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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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36話 壇上の笑顔




金曜の朝。

かなえのカレンダーは、余白がなかった。


キックオフ。

両社の関係者が集まる、あの手の“公式の場”。

会場手配、進行台本、登壇資料、質疑の想定、配布物、控室の導線——

ひとつでも抜けたら、全部がずれる。


だから仕事に没頭できる。

仕事に没頭していれば、余計なことを考えずに済む。


……はずなのに。


胸の奥に、薄いざわつきが残っている。

今日が金曜だと、身体のどこかが勝手に覚えてしまっているからだ。


(本当なら、五分)


終業前か、帰りの電車の中か。

短い通話が来て、短い返事をして、

そのまま“帰っていく場所”が固定されていく。


なのに今週は、何もない。


連絡がないことが、少しだけ喪失感みたいに胸を撫でる。

それが悔しくて、かなえは資料の字を強く追った。




***




会場に着くと、空気がもう違った。

スーツの擦れる音、ケーブルをまとめる手、マイクチェックの声。

準備のざわめきは、いつもより“公”に寄っている。


「結城さん」


呼ばれて振り向くと、神谷がいた。

同じ空気に馴染むような穏やかな顔で、片手にタブレットを持っている。


「早いですね」


「結城さんが早いんですよ」

神谷は軽く笑った。

「進行、ざっと見ました。……ここ、質疑の切り替え、少しだけ早めても良さそうです」


かなえは、反射で眉を寄せる。

“早める”は、リスクだ。場が荒れたら止まらない。


「……場の温度見て、ですか」


「はい。結城さんが見て判断できる前提で」


その言い方が、ずるい。

頼られているのに、押しつけじゃない。

仕事の話なのに、褒められたみたいに胸が軽くなる。


「じゃあ、合図を決めましょう」

かなえは台本のページを開いた。

「質疑が長引きそうなら、私が一度、時計を見ます。そこで——」


「目が合ったら、でどうですか」


神谷がさらっと言う。


一回だけ目が合ったら、合図。


ただそれだけなのに、

会議室の空気じゃないところに触れた気がして、かなえは息を止めた。


(……仕事の符丁)

(ただの、段取り)


そう言い聞かせるのに、口元が緩んでしまう。


「……分かりました。目が合ったら」


神谷も頷く。

それだけで、場の段取りがひとつ整った。


その一瞬。


少し離れたところで、視線を感じた気がした。

会場側の入口。

営業側の調整に追われながら、こちらを見ている人影。


玲央。


かなえは反射で、視線を外した。

外さないと、胃が先に鳴る。

外したのに、喉の奥だけが乾く。




***




玲央は、仕事をしていた。

来賓の誘導、受付の確認、会場の椅子の微調整、名札、段取り。

“営業らしい”忙しさが、身体を動かしてくれる。


動かしていれば、考えずに済む。


……はずなのに。


視界の端で、結城さんが笑っている。

神谷さんと、顔を寄せて台本を見て、

ほんの少し、気を抜いたみたいな笑い方をしている。


(……あんな顔、俺は知らない)


口の中が苦くなる。

嫉妬だと呼ぶと軽くなる気がして、玲央はその言葉を使わない。


ただ、悔しい。


仕事での時間を積み重ねた相手にだけ見せる顔があって、

そこに自分が入れないのが、悔しい。


(俺は“家の中”しか持ってないのか)


そんなこと、認めたくないのに。




***




「相沢さん、早い〜」


横から明るい声が差し込んだ。

水野美緒が紙コップのカフェラテを片手に、玲央の横にすっと入ってくる。


「受付、今落ち着きました?」

美緒は覗き込むように資料を見る。

距離が近い。わざと近い。


玲央は顔だけ動かした。


「落ち着いた。次は控室の導線チェック」


「さすが〜」

美緒は笑って、さらっと続ける。

「最近、結城さんの感じ変わったのって、やっぱり神谷さんのおかげなんですかねー」


玲央の指が止まる。


「知らない」


「え、知らないんですか?」

美緒は悪気のない顔をして首を傾げる。

「結城さん、さっき神谷さんと楽しそうでしたよ。ああいう笑い方、するんだ〜って思っちゃいました」


“楽しそう”。


その単語が、胸の奥でいやに重く転がった。


玲央は、仕事の顔のまま言う。


「仕事だろ」


「もちろんですよ〜」

美緒は同意の形をして、さらに踏み込む。

「でも、仕事でも相性ってありますよね。息が合うっていうか」

「結城さん、神谷さんの前だとちょっと柔らかい気がするんですよね〜」


柔らかい。


玲央の胸の奥が、ぎゅっと縮む。


(……知らない)

(俺が見てる結城さんは、いつも“線”の向こうにいる)


玲央は返さない。

返したら、何かが形になる気がしたから。


美緒はその沈黙を、面白がるみたいに笑った。

そして、玲央の資料に指を伸ばす。


「これ、控室の案内、こっちの矢印の方が分かりやすくないですか?」


覗き込むふりで、距離がさらに近くなる。

誰かが見たら、“仲がいい”に見える距離。

それを美緒は分かっている。


玲央は、淡々と修正を入れた。

表面は仕事の共同作業。

内側だけが、ざらついていく。




***




本番が始まった。


照明。

拍手。

司会の声。

登壇者の挨拶。


かなえは進行台本を指で追いながら、頭を冷やしていく。

“公”の場に入った瞬間、感情は置いていく。

置いていけるはずだ。


壇上の神谷は、落ち着いていた。

言葉が滑らかで、余計な飾りがない。

会場が安心する話し方。


質疑の時間。


最初は想定内だった。

準備した想定質問、いつもの角度。

かなえは淡々と次の質問者を指名し、マイクの位置を確認する。


——三人目。


「今回の体制だと、意思決定の責任分界が曖昧に見えますが」

「トラブルが起きた場合、どこが一次対応するんですか」


想定していた質問と似ているのに、

言い方が鋭い。

会場の空気が一段、硬くなる。


かなえの脳内で、段取りが一瞬だけずれる。


(……長引く)

