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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

涙と心

作者: 高野 夕夏

じいさんが死んだ。

どうやら、私たちは間に合わなかったらしい。

病室のベッドには、口を大きく開け、驚愕の表情のまま固まっているじいさんの黄色い顔が見える。その瞼だけが申し訳程度に閉じられていたが、そこに満ちていただろう苦しみをほとんど隠せてはいない。


私は目を背けなかった。見ていたかった。じいさんがその刹那に何を感じ、何を思ったのかは分からない。ただ、じいさんが生きたことを目に焼き付けておきたいと思った。

けれども、前に進み出ることはしない。私は病室の入り口近くで、それを見つめているだけだ。

じいさんの手を握ってベッドに泣き伏し、何度もその名を呼ぶばあさんの声が、何時までも耳に残る様に、響いている。その情景を、邪魔したくはなかったからだ。

きっと、ばあさんの手のひらは、その残り少ない体温を感じているのだろう。




病院まで車で連れてきてくれた三木さんに右手を引かれて、私と弟は先に廊下に出された。私の左手には、私よりも少しだけ小さな弟の手があった。その手はいつだって私よりも温かかったが、今は熱いと言ってもいい程だ。その手を離さないようにしっかりと握りながら、泣きじゃくる弟の隣で、私は泣いたりしないと心に決めた。




少ししてから、看護師さんに支えられて、ばあさんが廊下に出てきた。涙とともに漏れる嗚咽が冷たい廊下に響く。三木さんは私の手を離し、ばあさんに駆け寄った。その場に座り込みそうになるばあさんを支えながら、三木さんの瞳もまた濡れていた。

「さっちゃんに電話をしたほうが・・・。」

「ああ、そうね。佐知に電話・・・。電話は・・・。」

三木さんに促されて、ばあさんは緑色の公衆電話の前に立った。かあさんに知らせようとしたようだが、結局話の途中で泣き出してしまい、三木さんが代わりに事情を説明することになった。




それから三十分ほど経って、かあさんが来た。かあさんもまた病室に入り、しかしばあさんの様に泣き叫ぶことはせず、私と弟よりも短い時間で出てきた。その瞳もまた濡れて、三木さんよりも真っ赤に腫れているように見えた。




あの日の事で他に私が思い出せるのは、私達を病院まで乗せてきてくれた隣家の三木さんの車が、ぼんやりと光るように白かった事と、助手席の左の窓に打ちつけては流れる激しい冬の雨の様子に、ワイパーの隙間から見た高架の上を走る赤い列車。

そしてその日、私は泣かなかった。







じいさんが死んだのが夜だったので、次の日がお通夜だった。

あちこちに電話したり、何かを話し合ったりと、大人達はとても忙しそうだ。畳の上に横たわるじいさんの遺体の傍には代わる代わる大人たちがやってきたが、少し経つと誰かに呼ばれて行ってしまうので、私だけはずっと此処にいてあげようと思った。


じいさんの顔にはうっすらと化粧がしてあり、やけに白っぽく、当たり前だけど既に生気がなかった。布団に隠れて見えないが、その胸の上に大きなドライアイスの塊がのっているのを私は知っている。とても重くて苦しいし、低温やけどするんじゃないか、などと考えながら、そんなことを考える自分をばかばかしく思った。

(じいさんはもう死んでいる。じいさんが冷たいのだから、寒いと思うことはないだろう。いや、じいさんは死んでいるのだから、何かを感じたり、思ったりすることすらないのか。)

私は、自分がじいさんの死を受け止め切れていないのだろうかと不安に思ったけれど、自分はじいさんが死んだと分かっているじゃないかと、すぐにそれを打ち消した。



いつもよりも夜更かしして、代わる代わるやってくる大人の話を聞いていたが、かあさんに呼ばれ、私の今日も終わりを告げられた。心の中でじいさんに「おやすみなさい」と言って、私は座敷を離れた。




弟は今日二度だけ私の隣に座ったが、すぐに生きている大人達が集まる居間に戻って行った。一度目は涙を流し、二度目は涙を目にいっぱいためていた。そしてその度に、私は弟の熱い手を握った。

私はその日も泣かなかった。







その翌日、葬式には多くの参列者が来ていた。ばあさんは出棺の時にまた酷く泣き出したが、病院での時の様に取り乱したりはしなかった。その様子を少し離れたところで見ながら、やっぱり今日も泣いていなかった私の顔を覗き込み、赤い目をした母が言った。

「隣であんなに泣かれると泣けないよね。」

私の隣では、とうさんと手をつないでいる弟が泣いていた。別にそういうわけじゃないと思いながらも、私は曖昧に頷いておいた。

私はかあさんの手を握りながら、弟の手は今日もきっと熱いのだろうと思った。


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