第37話 段取りの名で
キックオフの翌日。
かなえは、いつもより少しだけ早く出社した。
昨夜の余韻は、仕事で上書きできる。
そう信じているから、かなえは早い。
早いほど、余計なものが入ってくる前に「整えられる」。
エレベーターを降りると、フロアの空気がまだ柔らかかった。
成功の翌朝の、あの妙な軽さ。
「昨日の質疑、助かったよね」
「神谷さん、結城さんの切り返し褒めてたよ」
同僚たちの雑談が、背中側から流れてくる。
かなえは振り向かない。笑わない。歩幅を変えない。
仕事の話だ。仕事の褒め言葉だ。
……なのに、胸じゃなくて胃が先に鳴る。
(やめて)
(褒められるの、嫌いじゃないのに)
自席に着く。
PCを立ち上げ、メールとチャットを開く。
今日のタスクを並べるだけで、少し呼吸が整う。
そこへ社内チャットが弾けた。
【神谷:昨日はありがとうございました。先方側も安心したと言っていました】
【神谷:次の打ち手、結城さんと詰めたいです。いちばん噛み合うので】
かなえの指が、一瞬だけ止まる。
いちばん噛み合う。
それは、仕事の言葉の形をしている。
でも、“いちばん”は私的な匂いも含んでしまう。
かなえは短く返す。
【結城:こちらこそありがとうございました。今日、空き時間確認しておきます】
送信した瞬間、少しだけ嬉しいと思ってしまった自分に気づく。
気づいて、また胃が薄く痛む。
(……仕事だよ)
(仕事の話で嬉しくなるのは、普通)
普通。
その言葉に、また胃が鳴る。
最近、その“普通”が何なのか分からなくなる瞬間が増えていた。
***
午前の打ち合わせは、淡々と進んだ。
次の工程、社内調整、先方への確認事項。
かなえはいつも通りに回す。
昼前、コピー機の前。
印刷した紙を揃えていると、給湯室のほうから声が聞こえた。
「相沢さん、これお願いしていいですか〜?」
甘えるみたいな語尾。
軽い声。距離の近い声。
「……うん。見とく」
低い返事。柔らかい、余裕のある声。
かなえは紙を揃える手を止めない。
止めないまま、耳だけが勝手に拾ってしまう。
(……誰にでも、そうなんだ)
(そういう声で、ちゃんと優しい)
昨日の光景が勝手に繋がる。
並んで歩いていた距離。
笑っていた顔。
明るくて社交的で、場を回せて、周りと馴染める人。
玲央には、ああいう人のほうが自然だ。
(……自然って、何)
紙束を抱えたまま、その場を離れる。
歩きながら、胃の奥が冷えていくのを感じた。
見ていない。
確かめてもいない。
だからこそ、否定もしづらい。
否定できないものほど、厄介だ。
***
午後。
かなえは神谷とのオンラインの短い擦り合わせに入った。
画面越しの神谷は、いつもより少し表情が柔らかかった。
昨日の壇上の熱が、まだ残っているみたいに。
「結城さん」
神谷が資料を指しながら言う。
「昨日の場、結城さんがいたから整いました」
「いえ。運営の皆さんのおかげです」
「運営の皆さんも、もちろん」
神谷は頷いて、少しだけ言葉を変える。
「でも……変かもしれないけど、僕は安心した」
かなえは一瞬だけ言葉を失った。
仕事の褒め言葉の範囲。
そう思おうとするのに、“安心”は心に触れる。
「……安心、ですか」
「はい」
神谷はまっすぐ言う。
「結城さんが相手だと、無理に飾らなくていい気がする」
「噛み合う、って言ったのは本心です」
嬉しい。
そのまま嬉しいと思ってしまう。
嬉しいのに、胃が痛む。
(違う)
(玲央のときの痛みと、種類が違う)
種類が違うから、余計に怖い。
どっちが本物か、なんて考えたくない。
考えた瞬間、何かが決まってしまう気がするから。
神谷は少し間を置いて、仕事のトーンに戻した。
「次の確認、今日中に僕から先方へ投げます」
「結城さん、文面の最後だけ見てもらえますか」
「結城さんの一言があると、先方が動きやすい」
かなえは息を吐いた。
また“仕事の延長”に戻れる。
「分かりました。確認します」
画面が切れた瞬間、かなえは自分の肩が少しだけ軽くなったことに気づいてしまった。
それがまた、胃に刺さる。
***
一方で。
玲央は午後からずっと、運営側のタスクを詰めていた。
昨日の場の成功を、次に繋げるための“正しい仕事”。
資料の差分整理。
清算の段取り。
御礼メールの下書き。
社内の共有資料の更新。
手を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
済む、はずだった。
コピー機の近くを通ったとき、ふと結城の背中が視界に入る。
紙束を抱えて、いつも通りの速さで歩いている。
それだけなのに、胸の奥が落ち着かない。
(……避けられてる)
避けられている理由が分からない。
分からないまま、週末が過ぎた。
金曜の夜、帰ってこなかった。
返信もなかった。
月曜からも、目を合わせない。
必要な業務のやりとりだけで、切る。
正しい。
職場だ。
そういう線引きは、結城が一番上手い。
……だからこそ、怖い。
上手い人が本気で距離を取ったら、もう戻れない。
戻れないのに、戻ってほしいと思ってしまう。
(神谷さんなら、いいの?)
