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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第8話 終電まで、って嘘みたいに



『今日、終電まで』

『……会っていい?』


給湯室の匂いがまだ鼻の奥に残っている。

苦いコーヒーと、玲央の声。


——かなえさん。

俺だけ特別。


たったそれだけで胸がきゅっとして、同時に胃が痛い。


(恋人じゃない)

(詮索しない)

(職場に持ち込まない)

(終電まで)


ルールは守るためのはずだった。

でも今は、守るほど“境界”がくっきりして、その境界の内側に玲央が入り込んでくる。


かなえは返信欄に指を置く。

置いて、消して、また置く。


断れば楽だ。

でも断ったら、今日の“かなえさん”が嘘になる気がする。


結局、いちばん安全な返事を打った。


『終電までです』

『それ以上は無理です』


既読はすぐついた。


『うん。守る』

『ありがとう』


ありがとう。

その言葉が、なぜか“約束”みたいに重い。



夜。


駅前で待っていた玲央は、スーツのままだった。

ネクタイは緩めているけど、崩れていない。

会社の顔と、少しだけ私の知ってる顔が混ざったみたいで、かなえは目を逸らした。


「……結城さん」


苗字。

人の目があるから。


かなえはそれにすがるように頷く。


「……相沢さん」


言いながら、胸の奥がざらつく。

本当は——さっきの“かなえさん”を、まだ耳の中で反芻している。


玲央は歩き出しながら、何でもないみたいに言った。


「今日、疲れてる?」


「普通です」


「また普通」

玲央が小さく笑う。

「……でも、顔は普通じゃない」


「余計なお世話です」


「うん」

玲央は否定しない。

否定しないまま、距離だけを合わせてくる。


その“合わせ方”が、今日はいちいち刺さった。


店は、駅近の小さな居酒屋だった。

終電までに切り上げるには、こういう場所がちょうどいい。


——ちょうどいい、はずなのに。


席につくと、玲央が先に水を頼んだ。

ビールじゃない。


「……飲まないんですか」


かなえが言うと、玲央は少し照れたみたいに肩をすくめる。


「飲みすぎないようにする」

それから、言い足すみたいに小声になる。

「……結城さんに、また心配かけたくない」


その言い方が、懐いてるみたいでずるい。

心配した覚えなんてない、と言い返したいのに、

胸の奥が先に柔らかくなる。


(だめ)

(喜ぶな)


料理が来るまでの間、玲央は仕事の話をした。

営業二課の動き。

見込みの揺れ。

フォーマット統一の案。


「これ、明日共有します」

玲央がスマホの画面を見せる。


ちゃんとしてる。

ほんとにちゃんとしてる。


かなえは頷きながら、別のことを考えてしまう。


——私にだけ、ちゃんとしてるわけじゃない。

仕事だから、だ。


そう言い聞かせようとして、喉の奥が苦くなる。


料理が運ばれてきて、二人とも箸を動かす。

会話が少しだけ途切れたタイミングで、玲央がぽつりと言った。


「……さっきの、給湯室」


胃がきゅっと縮む。


「……何ですか」


玲央は一瞬だけ迷う顔をした。

その迷いが、逆に怖い。


「俺、変なこと言った?」

「俺だけ特別、とか」


かなえは箸を止めた。


変だ。

変に決まってる。

でも、変だと言えば終わる。


かなえは言葉を選んだ。


「……軽い冗談に聞こえませんでした」


玲央が小さく頷く。

笑って誤魔化さない。


「冗談じゃない」


それから、少しだけ間が落ちる。

音楽の低い音と、隣のテーブルの笑い声が、妙に遠い。


玲央が言った。


「……名前つけなくていい」


「……は?」


かなえの声が少しだけ裏返った。


玲央は落ち着いたまま続ける。


「結城さんが嫌になる言葉、今は使わない」

「俺、たぶん……そういう言葉出すと、結城さん逃げるの分かってる」


逃げる。

見抜かれて、胃が痛い。


「……勝手に決めないでください」


かなえが刺すと、玲央はすぐ頷いた。


「うん。決めない」

「だから、聞く」

玲央は少しだけ声を落とす。

「……今はこれでいい、ってしてもいい?」


“これ”。

曖昧な単語。

でもその曖昧さが、逆に逃げ道を削る。


嬉しい。

そんなはずないのに、胸の奥が甘くなる。

甘くなった瞬間、警戒が遅れて怖くなる。


(……誰にでもこうなのかな)

