第38話 帰ってきて、が壊れる
金曜の夜が、二回途切れた。
帰ってこない。
返事もしない。
それでも週明けは、仕事の顔で隣に立つ。
玲央の中で、理由だけが空白のまま残っていた。
かなえの中では、答えがもう出ているのに、口にすると決定的になるから飲み込んでいる。
——水野美緒と歩いて笑っていた。
距離が近かった。
ああいう人のほうが、玲央には合う。
だから自分は、ただの週末だったんだ、と。
それでも玲央は絡んでくる。
「段取り」の顔をして。
「負担を減らす」の顔をして。
(……分からない)
(分からないのは、私の方だ)
かなえは、週末の予定表を見つめた。
空白の土日が、今はうるさい。
そんなところへ、社内メールが一件。
【神谷:今週末、軽く食事でもどうですか。キックオフお疲れさまでした。気分転換に】
気分転換。
その言葉が、胃の痛みを一瞬だけ遠ざけた気がした。
かなえは迷って、そして——承諾してしまった。
仕事の延長じゃない。
でも、“仕事で繋がった相手”なら、言い訳ができる。
(ひとりでいると、考えすぎる)
(考えすぎると、金曜に戻ってしまう)
逃げるみたいに、かなえは返信した。
【結城:ありがとうございます。今週末、伺います】
送った瞬間、胸の奥がざわつく。
誰に言い訳しているのか分からない。
***
その日の午後。
コピー機の前で、かなえが用紙を揃えていると、背後で明るい声が弾んだ。
「結城さ〜ん。お疲れさまです」
水野美緒。
相変わらず距離が近い。
「キックオフ、ほんと大変でしたよね〜」
美緒は紙コップのカフェラテを持ったまま、雑談の顔で言う。
「土日、やっと休めます?」
「休めるかどうかは、仕事次第です」
かなえは淡々と返した。
余計な情報は出さない。
出したら、絡まれる。
——のに。
「え、じゃあ神谷さんと週末ごはん行くの、気分転換ですか?」
かなえの指が止まった。
「……なぜ知ってるんですか」
美緒はにこにこしたまま首を傾げた。
「だって、神谷さん側から日程調整のメール、関係者に回ってましたよ?」
「宛先の“結城”って見えちゃって。あ、結城さんだ〜って」
“見えちゃって”。
見えちゃった、で済ませる言い方が嫌いだ。
見ようとして、見たくせに。
「業務の共有ですか」
「えへ。怒らないでくださいよ〜」
美緒は笑って、さらっと刺すみたいに言う。
「最近、結城さんの感じ変わったじゃないですか」
「やっぱり神谷さんと話してるとき、ちょっと柔らかいな〜って」
胃の奥が、きゅっと鳴った。
「……仕事に戻ります」
「あ、はいはい」
美緒は軽く手を振る。
「楽しんできてくださいね〜」
楽しむ。
その言葉は、かなえの中で棘になる。
***
同じ日の夕方。
営業フロアの端で、玲央は資料の確認をしていた。
作業に没頭しているふりをしないと、スマホに手が伸びそうになる。
“追うな”と言われた。
“追えないなら、追いつけ”とも。
だから、追いつく。
資料を整える。
段取りを組む。
先方の想定を読み、穴を潰す。
——そうしていれば、かなえのことを考えなくて済むはずだった。
けれど、背後から聞こえた声が、指を止めた。
「相沢さん、ちょっといいです?」
美緒だった。
笑っている。いつも通り。
「結城さん、今週末、神谷さんとごはん行くらしいですよ」
玲央の喉が、ひゅっと鳴った。
「……へえ」
声は平らに出た。
出たのに、胸の奥の濁りは隠せない。
「気分転換、だって」
美緒は悪気がない顔のまま続ける。
「なんか最近、結城さんの雰囲気変わったから〜」
「神谷さんのおかげなのかなって、ちょっと思っちゃって」
“おかげ”。
玲央は笑うふりをした。
うまく笑えなかった。
(結城さんが、変わった)
(俺のせいで、だろ)
(……いや、神谷さんのせい?)
