第39話 おかえり、と言うには早い
ドアが開いた瞬間、部屋の匂いがした。
コーヒーと、洗剤と、ほんの少しだけ――玲央の体温みたいな匂い。
玄関灯が、やけに眩しい。
かなえは息を整える前に、靴を脱ぎかけてしまった。
反射で。習慣で。
そうしてしまった自分が、いちばん腹立たしい。
「……おかえり」
入って、じゃない。
帰ってきた前提の言葉が、胸の奥にぬるく残る。
「……ただいま、じゃないです」
刺しておかないと、崩れる気がした。
玲央は「うん」とだけ言った。
否定しない。
訂正もしない。
代わりに、かなえの手からバッグを受け取る。
「持つ」
「自分で――」
「うん、持てる。知ってる」
玲央はさらっと言って、そこで一拍置いた。
「……今夜だけでいい。ここ、入って」
“今夜だけ”。
逃げ道みたいな言葉を先に置いて、選択肢を減らすやり方。
かなえは唇を噛んだ。
帰るべき場所はここじゃない。言えばいい。
でも、言った瞬間に、今日の夜全部が“決定”になりそうで怖い。
結局、かなえは頷いてしまった。
頷く代わりに、小さく条件を出す。
「……話、します」
「それだけです」
「うん」
玲央の返事が早い。
早すぎて、もう“そうする”って決まっていたみたいで。
リビングに入ると、エアコンの温度がちょうどよかった。
ちょうどよすぎて、逃げ場がない。
玲央はかなえのコートを受け取って、ハンガーに掛けた。
迷いがない。
当たり前の所作みたいに。
「……何か飲む?」
「コーヒー、紅茶、白湯」
白湯じゃないのが、妙に腹立つ。
“ちゃんとした生活”を装われている気がして。
「……いりません」
「じゃあ、紅茶」
玲央は勝手に決めてキッチンへ行く。
拒否を拾わないわけじゃない。
拾って、別の形にしてしまう。
(……善意の顔して)
(選択肢、減らしてくる)
かなえはソファの端に座った。
端に座るのに、部屋の中心にいるみたいに落ち着かない。
玲央がカップを置く。
湯気が立つ。
香りがふわっと広がって、喉が勝手に緩む。
「……飲まなくていい」
玲央は小さな声で言った。
「置いておくだけでいい」
それが、余計に逃げづらい。
かなえはカップに触れずに、玲央を見た。
見た瞬間、胃がきゅっと鳴った。
――金曜に帰らなかった。
返信もしなかった。
週末が過ぎて、月曜も避けた。
それでも、こうして目の前にいる。
玲央は、責める顔をしない。
怒っていないみたいな顔で、ただ落ち着かない目をしている。
落ち着かないのに、落ち着いて見せようとしている。
「……何がしたいんですか」
声が少しだけ硬くなる。
硬くしておかないと、柔らかくなるのが怖い。
玲央は一瞬だけ目を伏せて、それから、いつもの低い声で言った。
「……顔、見たかった」
「今夜だけでいいから」
“今夜だけ”をまた置く。
置いた瞬間に、その“今夜”が特別になる。
「それ、」
かなえは息を吐いた。
「……ルール違反です」
玲央の眉がわずかに動く。
でも、すぐに元に戻る。
「うん。だから、今夜だけ」
玲央は淡々と言った。
「怒らないで。責めないから」
「……話、しよ」
話。
その単語だけが救いになる。
体の温度じゃなくて、言葉でちゃんと切りたい。
そう思っているのに――この部屋にいる時点で、もう負けている気がする。
かなえは呼吸を整えた。
「まず」
「……神谷さんのこと」
言った瞬間、玲央の視線が一段だけ低くなる。
その変化が、分かりやすくて胃が痛い。
「神谷さんと何話してたの」
玲央の声は平坦だった。
平坦なのに、腹の底だけが硬い。
かなえの背中がぞわっとした。
「……聞いてたんですか」
「少し」
玲央はあっさり言う。
「全部じゃない」
全部じゃない、なんて。
部分だけでも十分だ。
