第31話 見えないところで、すれ違う
昼過ぎのフロアは、空調の乾いた音がやけに耳についた。
キックオフに向けたタスクが、相変わらず容赦なく積まれていく。
版が増える。関係者が増える。確認の“ついで”が増える。
気づけば、かなえの手元に来るのは「これもお願い」「ついでにここも」ばかりだった。
拾うのは得意だ。
拾わないと回らないことも知っている。
でも、拾うほど自分の呼吸が浅くなる。
(……まあ、いい)
(忙しい方が、余計なこと考えなくて済む)
そう思った瞬間に、胸の奥がちくりと痛んだ。
余計なこと、って何。
金曜の夜のこと。
五分の通話。
「帰ってきてね」って言われる声。
それが来ない日が続くと、落ち着かない。
依存って言葉を使いたくないのに、ほかに言い方が見つからない。
なんとなく、部屋の温度が下がったみたいな——そういう空っぽ。
(……来ない)
(忙しいんだって分かってるのに)
かなえは付箋を押さえていたペン先に、必要以上の力が入っていることに気づいて、そっと手を緩めた。
深呼吸。仕事。今は仕事。
――カフェスペース。
ミカと神谷が先に座っていた。
資料を広げる手が迷わない。話す速度が似ている。
それに乗れる自分が、少しだけ楽で——その“楽”が怖い。
「結城、来た?」
ミカが顔を上げる。
「はい。すみません、ちょっとだけ押しました」
「いいよ。座って」
ミカはカップを軽く指で示した。
「今日は詰め切って終わり。変に構えなくていい」
神谷が穏やかに頭を下げた。
「結城さん、ありがとうございます」
「この前の段取り、本当に助かりました。社内の動かし方、上手いですよね」
かなえは思わず、小さく笑ってしまった。
「上手いって……」
「怒られないように先に潰してるだけです」
「それができる人、意外といないんです」
神谷はさらっと言う。
「……一緒に担当できて、正直うれしいです」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
褒められるのは苦手だ。持ち上げられた瞬間、次に落とされるのを知っているから。
でも神谷の言い方は、変に甘くない。仕事の言葉として届く。
だから、受け取ってしまいそうになる。
(受け取ったら、次も欲しくなる)
(そういうの、私いちばん面倒なのに)
「……ありがとうございます」
かなえは一度だけ頷いて、資料を開いた。
「じゃあ、論点から行きます」
会話はすぐに仕事へ戻った。
導線、代表挨拶の順、質疑の想定。
“代表”は結城と神谷。
上が決めた。断れない。選べない。
分かってる。
分かってるから、やる。
途中でミカがスマホを見て、眉をしかめた。
「……上、うるさいな」
小さく吐き捨てて、すぐ表情を戻す。
「ごめん、続けて」
かなえは頷きながら、胃の奥がきゅっとなるのを感じた。
来週の金曜。
会食の話。たぶんまた、出る。
(また“仕事だから”って言って)
(私はまた“分かってます”って顔するんだろうな)
ふいに、スマホが震えた気がして、反射で息を止めた。
伏せた画面は動いていない。通知もない。
(……何してるんだろう、私)
予定より少し長くなった打ち合わせが終わって、ミカが立ち上がる。
「今日はここまで。結城、回してくれて助かった」
「神谷さんも、ありがとうございました」
「こちらこそ」
神谷は資料をまとめながら言う。
「次の版、僕が先に整えて送ります。結城さんの確認が楽になるように」
「助かります」
かなえは素直に言ってしまって、すぐに「あ」と思った。
素直なままの声。少しだけ柔らかい。
(……やめて)
(こういうの、見せたくないのに)
視線を落とした、その瞬間だった。
ガラス越しに、見覚えのある横顔が通った。
玲央。
その隣に、美緒。
同じ部署なら普通だ。残業終わりに少し話すこともある。ご飯に行くこともある。
分かってる。分かってるのに——。
美緒が笑って何か言って、玲央が短く返す。
距離は近すぎない。けれど、遠くもない。
その“ちょうどよさ”が、いちばん刺さった。
かなえの胃が、きゅっと縮む。
