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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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9/19

第9話 終電の向こう側


その日の夕方。

かなえのデスクに、営業二課から社内チャットが飛び込んできた。


『結城さん!△△案件、承認おりました!』

『ほんと助かりました!ありがとうございます!!』


続けて別のスレッドでも通知が鳴る。

他部署の担当からも「助かった」「お疲れさま」が重なる。


——久しぶりに、数字が“片付いた”日だった。


かなえは肩の力を抜く。

胸の奥の硬さが、ほんの少しだけほどけていく。


(やっと終わった)

(……今日は胃が、少しだけ静か)


給湯室でコーヒーを淹れ、戻ろうとしたところで、背後から低い声が落ちた。


「結城さん」


振り向く前から分かる。

相沢玲央の声。


かなえは顔だけ向けた。


「……相沢さん。何か?」


玲央はいつもの“会社の後輩”の距離で立っている。

けれど、目だけが妙に近い。


「今日、一区切りついたって聞いた」

「△△案件。……お疲れさまでした」


「……ありがとうございます」


業務の礼。

それだけのはずなのに、胸がざわつく。

昨夜のことが、体のどこかにまだ残っている。


玲央が少しだけ迷う顔をした。

それから、言い方を整えるみたいに言う。


「よかったら、今日」

「お疲れ様会、しません?」

軽い調子で、でも逃げ道を残す。

「短時間で。終電まででいい」


終電まで。


その単語に胃がきゅっと縮むのに、同時に少し安心する。

ルールの範囲。仕事の延長。そう言い訳できる。


かなえは、先に釘を刺した。


「……終電まで、ですよ」


「うん」

玲央は素直に頷く。

その頷きが、妙に嬉しそうで腹が立つ。


(なんでそんな顔するの)


かなえは視線を逸らし、いちばん安全な返事を選んだ。


「……いいです。今日くらいなら」


玲央の目尻が、ほんの少しくしゃっとなる。


「ありがとう、結城さん」


その笑い方が、胸の奥に残って離れなかった。



店は、駅から少し外れた小さな居酒屋だった。

騒がしすぎない。暗すぎない。

半個室の席に通されると、ようやく息がしやすくなる。


「今日は飲んでいい日だよね」


玲央がメニューを開きながら言う。


「結城さん、何にする?」


“飲んでいい日”。

その言葉が、仕事を褒められるより刺さった。


かなえはわざと淡々と言った。


「……ビールで」


玲央が一瞬だけ目を見開いて、それから笑う。


「珍しい」

でもすぐに真面目な顔に戻る。

「無理しないで。水も挟んで」


面倒くさいくらい丁寧だ。

丁寧なのに押しつけじゃないのが、いちばんずるい。


玲央もビールを頼んだ。

グラスが運ばれてきて、小さく乾杯する。


「お疲れさまでした」


「……お疲れさまです」


ビールの苦さが喉を冷やして、頭の中の余計な考えが少し薄まる。

つまみが届き、会話は自然に仕事の話へ転がる。


今期の数字。

二課の動き。

かなえの部署に飛んでくる「これで合ってます?」の嵐。


かなえが軽く愚痴をこぼすと、玲央は箸を止めて苦笑した。


「……ごめん。あれ、正直、投げすぎてる」

「二課の出し方、変える」


かなえは眉を上げた。


「急にまともですね」


「今さら、まともになる」

玲央はさらっと言って、続ける。

「締切、前倒しにする。で、一次集計は二課でやる」

「結城さんのとこに“生”の数字投げて、差分探させてるの、さすがに良くない」


かなえは息を吐いた。


「……それ、二課が死にません?」


「死なない」

言い切ってから、玲央はほんの少しだけ笑う。

「たぶん。……俺が落ち着く」


落ち着く。

またその言葉。


(なんでそこで自分が落ち着くの)


