第6話 仕事の顔で、ほどける
目が覚めた瞬間、かなえはまず胃を押さえた。
二日酔いじゃない。
酔っていないはずなのに、吐き気に似た重さがある。
胸の奥に熱が残っていて、それが胃まで落ちてきたみたいに、じわじわ痛い。
(恋人じゃない)
(詮索しない)
(職場に持ち込まない)
(終電まで)
昨夜、改札の前で決めたルール。
守るために決めたはずなのに、決めた途端に身体のほうが落ち着かなくなるのが腹立たしい。
枕元のスマホが震えた。
相沢玲央。
『起きた?』
『……眠れた?』
それだけ。
ただ、体調を確認するみたいな二行。
かなえは、いちばん無害な文字を選んだ。
『起きました』
『大丈夫です』
既読。
『よかった』
『今日、無理しないで』
無理しないで。
それだけで胃がきゅっと鳴る。
◇
出社。
救いは、今期の数字が優しくないことだ。
優しくないから、余計なことを考える暇がない。
今期は「攻める期」だと会社は言う。
攻めるという名の、KPI増加。
報告増加。
会議増加。
そして企画の負担増加。
営業は「客がこう言ってる」で逃げられる。
現場は「現場が詰まってる」で逃げられる。
でも営業企画は逃げられない。
数字が揺れれば、根拠を求められる。
根拠を出せば、改善案を求められる。
改善案を出せば、回すのは結局こちらになる。
(回さないと回らない)
午前中は、実績の取りまとめと会議資料の修正で潰れた。
営業二課の動きは、今期特に荒い。
大型案件を追って、外して、また追って、外す。
そのたびに見込みが揺れて、資料のグラフがぐにゃぐにゃ変わる。
見込みが揺れれば、上が不安になる。
不安になれば、確認が増える。
確認が増えれば、企画の負担が増える。
かなえの胃が痛いのは、恋のせいだけじゃない。
昼前。
上司が資料を指で叩いた。
「結城さん、営業二課の見込み」
「これで確度Aに置いていい?」
置きたくない。
でも置かないと、全体数字が足りない。
かなえは息を止めて、言葉を選ぶ。
「確度Aに置くなら、条件付きです」
「今週中に先方の稟議ステータスが動くこと」
「動かなければ、来週の段階で確度を落とします」
「条件付きね。入れて」
◇
昼休み。
かなえはデスクで栄養ゼリーを開けた。
味がしない。
スマホが震えた。
水野美緒。
『結城さん、今いいですか?』
『昨日の夜のことなんですけど…』
(昨日の夜)
その四文字で胃がぎゅっと鳴る。
『要件をどうぞ』
既読。
『結城さん、昨日 相沢さんとごはんでしたよね?』
『えっと、もしかして……付き合ってるんですかー?』
“付き合ってる”は、かなえの胃の奥にいちばん正確に刺さる言葉だ。
かなえは反射で、強がりを選ぶ。
『違います』
『業務の延長です。誤解を招くのでやめてください』
既読。
『ですよね!すみません!』
『二課で「昨日相沢さんが珍しく“結城さんと飯”って言ってて」』
『え?ってなって、つい…』
“珍しく”。
他人の口から、玲央の温度を渡される。
胸の奥がちくっとして、すぐに胃が痛くなる。
『そんな事はないので、無用な詮索は控えてください』
送信して、スマホを伏せた。
◇
午後。
営業二課の見込み更新が立て続けに入る。
数字が動くたびに、グラフが崩れる。
定時を過ぎても仕事が終わらない。
終わらないのに、終わらせなきゃいけない。
ようやくPCを閉じたころ、スマホが震えた。
玲央から。
『今、同期と飲んでる』
『飲みすぎないようにするね』
『また結城さんに心配かけちゃうから』
——心配。
かなえは指が止まった。
心配した覚えなんてない。
そういうことにしておきたい。
でも「飲みすぎないで」って言葉が、自分の中から勝手に浮かぶ。
かなえは“必要な文”だけ返した。
『無理しないでください』
『帰り、気をつけて』
既読。
『うん』
少し間が空いて、もう一件。
『今、結城さんの顔が浮かんでる』