(……あ、そっちなんだ)
冷たい声が頭の中で鳴る。
もともとそういう人だったじゃないか、と。
玲央は人懐っこい。軽い。好かれやすい。
自分は、週末の空いてる椅子に座っていただけかもしれない。
——猫の代わり。
勝手に胸に刺さって、かなえは奥歯を噛んだ。
笑顔を貼ろうとして、貼れない。
貼れないまま、神谷の声が近くに落ちる。
「結城さん? 大丈夫ですか」
「……大丈夫です」
反射で答えてしまう。いつもの癖。
大丈夫じゃない時ほど、いちばん早く出る言葉。
ミカは視線の先を追って、ほんの少しだけ目を細めた。
でも何も言わない。
踏み込まない沈黙はありがたいのに、今日はそれが妙に痛かった。
かなえは無理やり資料を抱え直す。
「すみません、私、先に戻ります」
「議事メモ、まとめて送ります」
「無理すんな」
ミカが短く言った。
短いのに、ちゃんと分かってる言い方。
かなえは頷いて、足を動かした。
ガラスの向こうの二人は、もう見えない。
見えないのに、胃の痛みだけが残る。
***
同じころ。
玲央は自分でも分からない顔のまま、エレベーターホールへ向かっていた。
仕事は回している。手も動かしている。
なのに、胸の奥のざらつきが取れない。
昼間、美緒がわざわざ投げてきた文が、まだ残っている。
『結城さん、神谷さんと楽しそうでしたよ〜』
“楽しそう”の四文字だけが、やけに居座る。
(……仕事だ)
(あの人は、仕事で笑ってるだけ)
分かってる。
でも、落ち着かない。
落ち着かない理由に名前をつけたら終わる気がして、玲央はずっと黙っていた。
そこへ、美緒がぴたりと並んだ。
「相沢さん、今日このあと時間あります?」
声は軽い。軽いのに、逃げ道を塞ぐ間合いが上手い。
「……何」
「ごはん行きません?」
美緒はにこっと笑う。
「キックオフ前って、みんなピリピリじゃないですか。息抜きしたいなって」
普段なら断る。
余計な誤解が増える。面倒だ。必要がない。
でも今日は、断る言葉が喉まで上がって——そこで止まった。
(……かなえさんから、何も来ない)
(俺も、送ってない)
連絡しないのは意地だ。
仕事で負けたくない。私生活で縋りたくない。
そうやって踏ん張ってるつもりの足元が、実は一番ぐらぐらしている。
玲央は一度だけ息を吐いて、言った。
「……短時間なら」
美緒の目が一瞬だけ光った。
でも勝った顔はしない。何も知らないふりの笑顔を貼る。
「やった。じゃ、駅のほうまで歩きましょ」
歩きながら、美緒は当たり前みたいに言う。
「相沢さん、最近ほんと付き合い悪いですよね〜」
「金曜も“先約”ばっか」
「……仕事」
「うそ」
美緒は笑う。
「仕事なら、みんな仕事ですって。みんな大変」
玲央は返さない。
返さないのが拒否だって、美緒は分かっている。
分かった上で、踏み込んでくる。
「ねえ、相沢さん」
美緒は少し声を落とす。
「結城さん、最近ちょっと変わりましたよね」
玲央の指が、ポケットの中で小さく握られた。
「……何が」
「柔らかくなった」
言い切らない温度で、美緒は言う。
「前は“業務”って感じだったのに。最近、笑う時あるし」
昼間の“楽しそう”が、また刺さる。
(それ、お前が見たんだろ)
(それをわざわざ俺に言うな)
玲央は表情を動かさずに言った。
「仕事が回ってるだけだろ」
「ふうん」
美緒は首を傾げるふりをする。
「神谷さんのおかげ、ですかね」
「……は?」
「神谷さん、褒め方が“身内っぽい”ですよね〜」
美緒は悪気のない声を作る。
「聞こえちゃいました。“窓口が結城さんでよかった”って」
玲央の胃がきゅっと鳴った。
よかった。
仕事の言葉に見えて、仕事じゃない匂いも混ざる。
その曖昧さが、一番嫌だ。
「神谷さん、そういう人なんじゃない」
「へえ」
美緒は笑う。
「でも結城さん、ああいう褒められ方、弱そう」
玲央は反射で否定しそうになって、止めた。
否定したら、何を知ってるんだって話になる。
知ってる。
知ってるのが、もう面倒な証明になる。
店に入る。席に座る。乾杯。
美緒は軽い酒、玲央はハイボール。