かなえが眉をひそめたのが分かったのか、玲央はわざと軽い調子にした。


「だってさ」

箸で小鉢をつつきながら、平然と。

「残業減ったら、俺との時間、もうちょっと作ってもらえるでしょ」


一瞬、音が消えた。


「……は?」


かなえの声が低くなる。


玲央はしまったみたいに肩をすくめた。

でも目は笑ってない。逃げない。


「冗談」

すぐ付け足す。

「……半分」


半分。

その言い方が、いちばんずるい。


「結城さん、余裕なくなると胃に来るし」

玲央は何でもない顔で言う。

「余裕があった方が、いいでしょ。……俺も」


“俺も”。


当然みたいに席を作る。

それが、静かに囲ってくる。


かなえはビールを一口飲んだ。

喉が冷えるのに、胃の奥が熱くなる。


(善意のふりして)

(……囲ってきてる)


言葉にしたら現実になる気がして、かなえは強がりだけを置いた。


「……仕事の話に戻してください」


玲央は少しだけ嬉しそうに笑った。

目尻が、ほんの少しくしゃっとなる。


「はい、結城さん」



二杯目。

玲央も同じくらいのペースで飲む。


笑う回数が少し増える。

声が少しだけ柔らかくなる。

その変化が、かなえを油断させる。


「結城さんって、家でもちゃんとしてそう」


玲央が何でもないみたいに言った。


「……また勝手に決めてますね」


「当たってる気がする」

玲央は笑う。

「一人で回して、平気な顔して。……でも本当はしんどい」


かなえの箸が止まった。


(やめて)

(見ないで)


