閑話1:執務室での密談
「失礼します」
そう言って入室してきた男は、傍に控える人間には目もくれず、部屋の主へと歩み寄った。気味が悪いほどにこやかな顔を湛えたまま、主の目の前でばんっと思い切り机を叩く。振動で数枚の書類が舞い落ちるが、それを気に留める者はこの部屋にはいなかった。ただ、張りつめた空気がこの部屋を支配する。
一触即発といった状況に、騎士団長であるアイザックは思わず腰を浮かす。しかし、彼の主はそれを目線で制した。
「流石、殿下。随分と落ち着いておられる」
「そう見えるか?まあ、お前が取って付けたような理由で面会申請出してきた時点で、穏やかな話にはならないとは思っていたけどな」
ここまで怒り狂ってくるとは思ってもいなかったが、という部分は心の中で付け足しておく。
「ここに来る途中でキャスに会いましてね」
まるで心中を読まれたかのような発言に、レイヤードはちっと舌打ちをする。彼がキャスと会わないよう面会時間を設定したというのに。邪魔をしても会ってしまうほど、この兄妹の絆は強いのかと、自分の思惑が外れたこととはまた違う苦々しい感情が彼の胸に渦巻いた。
「一体、何を考えてるんですか?」
「何の話だ」
レイヤードが空惚けると、スコットはすっと真顔に戻り、自国の王太子をぎろりと睨めつけた。
「キャスの王太子宮入りです。貴方はキャスを妾にする気ですか?」
がんっ。
今度はレイヤードが力の限り机を叩く。彼らを取り巻く空気が一層険悪なものになり、今まで静観していたアルフレッドとアイザックは冷や冷やしながらその行方を見守る。
この状況はかなりまずかった。いくらスコットがレイヤードと長い付き合いで、さらに、王太子の懐刀とも言える人間であるとは言え、今までの行いは王太子に向けて許される類のものではなかった。もしレイヤードが彼を不敬罪に問うた時、彼らはその罪を認めざるを得ない。しかし、王城内の情勢が不安定な今、スコットという味方を失うことは避けたかった。
「スコット・リディア=アークフォールド子爵。その侮辱は聞き捨てならないな」
冷ややかな口調がレイヤードの怒りを如実に表していた。二人はその声の冷たさに凍りつく。しかし、スコットの怒りも相当なものなのか、彼は全く怯む様子もなく、むしろ侮蔑の色を一層露わにする。
「侮辱?はっ。何が侮辱ですか。事実でしょう?婚約もしていない女性を自分の宮殿に引き入れるなんて。正式な妃にはしない、それだけの者だと言っているようなものだ!」
「違う!そんなつもりは断じてない!」
「殿下の意図が違うものでも、周囲の人間はそう思うんですよ。ただでさえ、入隊直後の近衛抜擢には異論を唱える者が多いのに」
「キャスは立派な魔法剣士だ。下手な剣士より何倍も強い」
「そんなこと、言われなくても知ってますよ。うちの妹は優秀ですから」
「なら――」
「でもね、殿下。他の人間はそんなこと知らないんですよ」
「!」
「王太子が入隊すぐの女騎士を近衛に据え、しかも自分の宮に住まわせた。どういうことになるか、頭の良い貴方ならわからないわけではないでしょう?何故こんなことしたんです?」
レイヤードの冷めた部分が、スコットの言葉に同意する。
自分は愚かだ。自分の取った方法は単なるエゴでしかない。自分の身勝手がキャスをより一層難しい立場へと追いやっていると、心のどこかで自覚していた。しかし――
「……守りたかったんだ」
「は?何を馬鹿な事を――」
「わかってるさ!愚かな真似だとな!だけどな、考えてみろ。今、キャスを宿舎に入れたらどうなるか。二番隊の奴らはわかってくれるだろう。訓練で実力を見ているからな。だが、他の隊の奴らは違う。そんな人間が彼女にどんな言葉をぶつけるかと思うと――。耐えられなかった。俺の我儘で彼女が傷つくなんて」
「それも、我儘でしょう」
「……わかってる」
