第9話 終電の向こう側
その日の夕方。
かなえのデスクに、営業二課から社内チャットが飛び込んできた。
『結城さん!△△案件、承認おりました!』
『ほんと助かりました!ありがとうございます!!』
続けて別のスレッドでも通知が鳴る。
他部署の担当からも「助かった」「お疲れさま」が重なる。
——久しぶりに、数字が“片付いた”日だった。
かなえは肩の力を抜く。
胸の奥の硬さが、ほんの少しだけほどけていく。
(やっと終わった)
(……今日は胃が、少しだけ静か)
給湯室でコーヒーを淹れ、戻ろうとしたところで、背後から低い声が落ちた。
「結城さん」
振り向く前から分かる。
相沢玲央の声。
かなえは顔だけ向けた。
「……相沢さん。何か?」
玲央はいつもの“会社の後輩”の距離で立っている。
けれど、目だけが妙に近い。
「今日、一区切りついたって聞いた」
「△△案件。……お疲れさまでした」
「……ありがとうございます」
業務の礼。
それだけのはずなのに、胸がざわつく。
昨夜のことが、体のどこかにまだ残っている。
玲央が少しだけ迷う顔をした。
それから、言い方を整えるみたいに言う。
「よかったら、今日」
「お疲れ様会、しません?」
軽い調子で、でも逃げ道を残す。
「短時間で。終電まででいい」
終電まで。
その単語に胃がきゅっと縮むのに、同時に少し安心する。
ルールの範囲。仕事の延長。そう言い訳できる。
かなえは、先に釘を刺した。
「……終電まで、ですよ」
「うん」
玲央は素直に頷く。
その頷きが、妙に嬉しそうで腹が立つ。
(なんでそんな顔するの)
かなえは視線を逸らし、いちばん安全な返事を選んだ。
「……いいです。今日くらいなら」
玲央の目尻が、ほんの少しくしゃっとなる。
「ありがとう、結城さん」
その笑い方が、胸の奥に残って離れなかった。
◇
店は、駅から少し外れた小さな居酒屋だった。
騒がしすぎない。暗すぎない。
半個室の席に通されると、ようやく息がしやすくなる。
「今日は飲んでいい日だよね」
玲央がメニューを開きながら言う。
「結城さん、何にする?」
“飲んでいい日”。
その言葉が、仕事を褒められるより刺さった。
かなえはわざと淡々と言った。
「……ビールで」
玲央が一瞬だけ目を見開いて、それから笑う。
「珍しい」
でもすぐに真面目な顔に戻る。
「無理しないで。水も挟んで」
面倒くさいくらい丁寧だ。
丁寧なのに押しつけじゃないのが、いちばんずるい。
玲央もビールを頼んだ。
グラスが運ばれてきて、小さく乾杯する。
「お疲れさまでした」
「……お疲れさまです」
ビールの苦さが喉を冷やして、頭の中の余計な考えが少し薄まる。
つまみが届き、会話は自然に仕事の話へ転がる。
今期の数字。
二課の動き。
かなえの部署に飛んでくる「これで合ってます?」の嵐。
かなえが軽く愚痴をこぼすと、玲央は箸を止めて苦笑した。
「……ごめん。あれ、正直、投げすぎてる」
「二課の出し方、変える」
かなえは眉を上げた。
「急にまともですね」
「今さら、まともになる」
玲央はさらっと言って、続ける。
「締切、前倒しにする。で、一次集計は二課でやる」
「結城さんのとこに“生”の数字投げて、差分探させてるの、さすがに良くない」
かなえは息を吐いた。
「……それ、二課が死にません?」
「死なない」
言い切ってから、玲央はほんの少しだけ笑う。
「たぶん。……俺が落ち着く」
落ち着く。
またその言葉。
(なんでそこで自分が落ち着くの)
かなえが眉をひそめたのが分かったのか、玲央はわざと軽い調子にした。
「だってさ」
箸で小鉢をつつきながら、平然と。
「残業減ったら、俺との時間、もうちょっと作ってもらえるでしょ」
一瞬、音が消えた。
「……は?」
かなえの声が低くなる。
玲央はしまったみたいに肩をすくめた。
でも目は笑ってない。逃げない。
「冗談」
すぐ付け足す。
「……半分」
半分。
その言い方が、いちばんずるい。
「結城さん、余裕なくなると胃に来るし」
玲央は何でもない顔で言う。
「余裕があった方が、いいでしょ。……俺も」
“俺も”。
当然みたいに席を作る。
それが、静かに囲ってくる。
かなえはビールを一口飲んだ。