見抜かれるのが怖い。

でも見抜かれた瞬間だけ、息がしやすくなるのも悔しい。


かなえは話を逸らすように言った。


「相沢さんの方が、社交的で余裕ありそうですけど」


玲央はグラスを見つめて、小さく息を吐いた。


「そう見えるだけ」

それから、ほんの少しだけ間を置く。

「一人になると、急に落ち着かなくなる」


落ち着かなくなる。


その言葉が、胸の奥をざわつかせる。


玲央が続けた。


「だから、結城さんといると楽」

「落ち着く」


恋じゃない顔をして、恋より厄介なことを言う。


かなえは強がりで返す。


「……それ、私じゃなくて誰でもいいんじゃないですか」


玲央は一瞬だけ目を瞬かせた。

それから、笑わないまま言う。


「誰でもよくない」

短く。

「……結城さんがいい」


好き、と言わない。

恋人、と言わない。

でも、言葉の座り方だけが重い。


かなえはビールを飲んで誤魔化した。

苦い。冷たい。胃が痛い。



時計を見る。

終電までは、まだ少しある。


——余裕があるのがいちばん危ない。


店を出ると、夜風が頬に刺さった。

アルコールの熱が体に残っていて、冷たい空気が現実を連れてくる。


玲央が言った。


「少し歩かない?」

「駅まで、遠回りで」


遠回り。

帰らない言い訳に聞こえて胃が痛む。


「……終電までですよ」


かなえが念押しすると、玲央はすぐ頷いた。


「うん。分かってる」

それから、少しだけ声が柔らかくなる。

「でも、今日くらい……もうちょいだけ」


“もうちょいだけ”。


お願い、と言わないのに、同じ形をしている。

かなえはその形に弱い。


歩く。

二人の足音が同じテンポで響く。

玲央はいつも通り歩幅を合わせる。

人が近づくと、自然に外側へ寄る。


その“気遣い”が、今夜は全部、囲い込みに見えてしまう。


駅が見えてくる。

改札。

終わる場所。


かなえがほっとしかけた、そのとき。


玲央が急に立ち止まった。


「……結城さん」


人の流れが少し途切れた瞬間。

二人の周りだけ、薄い膜が張れたみたいに静かになる。


「……何ですか」


玲央は一瞬迷う顔をした。

それから、諦めたみたいに言う。


「抱きしめていい?」

「今、ちょっと……落ち着きたい」


落ち着きたい。


恋じゃない顔をした言葉。

なのに、独占の匂いがする。


かなえは喉が詰まった。

断ればいいのに、断れない。


「……ここ、駅前です」


「分かってる」

玲央は小さく笑う。

「だから、ほんとに一瞬」


“一瞬”を積み上げて、いつの間にか逃げ道を塞ぐやつ。


かなえは負けた声で言った。


「……ほんとに、短くしてください」


玲央が一歩近づく。

触れる前に、呼吸が重なる。


それから、ぎゅっと。


強くない。

痛くない。

でも、逃げられない密度。


かなえの額に、玲央の顎が軽く当たる。

次に、頭がすり、と動く。


——すりすり。


甘えるみたいに、隙あらば印をつけるみたいに。


かなえは息を止めた。


「……何してるんですか」


玲央は離さないまま、小さく笑った。


「ごめん」

でも、やめない。

「……落ち着く」


その言い方があまりに自然で、かなえの胃がきゅっと鳴る。


「……癖ですか」


「うん」

玲央は正直に頷いて、さらにとんでもないことを言った。

「実家の猫に、こうやってた」

「嫌なことあると、顔うずめて……それで落ち着いた」


猫。


かなえの胸が、ざらっとする。


(……なにそれ)

(私、代わり?)