「相沢さん、最近ほんとに——」
美緒は言いかけて、わざと途中で止めた。
「ううん。なんでもない」
玲央は聞かない。
聞いたら、乗せられる。
美緒は料理を頼みながら、さらっと話題を戻す。
「キックオフ、結城さんと神谷さんが代表なんですよね」
「上、思い切りましたよね〜」
玲央は喉の奥が詰まるのを誤魔化すみたいに、グラスを傾けた。
(代表の隣に立つのは、神谷さん)
(俺じゃない)
仕事だ。
分かってる。
でも、“分かってる”だけで片づくなら、こんなに濁らない。
「結城さん、すごいですよね」
美緒は笑う。
「先方からの信頼も厚いし。神谷さんも“やりやすい”って言ってましたよ」
玲央の胸の奥が、静かに沈む。
やりやすい。
その言葉は、仕事として正しいのに、今の玲央には痛い。
自分は、かなえさんを“やりやすく”できていない気がするから。
あの人は線を引く。
引いた線の外側に、俺が立たされる日が来るかもしれない。
その想像が、怖い。
怖いのに——怖いって言えない。
恋人なんて言葉は、もっと言えない。
言ったら責任が生まれて、自分が耐えられない気がする。
でも、放っておけない。
それが、もう執着なのに。
「相沢さんも、ちゃんと見てあげないと」
美緒は冗談みたいに言う。
「放っておいたら、静かに離れていきそう」
玲央の胃が、またきゅっと鳴る。
(そうなんだよ)
(怒らないで、黙って、離れる)
だから放っておけない。
放っておけないくせに、今夜はこうして別の席にいる。
自分で自分に苛立つ。
「……放ってない」
小さく出た声が、自分でも意外に硬い。
美緒はその硬さを面白がらない。
面白がらない顔で、にこっと笑う。
「へえ。じゃあ大丈夫ですね」
大丈夫じゃない。
でも否定する言葉はどれも重すぎる。
玲央は、これ以上ここにいたら余計なことを言いそうで、会計を呼んだ。
「……そろそろ出よう」
「え〜、早い」
美緒は口では不満そうに言いながら、立ち上がる。
外に出ると夜風が冷たい。
美緒は並んで歩きながら、さらっと言った。
「結城さん、さっきカフェで笑ってましたよ」
「相沢さん、見てないの、もったいない」
玲央は返さない。
返したら、何かが始まる。
ただ、ポケットの中でスマホを握った。
握って、出さない。
(今、連絡したら)
(追いつきたいのがバレる)
バレたくない。
でも黙ってるのは、もっと苦しい。
玲央は結局、何もしないまま歩いた。
***
同じころ。
かなえは廊下を戻りながら、胸の奥を押さえたくなる衝動を必死に飲み込んでいた。
見えたものは、ただの光景だ。
玲央と美緒が歩いていただけ。
同じ部署なら、食事に行くことだってある。
(……当たり前)
(私は、何を期待してたの)
五分の通話が来ないだけで揺れる自分が、腹立たしい。
年上のくせに。恋人は苦手って言ったくせに。
余裕のあるふりだけは得意だったはずなのに。
(忙しいだけ)
(私も忙しい)
(だから、いつも通りでいい)
“いつも通り”を口に出すと、いちばん苦手な“普通”が胸に押し寄せる気がして、かなえは唇を噛んだ。
スマホを見る。
通知はない。
何もない。
何もないのに、胸の奥だけがざわつく。
(……私、ただの週末の穴埋めだったのかもしれない)
それを認めたら、楽になる気がした。
でも楽になったら、終わる気もして怖い。
終わったら、たぶん自分はちゃんと“平気な顔”ができる。
できてしまうのが、いちばん怖い。
かなえは目を伏せて、仕事の顔を貼り直した。
貼り直せてしまう自分が、また嫌だった。
***
夜の街を、玲央と美緒が歩く。
カフェの明かりの横を通り過ぎる。
玲央は気づかない。
ガラスの向こうで、自分を見た人がいることに。
気づいたら、顔に出る。
自分がどれだけ怯えているか、ばれてしまう。
(……かなえさん)
(俺、今、追いつけてない)
追いつけないまま、手だけは止めない。
止めなければ、いつか追いつくと信じているふりができるから。
信じているふりの下で、濁りだけが静かに育っていく。
そして、かなえのスマホは、その夜も静かなままだった。