喉が冷えるのに、胃の奥が熱くなる。
(善意のふりして)
(……囲ってきてる)
言葉にしたら現実になる気がして、かなえは強がりだけを置いた。
「……仕事の話に戻してください」
玲央は少しだけ嬉しそうに笑った。
目尻が、ほんの少しくしゃっとなる。
「はい、結城さん」
◇
二杯目。
玲央も同じくらいのペースで飲む。
笑う回数が少し増える。
声が少しだけ柔らかくなる。
その変化が、かなえを油断させる。
「結城さんって、家でもちゃんとしてそう」
玲央が何でもないみたいに言った。
「……また勝手に決めてますね」
「当たってる気がする」
玲央は笑う。
「一人で回して、平気な顔して。……でも本当はしんどい」
かなえの箸が止まった。
(やめて)
(見ないで)
見抜かれるのが怖い。
でも見抜かれた瞬間だけ、息がしやすくなるのも悔しい。
かなえは話を逸らすように言った。
「相沢さんの方が、社交的で余裕ありそうですけど」
玲央はグラスを見つめて、小さく息を吐いた。
「そう見えるだけ」
それから、ほんの少しだけ間を置く。
「一人になると、急に落ち着かなくなる」
落ち着かなくなる。
その言葉が、胸の奥をざわつかせる。
玲央が続けた。
「だから、結城さんといると楽」
「落ち着く」
恋じゃない顔をして、恋より厄介なことを言う。
かなえは強がりで返す。
「……それ、私じゃなくて誰でもいいんじゃないですか」
玲央は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、笑わないまま言う。
「誰でもよくない」
短く。
「……結城さんがいい」
好き、と言わない。
恋人、と言わない。
でも、言葉の座り方だけが重い。
かなえはビールを飲んで誤魔化した。
苦い。冷たい。胃が痛い。
◇
時計を見る。
終電までは、まだ少しある。
——余裕があるのがいちばん危ない。
店を出ると、夜風が頬に刺さった。
アルコールの熱が体に残っていて、冷たい空気が現実を連れてくる。
玲央が言った。
「少し歩かない?」
「駅まで、遠回りで」
遠回り。
帰らない言い訳に聞こえて胃が痛む。
「……終電までですよ」
かなえが念押しすると、玲央はすぐ頷いた。
「うん。分かってる」
それから、少しだけ声が柔らかくなる。
「でも、今日くらい……もうちょいだけ」
“もうちょいだけ”。
お願い、と言わないのに、同じ形をしている。
かなえはその形に弱い。
歩く。
二人の足音が同じテンポで響く。
玲央はいつも通り歩幅を合わせる。
人が近づくと、自然に外側へ寄る。
その“気遣い”が、今夜は全部、囲い込みに見えてしまう。
駅が見えてくる。
改札。
終わる場所。
かなえがほっとしかけた、そのとき。
玲央が急に立ち止まった。
「……結城さん」
人の流れが少し途切れた瞬間。
二人の周りだけ、薄い膜が張れたみたいに静かになる。
「……何ですか」
玲央は一瞬迷う顔をした。
それから、諦めたみたいに言う。
「抱きしめていい?」
「今、ちょっと……落ち着きたい」
落ち着きたい。
恋じゃない顔をした言葉。
なのに、独占の匂いがする。
かなえは喉が詰まった。
断ればいいのに、断れない。
「……ここ、駅前です」
「分かってる」
玲央は小さく笑う。
「だから、ほんとに一瞬」
“一瞬”を積み上げて、いつの間にか逃げ道を塞ぐやつ。
かなえは負けた声で言った。
「……ほんとに、短くしてください」
玲央が一歩近づく。
触れる前に、呼吸が重なる。
それから、ぎゅっと。
強くない。
痛くない。
でも、逃げられない密度。
かなえの額に、玲央の顎が軽く当たる。
次に、頭がすり、と動く。
——すりすり。
甘えるみたいに、隙あらば印をつけるみたいに。
かなえは息を止めた。
「……何してるんですか」
玲央は離さないまま、小さく笑った。
「ごめん」
でも、やめない。
「……落ち着く」
その言い方があまりに自然で、かなえの胃がきゅっと鳴る。
「……癖ですか」
「うん」
玲央は正直に頷いて、さらにとんでもないことを言った。
「実家の猫に、こうやってた」
「嫌なことあると、顔うずめて……それで落ち着いた」
猫。
かなえの胸が、ざらっとする。
(……なにそれ)
(私、代わり?)