(慣れてる人の逃げ道の作り方だ)


かなえは強がりで笑うふりをした。


「そういう言い方、慣れてますね」

笑えてないのが自分でも分かる。

「……誰にでも“今はこれでいい”って言ってるんですか」


言った瞬間、胸の奥がちくっとする。

本当は聞きたくない。

聞いたら答えが来て、答えで壊れるから。


玲央は笑わなかった。

ごまかさなかった。


「誰にでもは言わない」


それだけ言って、目尻だけが少しだけくしゃっとなる。

嬉しそうなのが、ずるい。

“言えた”ことが嬉しいみたいに、子どもみたいに。


(……何それ)

(そんな顔されたら)


かなえは目を逸らして、水を一口飲んだ。

喉が冷えるのに、胸は熱いままだ。


玲央が、少しだけ息を吐く。


「ねえ、かなえさん」


——二人きりの呼び方。


その瞬間、目尻がまたくしゃってなった。

ただ名前を呼んだだけなのに、“呼べた”ことが嬉しいみたいな笑い方。

それが、ほんとうにずるい。


かなえの胃が痛む。

痛むのに、胸が甘い。


「……ここ、店です」


「うん」

玲央は素直に頷く。

でも、笑いが消えない。


「店でも、二人きりの空気なら……いい?」

「嫌ならすぐやめる。ほんとに」


そう言いながら、また少しだけ笑う。

大事にしてますって顔で。

“俺だけ”って顔で。


(だめ)

(だめなはずなのに)


“いいよ”って言いたくなってしまう。

言ったら戻れなくなるって分かってるのに、言いたい。


かなえは、逃げ道のある形で答えた。


「……小声なら」


言ってしまった瞬間、自分で自分が怖い。


玲央が、息を吐くみたいに笑った。

目尻がまたくしゃってなる。


「ありがとう」

その言い方が、子どもみたいに素直で、さらにずるい。

「……かなえさん」


胸がきゅっと鳴って、かなえは箸を動かすふりをした。

味がしない。



終電が近づいて、店を出た。


夜風が冷たくて、頬の熱だけが浮いている。

駅まで歩く道。

玲央はいつも通り、かなえの歩幅に合わせてくる。


改札が見えたところで、かなえは足を止めた。


「……終電までです」


念押し。

自分のための盾。


玲央はすぐ頷く。


「うん。分かってる」

頷きながら、少し困ったみたいに笑う。

「……でもさ」


でも。

その一言で胃が痛む。


玲央は改札の手前で立ち止まり、周囲を一瞬確認した。

誰もこちらを見ていない。

その瞬間、声が変わる。


「——かなえさん」


小声。

さっき自分が許した“範囲”。

なのに、許した自分が今すぐ撤回したい。


かなえは反射で息を止めた。


「……やめてください、ここ」


玲央は、目尻をくしゃっとさせて笑わない。

代わりに、真面目に頷いた。


「うん。ごめん」


すぐに引くのがずるい。


「じゃあ、聞く」

「家まで送っていい?」


「だめです」


即答した。

即答できたことにほっとする。


ほっとした直後、玲央の表情がほんの少しだけ曇って、胸が痛い。


(だめって言えたのに)

(だめって言って、痛い)


