第4話 もう少しだけ、近く
相沢さんからの通知を開いたまま、かなえはベッドの上で固まっていた。
『帰れた。ありがとう』
『……さっきの、事故って言う?』
事故。
その単語だけで胃がきゅっと縮む。
事故にしたい。事故にしたら楽だ。
でも「事故」って打った瞬間に、昨夜の自分まで嘘になる気がした。
——あのとき、手首に触れられた。
「触れていい?」と聞かれて、断らなかった。
袖を掴んだのも、息を止めたのも、全部、私だ。
事故にできない。
でも、名前をつけるのも怖い。
返信欄に指を置いて、消して、また置く。
何を書いても何かが始まってしまう気がして、結局、何も打てない。
追い打ちみたいにもう一件。
『俺、たぶん
このままだと、ちゃんと線引きできなくなる』
線引き。
かなえがずっと頼りにしてきた武器だった。
線を引いて笑って、平気な顔をして、仕事を回して、誰にも踏み込ませない。
そうやって生きてきたのに、“できなくなる”と告げられて息が詰まる。
(……勝手に決めないでよ)
(私の線を、私より先に揺らさないで)
そう思うのに、胸の奥が甘く疼いてしまう。
それがいちばん嫌だった。
スマホを伏せて目を閉じる。
眠れない。
眠れないまま、時計だけが進む。
——名前がつくと、怖い。
恋人。
彼氏。
彼女。
その言葉が出た瞬間に、世界のルールが変わる。
「普通はこう」「普通は、ああ」って、誰かの“普通”が一気に押し寄せてくる。
いつ連絡するのが普通?
どれくらい会うのが普通?
どこまで許すのが普通?
嫌だと言ったら、どこまでがわがまま?
かなえは“普通”がいちばん苦手だ。
社交的に見せてはいるけど、人見知りを誤魔化すために喋っているだけ。
サバサバするように見せているけど、感情を出すのが怖いだけ。
好きとか、嫌だとか、ほしいとか。
そういう柔らかい部分を出した瞬間、相手の反応ひとつで自分が崩れるのが分かっている。
だから、なるべく触れない。
なるべく曖昧にする。
曖昧にしておけば、「自分のせい」で終わるから。
——ずるい。
でも、ずるさがないと生きられない。
◇
朝。
起きた瞬間、体の節々より先に胃が痛い。
二日酔いでもないのに、吐き気に似た重さが居座っている。
シャワーを浴びて、髪を乾かして、メイクをして、スーツを着る。
“仕事ができる私”を貼り付ける作業は今日も手早い。
手早いぶんだけ、心が追いつかない。
(事故じゃない)
(でも、名前をつけたくもない)
(……名前をつけた瞬間、全部が壊れる気がする)
駅までの道、冬の空気が肺を冷やす。
冷たいのに、胃の奥の重さは消えない。
消えないまま、会社へ向かう足だけが“いつも通り”に動く。
出社した。
フロアの空気はいつも通りだ。
挨拶、打刻、メール、会議の準備。
ルーティンが現実を整えてくれる——はずなのに。
視界の端に相沢さんの姿が入った瞬間、全部が戻った。
同じ会社。
同じフロア。
同じ空気の中に、昨夜の“続き”が混ざっている。
(……最悪)
かなえは反射で歩幅を変えた。
目を合わせない。近づかない。
そうしないと、表情に全部出る気がした。
通路の角で視線がかち合う。
相沢さんが小さく会釈する。仕事の顔。後輩の顔。
けれどその目だけが、妙に近い。
(やめて)
(その目で見ないで)
かなえは目を逸らして自席に滑り込んだ。
午前中は、無理やり仕事に没頭した。
数字を追い、資料を整え、指示を出し、返答を返す。
頭を使っている間だけは、胃が少し黙る。
——かなえの部署は営業企画だ。
現場の営業部とは距離があるようで、実際は数字の取りまとめで毎月やり取りが発生する。
月末になると、各課から実績報告がチャットで雪崩れてくる。
営業二課も例外じゃない。
二課の窓口は、水野美緒。
絵文字が多くて距離感がやたら近い、若い女性社員だ。
仕事は早いけれど、言葉の選び方が軽くて、かなえの胃に時々チクッと刺さる。
だから名前とアイコンだけは、嫌でも覚えている。
昼前、その美緒から通知が飛んできた。
『結城さん!二課の実績、午前中分は提出しました!』
かなえは短く返す。
『提出ありがとうございます。受領しました』
既読。
それだけで終わるはずのやり取り。
なのに、胸の奥が落ち着かないのが腹立たしい。
(何を気にしてるの)
(今は仕事、でしょ)
