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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第6話 仕事の顔で、ほどける


目が覚めた瞬間、かなえはまず胃を押さえた。


二日酔いじゃない。


酔っていないはずなのに、吐き気に似た重さがある。

胸の奥に熱が残っていて、それが胃まで落ちてきたみたいに、じわじわ痛い。


(恋人じゃない)

(詮索しない)

(職場に持ち込まない)

(終電まで)


昨夜、改札の前で決めたルール。

守るために決めたはずなのに、決めた途端に身体のほうが落ち着かなくなるのが腹立たしい。


枕元のスマホが震えた。


相沢玲央。


『起きた?』

『……眠れた?』


それだけ。

ただ、体調を確認するみたいな二行。


かなえは、いちばん無害な文字を選んだ。


『起きました』

『大丈夫です』


既読。


『よかった』

『今日、無理しないで』


無理しないで。

それだけで胃がきゅっと鳴る。



出社。


救いは、今期の数字が優しくないことだ。

優しくないから、余計なことを考える暇がない。


今期は「攻める期」だと会社は言う。


攻めるという名の、KPI増加。

報告増加。

会議増加。

そして企画の負担増加。


営業は「客がこう言ってる」で逃げられる。

現場は「現場が詰まってる」で逃げられる。

でも営業企画は逃げられない。


数字が揺れれば、根拠を求められる。

根拠を出せば、改善案を求められる。

改善案を出せば、回すのは結局こちらになる。


(回さないと回らない)


午前中は、実績の取りまとめと会議資料の修正で潰れた。


営業二課の動きは、今期特に荒い。


大型案件を追って、外して、また追って、外す。

そのたびに見込みが揺れて、資料のグラフがぐにゃぐにゃ変わる。


見込みが揺れれば、上が不安になる。

不安になれば、確認が増える。

確認が増えれば、企画の負担が増える。


かなえの胃が痛いのは、恋のせいだけじゃない。


昼前。

上司が資料を指で叩いた。


「結城さん、営業二課の見込み」

「これで確度Aに置いていい?」


置きたくない。

でも置かないと、全体数字が足りない。


かなえは息を止めて、言葉を選ぶ。


「確度Aに置くなら、条件付きです」

「今週中に先方の稟議ステータスが動くこと」

「動かなければ、来週の段階で確度を落とします」


「条件付きね。入れて」



昼休み。


かなえはデスクで栄養ゼリーを開けた。

味がしない。


スマホが震えた。


水野美緒。


『結城さん、今いいですか?』

『昨日の夜のことなんですけど…』


(昨日の夜)


