第8話 終電まで、って嘘みたいに
『今日、終電まで』
『……会っていい?』
給湯室の匂いがまだ鼻の奥に残っている。
苦いコーヒーと、玲央の声。
——かなえさん。
俺だけ特別。
たったそれだけで胸がきゅっとして、同時に胃が痛い。
(恋人じゃない)
(詮索しない)
(職場に持ち込まない)
(終電まで)
ルールは守るためのはずだった。
でも今は、守るほど“境界”がくっきりして、その境界の内側に玲央が入り込んでくる。
かなえは返信欄に指を置く。
置いて、消して、また置く。
断れば楽だ。
でも断ったら、今日の“かなえさん”が嘘になる気がする。
結局、いちばん安全な返事を打った。
『終電までです』
『それ以上は無理です』
既読はすぐついた。
『うん。守る』
『ありがとう』
ありがとう。
その言葉が、なぜか“約束”みたいに重い。
◇
夜。
駅前で待っていた玲央は、スーツのままだった。
ネクタイは緩めているけど、崩れていない。
会社の顔と、少しだけ私の知ってる顔が混ざったみたいで、かなえは目を逸らした。
「……結城さん」
苗字。
人の目があるから。
かなえはそれにすがるように頷く。
「……相沢さん」
言いながら、胸の奥がざらつく。
本当は——さっきの“かなえさん”を、まだ耳の中で反芻している。
玲央は歩き出しながら、何でもないみたいに言った。
「今日、疲れてる?」
「普通です」
「また普通」
玲央が小さく笑う。
「……でも、顔は普通じゃない」
「余計なお世話です」
「うん」
玲央は否定しない。
否定しないまま、距離だけを合わせてくる。
その“合わせ方”が、今日はいちいち刺さった。
店は、駅近の小さな居酒屋だった。
終電までに切り上げるには、こういう場所がちょうどいい。
——ちょうどいい、はずなのに。
席につくと、玲央が先に水を頼んだ。
ビールじゃない。
「……飲まないんですか」
かなえが言うと、玲央は少し照れたみたいに肩をすくめる。
「飲みすぎないようにする」
それから、言い足すみたいに小声になる。
「……結城さんに、また心配かけたくない」
その言い方が、懐いてるみたいでずるい。
心配した覚えなんてない、と言い返したいのに、
胸の奥が先に柔らかくなる。
(だめ)
(喜ぶな)
料理が来るまでの間、玲央は仕事の話をした。
営業二課の動き。
見込みの揺れ。
フォーマット統一の案。
「これ、明日共有します」
玲央がスマホの画面を見せる。
ちゃんとしてる。
ほんとにちゃんとしてる。
かなえは頷きながら、別のことを考えてしまう。
——私にだけ、ちゃんとしてるわけじゃない。
仕事だから、だ。
そう言い聞かせようとして、喉の奥が苦くなる。
料理が運ばれてきて、二人とも箸を動かす。
会話が少しだけ途切れたタイミングで、玲央がぽつりと言った。
「……さっきの、給湯室」
胃がきゅっと縮む。
「……何ですか」
玲央は一瞬だけ迷う顔をした。
その迷いが、逆に怖い。
「俺、変なこと言った?」
「俺だけ特別、とか」
かなえは箸を止めた。
変だ。
変に決まってる。
でも、変だと言えば終わる。
かなえは言葉を選んだ。
「……軽い冗談に聞こえませんでした」
玲央が小さく頷く。
笑って誤魔化さない。
「冗談じゃない」
それから、少しだけ間が落ちる。
音楽の低い音と、隣のテーブルの笑い声が、妙に遠い。
玲央が言った。
「……名前つけなくていい」
「……は?」
かなえの声が少しだけ裏返った。
玲央は落ち着いたまま続ける。
「結城さんが嫌になる言葉、今は使わない」
「俺、たぶん……そういう言葉出すと、結城さん逃げるの分かってる」
逃げる。
見抜かれて、胃が痛い。
「……勝手に決めないでください」
