第32話 金曜のはず
朝、スマホの画面に日付が出た瞬間、かなえの胸が小さく跳ねた。
金曜日。
それだけで身体が勝手に夜の段取りを思い出してしまう。
仕事が終わったら。
五分だけ通話が来て。
「お疲れ」って言われて。
「帰ってきてね」って、あの少しだけ甘い声で——。
(……何を当たり前にしてるの)
自分で自分にツッコミを入れるのに、否定は胃に落ちる前に溶けていく。
今週はキックオフ準備で余裕がない。会議が詰まり、資料が積み上がり、チャットが鳴り続ける。
忙しさに紛れれば、金曜の意味だって薄れるはずだった。
なのに。
午前中の隙間、スマホが静かなままだと気づくたび、胸の奥がざわついた。
五分の通話なんて、別に契約でも約束でもない。
それでも来ないだけで、空洞みたいに冷える。
(今日は……来ないのかな)
そう思った瞬間、逆に自分が怖かった。
来ないのが寂しいなんて、そんなふうに思う資格が自分にあるのか分からない。
だって私は、言ってしまったのだ。
恋人は苦手だ、と。
冗談みたいに、逃げ道みたいに。
彼の顔が一瞬だけ揺れたのを覚えているくせに、見ないふりをした。
(なのに、今さら金曜に期待してるの、何)
かなえは予定表を無理やり開いた。
金曜の夜に何があるか。——何もない。
何もないはずなのに、心のどこかだけが「帰る」と決めてしまっている。
どこへ?
考えたくなくて、仕事に目を落とした。
***
昼前。
合同の準備ミーティングで、かなえは神谷と並んで資料を確認していた。
「この導線、結城さんの案でいきましょう」
「問い合わせ窓口は、ここに寄せた方が現場が混乱しないと思います」
神谷の言葉は、必要なところだけを正確に押さえる。
かなえの脳が、気持ちよく噛み合っていくのが分かるのが、少し怖い。
「……助かります」
かなえがつい素直に言うと、神谷はふっと笑った。
「こちらこそ。結城さんとやると早い」
「こういう詰め、すごく助かってます」
褒め言葉をそのまま受け取ってしまうと危ない気がして、いつもの盾で返しそうになる。
でも今日は、仕事の波に背中を押されて、口元だけが先に緩んだ。
「……そう言ってもらえると、救われます」
ほんの少し、拗ねたみたいな言い方になってしまって、内心で焦る。
(……私、今、笑ってる)
自覚した瞬間、胃がきゅっとした。
柔らかい顔は隙だ。隙を見せると、誰かが勝手に入り込む。
そこへミカが書類を抱えて早足で来た。
「結城、神谷さん、ありがとう。今日ここまで詰められたの大きい」
ミカは時計を見る。
「上層部に一回投げて戻す。二人はこのまま、残り潰しといて」
「了解です」
ミカが去り際に、ちらっとかなえを見て小さく頷いた。
“頼んだ”の頷き。
かなえはその頷きに、いつも通り頷き返してしまう。
(仕事)
(今は、仕事)
言い聞かせた途端、胸の穴がまた冷えた。
——五分の通話が、来ない。
スマホを伏せたまま、かなえは資料の行を追った。
追えるのに、追っているのに、頭の隅がずっと騒がしい。
(……待ってるって、ばかみたい)
(恋人じゃないのに)
(恋人にしたくないって言ったの、私なのに)
仕事の合間、神谷がさらっと言った。
「結城さん、さっきから少し肩、入ってますよ」
「無理しすぎないでくださいね」
「大丈夫です」
反射で言って、すぐ後悔する。
大丈夫の言い方は、いつも逃げ道だ。
「……すみません。癖で」
神谷は追及しなかった。ただ、頷くだけ。
その優しさが、また怖い。
***
一方で、玲央は同じフロアの別の端で、パソコンの画面に食い入っていた。
資料。
数字。
段取り。
いつもなら「まあなんとかなる」で流す種類の細部を、今日は潰しても潰しても足りない気がする。
(追いつけない)
神谷の組み立ては速い。
経験の積み方が違う。社歴が違う。
分かっているのに、分かっているからこそ、悔しい。
悔しいなんて、口にしたら負けるみたいで、玲央はキーを強く叩いた。
背後から、低い声が落ちる。
「おい玲央。昼から顔こわい」
高瀬だった。片手に紙コップ、片手に菓子パン。
いつもの軽さで、でも目だけは真面目だ。
「寝てる?」
「寝てる」
玲央は即答した。即答できる程度には嘘が慣れている。
「その嘘のテンポ、久しぶりに見た」
高瀬はコップを机に置く。
「今週、お前ずっと詰めてる。何と戦ってんだよ」
玲央は笑おうとして、口角が上がらなかった。
「……戦ってない」
「戦ってる顔」
高瀬の視線が玲央の画面の端に寄る。
神谷が送ってきた資料のフォーマット。整い方が違う。
「あー……相手、神谷か」
玲央の背中が一瞬固まる。
「何それ」
「分かりやすいんだよ、お前」
高瀬はからかうふりをして、声を落とす。
「張り合う相手が“仕事ができる男”って、一番しんどいだろ」
玲央は返せなかった。
返したくなかった。
悔しいのは仕事だけだ。そう言い張りたいのに、胸の奥で別の何かが騒ぐ。
そこへ、隣の席の後輩が無邪気に話しかけてきた。
「相沢さん、さっき見ました?」
「結城さんと神谷さん、打ち合わせめっちゃ息合ってて。あの二人、回すの早いっすよね」
悪意ゼロの声。
悪意がないぶん、刺さる。
「前職でも、神谷さん結城さんの教育係みたいな立ち位置だったって聞きました」