名前のつかないものが、じわじわと形を取る。
嫌だ、とか、腹が立つ、とか。
そういう単語にすると軽くなる気がして、玲央は呼ばない。
呼ばずに、動く。
「……情報ありがとう」
玲央はそれだけ言って、画面に視線を戻した。
戻したまま、もう一つだけ確認する。
「どこで食うって?」
「さあ? 駅の方じゃないですかね〜」
美緒は明るく言った。
「聞いてないです。聞けないし〜」
聞けない。
でも、玲央は——聞けないなら見ればいい、に傾きかけている自分に気づく。
そして気づいても、止められない。
***
週末。
店の灯りは柔らかく、うるさすぎない。
神谷は席に着くと、まず丁寧に頭を下げた。
「改めて、キックオフお疲れさまでした」
「結城さんがいなかったら回ってなかった。助かりました」
「大げさです」
かなえは仕事の笑顔で返した。
「神谷さんも相当詰めてましたし」
言いながら、気づく。
ここは仕事の場じゃない。
笑顔の形が、少しだけ違う。
料理が運ばれ、会話は自然に仕事の延長から始まった。
——が、二杯目に入った頃、神谷が箸を止めた。
「結城さん」
神谷は、押さない温度で言う。
「最近、元気ないですよね」
胃が痛む。
痛むのに、否定の言葉が出ない。
「……元気はあります」
「ある人の言い方じゃない」
神谷は苦笑した。
「悩みがあるなら、聞きますよ」
聞く。
その単語が、危ない。
口にしたら、こぼれる。
かなえはグラスを見つめたまま、曖昧な形にして出した。
「……同じ会社の人で」
「距離の取り方が、よく分からない人がいて」
神谷の目がわずかに動く。
追及はしない。
ただ、続きを待つ。
「優しいんです」
かなえは笑ってしまう。
笑ってしまう自分が嫌で、すぐに言い直す。
「……優しい顔して、善意で、選択肢を減らしてくる」
神谷は一拍置いて、静かに頷いた。
「断りにくい“正しさ”で縛ってくるタイプですね」
胸がひくりとした。
言い当てられると、胃が痛い。
でも、息がしやすい。
「結城さんは、怒らない」
神谷は淡く言う。
「怒らないから、相手は“これでいい”って勘違いする」
かなえは、笑えなかった。
図星すぎて。
「……怒るの、面倒で」
かなえは小さく言った。
「怒るくらいなら、離れる方が楽で」
神谷は、その言い方を否定しなかった。
代わりに、少しだけ声を落とす。
「離れる前に、誰かに言っていいと思いますよ」
「結城さんが悪者になる必要、ない」
その優しさが、胸の奥を抉る。
今欲しい言葉を、別の人が持ってくる。
かなえは、ぽつりとこぼした。
「……私、浮かれてたのかもしれません」
神谷が黙る。
黙って、待つ。
「“金曜”って、いつの間にか固定されてて」
「固定されてるのに、すぐ壊れて」
かなえは自分でも何を言っているのか分からないまま続けた。
「……でも、壊れてよかったって思った自分がいて」
神谷は、息を吐くみたいに笑った。
「それ、ちゃんとしんどいですね」
しんどい。
そう言ってもらえるだけで、救われる。
神谷はグラスを置いて、少しだけ真面目に言った。
「そんな男、やめて」
「……俺にしたら、って言ったら怒ります?」
かなえの心臓が跳ねた。
跳ねて、すぐに胃が痛い。
「……急すぎます」
「急に聞こえるだけです」
神谷は軽く肩をすくめた。
「返事、今すぐじゃなくていい」
「ただ、対象として見てみて。——それでいいです」
対象。
恋人、じゃない。
約束、じゃない。
逃げ道のある言い方。
かなえは、ふっと息を吐いた。
ほっとしてしまう自分に驚く。
「……考えます」
「うん」
神谷は笑った。
「その“考える”は、嬉しい」
嬉しいと言われても、重くない。
求められる形が、違う。
かなえは、救われたような気持ちでグラスを口に運んだ。
——その少し離れた席で。
玲央は、背中を丸めて息を止めていた。
聞こえたのは断片だけだ。
“やめて”
“俺に”
“返事は今すぐじゃなくていい”
“対象として”
十分だった。
(……神谷さんなら、いいの?)
