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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第33話 帰らない金曜日



 金曜の夜が、静かすぎた。


 玄関の鍵を回した音だけが部屋に残る。


 エアコンの送風。冷蔵庫の低い唸り。遠くの車の音。

 それだけ。


(……落ち着くはずなのに)


 かなえはバッグを床に置いたまま、しばらく動けなかった。


 帰ってきた。自分の家だ。


 いつもなら、ここに戻るだけで呼吸が整う。


 なのに今夜は、胸の奥がざわついて、胃が重い。


 夕方の光景が、何度も脳裏に戻る。



 玲央が、水野美緒と歩いていた。


 距離が近くて、戯れているみたいで。


 玲央は、笑っていた。


 あの人は、そういう顔で——誰にでも、ちゃんと優しいんだと思った。



(美緒さんのこと、いい子って言ってた)


(年齢的にも釣り合うし、明るくて社交的で)


(……玲央には、ああいう人の方が合う)




 そう結論づけた瞬間、胸の奥が冷える。

 冷えるのに、痛い。


 かなえは靴を揃えた。

 いつも通りに揃えるだけで、少しだけ現実が戻る。

 コートを脱いでハンガーに掛ける。

 手を洗ってキッチンへ向かい、コーヒーを淹れる。


 いつもの手順。

 いつもの呼吸。


 ——それでも、スマホだけがうるさいほど静かだった。


 金曜の夜は、短い連絡が来る。

 五分でいい、って。

 声じゃなくても、メッセージでも、何かしら。


 それが、いつの間にか当たり前になっていた。


(当たり前って、何)


 かなえはマグを持ってテーブルに座り、ノートPCを開いた。

 月曜の会議資料。追加の確認。差分。

 仕事で上書きすれば、きっと落ち着く。


 キーボードを叩く。

 画面をスクロールする。

 頭は動くのに、心が遅れてくる。


 通知が鳴らない。

 鳴らないのが、妙に刺さる。


(来ないなら、来ないでいい)

(むしろ、その方が——)


 ……何が「その方が」なのか、最後まで言葉にできない。


 マグの縁が唇に触れる。

 熱いのに、味がしない。


 かなえは画面の文字を追いながら、無意識にスマホを伏せた。

 見てしまう自分が嫌だった。


 ——その時、インターホンが鳴った。


 心臓がひどく跳ねる。


 鳴った瞬間に分かる。


 この時間に来る人はいない。


 宅配の時間でもない。


 もう一度、短く鳴った。


 かなえは椅子から立ち上がれなかった。

 立ち上がったら、何かが始まってしまう気がした。


 スマホが震える。


 画面に表示された名前で、息が止まった。


 玲央。


『起きてる?』


 それだけ。


 絵文字もない。いつもの「落ち着く」もない。


(……今さら)


 かなえは返信欄を開いて、閉じた。


 指先が冷える。


 冷えるのに、喉の奥が熱い。


 インターホンがもう一度鳴った。


 玄関へ向かう——寸前で止まる。

 覗き穴に顔を寄せるのも怖い。


 確かめたら、自分の結論が揺らぐ。

 揺らいだら、また戻れなくなる。


 ドアの外で、足音が小さく動く。

 鍵に触れる音はしない。

 ただ、そこに“いる”気配だけが残る。


 玲央は何も言わなかった。

 呼びかけもしない。

 扉を叩きもしない。


 かなえの胸の奥が、じわじわ痛む。


(……喋らせないつもりなんだ)


(言葉が出たら、私が崩れるって分かってる)


 その優しさが腹立たしい。

 腹立たしいのに、嫌だと言えない自分がもっと腹立たしい。


 玄関灯を点けるべきか迷って、かなえは結局、点けなかった。

 暗いままの玄関で、ただ息を殺す。


 数分。


 ドアの向こうの気配が、少しだけ遠ざかった。


 足音が階段を降りていく。


 かなえは、その音を追いかけたい衝動を飲み込んだ。


 追いかけたら終わる。


 追いかけたら、金曜が戻る。


 代わりに、かなえはリビングへ戻った。


 足取りが軽くならない。


 バルコニーの窓を開ける勇気はなくて、カーテンの隙間だけを少し持ち上げる。

 外の冷たい空気が頬をかすめた。


 階下の道路に、玲央の姿が見えた。


 見えた瞬間、胸の奥が痛いほど跳ねた。


 玲央は歩いているのに、途中で足を止めた。

 振り返る。

 そして——見上げる。


 かなえの部屋の、バルコニーの明かり。


 玄関灯は点けなかったのに、リビングの灯りがカーテン越しに漏れている。

 部屋にいることが、ばれてしまう。


 玲央は、その灯りを見上げたまま動かない。


 街灯に照らされて横顔が少しだけ白い。

 悪い酔いじゃない。酔ってもいない。

 ただ、顔のどこにも余裕がない。


 玲央の唇が、小さく動いた。


「……なんで」


 声は届かない。

 届かない距離なのに、かなえの胃がきゅっと縮む。


 玲央は、そのまま見上げ続けた。

 目が少しだけ揺れて——次の瞬間、きゅっと結ばれる。


 言葉は聞こえない。

 でも、口の形だけで分かってしまった。


(……かなえさん)


 呼ばれた気がして、かなえは息を止めた。


 玲央は最後にもう一度だけ灯りを見上げると、踵を返した。

 今度こそ、振り返らない。


 かなえはカーテンをそっと落とした。


 呼吸が浅い。

 胸が熱い。

 胃が痛い。


(……やっぱり)

(勘違いじゃ、なかった)


 そう思ったはずなのに、涙は出ない。

 涙が出ない代わりに、体の中が静かに冷えていく。


 かなえはノートPCの前に戻った。

 仕事の画面を見つめる。


 文字は読めるのに、意味が入ってこない。


 金曜の夜になると、関係性がおかしくなる。


 ぼんやりと、そう分かってしまって、

 それでも“戻らない”を選べるほど強くはない自分が、情けなかった。


 だから、仕事で上書きするしかない。


 かなえはキーボードに指を置き、何度も同じ行を打ち直した。

 うまくいかないまま、夜だけが進んでいった。



***



 土曜の朝。


 玲央は出社していた。

 休日のオフィスは静かで、静かすぎて余計に耳が冴える。


 仕事を詰めれば、考えなくて済む。

 追いつける気がする。


 スマホが震えた。


 高瀬。


「……どうした」


『起きてる? 昨日の続きで飲んでるわけじゃねぇよな』


「飲んでない」


『じゃあ顔、死んでる理由は?』


 高瀬の声は軽い。

 軽いけど、踏み込みすぎない距離を知っている。


 玲央は一拍だけ黙って、それから短く言った。


「……昨日、帰ってこなかった」


 間が落ちた。


『――は』


『お前、今から行くなよ』


 即答だった。


『会社の人だろ。土曜の朝に突っ込んだら、やらかす』



『追うな。今は“追えない”ってちゃんとわかってる奴が強い』


 玲央は笑えなかった。


「……追えない」


 言葉にすると、喉の奥が痛かった。


『追えないなら、追いつけ。お前が得意な方で』


『仕事。——今はそれで逃げろ』


「逃げるんじゃない」


『一緒だよ』


 高瀬は淡々と言った。


『でも、それでしか保てない時もある』


 玲央は返事をしなかった。

 返事をしたら、崩れる気がしたから。


『今日は仕事しろ。追うな』

『じゃあな』


 通話が切れた。


 玲央はスマホを伏せ、PCに視線を戻した。


(追えない)

(だから、追いつく)


 キーを叩く音だけが、休日のオフィスに響いた。

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