言い聞かせて、また数字に潜る。
◇
コピー機の前で資料を揃えていると、背後から低い声が落ちた。
「結城さん」
振り向く前から分かる。
呼び方は会社の距離なのに、温度が少し近い。
かなえは顔だけを動かした。
「……相沢さん。何か?」
“何か?”の棘はわざとだ。
刺しておかないと、自分が崩れる気がする。
相沢さんは一瞬だけ眉を動かしたが、笑わなかった。
代わりに声が少しだけ低くなる。
「昼、少しだけ時間もらえますか」
「……昨日のこと。ここじゃ無理」
かなえの胃が、きりっと鳴った。
「……分かりました。十二時半。屋上の階段」
自分から場所を指定する。
密室はだめ。会議室はだめ。ドアの閉まる場所はだめ。
逃げ道がないと、言葉が出なくなる。
「ありがとうございます」
その“ありがとうございます”が、昨夜より会社の顔で、少しだけ救われる。
救われる自分がまた嫌だ。
——十二時半。
屋上へ上がる階段は、人がほとんど来ない。
非常扉の前で、かなえは腕を組んで待った。
空気が冷たく、指先がじんとする。
(ここで終わらせる)
(終わらせる……って何を)
胸の奥が勝手にざわつくのを、息で押さえた。
相沢さんが現れたのは、約束の時間ぴったりだった。
いつものスーツ。いつもの顔。
なのに、目の下だけ少し影がある。
「……待たせました?」
「待ってません。時間通りです」
かなえが言うと、相沢さんは小さく息を吐いた。
それが、肩の力を抜くみたいで——ずるい。
「昨日、ほんとにごめん」
かなえは頷かない。
謝罪を受け取ったら、許したことになる。
許したら、次が来る。
「何に対しての“ごめん”ですか」
相沢さんは困ったように笑って、でもすぐに笑いを引っ込めた。
「……引き止めたこと」
「結城さんが距離を置きたいの、分かってたのに」
「それでも、俺が一歩近づいたこと」
“距離を置きたい”。
その言葉が胸に刺さる。
違う、と言い切れない自分も刺さる。
刺さるってことは——触れているってことだ。
かなえは喉の奥を押さえるみたいに言った。
「……近づかれたくなかったです」
本音が出た。
出した瞬間、自分で自分に驚く。
言えば楽になるはずなのに、胸がもっと苦しくなる。
相沢さんは「うん」と小さく返した。
否定もしない。言い訳もしない。
それがずるい。
「確認したい」
相沢さんが言う。
「昨日のこと、結城さんは……“なかったこと”にできますか」
できるわけがない。
でも、できないと言った瞬間に何かが始まる。
その予感が胃を締める。
かなえは息を吸って、吐いた。
「……できません」
声が小さかったのに、相沢さんの表情が一瞬緩んだ。
安心したような、救われたような。
それが腹立たしい。
「でも、じゃあどうするんですか」
相沢さんは少し迷ってから、言葉を探すみたいに言った。
「……終わらせ方が分かんない」
「俺、たぶん……一回きりで、上手く“はい終わり”にできない」
恋だと言わない。
好きだとも言わない。
でも、“終わり”にできないだけははっきりしている。
かなえの胃が痛む。
痛むのに、胸の奥が少しだけ甘い。
甘さを認めたくなくて、奥歯を噛んだ。
相沢さんは続ける。
「変な意味じゃなくて」
「……一緒にいると、落ち着くんだよね。結城さんといると」
「だから、もう少しだけ……仲良くなれない?」
仲良い。
その単語の曖昧さが、逆に救いだった。
恋人、と言われたら逃げるしかない。
でも仲良く、なら——逃げ道が残る。
かなえはわざと冷たく返す。
「……仲良く、って何ですか」
「たまに、飯行くとか」
相沢さんはすぐに言い直した。
「仕事の延長みたいなやつでいい」
「……昨日みたいに、急に踏み込むのはしない」
“しない”が、強くて優しい。
押し付けじゃないのに、拒否しにくい。
拒否できない自分が、また腹立たしい。
「……会社で変に関わらないでください」
先に、守りを置く。
「うん。そこは守る」
相沢さんは即答する。
「会社では今まで通り。変に近づかない」
かなえは視線を逸らしたまま、もう一つだけ言った。
「連絡も……仕事の用件以外、頻繁なのは困ります」
言い切れない。
“送らないで”と言えばいいのに言えない。
必死みたいで嫌だから。
でも、送られなくなったら落ち着くのか——それも分からない。
