましてくれていた子はいなかった。わたしたちは呆然とした。あんなに溶け込み、親しんでいたような気がしていたのに。わたしたちは悲鳴を上げていっちゃんの家に駆け込んだ。
「そがんこと、よう覚えとるねー」
いっちゃんが半笑いで言った。多分、恥ずかしいのだ。中学時代以降のいっちゃんは、あまり威張ったりしない感じのいい女の子だった。子供のころの無自覚に威張っていた自分を思い出したくないのだろう。
次は、いっちゃんが思い出した話をする番だった。
「川で思い出したとけどね」
いっちゃんの話は、わたしも覚えている。小五の、やはり夏休みだった。わたしたちはあの川ではなく、本流の深い川で遊んでいた。泳いでいたのだ。小五とはいえ、子供だから素っ裸になるのにはあまり抵抗がなかった。まして人通りの少ない橋の下だったから、余計だった。いっちゃんがわたしとりっこを裸にして、いっちゃんとりっこは川に飛び込んだ。わたしは怖くてできなかったが、苛立ったいっちゃんがりっこにわたしを引き込ませた。わたしは怯えたが、仕方なく泳ぎ始めた。そうなると、川遊びには抵抗がなかった。
泳ぎながら里美が言った。
「うち、帰る。みんなも帰りんしゃい」
大きな水音を立てて川から上がる。わたしたちは呆気に取られて里美の尻を見ていた。つるっとした子供特有の貧相な尻。
「何で? まだ入ったばかりやん」
いっちゃんが怒った。わたしとりっこは黙っている。
「うち、帰りたかもん。皆早く上がりんしゃい」
いっちゃんは明らかに怒っていたが、白けたらしく黙って川から上がった。わたしたちもそれに従った。持ってきていたタオルで体を拭き、服を着る。
「あんた明日から無視やけんね」
いっちゃんは言ったが、里美はいっちゃんをにらんでいただけだった。わたしははらはらしたが、りっこは早速いっちゃんの肩を持った。
「そうよ。何威張っとると? 何様のつもり?」
いっちゃんと里美はにらみ合った。
「馬鹿馬鹿しか」
里美はぷいと顔を背け、わたしたちは無言で帰った。それぞれの家路につこうとしたとき、いっちゃんははっとしたようにわたしとりっこを見た。
「氏神様!」
そのころには、わたしたちの周囲に現れる少女は氏神様だと言われていた。町が村だったころから、その噂はあった。それを先輩たちから徐々に知ったということなのだ。
そのときにはその少女はいなかった。わたしと、いっちゃんと、りっこだけだった。わたしたちは、静かに別れた。
「あのときは怖かったー」
いっちゃんが言った。わたしがそれに続ける。
「でも、あのとき田んぼで農薬撒きよらしたとよね。川に農薬の流れ込む寸前で、わたしたち危なかったとよ」
「よかったよね」
里美がにこにこ笑った。いっちゃんが声を弾ませる。
「あと、一人でザリガニ取りしよった大輔が沼に落ちたときも、おるはずのない友達が助けだしてくれた話もあったよね。大輔、喜んどった」
「誰やったかな。男子やと思うけど、同級生の誰かが山に登って迷ったときも、友達のふりして道案内してくれらしたとよね」
わたしが続ける。里美は笑って言う。
「氏神様、結構親切よね」
「そうそう、小一のとき、わたし友達おらんやったやん?」
わたしが言うと、いっちゃんがにやにや笑った。けれどわたしは気にせず、話を続けた。
「図書室に行くと、いつも隣で本を読んでた子がおったさ。そのお陰で癒されとったさ。でも、ある日図書委員に聞いたら、わたし一人だったて言われたと。氏神様、わたしを助けてくれたのかもしれん」
それは大切な記憶だった。彼女が隣にいて、わたしは本を読む。安心できる時間だった。毎回隣にいてくれた。やがてわたしが多少乱暴でもいっちゃんたち地域の子供たちと仲良くなると、いつの間に現れなくなった。あれは、きっと氏神様だ。けれど、わたしがいっちゃんたちにいじめられたときには助けてくれなかった。どうしてだろう。
「氏神様、この踊り見とったかな」
わたしがそうつぶやいたときには、青年の部の男の踊りが始まっていた。踊り手の衣装である短い着物を着た男たちが、力強く踊る。
「見とるよ。皆大変ねー、て思いながら見とる」
里美が言った。にこにこ笑っている。
「笛のおじさんに叱られて嫌ね、とか、夜練習して怖かね、とか、毎年毎年忘れずに踊ってくれてありがとう、とか思いながら見とるよ」
わたしといっちゃんは、里美をまじまじと見た。いっちゃんが半分からかうように言う。
「里美、信じとるとー?」
「信じらんで、どうする?」
里美はくすっと笑う。わたしといっちゃんは不思議にもそれを何とも思わずに思い出話に没入していた。わたしたちの声は高く、老人たちは迷惑そうな目でこちらを見る。自分たちも雑談しとるくせに、といっちゃんがつぶやく。わたしたちは黙り、そろそろ帰ろうかと言い合った。ふと、いっちゃんが建物のほうを見る。
「あ、社から女の子出てきたよ。氏神様やなかったやん」
「何だー」
次の瞬間、わたしたちは気づいた。わたしたちは、三人いなかったか? 誰か、名前も思い出せない誰かがいなかったか?
わたしといっちゃんは顔を見合わせたが、ぞっとした顔は一瞬だけだった。わたしたちは真面目な顔になり、社に行き、中の祠の前で拍手を打って頭を下げた。そして、祈るのだ。「今年もわたしたちのことをお守りくださるように」と。
わたしは思う。いっちゃんたちにいじめられたときに助けてくれなかったのは、きっとわたしが自分で自分を助けられる子供だと考えたからだ。実際、わたしはそうできた。だから、これからも大丈夫だ。
《了》