息が止まった。
さらに追い打ち。
『会いに行ってもいい?』
『少しだけ。終電まで』
終電まで。
こっちが言ったルールを、向こうが先に使う。
かなえは“ルール”を盾にして返す。
『終電までです』
『それ以上は無理です』
既読。
『分かった』
『すぐ行く。……ありがとう』
◇
自宅に帰宅してすぐ、
インターホンが鳴った。
ドアスコープ越しの玲央は、少しだけ頬が赤い。
酔っているというより、外気で熱が上がった顔。
それでも目だけがやけに真面目で、胸がざわつく。
ドアを開けると、玲央が小さく息を吐いた。
「……来ちゃった」
「終電までです」
玲央は「うん」と素直に頷いた。
「分かってる」
言い訳みたいに続ける。
「……でも、顔見たら落ち着くって思って」
かなえは靴箱に寄りかかって腕を組んだ。
「同期と飲んでたんですよね」
「うん」
玲央は短く答えて、目を逸らさずに続けた。
「……心配かけたくなくて、言っとこうと思った」
「送ったら、余計に結城さんのこと考えた」
無自覚に、懐いてくる。
無自覚に、寄りかかってくる。
「もう会えましたし……帰ってください」
言ったはずなのに、声が弱い。
玲央はすぐ頷く。
「帰るよ」
でも小さく付け足す。
「……帰るけど、今のまま帰るの、ちょっとつらい」
つらい。
恋じゃない言葉で、欲しいと言ってくる。
玲央がほんの少しだけ近づく。
触れない距離。逃げられる距離。
「……触れていい?」
許可を取る声音が、前と同じだ。
かなえは答えられなかった。
答えられないまま、玲央の指が頬の横に触れて、髪を耳にかける。
その手つきが、ひどく丁寧で——
丁寧なぶんだけ、逃げ場がなくなる。
「……結城さん」
名前を呼ばれただけで胃が痛い。
痛いのに、甘い。
キスは、急じゃなかった。
急かさない。急かさないのに、逃がさない。
かなえは袖を掴んでしまった。
拒否じゃない。止めてもいない。
(……私が悪い)
(私が、入れた)
玲央が息を吐いて、額を寄せる。
「……終電まで」
かなえがやっと言う。
玲央は笑わない。
真剣に頷く。
「うん。守る」
守ると言いながら、もう一度キスをする。
甘いのに、怖い。
玲央の指先がかなえの手を探す。
握らない。絡めない。触れるだけ。
その“遠慮”が、いちばんずるい。
「……結城さん」
玲央の声が掠れる。
「だめって言ったら、止める」
「……でも、止められるの、苦手」
かなえの胸が痛いほど跳ねた。
かなえは唇を噛んで、視線を逸らした。
「……終電、守ってください」
それが、許可みたいに響いてしまった。
——その先は、言葉にすると現実になる。
暗転。
◇
時計が一時に近づいたころ、玲央はようやく体を起こした。
「……帰る」
かなえは強がってしまう。
「……分かりました」
玄関まで来て、かなえが小さく言った。
「……終電、間に合いますか」
玲央は靴を履きかけたまま、ほんの少しだけ笑った。
「間に合う」
「……結城さん、心配しすぎ」
「してません」
「してる」
玲央は即答して、すぐに少し困ったみたいに目を細める。
「……してくれるの、ありがたい」
かなえは言い返せず、代わりにドアノブに手を添えた。
「……じゃあ、閉めます」
玲央は一瞬だけ黙って、それから「うん」と頷いた。
その頷きが、妙に優しい。
ドアが閉まる。
廊下の足音が遠ざかっていく。
かなえは背中をドアに預けた。
胸が熱い。胃が痛い。
痛いのに、甘い。
しばらくしてスマホが震えた。
『帰れた。ありがとう』
追い打ちみたいに、もう一件。
『恋人じゃないのは分かってる』
『でも、これ……何て呼べばいい?』
かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。
名前をつけたら、壊れる気がする。
でも名前がないままだと、もっと壊れる気もする。




