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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第5話 名前のないまま



『今度、ちゃんと飯行こ。二人で』


“二人で”の四文字が、指先に残る。

ただの食事。そう言い聞かせても、胸の奥が先に反応する。


かなえは返信欄を開いて、閉じて、また開いた。


軽く返したい。

でも軽く返すと、どうでもいいみたいに見えそうで怖い。

怖いくせに、重く返すのはもっと怖い。


結局、いちばん逃げ道のある言葉を選ぶ。


『今週は立て込んでます。落ち着いたらで』


既読がつくのが早い。


『了解。じゃあ来週』

『落ち着いてそうな日、教えて。無理なら無理って言って』


無理なら無理って言って。

押してこない言い方が、ずるい。


——週明け。


フロアで玲央の姿を見つけた瞬間、視界の端が勝手に引っ張られた。

社交的で、軽そうで、いつも通りの顔。

なのに、一度でも“会社の外”を知ってしまうと、同じ顔が別物に見える。


すれ違いざま、低い声が落ちる。


「おはようございます、結城さん」


「……おはようございます」


必要最低限の返事。

それだけで終わらせるつもりなのに、玲央の口元がほんの少しだけ緩む。

それが、仕事の会釈の範囲を超えて見えてしまって、かなえは急いで視線を切った。


午前は数字の取りまとめで埋まった。

営業二課からの実績も、例外なく飛んでくる。


水野美緒からの連絡は、今日は妙に業務的だった。


『結城さん!二課の実績まとめました!送ります!』


かなえは業務の顔で返す。


『ありがとうございます。受領しました』


既読。


それだけのやり取りなのに、どこかほっとする自分がいる。


——昼過ぎ。


玲央から社内チャット。


『来週、木曜ってどう?』

『仕事終わり。短時間でいい』


短時間でいい。

押し付けない形をした押し。


かなえは息を吐いて返した。


『木曜なら』

『短時間なら大丈夫です』


『助かる。ありがとう』


ありがとう、が刺さる。

でも、断らなかったのは自分だ。


——木曜。


ビルの外で待っていた玲央は、きちんとスーツを着ていた。

ネクタイも締まっている。仕事終わりの顔。

その“ちゃんとしてる”が、妙に落ち着かない。


「結城さん」


近づいてくる距離が、ちょうど怖い。


「お疲れさまです」


「お疲れ。……今日、来てくれてありがとう」


「まだ何もしてません」


「来てくれた」


店は静かだった。

照明が柔らかくて、声が必要以上に混ざらない。


玲央がふと聞いた。


「……ここ、嫌じゃない?」


「嫌じゃないです。静かなので」


即答してしまって、かなえは自分に驚く。


料理が運ばれてきて、会話は自然に“仕事の延長”から始まった。


「今期、しんどいですよね」


「毎年しんどいって言ってますよ、営業は」

「数字出たら急に黙るくせに」


玲央が笑う。


「否定できない」


少し真面目に玲央が言った。


「結城さんのとこに投げてる資料」

「あれ……面倒じゃない?」


「面倒です」

「フォーマットが毎回違うから、差分探すのが地味に地獄」

「直してるうちに、どれが正しいか分からなくなる」


「うわ……ごめん」

「俺、フォーマット弱い」


「弱いなら聞けばいいんです」

「聞かないから、直す人が増えるんですよ」


玲央は笑わずに頷いた。


「うん。直す」

少し言いにくそうに続ける。

「……俺、結城さんのこと、最初ちょっと怖かった」


「失礼ですね」


「失礼だけど」

玲央は軽く息を吐く。

「ちゃんとしてる人って感じ。雑にできない」


かなえは話題をずらす。


「……営業二課、今期かなり攻めてますよね」


「攻めてる、って言えば聞こえいいけど」

玲央は苦笑する。

「正直、見込みの更新、追いかけるだけで手一杯」


「その“手一杯”が、こっちに来るんです」


「それはほんと、ごめん」

「……でも、結城さんが回してくれてるから、崩れてない」


食事が終わり、玲央が会計を済ませた。


「割り勘にします」


「今日は俺が誘ったから」

「次、結城さんが誘ったらその時でいい」


次、が刺さる。


改札が見えたところで、かなえは足を止めた。


「……相沢さん」


「ん?」


息を吸う。

本音のまま言うと壊れる。

だから、いつもの“安全な言い方”に変換する。


「私、恋人とか……そういう話題、得意じゃないです」


玲央は驚いた顔をして、それから少し困ったみたいに笑う。


「……うん」

すぐに真面目な声になる。

「結城さんが嫌なら、そういう話しない」


かなえは慌てて補足する。


「嫌、というより……職場が同じなので」

「ややこしくなるのは避けたいです」


玲央は少し考えて、頷いた。


「じゃあ、決めとく?」

「結城さんが安心できるやつ」


かなえは恐る恐る言う。


「……恋人じゃない」

「詮索しない」

「会社に持ち込まない」

「……終電まで」


玲央はすぐ頷く。


「うん。全部いい」

少しだけ崩れた敬語で続ける。

「終電まで、守る。帰れなくなるのは嫌でしょ」


かなえは最後に、いちばん怖いことを口にする。


「……もし、彼女ができたら」

「この約束は終わりでいいです」


玲央は一瞬だけ止まった。

けれどすぐに、軽く頷く。


「分かった」

軽く言うのに、声の奥が少しだけ硬い。

「……その時は言う」


改札の前で、玲央が最後に言った。


「それと、もう一個だけ」

「帰ったら“着いた”って一言。返事いらない」

「……俺が落ち着く」


かなえは迷って、でも“ルール”としてなら受け入れられる気がしてしまった。


「……一言だけなら」


玲央はほっとしたみたいに息を吐く。


「ありがとう」



帰宅して、鍵を回して、玄関の明かりをつける。

部屋は静かで、静かすぎて、胸の音だけがうるさい。


——打つだけ。

ルールだから。


『着きました』


既読がつくのは早かった。


『よかった』


たったそれだけなのに、胃が痛い。


恋人じゃないって決めたのに。

決めたから安心できるはずなのに。


“終電まで”。


あの約束が、守るためじゃなく

逃げ道として自分を縛るための紐みたいに思えて、かなえは目を閉じた。


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