(俺には“恋人は苦手”って言ったのに)
胸の奥がどろりと濁る。
呼吸が浅くなる。
頭が冷える。
玲央は、席を立った。
出ていく理由なんて、いくらでもある顔をして。
自分の心臓の音だけを抱えて、外へ出た。
外気が冷たい。
冷たいのに、熱が引かない。
(帰ってきてくれない理由)
(俺、考えたけど、分かんない)
分からないまま、玲央は店の前を離れた。
離れたのに、足が遠くへ行かない。
待つ。
待てる。
待てる側でいれば、選んでもらえる。
そう思ってきたはずなのに。
——待てない。
***
食事が終わり、神谷は駅まで送ると言った。
かなえは断った。
「大丈夫です。ひとりで帰れます」
「“大丈夫”は信用しません」
神谷は穏やかに言う。
「でも、今日はここまでにします。結城さんの線、守る」
守る、という言い方が、刺さらない。
刺さらないから、余計に怖い。
改札の前で、神谷は一歩引いた。
「また、連絡します」
「仕事の話も、さっきの話も」
かなえは曖昧に頷いた。
頷きながら、胸の奥が少しだけ軽い。
——その瞬間だった。
人の流れの向こうから、名前を呼ばれた。
「……結城さん」
低い声。
聞き慣れているのに、今夜は違う。
かなえが振り向くと、玲央が立っていた。
スーツじゃない。私服。
目が、落ち着いていない。
「相沢、さん……」
呼んだ瞬間、玲央の表情がわずかに崩れた。
怒っている、じゃない。
困っている、でもない。
——苦しそうだ。
「……帰ってきてくれない理由」
玲央は言葉を選ぶみたいにゆっくり言う。
「俺、考えたけど……分かんない」
かなえの胃が、きゅっと鳴った。
「理由なら、分かってるでしょう」
かなえは強がりで返す。
「美緒さんと、仲いいじゃないですか」
玲央が、目を瞬いた。
「……水野さん?」
声が少し掠れる。
「それ、関係ない」
「関係あります」
かなえは言い切ってしまった。
言い切った瞬間、自分の声が子どもみたいで嫌になる。
「距離、近いし。笑ってたし」
「……玲央には、ああいう人の方が合う」
玲央の喉が動く。
「俺が、誰と笑ってたかで」
玲央は、少しだけ言葉を失敗する。
「結城さんの“帰る場所”が変わるの?」
帰る場所。
その単語が、胃を抉る。
「……変わりますよ」
かなえは震えるのを押さえて言った。
「元々、私の家です」
玲央は、一歩近づきかけて、止まった。
止まったまま、息だけが荒い。
「お願い」
玲央は、まっすぐ言った。
「仲直りしよう」
「今日は……今夜だけでいいから、帰ってきて」
帰ってきて。
“俺の家へ”と言わない。
言わないくせに、そこに誘導してくる。
「嫌です」
かなえが拒否すると、玲央の眉がかすかに下がった。
怒らない。
責めない。
代わりに、弱いところを見せる。
「……俺、もう無理だよ」
ぽつり。
情けないくらいの本音。
「結城さんが帰ってこないと、落ち着かない」
「俺、そういうの嫌だったはずなのに」
「……今、ほんとに分かんない」
かなえは息を止めた。
弱っている。
弱っている人を放っておけない。
——それを、玲央は知っている顔をしている。
「神谷さんと、何話してたの」
玲央が、声を落とす。
「笑ってた」
「俺には見せない顔で」
刺すような一文。
胸の奥が熱くなるのに、胃は冷たい。
「……仕事の話です」
「嘘じゃないって言って」
玲央は、すぐ言う。
「“うん”って言って」
まただ。
約束じゃなく、同意の連打。
小さな言質を積み重ねて、逃げ道を塞ぐやり方。
かなえは唇を噛んだ。
「……うん」
言ってしまった。
玲央の顔が、ほんの少しだけ安堵に寄った。
その一瞬が、かなえを苦しめる。
「じゃあ」
玲央は静かに続ける。
「今日は帰ってきて」
「俺、ちゃんと待てると思った。でも、待てない」
「……会いたい」
会いたい。
それは恋人の言葉みたいで、でも玲央の言い方は違う。
落ち着きたい、に近い。
自分の中に戻したい、に近い。
かなえは、首を振りかけて——止まった。
この人は弱っている。
弱っているのに、ここで突き放したら、壊れそうだ。
(……私、何を守ってるの)
(守るって言いながら、結局——)
「……今夜だけですよ」
かなえが絞り出すと、玲央の目が揺れた。
揺れて、すぐに“決めた”顔になる。
「うん。今夜だけでいい」
玲央は頷く。
「タクシー呼ぶ」
「……自分で帰れます」
「帰れるの、知ってる」
玲央は淡々と言った。
「でも、今日は俺が呼ぶ」
善意の顔。
でも、主導権は渡さない。
かなえは、抗えないまま、駅前の車寄せへ連れていかれた。
手首を掴まれたわけじゃない。
でも、玲央の手が背中にそっと添えられているだけで、進む方向が決まってしまう。
タクシーが止まる。
玲央がドアを開ける。
「……おいで」
かなえの胃が、きゅっと鳴った。
この一歩で、また戻れなくなる気がする。
それでも——
玲央の目が、今にも崩れそうで。
かなえは、放っておけなかった。
ドアが閉まる。
車内に、静けさが落ちる。
玲央の指が、触る前に止まって、止められなくて。
結局、かなえの袖を探って、指先だけ絡めた。
それだけで、胸の奥が甘く疼いて、胃が痛む。
行き先を告げる玲央の声が、少しだけ震えていた。
「……家、お願いします」
かなえは窓の外を見たまま、目を閉じた。
今夜だけ。
そう言い聞かせたはずなのに——
玲央の指が離れないことが、いちばん怖かった。




