3:甘いワナ
居づらい。
どうにも居た堪れなくて、本日何度めかの溜息を吐いた。
「そんなに溜息を吐くな。辛気臭い」
どの口が言うか。
「レイ。私は近衛騎士なんだけど」
「ああ、ちょっと前に聞いたばかりだが」
「でね、普通勤務中の騎士は周囲を警戒したり、不審者の有無を探ったりするものよね」
「まあ、そうだろうな」
「まかり間違っても、ソファにゆったり腰かけてお茶を飲んでたりはしないと思うの」
「ふーん、そんなもんなのか」
「うん、そうよ」
「で、何か不満でもあるのか?」
「あるに決まってるでしょうが!」
勤務中の騎士がソファでお茶を飲みながら寛ぐ。そんなあり得ない状況に私はおかれていた。同僚が見たら嫌みの嵐、上司が見たら叱責間違いなしの光景である。
ただ言い訳をさせて欲しい。サボろうとか怠けようとか、私は決して考えていない。全ての元凶はこの男、レイヤード・イル・アリアス=ローディア王太子になのだから。
話は今から一時間程前に遡る――
「キャス」
「何?」
「それ、どうにかならないか?」
「それって?」
「その体勢だよ」
扉の横にじっと立ち、来訪者を見張る。廊下の内と外という違いに目を瞑れば、至極真っ当な――場所が違う時点で真っ当とは言えない気もするが――近衛の務めであった。文句を付けられる謂れはない。
「ならない」
「……そうか」
ものすごく不満そうな顔をしながら、レイは再び視線を書類に戻した。
書類を捲る音、ペンの動く音、王太子印が机に当たる音。一定のリズムが静かな部屋に響き渡る。
しかしそのリズムもすぐに止まり、再びレイがこちらを見上げる。
「なあ、キャス。立ってると疲れるだろう。そのソファに座らないか」
「結構です。慣れてるし」
馬鹿を言うんじゃない。
「正直、そこに立っていられると、ずっと見られているようで落ち着かない」
「しかも見ているの、キャスだしな」
意味のわからない茶々を入れたアルに、王太子印が飛んだ。こら、貴重な国璽を粗末にするな。
「レイ、ちゃんと仕事しなさいって言ったよね」
仏の顔も三度までよ、とにこやかに告げると、レイは不承不承書類に目を戻す。まだ納得していないようなので、私は安心させようと口を開いた。
「安心して頂戴。私はレイなんか見ていないから」
かたんという乾いた音がする。それはレイの手からペンが滑り落ちる音であった。
「見て……ない…………?」
「うん。だから、気にしなくて良いよ」
「…………いや、それは……」
彼の希望通りの対応をしたはずなのに、何故頭を抱えられるのだろうか。そういえば先程も頭を抱えていたし、慢性的な頭痛持ちなのかもしれない。肩凝りが酷いと頭痛が起きるとも聞くし。そうでなくとも、日々命を狙われる王子家業だ。頭痛の種は尽きないのだろう。
私は彼を少しでも安心させようと、万全な警備体制について説明することにした。
「そんなに頭を抱えないでよ、レイ。パッと見、護衛が一人で心許ないかもしれないけど、ちゃんと対策はしてあるから!」
「は?」
「これでも私、二級魔術師だからねー。ちゃんとこの執務室には対魔術結界が張ってあるのよ。しかも私オリジナルの術式だからそう簡単に解けないし、物理的な侵入のアラーム機能も付いてるから不審者対策もばっちり。ここに待機してる間はずっとそれを視てるから、レイを傷つけるような輩は絶対入れさせないわ!」
「いや、俺はそんなことを心配なんて……、視てる?……もしかして、俺を見てないって言うのは……」
「結界の方に意識が向いてるってことだけど?」
まあ、物理的に見えてないわけではないので、何か動きがあれば気づきますけど。結界を潜り抜ける人間がゼロとは言い切れないのに、室内の警戒をがら空き状態にするほど、馬鹿ではないですけど。
今度は酷く脱力した風に机に突っ伏された。無理に働かせ過ぎたか。
「あー。やっぱり調子狂うわー」
「あ、やっぱり急に仕事が増えるのはきつい?」