はーっと大きく吐かれた溜息で緊張が一気に緩む。スコットを包んでいた怒りのオーラは最早消え、憐れむような眼差しがレイヤードを向けられていた。スコットはもう一度溜息を吐くと、心底呆れた口調で語りかける。
「馬鹿ですね、殿下」
「ぐっ」
「まったく……。政では向かう所敵なしの貴方が、色事になるとこうも弱いとは」
「五月蝿い……」
「まあ、そんなだから落ち着いていられるんですけど……。あ、言っておきますけど、殿下。妹に手を出したら承知しませんから」
「何を今更……」
「ははっ。そう言えばそうですね」
天使の如く純粋な笑顔を浮かべながら、悪魔も真っ青になりそうな殺気を発する。狂愛、とも呼ぶべきその感情に、レイヤードは眼前の男と自分がどこか似ていることを認めざるを得なかった。彼女には人を狂わせる何かが備わっているのかもしれない。
「で。どうする気なんです。中途半端な状態をこのまま続けるなら、本気であの子をもらって帰りますよ」
スコットの本気を感じ、レイヤードは慌てる。
スコットが一度何かを決意した場合、それを撤回させるのは非常に難しい。唯一無二の王命ですら覆し、自分の意志を貫く。それがこの男、スコット・リディア=アークフォールドだ。味方につければ頼もしいことこの上ないが、敵に回すとこれ以上厄介な人間はいない。
レイヤードは心中で盛大に舌打ちをした。答えを欲するペリドットの双眸が痛い。
「久々に御前試合を開いてはどうです?」
レイヤードに助け船を出してきたのは、今まで沈黙を守ってきたアルフレッドだった。
「御前試合?」
「ええ。キャスの実力を知らしめるにはうってつけでしょう?それとも、キャスのレベルじゃ負けますか、団長?」
「いや、魔術が使えるなら優勝も狙えるでしょう。少なくとも二番隊では最強だろうね」
「ですって。警備上の面から提案するのを止めていたんですけど、このままだとレイの評判も落ちてきますし。少しぐらいリスクをしょっても良いかなと」
確かに城内の情勢が不安定な中、御前試合でレイヤードの姿を晒すのは危険性が高い。しかし一方で、この状況を放置すれば臣下の心が彼から離れていくことは必至である。二つを天秤にかけた時どちらにメリットがあるかは――、言わずもがなである。
「流石、我が義弟。妻に似て賢いね。……で、馬鹿王子」
「義兄上……、さり気なく惚気ないでください……」
「馬鹿は余計だ」
隙あらば惚気るスコットに、三人は小さくため息を吐いた。万年新婚気分でいるのなら、そろそろキャス好きも卒業してもらいたいものだ。
しかしスコットは三人の思惑をしっかりと無視し、レイヤードにその意志を問う。
「やる気はおありで?」
「彼女のためなら」
ふっと、スコットが苦笑を漏らす。
「そういう所は思い切りが良いのに」
憮然とした面持ちで目を逸らす姿を見て、スコットは尚も笑う。
「拗ねないでください。そんなだから、まだ僕に子供扱いされるんですよ。……はい、これ」
袖口から取り出した紙切れをすっと机に滑らせる。レイヤードはひったくるように受取り、内容を確かめた。
「はっきりとは掴めてませんが、向こうも水面下で動いているようです。もしかしたら御前試合には何か仕掛けてくるかもしれません」
「わかった。注意する」
「くれぐれもキャスに怪我させないでくださいね」
そう言い置いて、スコットは立ち去った。入れ替わりでキャサリンが入室するかと思いきや、なかなか扉は開かれない。
気になって廊下の方へ意識を向ければ、何か二人で話している気配がする。別に隠し事をしているわけではなさそうだが、執務室の造りが頑丈なせいか、はっきりと会話は聞き取れなかった。
「兄さん、大好きー!」
何が起きたのか、突如興奮したキャサリンの声が分厚い扉を突き抜けた。全幅の信頼と親愛の情が乗せられたその言葉に、レイヤードは歯噛みする。
「スコットになりたい……」
((それはないだろ!))
ちょっと危ない独り言に家臣二人がドン引きするのには気付かず、レイヤードは思い人の実兄に嫉妬して切ない溜息を漏らすのだった。