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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第7話 呼び方ひとつで、ほどける


翌朝、かなえは胃を押さえたまま目を開けた。


痛い。

痛いのに、胸の奥は甘い。

甘いのに、昨日の夜のことを思い出すたび、喉が詰まる。


(恋人じゃない)

(詮索しない)

(職場に持ち込まない)

(終電まで)


あのルールを決めたのは、安心するためだった。

なのに今は、ルールが“逃げ道”じゃなく“鎖”みたいに思える。


枕元のスマホが震えた。


相沢玲央。


『おはよう』

『昨日、ありがとう』

『……返事いらない。仕事、がんばって』


“返事いらない”って言い方が、優しい顔をした押しに見える。

返事しなくていいなら、返事を待ってるってことじゃないの。

そう思ってしまう自分が、もう負けてる。


かなえは深呼吸して、いちばん無害な文字を選んだ。


『おはようございます』

『仕事、頑張りましょう』


既読がつくのが早い。


『うん』


たった二文字。

なのに胃がきゅっと鳴る。



出社すると、フロアの空気はいつも通りだった。

挨拶、打刻、メール、会議資料。

ルーティンは心を整える箱——のはずなのに。


相沢玲央の姿を視界の端で捉えた瞬間、

箱の外にしまったはずの“昨日”がいきなり溢れる。


(……思い出すな)


思い出したら、顔に出る。


かなえはPCに視線を落として、タイピングの音に逃げた。


——午前十時。

定例の進捗確認ミーティング。


営業二課も来る。玲央も来る。


会議室に入ってきた玲央は、いつもの“会社の玲央”だった。

ネクタイはきっちり、背筋は真っ直ぐ、笑い方は軽い。

昨日、私の部屋にいた男とは別人みたいに“会社の人”だ。


それが救いで、同時に苦しい。


かなえが資料を配ると、玲央は受け取りながら小さく会釈した。


「ありがとうございます、結城さん」


苗字。

いつもの呼び方。

ルール通りの距離。


……なのに、その声だけが少しだけ柔らかい気がして、勝手に胸が騒ぐ。


会議は数字の話ばかりだ。

見込み、確度、更新、次アクション。

営業二課の大型案件はまた揺れている。

上司の眉がわずかに動く。


「相沢さん、ここ、確度Aの根拠は?」


玲央は即答した。


「先方の稟議、今週中に動く見込みです」

「動かなければ、来週の時点で確度を下げます」


——昨日、かなえが上司に言ったのと同じ言葉。


(……拾ってる)

(私が言った“条件”を)


偶然かもしれない。

でも偶然でも、胸が反応してしまう。


会議が終わり、資料を片づける人の流れができる。

かなえはいつも通り、最後に残ってプロジェクタを落とした。


背後から低い声が落ちる。


「結城さん」


振り向く前に分かる。

距離の測り方が、昨日と同じだ。


かなえは仕事の顔のまま振り向いた。


「何か?」


玲央は周りを一瞬確認して、声をほんの少しだけ落とした。


「……昨日、寝れた?」


聞き方が、業務じゃない。

でも“心配”という形をしているから、断りづらい。


かなえは表情を崩さないまま答えた。


「寝ました」


「そっか」


その短い返事が、なぜか嬉しそうで腹立たしい。


「無理しないで」

玲央が付け足す。

「……今期、結城さんのとこ、負担増えてるでしょ」


ここで仕事に寄せてくるのがずるい。


かなえは刺す。


「営業が揺らすからです」


玲央は苦笑した。


「それは……ごめん」

一拍置いて、さらっと言う。

「二課のフォーマット、今日中に統一案出す。ちゃんと」


口だけじゃない。

その“ちゃんと”が、じわじわ胃を痛くする。


玲央は、少しだけ笑った。


「……じゃあ、仕事戻る」

立ち去る前に、視線が一瞬だけ柔らかくなる。

「結城さん」


苗字。

距離。

ルール。


……なのに、目だけが昨夜の続きみたいに近い。



昼休み。


かなえはデスクでサンドイッチの袋を開けた。

食べる気はないのに、胃を空にすると余計に痛い。


スマホが震えた。


水野美緒。


『結城さん、さっきの会議おつです〜!』

『相沢さん、今日ちょっと機嫌よくないですか?笑』


機嫌。

その単語が、胸の奥をざらつかせる。


(……関係ない)

(関係ないのに、気になる)


かなえは結局、いちばん正しい返事を選んだ。


『業務の話だけでお願いします』


既読。


『ですよね!すみません!』

『でも相沢さん、最近「結城さん頼れる」って言うこと多いですよ〜』


頼れる。

褒め言葉なのに、胸の奥が苦い。


(……私のことを)

(他の人に言わないで)


言える立場じゃないのに、思ってしまう。


かなえはスマホを伏せた。



午後。


コピー機の前で紙詰まりを直していると、玲央が通りかかった。

すれ違いざま、いつもの距離で言う。


「結城さん、午後イチの資料、投げました。確認お願いします」


「了解です」


業務の会話。

それで終わるはずだった。


——なのに、玲央は足を止めないまま、ほんの少しだけ声を落とした。


「……かなえさん」


耳元に落ちるくらいの小さな声。

でも、はっきり聞こえた。


かなえの手が止まった。


(……今)