部分だけで、想像が膨らむから。
「相沢さんには関係ないです」
かなえは盾を出す。
盾を出せば、ここから引けると思った。
引けるわけがないのに。
玲央が、一拍置いて言った。
「……玲央、でしょ」
それだけで、喉が詰まる。
呼び名ひとつで、関係を引き戻される。
かなえは視線を逸らして、強がりを口にした。
「……もう呼びません」
言った瞬間、自分でも息が止まった。
そこまで言うつもりじゃなかったのに。
玲央の目が、はっきり揺れた。
ほんの一瞬、傷ついた顔が出る。
すぐ隠そうとして、隠しきれない。
それでも玲央は、追い詰めてこなかった。
追い詰めない。
追い詰めない方が、ずるい。
「……分かった」
玲央は喉を鳴らして、静かに言った。
「ごめん」
謝ってほしいのはそこじゃない。
でも、そこを謝られると、自分が悪いみたいになる。
かなえは唇を噛んだ。
「美緒のこと」
玲央が続けた。
ここでようやく、かなえの誤解の中心を触ってくる。
「ただの後輩だよ」
「元々、距離感近い子だったじゃん」
……距離感。
そう言われたら、反論しにくい。
仕事の場では、そういう人はいる。
でも。
(でも、名前で呼ぶくらいには心許している)
かなえの中で、その一行がきっぱり立つ。
距離感が近い、じゃない。
“美緒”って呼ぶのは、許してるからだ。
自分には、呼び名ひとつで線を引いたくせに。
胃の奥が、じわじわ痛む。
「……そうですか」
平然を装う声が、少しだけ震えた。
玲央は、震えに気づいたのか気づいてないのか分からない顔をした。
分からない顔をして、分かる言葉を選ぶ。
「誤解だよ」
玲央は淡々と言う。
「俺、結城さんが嫌なことしないって言った」
「……してない」
“してない”。
事実かもしれない。
でも、見た光景は消えない。
距離が近くて、笑っていて。
あれが“何でもない”なら、じゃあ自分は何だったの。
かなえは、喉の奥が苦くなるのを飲み込んだ。
「……嫉妬してるみたいで嫌なんです」
口に出してしまった。
出した瞬間、恥ずかしくて胃が痛い。
玲央の表情が、少しだけ明るくなる。
その明るさが、いちばん腹立たしい。
「ヤキモチ?」
玲央は確かめるみたいに言う。
嬉しそうなのに、嬉しそうって言えない顔。
「……違います」
「違わない」
玲央は笑いそうになって、笑わずに息を吐いた。
「……そうだったら、嬉しい」
嬉しい、なんて。
恋人じゃないのに、そんな感情を置いてくる。
かなえは言い返せなかった。
言い返したら、恋人の話になる気がしたから。
玲央はそこで、勝手に着地する。
“解けた”みたいに、少し肩が落ちる。
「じゃあさ」
玲央は、話題を“正しい言葉”に変えなかった。
正しい言葉に逃げる余裕がないみたいに、かなえを見た。
「……これで、誤解……解けた?」
不安そうに眉が寄る。
なのに、口元だけがふわっと緩む。
嬉しいのを隠せない顔で、でも、次の瞬間には折れそうな目。
「……かなえさん、まだ不安?」
「……俺、何か、まだ足りてない?」
答えを待つ間の沈黙が、やけに重い。
責めてこない分、逃げ道だけがなくなる。
かなえは喉の奥がきゅっと痛んだ。
(納得なんて、してない)
(美緒のことも)
(神谷さんのことも)
(私が、どうしてこんなに苦しいのかも)
言葉にできないものが多すぎて、口を開くほど崩れそうだった。
玲央は、確かめるみたいにもう一度だけ言う。
「……来週」
声が少しだけ小さくなる。
「来週の金曜、帰ってきてくれるよね」
“帰ろう”じゃない。
“迎えに行く”でもない。
待つ側みたいな顔をして、選ぶ側をかなえに押しつける言い方。
寂しそうな声なのに、胸の奥にぴたりと爪が立つ。
かなえは息を吸って、強がりを出そうとして――出せなかった。