かなえは強がりで刺した。


「……じゃあ、私も猫の代わりなんですね」


玲央の動きが止まった。

一瞬だけ、腕の力が弱まる。


でも、離さない。


「代わりじゃない」

玲央の声が少し低くなる。

「……似てるって言ったの、良くなかった。ごめん」


謝るのがずるい。

謝られると、許すしかなくなる。


「結城さん、あったかい」

玲央は小さく息を吐く。

「……ここにいると、変に落ち着く」

「俺、たぶん今、帰したら落ち着かない」


帰したら落ち着かない。


それはもう、恋じゃなくても十分に怖い。


かなえは玲央の胸を軽く押した。


「……終電」


玲央はやっと離れた。

離れた瞬間、かなえの皮膚が寒い。


でも玲央は、すぐに言う。


「分かってる」

「だから、提案」

言い方だけが落ち着いている。

「少しだけ、うち寄って」

「水飲んで、落ち着かせて。……それで駅まで送る」


うち。


その単語で胃が痛む。

痛むのに、さっきの腕の熱がもう恋しいのが最悪だった。


「……だめです」


かなえは反射で言った。


玲央は頷く。

引く素振りをする。


「うん。じゃあ帰す」


でも、次の一言がずるい。


「……今のまま帰ったら、結城さんも胃痛くなるでしょ」

「俺、今日、結城さんの顔見て落ち着いたのに」

「……そのまま終わるの、嫌」


嫌。

わがままの形をしていて、妙に刺さる。


かなえは息を吐いて、負けた。


「……水だけです」

「ほんとに、少しだけ」


玲央の目尻が、くしゃっとなる。


「うん。すぐ戻す」


“戻す”。


その言い方が、優しいふりをした所有に聞こえて、また胃が痛いのに。

かなえはもう戻れなかった。



玲央の部屋は、前より静かだった。

前に来たのは、あれが“事故”だった夜。

その記憶が、靴を脱ぐだけで戻ってくる。


「……座って」


玲央が水を出す。

かなえはソファの端に座って、コップを受け取った。


冷たい水が喉を通る。

少しだけ落ち着く。

落ち着いた分だけ、現実が重くなる。


時計を見る。

終電まで、まだ……少し。


「……送るって言いましたよね」


かなえが言うと、玲央は頷いた。


「言った」

でもその声が、やけに柔らかい。

「……あと一分だけ」


また一分。


かなえが立ち上がろうとすると、玲央が手を伸ばした。

掴まない。

触れる寸前で止める。

許可を待つみたいに。


「……ねえ」

玲央は小さく言う。

「さっき、猫の代わりって言われたの、刺さった」

困ったように笑う。

「俺、そういうつもりじゃなくて」


「じゃあ、どういうつもりなんですか」


かなえの声が少し尖る。

尖らせないと、泣きそうになる。


玲央は少しだけ黙って、言葉を探した。


「……安心する」

「それだけ」

言い訳みたいに言うのに、目は真剣だ。

「恋とか、そういうのじゃなくて」

「結城さんがここにいると、体が勝手に落ち着く」


体が勝手に。


無自覚の言い方が、いちばん怖い。


かなえは立ち上がる。

逃げたい。

終電までの盾を守りたい。


「……帰ります」


言い切った瞬間、玲央の腕がかなえの腰に回った。

強くない。

でも、逃げる方向だけを塞ぐ。


「帰さないって言ったら?」


息が止まる。


「……それ、ルール違反です」


玲央は困ったみたいに笑って、でも笑いを引っ込めた。


「分かってる」

「分かってるのに……」

その声が少しだけ低くなる。

「今、離すの無理」


無理。


恋じゃない言葉で、恋より強いことを言う。


「……お願い」

玲央はさっきより静かに言った。

「少しだけ、こうしてたい」

「抱きしめて、落ち着きたい」

「……それで、ちゃんと送る」


ちゃんと送る。

その言葉が逆に嘘くさく聞こえて、胃が痛い。


かなえは抵抗する代わりに、刺す。


「……猫みたいにですか」


玲央が一瞬目を見開く。


「違う」

すぐ言う。

「……猫より、ずっと厄介」

言った自分に驚いたみたいに、少しだけ息を吐く。

「ごめん。今の、言い方変だった」


変だ。

変に決まってる。


でも玲央は、かなえの頭に額を寄せた。

そして、また——すり、と動く。


頬が触れて、髪に息が落ちる。

短いマーキングのくせに、体が思い出す。


(だめ)

(これ、だめなやつ)


かなえは小さく声を漏らした。


「……やめて」


玲央は止まらない。

止まれない顔をしている。

それが怖いのに、どこか嬉しいのが最悪だ。


「やめない」

玲央は一度言って、すぐ言い直す。

「……やめたくない」

それから、逃げ道みたいに続ける。

「結城さんが本気で嫌なら、やめる」


ずるい。

本気で嫌って言わせる形にするのがずるい。


玲央の指先が、かなえの背中を撫でた。

服の上からなのに、熱が伝わる。

肩、首筋、髪の生え際。

“落ち着く”と言いながら、探しているみたいに触れてくる。


かなえの胃が痛い。

胸が熱い。

体だけが先に反応する。


「……触らないで」


拒む言葉と反対に、かなえの指が玲央のシャツを掴んでしまう。

止めたいのに、止められない。


玲央の呼吸が、少し乱れた。


「……触らない」

玲央は一度言った。

でも次の瞬間、声が崩れる。

「……無理」

小さく、子どもみたいに。

「結城さん、ちょっとだけ……」


ちょっとだけ。

一瞬だけ。

一分だけ。

そうやって境界を溶かしていく。


玲央の唇が、かなえの唇に重なった。

急じゃない。

急かさないのに、逃がさない。


触れた瞬間、身体の奥が「覚えてる」と言う。

あの夜の続き。

終電の向こう側。


かなえは息を止めて、玲央のシャツの皺を掴んだ。

拒否じゃない。止めてもいない。


(……私が悪い)

(私が、入れた)


玲央が額を寄せる。


「しんどかったら、合図して」

「強引にしたくない」

「……でも、離したくない」


“離したくない”が、恋じゃないのに甘くて怖い。


玲央の手が、背中を滑る。

服の端を探して、隙間に触れて、熱に迷って、また戻る。

その迷いが、余計に生々しい。


「……やだ」


かなえが言う。

でも声は弱い。


玲央は小さく笑って、笑いを引っ込めた。


「ごめん」

謝るのに、やめない。

「……結城さん、かわいくて腹立つ」


かわいい。

その言葉が、胸の奥を壊す。


かなえは言い返せない。

代わりに、玲央の袖を掴む。


玲央が低く言う。


「明日、後悔する?」


後悔するに決まってる。

でも、後悔するからこそ今が欲しい。


かなえは強がりのまま返した。


「……後悔します」

「だから、軽くしないでください」


玲央が一瞬だけ固まった。

それから、困ったみたいに笑って、笑いを引っ込めた。


「軽くできない」

小さく言う。

「……結城さん、今夜だけ」


今夜だけ。


いつもみたいに短い言葉で囲って、

でも、その“今夜だけ”が次を連れてくるのを、かなえはもう知っている。


その先は、言葉にしたら現実になってしまう。

かなえはそれを怖がるくせに、現実にしたくてたまらない自分もいる。


——終電の向こう側で、

かなえはまた、“事故”の言い訳を失った。


(暗転)