かなえが刺すと、玲央はすぐ頷いた。
「うん。決めない」
「だから、聞く」
玲央は少しだけ声を落とす。
「……今はこれでいい、ってしてもいい?」
“これ”。
曖昧な単語。
でもその曖昧さが、逆に逃げ道を削る。
嬉しい。
そんなはずないのに、胸の奥が甘くなる。
甘くなった瞬間、警戒が遅れて怖くなる。
(……誰にでもこうなのかな)
(慣れてる人の逃げ道の作り方だ)
かなえは強がりで笑うふりをした。
「そういう言い方、慣れてますね」
笑えてないのが自分でも分かる。
「……誰にでも“今はこれでいい”って言ってるんですか」
言った瞬間、胸の奥がちくっとする。
本当は聞きたくない。
聞いたら答えが来て、答えで壊れるから。
玲央は笑わなかった。
ごまかさなかった。
「誰にでもは言わない」
それだけ言って、目尻だけが少しだけくしゃっとなる。
嬉しそうなのが、ずるい。
“言えた”ことが嬉しいみたいに、子どもみたいに。
(……何それ)
(そんな顔されたら)
かなえは目を逸らして、水を一口飲んだ。
喉が冷えるのに、胸は熱いままだ。
玲央が、少しだけ息を吐く。
「ねえ、かなえさん」
——二人きりの呼び方。
その瞬間、目尻がまたくしゃってなった。
ただ名前を呼んだだけなのに、“呼べた”ことが嬉しいみたいな笑い方。
それが、ほんとうにずるい。
かなえの胃が痛む。
痛むのに、胸が甘い。
「……ここ、店です」
「うん」
玲央は素直に頷く。
でも、笑いが消えない。
「店でも、二人きりの空気なら……いい?」
「嫌ならすぐやめる。ほんとに」
そう言いながら、また少しだけ笑う。
大事にしてますって顔で。
“俺だけ”って顔で。
(だめ)
(だめなはずなのに)
“いいよ”って言いたくなってしまう。
言ったら戻れなくなるって分かってるのに、言いたい。
かなえは、逃げ道のある形で答えた。
「……小声なら」
言ってしまった瞬間、自分で自分が怖い。
玲央が、息を吐くみたいに笑った。
目尻がまたくしゃってなる。
「ありがとう」
その言い方が、子どもみたいに素直で、さらにずるい。
「……かなえさん」
胸がきゅっと鳴って、かなえは箸を動かすふりをした。
味がしない。
◇
終電が近づいて、店を出た。
夜風が冷たくて、頬の熱だけが浮いている。
駅まで歩く道。
玲央はいつも通り、かなえの歩幅に合わせてくる。
改札が見えたところで、かなえは足を止めた。
「……終電までです」
念押し。
自分のための盾。
玲央はすぐ頷く。
「うん。分かってる」
頷きながら、少し困ったみたいに笑う。
「……でもさ」
でも。
その一言で胃が痛む。
玲央は改札の手前で立ち止まり、周囲を一瞬確認した。
誰もこちらを見ていない。
その瞬間、声が変わる。
「——かなえさん」
小声。
さっき自分が許した“範囲”。
なのに、許した自分が今すぐ撤回したい。
かなえは反射で息を止めた。
「……やめてください、ここ」
玲央は、目尻をくしゃっとさせて笑わない。
代わりに、真面目に頷いた。
「うん。ごめん」
すぐに引くのがずるい。
「じゃあ、聞く」
「家まで送っていい?」
「だめです」
即答した。
即答できたことにほっとする。
ほっとした直後、玲央の表情がほんの少しだけ曇って、胸が痛い。
(だめって言えたのに)
(だめって言って、痛い)
玲央は引く。
引くくせに、言葉を置く。
「分かった。帰る」
でもすぐに続けた。
「……じゃあ、改札まで」
「それだけなら、ルールの範囲でしょ」
ルール。
自分で作った言葉に、逃げ場を塞がれる。
かなえは小さく頷いた。
改札まで並んで歩く。
人の流れに紛れて、肩が触れそうになるたびに、かなえは呼吸を浅くする。
玲央は触れない。