こんな不安そうで、折れそうで、
それでも嬉しそうに笑ってしまう玲央を、
放っておけない。
(……ずるい)
(そんな顔されたら、私が悪者になる)
かなえは結局、曖昧な逃げ道を選ぶ。
「……分かりません」
そう言いかけて、声がかすれた。
玲央の目が揺れる。
揺れたまま、無理に笑おうとする。
「……うん、分かんないよね」
玲央はふわっと笑って、でも、その笑いが薄い。
「ごめん。今、変だね、俺」
その一言が刺さる。
変なのは、どっちだろう。
かなえは、ぎこちなく口角を上げた。
笑った、というより形を作っただけの笑い。
「……来週、また……」
かなえは言葉を探す。
探して、曖昧なまま落とす。
「……分かったら、連絡します」
玲央の肩が、ほんの少しだけ落ちる。
落ちたのに、目尻が柔らかくなる。
「……うん」
玲央は小さく頷いた。
「それでいい」
「……連絡、待ってる」
待ってる、の一言が、
“次の金曜”をもう既成事実にしていくみたいで、
かなえは胸の奥が甘く疼いて、胃が痛かった。
玲央はソファの端に座ったかなえの隣――ではなく、少しだけ離れたところに腰を下ろした。
距離は仕事の距離みたいに見える。
でも手の届く距離。
玲央の指が、かなえの袖口を探る。
触る前に止めて、止められなくて、結局、指先が軽く布をつまむ。
「……触らないでください」
「うん」
玲央は頷いた。
頷いて、指先を離さない。
かなえの胃が、きゅっと鳴る。
「結城さん」
玲央が呼ぶ。
会社の呼び方。
なのに、その声は会社じゃない。
「……今どこに帰るつもりだったの」
どこに。
家が二つある前提みたいな言い方。
かなえは、息を吸った。
「自分の家です」
「うん」
玲央はあっさり頷く。
頷いて、次の言葉を落とす。
「……じゃあ、今日は」
「今日だけ、俺のとこに帰ってきて」
帰ってきて。
選ばせる形。
でも、“帰ってきて”と言われると、断る言葉が汚く見える。
かなえは視線を逸らした。
逸らした先に、テーブルの紅茶の湯気が揺れている。
生活がそこにあるみたいで、胃が痛い。
「……今夜だけ」
自分に言い聞かせるみたいに言うと、玲央が小さく笑った。
笑うのに、目が笑っていない。
笑っていないのに、嬉しそうなのが分かる。
「うん」
玲央は低く言う。
「今夜だけでいい」
指先が、袖口から手首へ滑る。
肌に触れる寸前で止めて、止められなくて、軽く触れる。
かなえは息を止めた。
触れ方が、やさしい。
でも、やさしいだけじゃない。
確かめるみたいな触れ方。
「……落ち着く」
玲央がぽつりと言った。
「こうやって、ここにいるって分かると」
“恋人”の言葉じゃない。
好き、の言葉じゃない。
落ち着く、という便利な言葉。
それなのに、胸の奥が甘く疼いて、胃が痛い。
かなえは、手首を引こうとして引けなかった。
引けないことが、いちばん怖い。
「……神谷さんは」
玲央が、唐突に言った。
かなえの背中が硬くなる。
「神谷さん、結城さんのこと、どう思ってるの」
問いが直球すぎて、胃が痛む。
「……仕事相手です」
「うん」
玲央は頷いた。
「結城さんはそう」
「……神谷さんは?」
同じ質問を、少しだけ形を変えて繰り返す。
逃げ道を減らすやり方。
かなえは声を硬くした。
「玲央には関係ないです」
言い切った瞬間、玲央の手が止まった。
止まって、ゆっくり離れる。
離れてくれるのが、怖い。
離れてほしいはずなのに。
玲央は一度だけ瞬きをして、呼吸を整えるみたいに息を吐いた。
「うん」
玲央は言った。
「……分かった」
分かった、と言うのに、分かっていない目。
でも、ここで玲央は引いた。
引くことで、“いい人”の顔を保つ。
その顔が、いちばんずるい。
「寝る?」