(今、私の名前)


振り向けない。

振り向いたら、顔に出る。


玲央は何事もなかったみたいに歩き去る。

残されたのは、紙とインクの匂いの中に混ざった熱。


(嬉しい)

嬉しいのに胃が痛い。


“俺だけ特別”みたいに、勝手に意味をつけてしまうのが怖い。



定時を過ぎても仕事が残った。

今期の数字は、今日も優しくない。


ようやくPCを閉じたとき、フロアはだいぶ静かになっていた。

帰り支度をしていると、内線が鳴る。


玲央から。


『結城さん、今いいですか。三分だけ』


“三分だけ”。

数字みたいな区切り方が、玲央らしい。


かなえは小さく息を吸って、返した。


『今、出ます』


指定されたのはフロアの外れの給湯室。

人が少ない時間帯。


扉を開けると、玲央がカップを持って立っていた。

コーヒーの匂い。少しだけ苦い匂い。


「すみません、急に」


「三分って何ですか」


玲央は困ったみたいに笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。


「……これ」

カップを差し出す。

「胃、今日も痛そうだったから」


かなえの胃が、今まさにきゅっと鳴った。


「見てません」


「見てる」

玲央は即答して、少しだけ言い訳みたいに続ける。

「仕事の顔してても、そういうの分かる」


分かる。

その言葉が近い。


かなえは受け取らない。


「職場に持ち込まないって——」


言いかけたとき、玲央はすぐ頷いた。


「持ち込まない」

「これは、ただの差し入れ」

一拍置いて、声が柔らかくなる。

「……結城さんが倒れたら困るから」


かなえは唇を噛んだ。

言い返す言葉が見つからない。


玲央は、カップを下げないまま言った。


「ねえ、結城さん」

「一個だけ、聞いていい?」


嫌な予感がするのに、断れない。


「……何ですか」


玲央は少しだけ息を吸って、言い切った。


「俺だけ特別、って言ったら——重い?」


かなえの胸が、どくんと鳴った。

胃が痛いのに、そこだけ熱い。


「……は?」


玲央はごまかさない。

笑って逃げない。

その真面目さが、いちばんずるい。


「会議とか、みんなの前では“結城さん”でいい」

「それは守る。守りたい」

「でも……二人のときだけ」

玲央は少しだけ目を細めた。

「かなえさんって呼びたい」

「俺だけ、っていう感じにしたい」


——俺だけ。


かなえの胸がきゅっと縮む。

嬉しい。嬉しいのに苦しい。


「……なんで」


声が小さくなる。

自分でも驚くくらい、弱い。


玲央は少し考えて、正直みたいに言った。


「分かんない」

「昨日から、結城さんが……近い」

「近いっていうか、放っとけない」


無自覚。

自覚してないから、簡単に刺さる。


玲央は、もう一歩だけ踏み込む。


「ねえ」

「名前で呼んでもいい?」


許可を取る言い方。

でも“許可を取られたら断りづらい”のも分かってる言い方。


かなえは視線を逸らした。


断れば楽だ。

でも断ったら、戻れない気がする。

戻れないのに、戻りたくないと思ってしまうのが怖い。


かなえは、正論に変換する。


「……ここ、会社です」


玲央はすぐ頷く。


「うん。だから今ここでは、結城さん」

「二人きりになったら——」

そこで止めて、もう一度聞くみたいに言う。

「……だめ?」


だめ、と言えば終わる。

終われば楽だ。


でも、終わらせたくない。


かなえは唇を噛んで、いちばん逃げ道のある言葉を選んだ。


「……ルールの範囲で」


玲央の目が、ほんの少しだけ緩む。


「うん。ルールの範囲で」

それから、カップをまた差し出す。

「これ、飲んで。ほんとに」


かなえは迷って、結局受け取った。

受け取ってしまった。


受け取った瞬間、玲央が小さく息を吐く。


「……よかった」


よかった、って言うのが、所有みたいに聞こえてしまって、胃が痛い。


玲央は腕時計を見た。


「……三分、過ぎた」

「ごめん。もう戻る」


戻ると言いながら、扉に手をかける前に一瞬だけ振り返る。


「結城さん」

会社の呼び方で、ちゃんと距離を置いて。

それから、声を落として、確かめるように言う。


「……かなえさん」

(言ってもいい?って、今の確認)


かなえは返事ができなかった。

できないのに、否定もしなかった。


玲央はそれを、肯定だと受け取ったみたいに小さく頷いて、給湯室を出ていった。


かなえはカップを握ったまま、動けなかった。

コーヒーは熱いはずなのに、手が冷たい。


(嬉しい)

(嬉しいのに、苦しい)


名前ひとつで、こんなに揺れる。


スマホが震えた。


玲央から。


『今日、終電まで』

『……会っていい?』


——そして、追い打ちみたいにもう一件。


『俺だけ特別ってやつ、嫌だったら言って』

『でも、嫌って言われたらたぶん落ち込む』


ずるい。

ずるいのに、正直だ。


かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。

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