玲央は引く。

引くくせに、言葉を置く。


「分かった。帰る」

でもすぐに続けた。

「……じゃあ、改札まで」

「それだけなら、ルールの範囲でしょ」


ルール。

自分で作った言葉に、逃げ場を塞がれる。


かなえは小さく頷いた。


改札まで並んで歩く。

人の流れに紛れて、肩が触れそうになるたびに、かなえは呼吸を浅くする。


玲央は触れない。

触れないけど、目が近い。


改札の前で止まる。

これで終わり。

終わる、はず。


玲央が言った。


「……帰ったら、一言」


「……分かってます」


「うん」

玲央は少しだけ笑う。

会社の笑い方じゃない。

「……あと、もう一個」


かなえの胃が、きゅっと鳴る。


「何ですか」


玲央は少し迷ってから言った。


「俺だけ特別、ってやつ」

「今日、ちょっとだけ実感した」

苦笑して、でも目は笑ってない。

「……自分でも意味分かんないんだけどさ」


意味分かんない。

無自覚のまま言う。


かなえは刺す。


「分からないなら言わないでください」


玲央は頷く。

頷くのに、やめない。


「うん」

それから、声が落ちる。


「……他の男に“かなえさん”って呼ばれたら、嫌だって思った」


息が止まった。


——独占。

——所有。


それを“嫌だって思った”程度の軽い形で言うのがずるい。

気づいてない顔で言うのが、もっとずるい。


かなえは喉が乾いて、声が出ない。


玲央はさらに言う。


「だからさ」

「かなえさんって呼ぶの、俺だけにして」

言い切ったあと、はっとしたみたいに付け足す。

「……いや、命令じゃない。お願い」

「嫌なら、やめる」


お願い。

逃げ道。

優しさの形をした執着。


かなえの胸が甘く痛む。

嬉しいのに苦しい。

苦しいのに、否定できない。


かなえは、やっと言葉を絞り出した。


「……それ、重いです」


玲央は少しだけ笑った。

笑うけど、軽くしない。


「重いの、俺も分かる」

「でも、今だけ」

「今だけ、俺にだけ許して」


“今だけ”。


終わりのある言葉にして、終わらせないための言い方。


かなえは唇を噛んで、また逃げ道のある返事を選ぶ。


「……二人のときだけです」

「……それ以上は、だめ」


許可。

口に出した瞬間、胸が熱くなって、胃が痛くなる。


玲央の目尻が、またくしゃってなる。

嬉しそうに。

ずるいくらいに。


「うん。二人のときだけ」

「ありがとう、かなえさん」


呼ばれた瞬間、かなえは小さく目を閉じた。


(だめなのに)

(……いいって言ってしまった)


玲央は改札の向こう側へ一歩下がる。


「帰って。転ばないで」

「胃、また痛くなるから」


心配。

心配という皮を被せて、ちゃんと“俺のもの”にしてくる。


かなえは何も言えないまま、改札を通った。



電車の中でスマホが震えた。


玲央から。


『帰ったら一言』

『あと、かなえさん』

『今日言ったの、忘れないで』


忘れないで。

その言葉が、胃の奥に落ちていく。


——帰宅。

鍵を開ける。

玄関の明かり。


ルールだから、と言い聞かせて打つ。


『着きました』


既読。


少し間が空いて、返事が来た。


『よかった』

『……かなえさん、おやすみ』


おやすみ。

名前。

俺だけ特別。


かなえはスマホを握ったまま、ベッドに沈んだ。


痛い。

甘い。

そして、どんどん戻れなくなる。


(終電まで)

(それ以上は、だめ)


自分に言い聞かせるように目を閉じた、そのとき。


——通知。


玲央から、もう一件。


『明日、終電までって言ったら俺は帰る』

『でも、帰らないでって言われたら——帰れない気がする』


心臓が跳ねた。


(言うわけない)

(言えるわけない)


なのに、指先が震える。

否定の文字を打てない。


追い打ちみたいに、さらに。


『かなえさん』

『終電、守れる自信なくなってきた』

『……それでも会いたい』


画面の文字が、胃の奥をきゅっと締める。


守るって言った。

守るって言わせた。


——でも、守れない前提の言葉が並ぶだけで

“明日”がもう、ルールの外側に見えた。


かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。


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