かなえは強がりで刺した。
「……じゃあ、私も猫の代わりなんですね」
玲央の動きが止まった。
一瞬だけ、腕の力が弱まる。
でも、離さない。
「代わりじゃない」
玲央の声が少し低くなる。
「……似てるって言ったの、良くなかった。ごめん」
謝るのがずるい。
謝られると、許すしかなくなる。
「結城さん、あったかい」
玲央は小さく息を吐く。
「……ここにいると、変に落ち着く」
「俺、たぶん今、帰したら落ち着かない」
帰したら落ち着かない。
それはもう、恋じゃなくても十分に怖い。
かなえは玲央の胸を軽く押した。
「……終電」
玲央はやっと離れた。
離れた瞬間、かなえの皮膚が寒い。
でも玲央は、すぐに言う。
「分かってる」
「だから、提案」
言い方だけが落ち着いている。
「少しだけ、うち寄って」
「水飲んで、落ち着かせて。……それで駅まで送る」
うち。
その単語で胃が痛む。
痛むのに、さっきの腕の熱がもう恋しいのが最悪だった。
「……だめです」
かなえは反射で言った。
玲央は頷く。
引く素振りをする。
「うん。じゃあ帰す」
でも、次の一言がずるい。
「……今のまま帰ったら、結城さんも胃痛くなるでしょ」
「俺、今日、結城さんの顔見て落ち着いたのに」
「……そのまま終わるの、嫌」
嫌。
わがままの形をしていて、妙に刺さる。
かなえは息を吐いて、負けた。
「……水だけです」
「ほんとに、少しだけ」
玲央の目尻が、くしゃっとなる。
「うん。すぐ戻す」
“戻す”。
その言い方が、優しいふりをした所有に聞こえて、また胃が痛いのに。
かなえはもう戻れなかった。
◇
玲央の部屋は、前より静かだった。
前に来たのは、あれが“事故”だった夜。
その記憶が、靴を脱ぐだけで戻ってくる。
「……座って」
玲央が水を出す。
かなえはソファの端に座って、コップを受け取った。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ落ち着く。
落ち着いた分だけ、現実が重くなる。
時計を見る。
終電まで、まだ……少し。
「……送るって言いましたよね」
かなえが言うと、玲央は頷いた。
「言った」
でもその声が、やけに柔らかい。
「……あと一分だけ」
また一分。
かなえが立ち上がろうとすると、玲央が手を伸ばした。
掴まない。
触れる寸前で止める。
許可を待つみたいに。
「……ねえ」
玲央は小さく言う。
「さっき、猫の代わりって言われたの、刺さった」
困ったように笑う。
「俺、そういうつもりじゃなくて」
「じゃあ、どういうつもりなんですか」
かなえの声が少し尖る。
尖らせないと、泣きそうになる。
玲央は少しだけ黙って、言葉を探した。
「……安心する」
「それだけ」
言い訳みたいに言うのに、目は真剣だ。
「恋とか、そういうのじゃなくて」
「結城さんがここにいると、体が勝手に落ち着く」
体が勝手に。
無自覚の言い方が、いちばん怖い。
かなえは立ち上がる。
逃げたい。
終電までの盾を守りたい。
「……帰ります」
言い切った瞬間、玲央の腕がかなえの腰に回った。
強くない。
でも、逃げる方向だけを塞ぐ。
「帰さないって言ったら?」
息が止まる。
「……それ、ルール違反です」
玲央は困ったみたいに笑って、でも笑いを引っ込めた。
「分かってる」
「分かってるのに……」
その声が少しだけ低くなる。
「今、離すの無理」
無理。
恋じゃない言葉で、恋より強いことを言う。
「……お願い」
