第7話 呼び方ひとつで、ほどける
翌朝、かなえは胃を押さえたまま目を開けた。
痛い。
痛いのに、胸の奥は甘い。
甘いのに、昨日の夜のことを思い出すたび、喉が詰まる。
(恋人じゃない)
(詮索しない)
(職場に持ち込まない)
(終電まで)
あのルールを決めたのは、安心するためだった。
なのに今は、ルールが“逃げ道”じゃなく“鎖”みたいに思える。
枕元のスマホが震えた。
相沢玲央。
『おはよう』
『昨日、ありがとう』
『……返事いらない。仕事、がんばって』
“返事いらない”って言い方が、優しい顔をした押しに見える。
返事しなくていいなら、返事を待ってるってことじゃないの。
そう思ってしまう自分が、もう負けてる。
かなえは深呼吸して、いちばん無害な文字を選んだ。
『おはようございます』
『仕事、頑張りましょう』
既読がつくのが早い。
『うん』
たった二文字。
なのに胃がきゅっと鳴る。
◇
出社すると、フロアの空気はいつも通りだった。
挨拶、打刻、メール、会議資料。
ルーティンは心を整える箱——のはずなのに。
相沢玲央の姿を視界の端で捉えた瞬間、
箱の外にしまったはずの“昨日”がいきなり溢れる。
(……思い出すな)
思い出したら、顔に出る。
かなえはPCに視線を落として、タイピングの音に逃げた。
——午前十時。
定例の進捗確認ミーティング。
営業二課も来る。玲央も来る。
会議室に入ってきた玲央は、いつもの“会社の玲央”だった。
ネクタイはきっちり、背筋は真っ直ぐ、笑い方は軽い。
昨日、私の部屋にいた男とは別人みたいに“会社の人”だ。
それが救いで、同時に苦しい。
かなえが資料を配ると、玲央は受け取りながら小さく会釈した。
「ありがとうございます、結城さん」
苗字。
いつもの呼び方。
ルール通りの距離。
……なのに、その声だけが少しだけ柔らかい気がして、勝手に胸が騒ぐ。
会議は数字の話ばかりだ。
見込み、確度、更新、次アクション。
営業二課の大型案件はまた揺れている。
上司の眉がわずかに動く。
「相沢さん、ここ、確度Aの根拠は?」
玲央は即答した。
「先方の稟議、今週中に動く見込みです」
「動かなければ、来週の時点で確度を下げます」
——昨日、かなえが上司に言ったのと同じ言葉。
(……拾ってる)
(私が言った“条件”を)
偶然かもしれない。
でも偶然でも、胸が反応してしまう。
会議が終わり、資料を片づける人の流れができる。
かなえはいつも通り、最後に残ってプロジェクタを落とした。
背後から低い声が落ちる。
「結城さん」
振り向く前に分かる。
距離の測り方が、昨日と同じだ。
かなえは仕事の顔のまま振り向いた。
「何か?」
玲央は周りを一瞬確認して、声をほんの少しだけ落とした。
「……昨日、寝れた?」
聞き方が、業務じゃない。
でも“心配”という形をしているから、断りづらい。
かなえは表情を崩さないまま答えた。
「寝ました」
「そっか」
その短い返事が、なぜか嬉しそうで腹立たしい。
「無理しないで」
玲央が付け足す。
「……今期、結城さんのとこ、負担増えてるでしょ」
ここで仕事に寄せてくるのがずるい。
かなえは刺す。
「営業が揺らすからです」
玲央は苦笑した。
「それは……ごめん」
一拍置いて、さらっと言う。
「二課のフォーマット、今日中に統一案出す。ちゃんと」
口だけじゃない。
その“ちゃんと”が、じわじわ胃を痛くする。
玲央は、少しだけ笑った。
「……じゃあ、仕事戻る」
立ち去る前に、視線が一瞬だけ柔らかくなる。
「結城さん」
苗字。
距離。
ルール。
……なのに、目だけが昨夜の続きみたいに近い。
◇
昼休み。
かなえはデスクでサンドイッチの袋を開けた。
食べる気はないのに、胃を空にすると余計に痛い。
スマホが震えた。
水野美緒。
『結城さん、さっきの会議おつです〜!』
『相沢さん、今日ちょっと機嫌よくないですか?笑』
機嫌。
その単語が、胸の奥をざらつかせる。
(……関係ない)
(関係ないのに、気になる)
かなえは結局、いちばん正しい返事を選んだ。
『業務の話だけでお願いします』
既読。
『ですよね!すみません!』
『でも相沢さん、最近「結城さん頼れる」って言うこと多いですよ〜』
頼れる。
褒め言葉なのに、胸の奥が苦い。
(……私のことを)
(他の人に言わないで)
言える立場じゃないのに、思ってしまう。
かなえはスマホを伏せた。
◇
午後。
コピー機の前で紙詰まりを直していると、玲央が通りかかった。
すれ違いざま、いつもの距離で言う。
「結城さん、午後イチの資料、投げました。確認お願いします」
「了解です」
業務の会話。
それで終わるはずだった。
——なのに、玲央は足を止めないまま、ほんの少しだけ声を落とした。
「……かなえさん」
耳元に落ちるくらいの小さな声。
でも、はっきり聞こえた。
かなえの手が止まった。