「?……ああ、そういうことじゃない。あのな、キャス。お前は俺をサボり魔みたいに言うけどな、これでもずっと政務をこなしてきた人間なんだぜ。これくらい慣れている」
言われてみれば。修行に隣国まで行っていた時でも、レイの働きの幾つかは耳に入ってきていた。親を亡くした子達のために孤児院を増設したり、災害地に自ら赴いてその復興を全力でサポートしたり、病に倒れた国王に代わって各国と交渉し成功を収めたり。即位したら賢王と名を馳せること間違いなしと、周りの人が噂するのを誇らしく思って聞いていた覚えがある。
では何故――
しかし私の疑問が形になる前に、レイが口を開いた。
「キャス、ソファに座れ。結界を視ているなら立っている必要はないだろう?」
「えー。私にも体面ってものがあるし……」
「王太子命令だ」
「なっ!酷いっ!権力濫用!横暴ー!」
「黙って座ってろ!仕事の邪魔だ!」
私の文句にレイが耳を貸す訳がなく、それに戯れとは言え“王太子命令”は騎士にとって絶対で、私は不承不承レイの目の前におかれたソファに座る。
するとタイミングを見計らったかのように、香り高い紅茶が供された。驚いて顔を上げると、全てを見透かしたような笑みを浮かべてアルが立っていた。そして、その手には――
「これ、リリィさんの所のシフォンケーキ」
ぴくぅっ。
リリィさんとは、レイ達とお忍びで街に行った時愛用したお菓子屋の女主人である。リリィさんの淹れるカフェオレが大好きで、セットの飲み物はいつもカフェオレだった。そして、カフェオレ以上に絶品だったのが、このシフォンケーキである。
甘過ぎず、だからと言って味が薄いわけでもない絶妙なバランス。口に入れた途端、ふわっと素材の旨みが広がるあのスポンジ。シフォンの味を何倍にも高めるブルーベリージャム。貶すところは何もない、完成されたお菓子。それがリリィさんのシフォンケーキなのである。
「キャス、好きだったよね」
首が千切れんばかりに頷く。修業中に何度も夢に出てきたぐらい、大好物ですとも!
「食べる?」
食べて良いのなら、喜んで!
「なら、座ってゆっくりと」
ありがとうございます!
シフォンケーキの魔力に憑かれた私が、正気を取り戻すまで数十分の時間を要したのは、不可抗力だと信じて疑わない。
「大体、お前が勝手に一人ティータイムに入ったんだろうが」
「あれは罠よ!不可抗力よ!リリィさんの所のシフォンケーキ、美味しいんだもん」
目の前にあるのに食べないなんて罰が当たる!それぐらいリリィさんのシフォンケーキは美味しいのだ。
「それに結界張ってるなら、立ってようが座ってようが同じだろうが。外回りの騎士は別にいるんだし」
それはその通りだけれど、それはそれ、これはこれ。私にも体面ってものがある。
抗議の意味を籠め、私はそっぽを向いた。
「相変わらず頑固だねぇ、キャス。……もっと視野を広くしないと、大事なことを見落とすよ」
アルのいつもの軽口か――。
そう思ったのに、何故かその言葉が心のどこかに引っかかった。しかし、そんなことはおくびにも出さない。
「ご忠告どうも」
全然聞いてないと苦笑される。真面目に言ってるになあとぼやくが、その声はどこか楽しんでる風で、いつものアルだとほっとした。
「まあ、いいや。つまりキャスは、ソファに座っている“正当な理由”があれば良いんだね」
「う……、そういうことに……なるのかしら?」
アルは首を横に動かし、私からレイへと視線を移す。
「で、レイは自分の視界にキャスがいてくれれば良いと」
「なっ!そういう意味じゃなくて、単に落ち着かないというか、その……」
「反論は不要」
「ぐっ……」
その時、私は悟った。自分がとんでもない失言をしたことに。
何故ならアルは、最上級の、そして長い付き合いの人間にしかわからない最凶の笑みを浮かべていたのだから。
「それじゃあ、簡単だね」
蛇に睨まれた蛙ってこんな気分なんだろうなと、現実逃避した自分を誰が責められるだろうか。
なかなか話が進みません……。