玲央はさっきより静かに言った。
「少しだけ、こうしてたい」
「抱きしめて、落ち着きたい」
「……それで、ちゃんと送る」
ちゃんと送る。
その言葉が逆に嘘くさく聞こえて、胃が痛い。
かなえは抵抗する代わりに、刺す。
「……猫みたいにですか」
玲央が一瞬目を見開く。
「違う」
すぐ言う。
「……猫より、ずっと厄介」
言った自分に驚いたみたいに、少しだけ息を吐く。
「ごめん。今の、言い方変だった」
変だ。
変に決まってる。
でも玲央は、かなえの頭に額を寄せた。
そして、また——すり、と動く。
頬が触れて、髪に息が落ちる。
短いマーキングのくせに、体が思い出す。
(だめ)
(これ、だめなやつ)
かなえは小さく声を漏らした。
「……やめて」
玲央は止まらない。
止まれない顔をしている。
それが怖いのに、どこか嬉しいのが最悪だ。
「やめない」
玲央は一度言って、すぐ言い直す。
「……やめたくない」
それから、逃げ道みたいに続ける。
「結城さんが本気で嫌なら、やめる」
ずるい。
本気で嫌って言わせる形にするのがずるい。
玲央の指先が、かなえの背中を撫でた。
服の上からなのに、熱が伝わる。
肩、首筋、髪の生え際。
“落ち着く”と言いながら、探しているみたいに触れてくる。
かなえの胃が痛い。
胸が熱い。
体だけが先に反応する。
「……触らないで」
拒む言葉と反対に、かなえの指が玲央のシャツを掴んでしまう。
止めたいのに、止められない。
玲央の呼吸が、少し乱れた。
「……触らない」
玲央は一度言った。
でも次の瞬間、声が崩れる。
「……無理」
小さく、子どもみたいに。
「結城さん、ちょっとだけ……」
ちょっとだけ。
一瞬だけ。
一分だけ。
そうやって境界を溶かしていく。
玲央の唇が、かなえの唇に重なった。
急じゃない。
急かさないのに、逃がさない。
触れた瞬間、身体の奥が「覚えてる」と言う。
あの夜の続き。
終電の向こう側。
かなえは息を止めて、玲央のシャツの皺を掴んだ。
拒否じゃない。止めてもいない。
(……私が悪い)
(私が、入れた)
玲央が額を寄せる。
「しんどかったら、合図して」
「強引にしたくない」
「……でも、離したくない」
“離したくない”が、恋じゃないのに甘くて怖い。
玲央の手が、背中を滑る。
服の端を探して、隙間に触れて、熱に迷って、また戻る。
その迷いが、余計に生々しい。
「……やだ」
かなえが言う。
でも声は弱い。
玲央は小さく笑って、笑いを引っ込めた。
「ごめん」
謝るのに、やめない。
「……結城さん、かわいくて腹立つ」
かわいい。
その言葉が、胸の奥を壊す。
かなえは言い返せない。
代わりに、玲央の袖を掴む。
玲央が低く言う。
「明日、後悔する?」
後悔するに決まってる。
でも、後悔するからこそ今が欲しい。
かなえは強がりのまま返した。
「……後悔します」
「だから、軽くしないでください」
玲央が一瞬だけ固まった。
それから、困ったみたいに笑って、笑いを引っ込めた。
「軽くできない」
小さく言う。
「……結城さん、今夜だけ」
今夜だけ。
いつもみたいに短い言葉で囲って、
でも、その“今夜だけ”が次を連れてくるのを、かなえはもう知っている。
その先は、言葉にしたら現実になってしまう。
かなえはそれを怖がるくせに、現実にしたくてたまらない自分もいる。
——終電の向こう側で、
かなえはまた、“事故”の言い訳を失った。
(暗転)
◇
薄明るい光で目が覚めた。