浮かんだ瞬間、玲央は自分でそれを握り潰した。
嫉妬だとか、独占だとか、そういう言葉にすると軽くなる。
軽くしたくない。
軽くしたら、止められなくなる気がする。
だから玲央は、“正しさ”に寄せた。
運営の名目。
段取りの名目。
効率と安全の名目。
名目なら、結城は否定できない。
否定したら仕事が止まる。
止める人じゃないと、知っている。
玲央はチャットを打つ。
【相沢:キックオフ運営の振り返り、金曜の終業後30分入れます】
【相沢:清算と御礼の共有、必要なので。運営メンバーは参加お願いします】
送信して、すぐに続ける。
【相沢:先方へ出す御礼メール、結城さんの観点が要るので同席お願いします】
【相沢:文面、最後だけ見てほしいです】
“最後だけ”。
押し付けない形。
逃げ道を残す形。
でも、その逃げ道は“断りづらい”という形でもある。
玲央は、そこで一度手を止めた。
次の一文を打つと、もう少しだけ私的になる。
(……でも、段取りだ)
(仕事だ)
そう言い聞かせて、打つ。
【相沢:金曜の帰り、混むので】
【相沢:解散場所だけ揃えたいです。結城さん、帰りの導線だけ教えてもらえますか】
迎えに行く、と書かない。
書いたら線を越える。
線は越えない顔をしていたい。
越えない顔をして――越えているのは自分のほうだと、薄く分かっている。
***
金曜までの数日。
かなえは忙しさに救われた。
神谷との調整。
社内の根回し。
運営側の残タスクの吸い上げ。
忙しいと、考えなくて済む。
考えなくて済むから、胃が少し黙る。
……黙るのに、夜になると胸がざわつく。
(五分、来ると思ってた)
来ないのが正しい。
来ないほうがいい。
分かっているのに、喪失感みたいに空く。
空くから、仕事を詰める。
詰めた分だけ、進む。
進むのに、空白は埋まらない。
そして金曜。
終業後のフロアは、少しずつ人が減っていく。
運営の振り返りは、会議室じゃなく小さな打ち合わせスペースで短く済んだ。
玲央は最後まで“仕事の顔”を崩さない。
「清算はこの流れで」
「御礼メール、文面共有します」
「先方の反応、来週火曜までに拾います」
淡々と、正しい。
解散のタイミング。
かなえはバッグを肩にかけて、席を立つ。
そのとき、玲央が同じ温度で言った。
「結城さん」
呼び方は、職場のまま。
「帰りの導線、さっきの件」
かなえの胃が、きゅっと鳴った。
「……導線、ですか」
「うん」
玲央は頷く。押さない顔。
「駅、混むから。解散場所だけ揃えたい」
「結城さんの帰り道、どっち方面かだけ」
“どっち”。
家が二つあるみたいな聞き方。
かなえの中で、言葉の棘が小さく跳ねた。
(……私の家は、ここじゃない)
(なのに、なんで“どっち”って)
でもこれは業務。
否定できない形にされている。
かなえは短く答えるしかない。
「……いつもの、路線です」
「了解」
玲央はそれだけ言った。
“ありがとう”も、“落ち着く”も、今日は言わない。
言わないのに、視線だけが追ってくる気がした。
***
駅。
かなえは改札を抜けて、ホームに立った。
冷たい風が頬を撫でる。
仕事の現実だけが残るはずなのに、胸の奥がざわつく。
スマホを見ない、と決める。
見たら、また何かが始まる気がするから。
電車が来る。
乗る。
自分の家へ。
そう思った瞬間、同じ車両の少し離れたところに、玲央の姿が見えた。
――偶然みたいな顔で。
でも、その偶然は“作れる人”だと知っている。
玲央は、こっちを見ない。
見ないふりをして、見ている気配だけがある。
かなえは目を逸らした。
逸らしたまま、背中が熱くなる。
(……迎えに来るって言ってない)
(なのに、いる)
電車が揺れるたび、距離が少しだけ縮む気がする。
縮むのに、触れない。
触れないから余計に、逃げられない気がする。
かなえは窓の外を見た。
見ているのに、玲央の気配だけが近い。
胸がざわついて、胃が痛い。
痛いのに、どこかで“当たり前”に戻りそうな気がしてしまう自分が怖い。
駅に着く。
かなえが降りると、玲央も同じタイミングで降りた。
声はかけない。
でも、同じ改札へ向かう足音だけが、確かに重なる。
(……やめて)
(こんなの、仕事の段取りじゃない)
言葉にしないまま、かなえは改札を抜けた。
その瞬間、スマホが震えた。
通知は、玲央ではなかった。
社内カレンダーの招待。
【運営ふりかえり(相沢)】金曜 19:00
たった一行。
ただの予定。
ただの段取り。
なのに、胸の奥がざわついて、胃だけが先に痛んだ。
(……また金曜が、“戻ってくる”)
かなえはスマホを伏せた。
伏せても、予定は消えない。
消えないまま、足元だけが勝手に駅の外へ向かっていった。