触れないけど、目が近い。
改札の前で止まる。
これで終わり。
終わる、はず。
玲央が言った。
「……帰ったら、一言」
「……分かってます」
「うん」
玲央は少しだけ笑う。
会社の笑い方じゃない。
「……あと、もう一個」
かなえの胃が、きゅっと鳴る。
「何ですか」
玲央は少し迷ってから言った。
「俺だけ特別、ってやつ」
「今日、ちょっとだけ実感した」
苦笑して、でも目は笑ってない。
「……自分でも意味分かんないんだけどさ」
意味分かんない。
無自覚のまま言う。
かなえは刺す。
「分からないなら言わないでください」
玲央は頷く。
頷くのに、やめない。
「うん」
それから、声が落ちる。
「……他の男に“かなえさん”って呼ばれたら、嫌だって思った」
息が止まった。
——独占。
——所有。
それを“嫌だって思った”程度の軽い形で言うのがずるい。
気づいてない顔で言うのが、もっとずるい。
かなえは喉が乾いて、声が出ない。
玲央はさらに言う。
「だからさ」
「かなえさんって呼ぶの、俺だけにして」
言い切ったあと、はっとしたみたいに付け足す。
「……いや、命令じゃない。お願い」
「嫌なら、やめる」
お願い。
逃げ道。
優しさの形をした執着。
かなえの胸が甘く痛む。
嬉しいのに苦しい。
苦しいのに、否定できない。
かなえは、やっと言葉を絞り出した。
「……それ、重いです」
玲央は少しだけ笑った。
笑うけど、軽くしない。
「重いの、俺も分かる」
「でも、今だけ」
「今だけ、俺にだけ許して」
“今だけ”。
終わりのある言葉にして、終わらせないための言い方。
かなえは唇を噛んで、また逃げ道のある返事を選ぶ。
「……二人のときだけです」
「……それ以上は、だめ」
許可。
口に出した瞬間、胸が熱くなって、胃が痛くなる。
玲央の目尻が、またくしゃってなる。
嬉しそうに。
ずるいくらいに。
「うん。二人のときだけ」
「ありがとう、かなえさん」
呼ばれた瞬間、かなえは小さく目を閉じた。
(だめなのに)
(……いいって言ってしまった)
玲央は改札の向こう側へ一歩下がる。
「帰って。転ばないで」
「胃、また痛くなるから」
心配。
心配という皮を被せて、ちゃんと“俺のもの”にしてくる。
かなえは何も言えないまま、改札を通った。
◇
電車の中でスマホが震えた。
玲央から。
『帰ったら一言』
『あと、かなえさん』
『今日言ったの、忘れないで』
忘れないで。
その言葉が、胃の奥に落ちていく。
——帰宅。
鍵を開ける。
玄関の明かり。
ルールだから、と言い聞かせて打つ。
『着きました』
既読。
少し間が空いて、返事が来た。
『よかった』
『……かなえさん、おやすみ』
おやすみ。
名前。
俺だけ特別。
かなえはスマホを握ったまま、ベッドに沈んだ。
痛い。
甘い。
そして、どんどん戻れなくなる。
(終電まで)
(それ以上は、だめ)
自分に言い聞かせるように目を閉じた、そのとき。
——通知。
玲央から、もう一件。
『明日、終電までって言ったら俺は帰る』
『でも、帰らないでって言われたら——帰れない気がする』
心臓が跳ねた。
(言うわけない)
(言えるわけない)
なのに、指先が震える。
否定の文字を打てない。
追い打ちみたいに、さらに。
『かなえさん』
『終電、守れる自信なくなってきた』
『……それでも会いたい』
画面の文字が、胃の奥をきゅっと締める。
守るって言った。
守るって言わせた。
——でも、守れない前提の言葉が並ぶだけで
“明日”がもう、ルールの外側に見えた。
かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。