カーテンの隙間から朝が滲んでいる。
胃が痛い。
胸も痛い。
でも、身体の奥に残っている熱が、昨夜を否定させてくれない。
寝返りを打つと、シーツが擦れる音がやけに大きい。
肌に触れる布の感触が、昨夜の余韻を連れてくる。
(……最悪)
(なのに、覚えてる)
隣を見ると、玲央が起きていた。
先に目が合う。
その瞬間、玲央の目尻がふっと緩む。
——くしゃ。
嬉しそうに笑う顔が、あまりに無防備でずるい。
謝る顔をするはずなのに、機嫌がいいのが腹立たしい。
「おはよう、結城さん」
人前用の苗字で言って、すぐ声の温度を落とすみたいに続ける。
「……おはよう、かなえさん」
二人のときだけの呼び方。
その“特別”が嬉しいはずなのに、同じくらい怖い。
かなえが起き上がろうとして、ふらっとする。
その瞬間、玲央の手が伸びた。
支えるだけ。
掴まない。
でも腰にそっと触れて——離さない。
「……大丈夫?」
「大丈夫です」
かなえが強がっても、玲央は笑ったまま頷く。
「うん。大丈夫そう」
言い方が、妙に安心している。
安心しているのが、また怖い。
かなえは視線を逸らし、言うべきことを言う。
「……終電」
「ルール、破りましたよね」
玲央の笑みが一瞬だけ小さくなる。
でも、消えない。
むしろ困ったように口角が上がる。
「うん。破った」
さらっと認めて、すぐ言う。
「ごめん」
“ごめん”なのに、声の奥が明るい。
悪びれてないというより、満たされている。
かなえが睨むと、玲央はしまったみたいに眉を下げた。
「いや、違う」
言い直すように早口になる。
「反省してる。ほんとに」
でも次の瞬間、また目尻がくしゃっとなる。
「……でも、嬉しかった」
「……最低です」
かなえが刺すと、玲央は素直に頷く。
「うん。最低」
あっさり認めたあと、ふっと笑う。
「でも、かなえさん、今すぐ“嫌”って言ってない」
喉が詰まる。
言ってない。言えない。言ったら終わるから。
玲央はそこを責めない代わりに、距離を詰める。
——すり。
頬を、かなえの髪に軽く寄せる。
短いマーキングみたいに。
「……っ、また」
「ごめん」
口では謝りながら、やめない。
「癖になった」
冗談みたいに言って、でも目は真剣だ。
「……かなえさん、落ち着く」
かなえは押し返したいのに、押し返せない。
強がりだけが口に出る。
「……猫の代わり」
玲央が一瞬だけ固まって、それから笑いを引っ込めた。
「代わりじゃない」
すぐ言う。
「猫は猫。……かなえさんは、かなえさん」
その言い方がさらっとしていて、
“恋”の重さを避けたまま、“所有”だけ残してくるのがずるい。
かなえは息を吐いて、線を引き直す。
「……会社には持ち込まない」
「詮索しない」
「私が嫌って言ったら、やめる」
玲央は頷く。
頷き方がやけに素直だ。
「うん。全部守る」
すぐ続けて、あっさり言う。
「恋人の話もしない」
「名前もつけない」
名前をつけない。
その逃げ道が、逆に固定に見えて胃が痛い。
玲央は一拍置いて、少しだけ声を落とした。
「でも、終わらせない」
目が揺れない。
「……終わらせたくない」
好き、と言わないのに、終わらせないだけは言う。
かなえは返事ができない。
できないまま目を逸らす。
すると玲央は、嬉しそうに小さく息を吐いた。
「よかった」
“よかった”って何。
その一言で、関係が決まってしまう気がして怖い。
かなえが黙っていると、玲央はまた隙を見つけたみたいに寄ってくる。
——すり。
