表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/40

34話 整える、という名の


第34話 普通のまま、崩れる


 土曜の午後。

 かなえはひとりでスーパーのレジに並んでいた。


 籠の中は、いつものもの。

 牛乳、卵、野菜、コーヒー。

 “ひとりで暮らしている人”の量。


(……楽なはず)


 週末に予定がないのは、久しぶりだった。

 誰にも合わせないでいい。

 誰の機嫌も取らなくていい。

 金曜の夜の「帰ってきてね」も、ない。


 ……ないのに。


 レジの表示が光って、店員が機械的に「ポイントカードは」と言う声が遠い。

 かなえは財布を出しながら、ふとスマホの画面を見てしまった。


 通知は、ない。


(見なきゃいいのに)


 見てしまう自分が嫌で、画面を伏せる。

 伏せた瞬間、胸の奥がざらついた。


 昨日の夕方——玲央が、美緒と並んで歩いていた光景が、まだ残っている。

 距離が近くて、笑っていて。

 あの人は、そういう顔で、誰にでも優しい。


 年齢的にも釣り合う。

 明るくて社交的で、場を回せて、周りと馴染める。

 玲央には、ああいう人のほうが自然だ。


(……自然って、何)


 荷物を抱えて店を出る。

 冷たい風が頬を撫でた。


 “自然”にしようとして、かなえはずっと、感情を片付けてきた。

 怒るくらいなら、離れる。

 揉めるくらいなら、黙る。

 そうしていれば、壊れない。


 ——壊れない、はずだった。


 帰宅して、買ったものを冷蔵庫へ入れる。

 キッチンを拭く。

 洗濯を回す。

 やることがある間は、静かだった。


 静かすぎると、耳が勝手に“足音”を探す。

 自分の家なのに。


(私、浮かれてたのかな)


 夕方、ソファに沈んでテレビをつけても内容が入ってこない。

 胃が、ずっと薄く痛い。


 気づけば、ノートPCを開いていた。

 日曜の夜みたいな気分で、土曜の夜を仕事で埋める。


 社内チャットの通知がいくつか流れている。

 キックオフの準備。

 先方との擦り合わせ。

 来週の金曜、関係者での食事——神谷の提案。


 画面を閉じたいのに、閉じられない。


(……仕事だよ)


 そう言い聞かせて、手を動かす。


 仕事は裏切らない。

 やった分だけ進む。

 相手の機嫌で、形が変わらない。

 そう信じているから、かなえは仕事に逃げる。


 逃げる、と言うと、少しだけ心が軽くなる。

 軽くなるから、余計に怖い。


***


 土曜の朝から、玲央は会社にいた。


 休日のオフィスは静かで、静かすぎて、余計に集中できる。

 誰もいない。

 だから、余計なことを考えなくて済む——はずだった。


 高瀬に言われた言葉が、まだ耳に残っている。


『追うな。今は“追えない”って知ってる方が強い』

『追えないなら、追いつけ。お前が得意な方で』


 追いつく。

 追いつけば、同じ土俵に立てる。

 そう思えば、胸の奥の濁りを“努力”に変えられる。


 玲央はキーボードを叩いた。

 資料を作る。

 段取りを整える。

 人のスケジュールを繋ぐ。

 先方への確認文を作る。


 “結城さんの負担を減らすため”

 そういう正しい理由を付けると、手が止まらなかった。


(負担が減れば、余裕ができる)

(余裕ができれば——)


 続きは、言葉にしない。

 言葉にしたら、形になる。

 形になると、怖い。


 だから玲央は、黙って仕事を詰めた。


 スマホは、見ない。

 見たら、打ちたくなる。


 ……金曜の夜、あのバルコニーの灯りを見上げた時みたいに。


 “いる”のに、出てこない。

 声を出したら、崩れるから。

 だから、黙って帰った。


 正しかった。

 正しかったはずなのに、胸の奥がずっと落ち着かない。


 玲央は思う。

 自分は、勝手に好かれて、勝手に期待されて、勝手に重くされて、勝手に失望されて終わるのに疲れてきたはずだ。


 だから、軽いほうが楽だと思っていた。

 ワンナイトくらいが、ちょうどいいって。


 なのに今は、違う方向へ力が入っている。

 相手を“軽く扱う”んじゃない。

 相手を“軽くさせない”方へ。


(……変だな)


 変、と思ったところで、止められない。

 止めるより、追いつくほうを選ぶ。


 玲央は指先に力を込め、資料を整え続けた。


***


 月曜の朝。


 かなえはいつも通りの顔で出社した。

 いつも通りの挨拶。

 いつも通りの席。

 いつも通りのメール。


 いつも通りのはずなのに、視界の端に玲央の姿が入ると、胃が先に反応する。

 胸じゃない。

 胃が、きゅっと鳴る。


 かなえは目を合わせないようにする。

 合わせたら、金曜が戻る。

 戻ったら、また“帰る場所”が分からなくなる。


 午前中は、打ち合わせが続いた。

 キックオフの資料の差分を詰める。

 先方の意図を読み取る。

 社内の利害を調整する。

 かなえは淡々と回す。


 回せるから、救われる。

 回せるから、壊れないでいられる。


 ——昼前、社内チャットが鳴った。


【相沢:結城さん、キックオフ資料の構成、こちらで整理しました】

【相沢:先方の確認事項もまとめてあります。今日のうちに共有だけしておきます】


 “共有だけ”。


 押し付けない言い方。

 でも、かなえの選択肢を静かに減らす言い方。


(……助かる)

(助かるのに、なんでこんなにざわつくの)