薄明るい光で目が覚めた。

カーテンの隙間から朝が滲んでいる。


胃が痛い。

胸も痛い。

でも、身体の奥に残っている熱が、昨夜を否定させてくれない。


寝返りを打つと、シーツが擦れる音がやけに大きい。

肌に触れる布の感触が、昨夜の余韻を連れてくる。


(……最悪)

(なのに、覚えてる)


隣を見ると、玲央が起きていた。

先に目が合う。

その瞬間、玲央の目尻がふっと緩む。


——くしゃ。


嬉しそうに笑う顔が、あまりに無防備でずるい。

謝る顔をするはずなのに、機嫌がいいのが腹立たしい。


「おはよう、結城さん」


人前用の苗字で言って、すぐ声の温度を落とすみたいに続ける。


「……おはよう、かなえさん」


二人のときだけの呼び方。

その“特別”が嬉しいはずなのに、同じくらい怖い。


かなえが起き上がろうとして、ふらっとする。

その瞬間、玲央の手が伸びた。


支えるだけ。

掴まない。

でも腰にそっと触れて——離さない。


「……大丈夫?」


「大丈夫です」


かなえが強がっても、玲央は笑ったまま頷く。


「うん。大丈夫そう」

言い方が、妙に安心している。

安心しているのが、また怖い。


かなえは視線を逸らし、言うべきことを言う。


「……終電」

「ルール、破りましたよね」


玲央の笑みが一瞬だけ小さくなる。

でも、消えない。

むしろ困ったように口角が上がる。


「うん。破った」

さらっと認めて、すぐ言う。

「ごめん」


“ごめん”なのに、声の奥が明るい。

悪びれてないというより、満たされている。


かなえが睨むと、玲央はしまったみたいに眉を下げた。


「いや、違う」

言い直すように早口になる。

「反省してる。ほんとに」

でも次の瞬間、また目尻がくしゃっとなる。

「……でも、嬉しかった」


「……最低です」


かなえが刺すと、玲央は素直に頷く。


「うん。最低」

あっさり認めたあと、ふっと笑う。

「でも、かなえさん、今すぐ“嫌”って言ってない」


喉が詰まる。

言ってない。言えない。言ったら終わるから。


玲央はそこを責めない代わりに、距離を詰める。


——すり。


頬を、かなえの髪に軽く寄せる。

短いマーキングみたいに。


「……っ、また」


「ごめん」

口では謝りながら、やめない。

「癖になった」

冗談みたいに言って、でも目は真剣だ。

「……かなえさん、落ち着く」


かなえは押し返したいのに、押し返せない。

強がりだけが口に出る。


「……猫の代わり」


玲央が一瞬だけ固まって、それから笑いを引っ込めた。


「代わりじゃない」

すぐ言う。

「猫は猫。……かなえさんは、かなえさん」


その言い方がさらっとしていて、

“恋”の重さを避けたまま、“所有”だけ残してくるのがずるい。


かなえは息を吐いて、線を引き直す。


「……会社には持ち込まない」

「詮索しない」

「私が嫌って言ったら、やめる」


玲央は頷く。

頷き方がやけに素直だ。


「うん。全部守る」

すぐ続けて、あっさり言う。

「恋人の話もしない」

「名前もつけない」


名前をつけない。

その逃げ道が、逆に固定に見えて胃が痛い。


玲央は一拍置いて、少しだけ声を落とした。


「でも、終わらせない」

目が揺れない。

「……終わらせたくない」


好き、と言わないのに、終わらせないだけは言う。


かなえは返事ができない。

できないまま目を逸らす。


すると玲央は、嬉しそうに小さく息を吐いた。


「よかった」


“よかった”って何。

その一言で、関係が決まってしまう気がして怖い。


かなえが黙っていると、玲央はまた隙を見つけたみたいに寄ってくる。


——すり。


今度は短く、軽く。