今度は短く、軽く。
まるで「ここにいる」って印をつけるみたいに。
かなえは小さく眉を寄せた。
「……やめてって言ったら?」
玲央は笑って、でもちゃんと目を見て答える。
「やめる」
即答してから、子どもみたいに付け足す。
「……でも、できれば、やめたくない」
その言い方で、かなえの心が少しだけほどけるのが悔しい。
(だめなのに)
(……絆されてる)
玲央は立ち上がって、スマホを手に取った。
仕事に戻る準備の動きなのに、機嫌だけはずっと良い。
「タクシー、呼ぶ」
かなえは反射で眉をひそめる。
「……大丈夫です。歩けます」
「だめ」
玲央は即答した。
きつい言い方なのに、声は柔らかい。
「今ふらってした」
「……俺が嫌」
“俺が嫌”。
優しさの顔で囲い込んでくる。
無自覚なのが、いちばんたちが悪い。
かなえは強がって言う。
「……過保護です」
玲央は目尻をくしゃっとさせた。
「うん。過保護」
開き直りみたいに言って、画面を操作する。
「かけるよ。すぐ来る」
かけるよ。
その一言が妙にジェントルで、妙に当然で、
“君は大事にされていい”って扱いに聞こえてしまう。
玄関で靴を履くと、玲央が先にドアを開ける。
手を出して支えようとするけれど、掴まない。
触れる寸前で止めて、許可を待つみたいに立っている。
「……歩けます」
かなえが言うと、玲央は小さく笑った。
「うん。歩ける」
でも視線が足元に落ちる。
「……でも、歩かせたくない」
エントランスに着くころ、タクシーが滑り込んできた。
玲央が運転手に行先を告げ、ドアを押さえる。
「乗って」
命令じゃない言い方。
でも断れない言い方。
かなえが乗り込むと、玲央は一瞬だけ屈んで、顔を覗き込んだ。
目尻がくしゃっとなる。
「着いたら、一言」
「……返事いらない。俺が落ち着く」
また落ち着く。
かなえは腹が立つはずなのに、
その腹立たしさの底に、変な安心が沈んでいる。
「……分かりました」
言った瞬間、玲央が嬉しそうに笑った。
そして、最後に。
——すり。
額を軽く寄せるだけ。
短い、ずるいマーキング。
「行ってらっしゃい、かなえさん」
ドアが閉まって、タクシーが動き出す。
窓越しに見える玲央は、ずっと機嫌がいいままだった。
かなえはシートにもたれて、目を閉じる。
胃が痛い。
胸が熱い。
身体が、まだ昨夜に引っ張られている。
——この関係は、言葉じゃない。
安心とか落ち着くとか、便利な言い方をしているだけで、
結局、触れられた瞬間に全部がほどけてしまう。
それが、いちばん怖い。
スマホが震えた。
営業二課の水野美緒から。
『結城さん!おはようございます〜!』
『今日、若手でランチ行くんですけど、結城さんもどうですか?』
『相沢さんも来るらしくて!』
心臓が、嫌な音を立てた。
(職場に持ち込まない)
(……持ち込んでないのに)
胸の奥に熱が残っているせいで、
“来るらしい”の一言が、胃をえぐる。
かなえは画面を見たまま固まった。
返事ができない。
次に、玲央から通知。
『着いたら一言、待ってる』
『……無理するなよ』
無理するなよ。
優しいふり。
でも、その優しさがいちばん逃げ場をなくす。
かなえは息を止めた。
(……終わらせない)
(終わらせないまま、職場で同じ顔をする)
その想像だけで、胃が痛い。
タクシーの窓の外で、朝の光が流れていく。
かなえは指先で短く打った。
『着きました』
送信。
既読がつくのが早い。
——速すぎて、怖かった。




