35話 迎えに来る距離
ホームのベンチで、かなえはスマホを握ったまま動けなかった。
画面の文字は優しい形をしているのに、息を浅くする。
『嫌なら、目を合わせなくていい』
『……でも今日、顔だけ見たい』
(……顔だけ)
(顔だけって言い方が、いちばんずるい)
断る言葉は作れる。
「今夜は無理です」「仕事が残ってます」「家に帰ります」
でも、送った瞬間に何かが始まる気がした。
“返す”という行為そのものが、彼の手の中に自分を戻してしまうみたいで。
かなえは、返信しないまま電車に乗った。
車内は金曜らしく混んでいて、肩がぶつかる。
自分の匂いじゃない匂い、誰かの香水、濡れたコートの湿り気。
なのに、頭の中だけが妙に静かだった。
スマホはもう震えない。
震えないことが、余計に怖い。
乗り換え駅が近づく。
ドアの開閉音が、心臓の鼓動に重なる。
(……いるんだろうな)
そう思ってしまう自分が悔しい。
悔しいのに、足は勝手に出口へ向かう。
***
改札を抜けたところで、かなえは彼を見つけた。
人波の端。
自販機の横。
コートの襟を立てて、スマホを見ているふりをしている男。
玲央。
見つけた瞬間、胃がきゅっと鳴った。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
逸らしたら、負ける気がする。
かなえが通り過ぎようとした、そのタイミングで。
玲央が顔を上げた。
目が合う。
一瞬だけ、彼の目尻がくしゃっとなった。
嬉しそうに——じゃない。
安心したみたいに。
その表情のせいで、かなえの胸の奥がちくりと痛む。
玲央はすぐに表情を仕事のそれに戻して、近づきすぎない距離で立った。
「……お疲れさま」
声は低くて、丁寧で、会社の距離。
でも言葉だけが、私的だった。
「……何してるんですか」
棘を立てたつもりなのに、声が思ったより震える。
玲央は言い訳をしない。
ただ、当たり前のように言った。
「迎えに来た」
一拍置いて、続ける。
「……来ない理由、分かんなくて」
分かんなくて。
その言い方が、怖かった。
責めないのに、逃げ道を消す言い方。
「……帰ります」
かなえは短く言った。
帰る先を言わないのは、最後の抵抗だ。
玲央は頷く。
「うん」
それから、確認みたいに聞く。
「……歩く? タクシー?」
選択肢。
でも、どっちも“玲央がいる”前提の選択肢だ。
「要りません」
「うん。要らないのも分かった」
玲央はあっさり受け止める。
受け止めたまま、次を置く。
「じゃあ、改札の外まで」
改札の外まで。
たったそれだけなのに、かなえの胃が痛む。
「……ついてこないで」
言うと、玲央はすぐ頷いた。
「うん。並ばない」
同意の形をして、でも譲らない。
「少し後ろを歩く。……それならいい?」
いいわけがない。
でも、“少し後ろ”という言い方が卑怯だった。
まるでかなえが許可を出せば成立する、みたいに。
かなえは言葉を飲み込んで、歩き出した。
玲央は本当に、少し後ろを歩いた。
触れない。近づかない。
なのに、気配だけが背中に張り付く。
駅の外の冷たい空気に出たところで、玲央の声が追いつく。
「……寒い」
小さく言って、すぐに言い直す。
「コート、ちゃんと閉めて」
“心配”の形をした指示。
善意の形をした、囲い込み。
かなえは立ち止まらずに言った。
「余計なお世話です」
玲央は、それ以上言わない。
言わないまま、歩幅だけを合わせた。
角を曲がる手前で、玲央が足を止めた気配がした。
「……ここまで」
かなえは振り返らない。
振り返ったら、終わる気がした。
そのまま数歩。
背中に、玲央の声が落ちた。
「結城さん」
呼ばれただけで、胃が鳴る。
なのに、返事をしてしまう。
「……何ですか」
玲央は少しだけ黙ってから、答えた。
「家、着いたら——」
言いかけて、止める。
代わりに、苦い笑いを含めて言う。
「……いいや。今日は、いい」
“今日は、いい”。
それが、いちばん怖かった。
次がある言い方だったから。
かなえは結局、振り返らないまま角を曲がった。
曲がった先で、息を吐いた。
息を吐いたのに、胸が軽くならない。
(……なんで、来たの)
(なんで、待ってたの)
答えは、分かっている。
分かっているのに、認めたくない。
***
その夜、玲央は自分の部屋に戻っても、落ち着かなかった。
スマホを見ない。
見たら、打ってしまう。
だから代わりに、ノートPCを開く。
キックオフの進行。
営業側の導線。
当日の問い合わせ窓口。
想定質問の整理。
結城さんが回しやすいように、角を潰していく。
——“結城さんの負担を減らすため”。
正しい理由があると、手が止まらない。
そして、それが本当は“追いつく”ためだと分かっているから、なおさら止められない。
(神谷さんに)
その名前が浮かんだ瞬間、玲央は唇を噛んだ。
結城さんは「恋人の話は苦手」って言った。
なのに、神谷さんならいいのか。
仕事の顔で笑って、息が合って、目が合って——
そこまで考えて、玲央は手を止めた。
(……違う)
(仕事だ)
(そういうふうに考えるのは、俺が変だ)
変だ、と自分で思うのに、胸の奥の濁りは薄くならない。
玲央は、資料の文字をさらに整えた。
善意の名で、選択肢を減らす。
結城さんが迷わないように、段取りを“先に”固める。
迷わなければ、余計なところに行かない。
余計なところに行かなければ——
続きは考えない。
考えたら、形になるから。
***
週の後半。
かなえは、仕事に追われていた。
キックオフ。
先方資料の差分。
社内の承認ルート。
当日のスライド最終確認。
忙しいのは助かる。
考えずに済むから。
でも、ふとした瞬間に胸がざわつく。
(今週、何もない)
五分の通話も。
「帰ってきてね」も。
あの家の匂いも。
それを“楽”だと感じるべきなのに、身体が落ち着かない。
金曜が近づくほど、妙に手が冷える。
(私、金曜になるとおかしくなる)
(……だから、戻らないって決めたのに)
決めたはずなのに、仕事で上書きしている自分がいる。
決めたことを守る気力が、少しずつ削られていく。
じわじわと、身動きが取りづらくなるみたいに。
***
金曜の朝。
かなえはスーツの襟を整えながら、深く息を吸った。
今日はキックオフ。
“公”の場で、仕事だけに集中する日。
スマホは静かだった。
静かすぎて、逆に心臓が落ち着かない。
ドアを出る直前、かなえは一度だけ画面を見た。
通知は、ない。
(……当たり前)
そう言い聞かせて、かなえは家を出た。
なのに、駅へ向かう足取りのどこかに、
“会場にいるはずの誰か”の気配を探してしまう自分がいた。