その四文字で胃がぎゅっと鳴る。


『要件をどうぞ』


既読。


『結城さん、昨日 相沢さんとごはんでしたよね?』

『えっと、もしかして……付き合ってるんですかー?』


“付き合ってる”は、かなえの胃の奥にいちばん正確に刺さる言葉だ。


かなえは反射で、強がりを選ぶ。


『違います』

『業務の延長です。誤解を招くのでやめてください』


既読。


『ですよね!すみません!』

『二課で「昨日相沢さんが珍しく“結城さんと飯”って言ってて」』

『え?ってなって、つい…』


“珍しく”。


他人の口から、玲央の温度を渡される。

胸の奥がちくっとして、すぐに胃が痛くなる。


『そんな事はないので、無用な詮索は控えてください』


送信して、スマホを伏せた。



午後。


営業二課の見込み更新が立て続けに入る。

数字が動くたびに、グラフが崩れる。


定時を過ぎても仕事が終わらない。

終わらないのに、終わらせなきゃいけない。


ようやくPCを閉じたころ、スマホが震えた。


玲央から。


『今、同期と飲んでる』

『飲みすぎないようにするね』

『また結城さんに心配かけちゃうから』


——心配。


かなえは指が止まった。


心配した覚えなんてない。

そういうことにしておきたい。


でも「飲みすぎないで」って言葉が、自分の中から勝手に浮かぶ。


かなえは“必要な文”だけ返した。


『無理しないでください』

『帰り、気をつけて』


既読。


『うん』

少し間が空いて、もう一件。


『今、結城さんの顔が浮かんでる』


息が止まった。


さらに追い打ち。


『会いに行ってもいい?』

『少しだけ。終電まで』


終電まで。

こっちが言ったルールを、向こうが先に使う。


かなえは“ルール”を盾にして返す。


『終電までです』

『それ以上は無理です』


既読。


『分かった』

『すぐ行く。……ありがとう』



自宅に帰宅してすぐ、

インターホンが鳴った。


ドアスコープ越しの玲央は、少しだけ頬が赤い。

酔っているというより、外気で熱が上がった顔。

それでも目だけがやけに真面目で、胸がざわつく。


ドアを開けると、玲央が小さく息を吐いた。


「……来ちゃった」


「終電までです」


玲央は「うん」と素直に頷いた。


「分かってる」


言い訳みたいに続ける。


「……でも、顔見たら落ち着くって思って」


かなえは靴箱に寄りかかって腕を組んだ。


「同期と飲んでたんですよね」


「うん」


玲央は短く答えて、目を逸らさずに続けた。

「……心配かけたくなくて、言っとこうと思った」

「送ったら、余計に結城さんのこと考えた」


無自覚に、懐いてくる。

無自覚に、寄りかかってくる。


「もう会えましたし……帰ってください」


言ったはずなのに、声が弱い。


玲央はすぐ頷く。


「帰るよ」

でも小さく付け足す。

「……帰るけど、今のまま帰るの、ちょっとつらい」


つらい。

恋じゃない言葉で、欲しいと言ってくる。


玲央がほんの少しだけ近づく。

触れない距離。逃げられる距離。


「……触れていい?」


許可を取る声音が、前と同じだ。


かなえは答えられなかった。

答えられないまま、玲央の指が頬の横に触れて、髪を耳にかける。


その手つきが、ひどく丁寧で——

丁寧なぶんだけ、逃げ場がなくなる。


「……結城さん」


名前を呼ばれただけで胃が痛い。

痛いのに、甘い。


キスは、急じゃなかった。

急かさない。急かさないのに、逃がさない。


かなえは袖を掴んでしまった。

拒否じゃない。止めてもいない。


(……私が悪い)

(私が、入れた)


玲央が息を吐いて、額を寄せる。


「……終電まで」

かなえがやっと言う。


玲央は笑わない。

真剣に頷く。


「うん。守る」


守ると言いながら、もう一度キスをする。

甘いのに、怖い。


玲央の指先がかなえの手を探す。

握らない。絡めない。触れるだけ。


その“遠慮”が、いちばんずるい。


「……結城さん」

玲央の声が掠れる。

「だめって言ったら、止める」

「……でも、止められるの、苦手」


かなえの胸が痛いほど跳ねた。


かなえは唇を噛んで、視線を逸らした。


「……終電、守ってください」


それが、許可みたいに響いてしまった。


——その先は、言葉にすると現実になる。


暗転。



時計が一時に近づいたころ、玲央はようやく体を起こした。


「……帰る」


かなえは強がってしまう。


「……分かりました」


玄関まで来て、かなえが小さく言った。


「……終電、間に合いますか」


玲央は靴を履きかけたまま、ほんの少しだけ笑った。


「間に合う」

「……結城さん、心配しすぎ」


「してません」


「してる」

玲央は即答して、すぐに少し困ったみたいに目を細める。

「……してくれるの、ありがたい」


かなえは言い返せず、代わりにドアノブに手を添えた。


「……じゃあ、閉めます」


玲央は一瞬だけ黙って、それから「うん」と頷いた。

その頷きが、妙に優しい。


ドアが閉まる。

廊下の足音が遠ざかっていく。


かなえは背中をドアに預けた。

胸が熱い。胃が痛い。

痛いのに、甘い。


しばらくしてスマホが震えた。


『帰れた。ありがとう』


追い打ちみたいに、もう一件。


『恋人じゃないのは分かってる』

『でも、これ……何て呼べばいい?』


かなえは返信欄に指を置いたまま、動けなかった。


名前をつけたら、壊れる気がする。

でも名前がないままだと、もっと壊れる気もする。


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