「絆、あるんすかね〜」
——絆。
玲央の指がキーボードの上で止まった。
胸の奥がぎゅっと縮む。言葉がつかないまま濁っていく。
(絆って、何だよ)
(……結城さんは、仕事で笑ってただけだろ)
分かってる。分かってるのに、分かった顔でいられない。
「……ありがと」
玲央はようやく言った。声が自分でも硬いのが分かる。
後輩が去ると、高瀬が小さく肩をすくめた。
「ほら。今のお前に言うなって」
「別に」
玲央は画面に視線を戻す。
「仕事の話だし」
「……うん」
高瀬は笑わない。
「仕事の話だな」
その“うん”が、余計に腹に落ちた。
玲央はスマホを見た。
かなえさんから、何も来ない。
金曜の昼でも、夜でも、五分の通話でも。——何も。
(来ないなら、こっちから……)
そう思って、やめた。
電話をしたら、追いつけない気がした。
仕事で追いつけないのに、私生活で縋ったら、もっと負ける。
玲央は歯を食いしばって、画面に向かった。
***
夕方。
予定の隙間で、かなえは社内カフェスペースに寄った。
ミカと神谷と最終確認。
資料の束を机に広げて、項目を潰していく。
頭の回転は回るのに、胸のざわつきだけが別の場所で鳴っている。
そのとき、ガラスの向こう、通路を歩く二人組が視界に入った。
玲央。
それから玲央の隣にいる女性社員。
スーツの上着を肩にかけて、少し笑っている。
玲央も、必要最低限の会話の顔をしている。
距離は近すぎない。でも、遠くもない。
たったそれだけの光景なのに、かなえの中の何かがひゅっと冷えた。
(……あぁ)
確認しに行くつもりだった。
金曜に連絡がない理由を、聞きに行くつもりだった。
誤解なら笑って帰る。
誤解じゃないなら——静かに引く。
それが、かなえなりの最後の誠実さだった。
でも目の前にあるものが、もう答えみたいに見えた。
(確認するまでもない)
(私が勝手に、週末に意味をつけて)
(勝手に“帰る場所”を増やしてただけ)
惹かれているのは本当だ。
だから余計に、早めに引かなきゃいけない。
恋人が苦手だと言った自分の言葉を、今さら覆せない。
年上としての意地もある。みっともなく追いかけたくない。
神谷が資料から顔を上げた。
「結城さん、大丈夫ですか。顔色……」
「大丈夫です」
かなえは反射で笑った。仕事の笑顔。
「ちょっと、目が疲れてるだけです」
いつも通りの言い方が出る。
出てしまう自分に、また胃が痛む。
ミカが眉をひそめた。
「今日は金曜だろ。帰れるときは早く帰れ」
——金曜。
その単語で、胸の穴がまた冷えた。
かなえは資料を閉じた。
「……先に失礼します。明日、朝から修正入れます」
帰る場所は自分の家。
そう言い聞かせて、足を動かした。
玲央の家に向かう“当たり前”を、今日だけは選ばない。
選ばないと決めた瞬間、足が少し軽くなる。
軽くなるのに、胸は痛い。
(私事じゃない)
(恋人の流れじゃない)
(だから、ここで止める)
自分にそう言い聞かせながら、駅に向かった。
***
夜。
玲央は、結局、オフィスを出るのが遅くなった。
高瀬に「帰れ」と言われて、軽く食って帰ろうと誘われて、断れなかった。
普段なら行かない。今日は行った。
理由は分からないふりをしたまま、ただ“穴”を埋めたかった。
解散して、駅を抜けて、帰宅する。
玄関の鍵を回す手が、途中で止まった。
(……かなえさん)
金曜は帰ってくる。
帰ってきてね、と言った。
“うん”って言わせたわけじゃないのに、うんと言ったみたいに信じていた。
ドアを開ける。
部屋は静かだ。
かなえの靴はない。
上着もない。
当然だ、と思うべきなのに、喉の奥が詰まった。
玲央はソファに座らず、立ったままスマホを握り直した。
——送るつもりはなかった。
追いかけるみたいで嫌だった。
嫌なのに、指が勝手に動く。
『今どこ』
既読がつかない。
もう一度送るのは、負けるみたいで嫌なのに。
嫌なのに、胸のざわつきが止まらない。
『今日、金曜だよ』
返事がない。
玲央は息を吐いた。
吐いた息が、やけに薄い。
(……なんで)
言葉にした途端、崩れそうになる。
崩れたくないのに、指先が震える。
『どうして』
それでも返事は来ない。
玲央は画面を見つめたまま、最後だけ打った。
『帰ってきてよ』
送信。
画面の光が、やけに冷たい。
***
かなえは自宅のベッドの端で、スマホを握ったまま固まっていた。
通知。
玲央からのメッセージが並んでいる。
今どこ。
金曜だよ。
どうして。
帰ってきてよ。
読んだ瞬間、胸の奥が甘く疼いて、同時に胃が痛んだ。
(……ずるい)
帰ってきてよ、なんて。
待つ側みたいな言い方をするくせに。
でも、今日見た光景が頭から消えない。
(私が勝手に期待しただけ)
(私が勝手に、金曜を“私事”にしかけただけ)
返信欄に指を置いて、消して、また置いた。
何を書いても、何かが始まる気がする。
始まったら、きっと“恋人”の流れになる。
それが怖い。
怖いのに、少しだけ——嬉しい自分がいるのが、もっと怖い。
かなえはスマホを伏せた。
返さない。
返さないと決めた瞬間、胸のざわつきが、少しだけ深く沈んだ。
——行かなかった。
でも、終わらせなかった。
その中途半端さが、胃の奥で静かに熱を持っていた。