玲央が続けた。
「それとも、もう少しここ」
選択肢を出すふりをして、どっちを選んでも“帰らない”のは同じ。
かなえは喉の奥が痛かった。
「……寝ます」
玲央が立ち上がる。
かなえの前に手を差し出して、止める。
止めるけど、急がせない。
「大丈夫」
玲央は静かに言った。
「急に、何もしない」
“急に”。
その一言が、今までの“急に”を思い出させる。
胃がきゅっと鳴る。
寝室に入ると、照明が落ち着いていた。
ベッドの端が、見慣れてきているのが嫌だ。
玲央はかなえの背中にブランケットを掛ける。
掛ける手が、やけに丁寧で、やさしい。
「……明日」
玲央が言いかけて、止めた。
止めたのが、怖い。
止めないでほしいのに。
「明日、朝ごはん一緒でいい?」
玲央は、笑わずに言った。
「うんって言って」
言質。
同意の採取。
約束じゃない顔で、積み重ねる。
かなえは、拒否したかった。
拒否したいのに、拒否したら“喧嘩”になる。
喧嘩はしたくない。
喧嘩をするくらいなら、静かに離れたい。
でも、この部屋は静かに離れられない。
かなえは目を閉じて、短く言った。
「……うん」
玲央の息が、わずかに緩む。
「ありがとう」
その言葉が、やけに優しくて、胃が痛かった。
玲央がベッドに入り、かなえの背中へ腕を回した。
抱きしめる、というより囲う。
逃げ道を塞ぐ形。
頬が、髪に触れる。
頭をすり寄せるみたいに、呼吸が近い。
まるで猫のマーキングみたいに、静かに匂いを吸われる。
「……そのシャンプー」
玲央がぼそっと言う。
「俺の家の匂いになってきたね」
所属。
そう言われた気がして、かなえの胃が冷たくなる。
「……やめてください」
「うん」
玲央は頷く。
頷いて、やめない。
言葉だけやめて、行為は続ける。
かなえの背中の上、服の布越しに、ゆっくりと唇の気配が落ちる。
直接じゃない。
直接じゃないのに、熱が残る。
かなえは息を止めた。
玲央は囁く。
「今夜だけでいい」
「……ここにいて」
ここにいて。
それが、お願いの形をした命令みたいに聞こえる。
かなえは返事をしなかった。
返事をしないことで、最後の線を守りたかった。
守れているのか分からないのに。
玲央の腕の中で、かなえの意識が少しずつ沈んでいく。
沈みながら、心のどこかで思ってしまう。
(……仲直りじゃない)
(何も解けてない)
(なのに、“おかえり”って言われると)
(戻ってきたみたいになる)
その自分が、悔しい。
悔しいのに、温かい。
温かいのに、胃が痛い。
かなえは、そのまま眠りに落ちた。
***
かなえの呼吸が整ったのを確認してから、玲央はようやく息を吐いた。
静かだ。
腕の中が温かい。
この温度があるだけで、胸の奥のざらつきが少しだけ薄まる。
(……戻った)
戻った、と言いたい。
戻したい。
戻したことにして、安心したい。
玲央は、かなえの髪にもう一度だけ頬を寄せて、目を閉じた。
閉じたはずなのに、視界の端が勝手に動く。
枕元のスマホ。
画面が一瞬だけ光る。
通知。
名前だけが目に入る。
――神谷。
開かない。
開かないのに、喉の奥が苦くなる。
(……なんで、神谷さんならいいの)
(俺には“恋人苦手”って言ったのに)
言葉にしたら、全部が黒く形になる気がして、玲央は息を殺した。
代わりに、腕に力を込める。
逃げられないくらいじゃない。
でも、離れないように。
玲央は、眠るかなえの耳元に、ほとんど息だけで言った。
「……帰ってきて」
「次の金曜も」
お願いの形。
でも、もう決めている声。
玲央は目を閉じたまま、もう一度だけ、自分に言い聞かせる。
(今夜だけ)
(今夜だけでいい)
――そう思っているのに。
胸の奥の濁りは、薄まらなかった。