 かなえは短く返す。


【結城:ありがとうございます。確認します】


 それ以上は書かない。

 書いたら、五分のやりとりが戻る気がする。


 戻ったら——また、金曜が戻る。


 午後、コピー機の前。

 かなえが紙を揃えていると、背後で声がした。


「最近さ、結城さん、ちょっとピリッとしてない?」

 同僚の、何気ない雑談だった。


「分かる。前はもっと淡々としてたのに」

「何かあったのかな」


 かなえは紙を揃える手を止めない。

 止めないまま、心臓だけが跳ねる。


(……見られてる)

(私、そんなに変わってる)


 別の声が続く。


「相沢くんもさ、顔こわくない?」

「この前、営業フロア通った時、ちょっと目が合ったんだけどさ……あれ、笑ってなかった」


 笑ってなかった。

 その単語が、胸の奥を刺す。


 かなえは紙束を抱えて、その場を離れた。

 離れても、雑談の余韻が耳に残る。


 自席に戻ると、玲央からまた社内チャットが来ていた。


【相沢:5分だけ、確認いいですか】

【相沢:会議室じゃなくて大丈夫です。席で】


 “5分”。


 五分通話じゃない。

 でも、同じ長さ。

 同じ形。

 会社の中に持ち込まれた、五分。


 かなえの指が止まる。


(……やめて)

(こっちに持ち込まないで)


 でも、“業務”の名目を否定できない。

 否定したら、仕事が回らない。


 かなえは深く息を吸って、短く返した。


【結城:今なら】


 数分後、玲央が資料を持って隣に来た。

 距離はきちんと仕事の距離。

 声も仕事の声。

 呼び方も「結城さん」。


 なのに、気配だけが近い。


「この部分、先方の想定とズレそうで」

 玲央は淡々と言う。

「ここ、結城さんの方で先に握っておいたほうが安全です」


「分かりました」

 かなえは画面を見たまま答える。

「では、こちらから確認します」


 それで終わるはずなのに、玲央は次の一文を足した。


「あと、金曜」

 玲央の声は同じ温度のまま、言葉だけを置く。

「キックオフ後、先方と軽く、って話。人数、確定しました?」


 ——知っている。

 知っているのに、確認する。


 かなえの胃がきゅっと鳴る。


「まだ確定してません」

 かなえは淡々と言った。

「確定したら、共有します」


「うん」

 玲央は頷いた。

「共有して。俺も段取り、必要だから」


 段取り。

 正しい言葉。

 でも、“把握”の匂いがする。


 玲央はそれ以上言わず、資料を置いて戻っていった。

 押さない。

 押さないのに、逃げ道が減っていく感じがする。


(……善意の顔して)

(私の選択肢、どんどん減らしてる)


 自分でそう思ってしまうことが、また痛い。


***


 金曜。

 ——じゃない。


 まだ月曜なのに、かなえの中はもう金曜の形をしていた。


 金曜の夜になったら、帰らない。

 帰らないことで、元に戻る。

 戻るって、何に。


 分からないまま、かなえは残業してしまった。

 仕事があるから。

 仕事を盾にできるから。


 退社して、駅のホームに立つ。

 風が冷たくて、現実が戻る。


 その時、また雑談が耳に入る。


「水野さんさ、相沢くんと仲いいよね」

「よく一緒に歩いてるの見る」


 かなえの胸の奥が、ひくりと動く。


(……やっぱり)

(勘違いじゃなかった)


 確認するまでもない。

 確認したら、痛いだけだ。


 かなえはホームの先を見つめて、スマホを取り出した。

 玲央の通知はない。

 今夜も、五分は来ない。


 来ないのが、正しい。

 正しいのに、胸の奥がざわついて、息が少し浅くなる。


 電車が来る。

 乗って、帰る。

 自分の家へ。


  ——そのはずなのに。


 ポケットの中で、スマホが震えた。


 玲央。


 画面を見るだけで、胃が痛い。

 指先が冷える。

 見なければいいのに、見てしまう。


『寒い。コート、ちゃんと閉めてる?』


 最初の一文が、場所でも理由でもない。

 叱るでもない。

 ただ、当たり前みたいに“今のかなえ”に触れてくる。


 かなえは返信しない。

 しないのに、また震える。


『今、帰り?』


 短い。

 曖昧で、逃げ道があるように見えて——実際は違う。

 “帰り”という前提で訊いている。


 かなえは画面を伏せた。

 伏せたのに、震えが止まらない。


『電車、乗った?』


 ……追ってきてる。

 追わないって決めたはずの人が、言葉だけで追ってくる。


 息が浅くなる。

 胸が熱いのに、胃が冷たい。


 さらに一件。


『何両目?』


 かなえの喉が、ひゅっと鳴った。


(……それ、答えたら終わり)

(迎えに来るって決めるだけじゃない)

(“迎えに来られる”のが当たり前になる)


 返信欄に指を置いて、止める。

 止めた瞬間に、また震える。


『返事なくても行く』

『改札で待つ。結城さんの線、越えない距離で』


 越えない距離。

 正しそうな言い方。

 でも、“来る”はもう決めている。


 かなえはホームのベンチに座り込んだ。

 背中に冷たい空気が染みて、視界が少し滲む。


 最後に、もう一度だけ震えた。


『嫌なら、目を合わせなくていい』

『……でも今日、顔だけ見たい』


 優しい形。

 拒否の余地があるように見せて、

 拒否しにくい条件だけを並べる。


 かなえはスマホを握りしめた。

 握るほど、手のひらが熱くなる。


 “帰らない”を選びたかった。

 確認して終わらせるつもりだった。

 なのに今、終わらせ方が分からない。


 ホームに電車の風が押し寄せる。

 かなえは立ち上がれないまま、ただ画面の文字を見つめ続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