まるで「ここにいる」って印をつけるみたいに。


かなえは小さく眉を寄せた。


「……やめてって言ったら?」


玲央は笑って、でもちゃんと目を見て答える。


「やめる」

即答してから、子どもみたいに付け足す。

「……でも、できれば、やめたくない」


その言い方で、かなえの心が少しだけほどけるのが悔しい。


(だめなのに)

(……絆されてる)


玲央は立ち上がって、スマホを手に取った。

仕事に戻る準備の動きなのに、機嫌だけはずっと良い。


「タクシー、呼ぶ」


かなえは反射で眉をひそめる。


「……大丈夫です。歩けます」


「だめ」

玲央は即答した。

きつい言い方なのに、声は柔らかい。

「今ふらってした」

「……俺が嫌」


“俺が嫌”。


優しさの顔で囲い込んでくる。

無自覚なのが、いちばんたちが悪い。


かなえは強がって言う。


「……過保護です」


玲央は目尻をくしゃっとさせた。


「うん。過保護」

開き直りみたいに言って、画面を操作する。

「かけるよ。すぐ来る」


かけるよ。


その一言が妙にジェントルで、妙に当然で、

“君は大事にされていい”って扱いに聞こえてしまう。


玄関で靴を履くと、玲央が先にドアを開ける。

手を出して支えようとするけれど、掴まない。

触れる寸前で止めて、許可を待つみたいに立っている。


「……歩けます」


かなえが言うと、玲央は小さく笑った。


「うん。歩ける」

でも視線が足元に落ちる。

「……でも、歩かせたくない」


エントランスに着くころ、タクシーが滑り込んできた。

玲央が運転手に行先を告げ、ドアを押さえる。


「乗って」


命令じゃない言い方。

でも断れない言い方。


かなえが乗り込むと、玲央は一瞬だけ屈んで、顔を覗き込んだ。

目尻がくしゃっとなる。


「着いたら、一言」

「……返事いらない。俺が落ち着く」


また落ち着く。


かなえは腹が立つはずなのに、

その腹立たしさの底に、変な安心が沈んでいる。


「……分かりました」


言った瞬間、玲央が嬉しそうに笑った。


そして、最後に。


——すり。


額を軽く寄せるだけ。

短い、ずるいマーキング。


「行ってらっしゃい、かなえさん」


ドアが閉まって、タクシーが動き出す。


窓越しに見える玲央は、ずっと機嫌がいいままだった。


かなえはシートにもたれて、目を閉じる。


胃が痛い。

胸が熱い。

身体が、まだ昨夜に引っ張られている。


——この関係は、言葉じゃない。

安心とか落ち着くとか、便利な言い方をしているだけで、

結局、触れられた瞬間に全部がほどけてしまう。


それが、いちばん怖い。


スマホが震えた。

営業二課の水野美緒から。


『結城さん!おはようございます〜!』

『今日、若手でランチ行くんですけど、結城さんもどうですか?』

『相沢さんも来るらしくて!』


心臓が、嫌な音を立てた。


(職場に持ち込まない)

(……持ち込んでないのに)


胸の奥に熱が残っているせいで、

“来るらしい”の一言が、胃をえぐる。


かなえは画面を見たまま固まった。

返事ができない。


次に、玲央から通知。


『着いたら一言、待ってる』

『……無理するなよ』


無理するなよ。

優しいふり。


でも、その優しさがいちばん逃げ場をなくす。


かなえは息を止めた。


(……終わらせない)

(終わらせないまま、職場で同じ顔をする)


その想像だけで、胃が痛い。


タクシーの窓の外で、朝の光が流れていく。

かなえは指先で短く打った。


『着きました』


送信。


既読がつくのが早い。


——速すぎて、怖かった。


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