(ここで噛み合わないと、全体が荒れる)


神谷が答えかけて、少しだけ止まった。

言葉を選ぶ一拍。

その一拍が、会場の不安を呼ぶ。


かなえは、台本を握る指に力を入れた。


ここで、切り替える。


かなえは視線を上げる。

神谷の方を見る。

神谷もこちらを見る。


——目が合う。


たったそれだけ。


神谷の眉がわずかに動き、頷く。


合図。


かなえはマイクを取り、落ち着いた声で切り込んだ。


「ご指摘ありがとうございます」

「責任分界については、資料のP.12の表に一次対応の窓口を明記しています」

「ただ、懸念のポイントは“現場が迷う”ことだと思うので——」


言いながら、会場の温度を整える。

攻めている人を否定しない。

でも、場を荒らさない。

論点を一段下げて、答えを出す。


神谷がそこに乗る。

かなえの言葉を受けて、責任分界の図を丁寧に補足する。

柔らかく、しかし逃げない。


空気が、変わる。


“この場は回る”と、会場が納得する。


その瞬間。

かなえの胸の奥が、熱くなる。

仕事の快感。

自分が場を救えた、という手応え。


——同時に、その手応えを誰かに見られている気がして、胃が痛んだ。




***




質疑が落ち着いた後、会場の隅で小さな声が聞こえた。


「結城さん、ああいう場の回し上手いよね」

「神谷さん、結城さんのこと信頼してる感じする」


別部署の誰か。

悪意じゃない。ただの感想。


その次に、少し笑い混じりの声。


「営業の相沢くん、さっきから顔こわくない?」

「緊張してんじゃない?」


かなえは、その声が耳に刺さって、指先が冷えた。

視線を動かしたくない。

動かしたら、玲央の顔を見てしまうから。


見たら、胃が反応するから。


かなえは、台本を握り直して、片付けに戻った。




***




終了後。

撤収が始まる。


機材。

椅子。

配布物。

控室の忘れ物確認。


かなえは動きながら、頭のどこかで時間を計算している。

電車。帰宅。金曜。


(今日は……確認するつもりだった)


誤解じゃないなら終わりにする。

それくらいの覚悟で、玲央の家に行くつもりだった。

金曜の夜がおかしくなる自分を、止めるために。


——なのに。


会場の外で、玲央と美緒が並んで歩く影が見えた。


距離が近い。

覗き込むみたいに笑って、玲央も仕事の顔で相槌を打っている。


……笑っているように見えた。


胸がすうっと冷える。

胃が、遅れて痛む。


(この方が、玲央には合う)


かなえは、結論を置く。

置いた瞬間に、確認の必要が消える。


確認するまでもない。


“終わりにするために行く”予定だったのに、

その予定ごと、無意味になってしまったみたいで、

かなえは一度だけ息を止めた。




***




「結城さん」


背後から声が落ちた。

振り向く前に分かる。玲央だ。


「控室、残ってください」

玲央は仕事の顔のまま言う。

「外、混むから。……先に送迎の手配しとく」


送迎。

手配。


“迎えに行く”じゃない。

“選ばせる”でもない。

善意の形をした、導線の固定。


かなえは、喉が動かなかった。


「……大丈夫です」


「大丈夫でも」

玲央は淡々と返す。

「今日は、人が多い。危ない」


正しい。

正しいから、断りにくい。


かなえは、目を逸らして頷いてしまいそうになる自分を止めるために、指先を握った。


「……控室、確認します」


それだけ言って、かなえは控室に戻った。

戻りながら、胸の奥がじわじわと締まっていく。


(私、何やってるんだろう)


“帰る場所”を、勝手に決められていく。

しかもそれを、善意で包まれている。


それが、いちばん怖い。




***




控室で忘れ物を確認し、手元の資料をまとめる。

終わったら出る。

出たら——帰る。


どこに。


“帰ってくる場所”を、もう一つ増やしてしまったのは自分だ。


かなえはスマホを見た。

通知はない。

既読もない。

今週の金曜は、最初からそうだったみたいに静かだ。


静かだから、余計に刺さる。




***




同じ頃。

玲央は、控室の前で立っていた。


目の前の扉の向こうに、かなえがいるのが分かる。

出てくるのを待つ。

待てるふりをする。


(……分かんない)


帰ってこない理由が、分からない。


神谷さんに惹かれているのか。

俺には恋人は苦手って言ってたのに、神谷さんならいいのか。


言葉にした瞬間、胸の奥で何かが黒く膨らんだ。


玲央は、スマホを取り出す。

打とうとして、止める。


“どこ?”は言えない。

追ってるみたいに見える。

追ってる自分を、自分がいちばん見たくない。


だから、正しい理由を選ぶ。


運営連絡の形で。

忘れ物の形で。

善意の形で。


玲央は、短く打った。


『控室、忘れ物ない?』

『タクシー、呼ぶ?』


送信して、画面を伏せる。


返事が来るかどうかより先に、

“俺が手配する側”に立ってしまったことが、

自分の中でじわじわと効いていく。


待つふりをして、

選択肢を減らしていく。


それがもう、癖になりかけている。


玲央は控室の扉を見つめたまま、息を吐いた。


(……かなえさん)


会社では結城さん。

家では、かなえさん。

腕の中にいるときは——かなえ。


その呼び分けが、いつの間にか“祈り”になっていることに、

玲央だけが、まだ気づいていなかった。

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