相沢さんは少しだけ笑ってしまいそうな顔をして、でも笑わずに頷いた。
「分かりました。嫌がることはしない」
一拍置いて、探るみたいに言う。
「……じゃあ、俺から誘うのは? たまに」
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「……たまに、なら」
「うん。たまに」
声が少しだけ明るくなる。
その変化が、かなえの胸を掻き乱す。
相沢さんはそこで一度、言葉を飲み込むように口を閉じた。
それから、少しだけ真面目に言う。
「昨日のこと、結城さんに負担だったなら」
「……今すぐやめるって言われたら、やめます」
やめる。
その一言が、急に現実になる。
楽になるはずなのに、胃がぎゅっと痛む。
かなえは、答えを“安全な形”にして返す。
「……勝手に決めないでください」
「やめるかどうかは、私が決めます」
相沢さんが少しだけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「うん。じゃあ、結城さんに決めてもらう」
「……それでいい」
その笑い方が、会社の後輩のそれで。
なのに、昨日の夜の温度が一瞬だけ混ざる気がして、かなえは視線を落とした。
「……仕事に戻ります」
相沢さんも頷く。
「うん。結城さん」
「ちゃんと昼、食べて。胃、痛そうな顔してる」
「余計なお世話です」
それだけ言って、かなえは階段を降りた。
◇
午後。
仕事に戻っても集中できない。
“たまに、飯”。
たったそれだけの約束が、胸の奥に居座って離れない。
約束って呼ぶほどでもない、曖昧なもの。
だから余計に厄介だ。
(区切りのため)
(…区切りって、何の)
言い訳だけ増えていく。
夕方。
スマホが震えた。
営業二課の水野美緒。
嫌な予感しかしない。
『結城さん〜!ちょっといいですか?』
『今日これから、若手中心で軽く飲みに行こうって話になってて』
『相沢先輩も誘ってみたんですけど』
そこで一拍、既読の間が空く。
次に来た文が、やけに軽いのに刺さった。
『そしたら相沢先輩が、急に「結城さんも来るのかな」って言い出して』
『え?ってなっちゃって(笑)』
『結城さんと相沢先輩、仲いいんですか?(意外すぎて…)』
意外。
その二文字が、喉に引っかかる。
(……意外って、何)
(私の名前、相沢さんの口から出たの?)
“仲いい”って言葉が勝手に輪郭を持って、胸の奥をくすぐる。
くすぐられて、すぐに胃が痛くなる。
かなえは、必要な文だけ返した。
『私は行きません』
『業務外の話題は控えてください』
既読。
すぐに返事が来た。
『了解です!』
『先輩、「仕事のやり取り多いだけ」って言ってました!』
『(でも、名前出すんだ…って思って、つい聞いちゃいました!)』
——名前、出すんだ。
その事実だけで胸がざらつく。
褒め言葉よりずっと厄介だ。
褒められると、逃げる理由が作れるのに。
名前を出されたら、逃げても“続き”が残る。
(……何を気にしてるの)
(私は、何を期待してるの)
考えた瞬間に胃が痛んで、かなえは画面を閉じた。
——でも、閉じたところで終わらない。
相沢さんから通知が入った。
『今日、合同で軽く飲みがあるんですけど』
『結城さん、来ます?』
——来る?
来るわけがない。
行ったら、何かが始まる。
始まったら、終わらせ方が分からなくなる。
迷う。
迷うのが腹立たしい。
迷っている時点で、もう線が揺れている。
かなえは短く打った。
『私は行きません』
送信。
送ってしまった瞬間、胸の奥がひやっとする。
これで“切った”と思われたらどうしよう。
……切りたいわけじゃないくせに。
返事はすぐ来た。
『了解です』
『お疲れなら無理しないでください』
たったそれだけ。
追いかけてこない。
踏み込んでこない。
なのに、引かれているわけでもない。
その距離が、いちばんずるい。
(……ほっとしてる)
(……がっかりも、してる)
どっちも本音で、どっちも認めたくない。
かなえはスマホを伏せて、息を吐く。
行かなかった。
でも、終わらせなかった。
その事実だけが、胃の奥で静かに熱を持っていた。
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