(……今)
(今、私の名前)
振り向けない。
振り向いたら、顔に出る。
玲央は何事もなかったみたいに歩き去る。
残されたのは、紙とインクの匂いの中に混ざった熱。
(嬉しい)
嬉しいのに胃が痛い。
“俺だけ特別”みたいに、勝手に意味をつけてしまうのが怖い。
◇
定時を過ぎても仕事が残った。
今期の数字は、今日も優しくない。
ようやくPCを閉じたとき、フロアはだいぶ静かになっていた。
帰り支度をしていると、内線が鳴る。
玲央から。
『結城さん、今いいですか。三分だけ』
“三分だけ”。
数字みたいな区切り方が、玲央らしい。
かなえは小さく息を吸って、返した。
『今、出ます』
指定されたのはフロアの外れの給湯室。
人が少ない時間帯。
扉を開けると、玲央がカップを持って立っていた。
コーヒーの匂い。少しだけ苦い匂い。
「すみません、急に」
「三分って何ですか」
玲央は困ったみたいに笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。
「……これ」
カップを差し出す。
「胃、今日も痛そうだったから」
かなえの胃が、今まさにきゅっと鳴った。
「見てません」
「見てる」
玲央は即答して、少しだけ言い訳みたいに続ける。
「仕事の顔してても、そういうの分かる」
分かる。
その言葉が近い。
かなえは受け取らない。
「職場に持ち込まないって——」
言いかけたとき、玲央はすぐ頷いた。
「持ち込まない」
「これは、ただの差し入れ」
一拍置いて、声が柔らかくなる。
「……結城さんが倒れたら困るから」
かなえは唇を噛んだ。
言い返す言葉が見つからない。
玲央は、カップを下げないまま言った。
「ねえ、結城さん」
「一個だけ、聞いていい?」
嫌な予感がするのに、断れない。
「……何ですか」
玲央は少しだけ息を吸って、言い切った。
「俺だけ特別、って言ったら——重い?」
かなえの胸が、どくんと鳴った。
胃が痛いのに、そこだけ熱い。
「……は?」
玲央はごまかさない。
笑って逃げない。
その真面目さが、いちばんずるい。
「会議とか、みんなの前では“結城さん”でいい」
「それは守る。守りたい」
「でも……二人のときだけ」
玲央は少しだけ目を細めた。
「かなえさんって呼びたい」
「俺だけ、っていう感じにしたい」
——俺だけ。
かなえの胸がきゅっと縮む。
嬉しい。嬉しいのに苦しい。
「……なんで」
声が小さくなる。
自分でも驚くくらい、弱い。
玲央は少し考えて、正直みたいに言った。
「分かんない」
「昨日から、結城さんが……近い」
「近いっていうか、放っとけない」
無自覚。
自覚してないから、簡単に刺さる。
玲央は、もう一歩だけ踏み込む。
「ねえ」
「名前で呼んでもいい?」
許可を取る言い方。
でも“許可を取られたら断りづらい”のも分かってる言い方。
かなえは視線を逸らした。
断れば楽だ。
でも断ったら、戻れない気がする。
戻れないのに、戻りたくないと思ってしまうのが怖い。
かなえは、正論に変換する。
「……ここ、会社です」
玲央はすぐ頷く。
「うん。だから今ここでは、結城さん」
「二人きりになったら——」
そこで止めて、もう一度聞くみたいに言う。
「……だめ?」
だめ、と言えば終わる。
終われば楽だ。
でも、終わらせたくない。
かなえは唇を噛んで、いちばん逃げ道のある言葉を選んだ。
「……ルールの範囲で」
玲央の目が、ほんの少しだけ緩む。
「うん。ルールの範囲で」
それから、カップをまた差し出す。
「これ、飲んで。ほんとに」
かなえは迷って、結局受け取った。
受け取ってしまった。
受け取った瞬間、玲央が小さく息を吐く。
「……よかった」
よかった、って言うのが、所有みたいに聞こえてしまって、胃が痛い。
玲央は腕時計を見た。
「……三分、過ぎた」
「ごめん。もう戻る」
戻ると言いながら、扉に手をかける前に一瞬だけ振り返る。
「結城さん」
会社の呼び方で、ちゃんと距離を置いて。
それから、声を落として、確かめるように言う。
「……かなえさん」
(言ってもいい?って、今の確認)
かなえは返事ができなかった。
できないのに、否定もしなかった。
玲央はそれを、肯定だと受け取ったみたいに小さく頷いて、給湯室を出ていった。
かなえはカップを握ったまま、動けなかった。
コーヒーは熱いはずなのに、手が冷たい。
(嬉しい)
(嬉しいのに、苦しい)
名前ひとつで、こんなに揺れる。
スマホが震えた。
玲央から。
『今日、終電まで』
『……会っていい?』
——そして、追い打ちみたいにもう一件。
『俺だけ特別ってやつ、嫌だったら言って』
『でも、嫌って言われたらたぶん落ち込む』
ずるい。
ずるいのに、正直だ。
かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。




