第30話 届かない五分
火曜日。
出社してから、かなえはずっと肩に力が入ったままだった。
席に着いて、PCを立ち上げて、カレンダーを開く。会議、会議、会議。空いているのは、せいぜい移動とトイレの隙間くらい。
(……よし。これなら余計なこと考えない)
そう思った瞬間に、自分で自分が嫌になる。
“余計なこと”って何。——金曜の夜のこと。玲央の沈黙。あの、来て当たり前みたいになりかけていた五分。
午前中、スマホが震えるたびに反射で胸が跳ねた。
でも画面に出るのは、ミカのリマインドとか、社内チャットの通知とか、タスクの催促ばかり。
玲央じゃない。
(……忙しいんだよね)
(忙しいだけ。……そう、忙しいだけでいい)
自分に言い聞かせるくせに、“玲央じゃない”と分かった瞬間の落差が、いちいち胃にくる。
来ない方が、正しい。恋人は苦手って言ったのは自分だし、甘える権利みたいな顔をするのはもっと嫌だ。
——なのに、来ないと落ち着かない自分がいる。
(最悪。私、何待ってるの)
喉の奥が乾いて、かなえはわざとコーヒーを一口飲んだ。
昼前。
ミカとの短いすり合わせが終わった直後、神谷からメッセージが入る。
『叩き台、更新しました。今日の午後、15分だけ見てもらえますか』
『結城さんが入ってくれると、こちらも安心です』
“安心”。
その一語だけが、仕事の顔をしたまま、胸の柔らかいところに触ってくる。
(……やめて)
(そういう言い方、ずるい。受け取ったら、また次が来る)
でも仕事だ。断る理由がない。
かなえは温度を削った文を選ぶ。
『承知しました。14:30でお願いします』
送信して、すぐに画面を閉じた。
閉じても、胸のざわつきは残る。残るのが腹立つ。
***
14:30。
会議室のモニターに、神谷の資料が映る。
相変わらず整っている。
余計な装飾がないのに、読む側の目が迷わない。判断のポイントだけが、ちゃんと浮く。
「ここ、結城さんの社内調整が乗ると、一気に前に進みます」
淡々とした声。褒めているのに軽くない。
「……営業側の巻き取り、私が持ちます」
かなえも淡々と返した。
「ただ、当日の運用は現場の負荷が出るので、ここは一度確認入れます」
「助かります」
神谷が小さく笑う。
距離を詰めてこない笑い方。だから逆に、気を抜いてしまいそうになる。
「結城さん、回すの上手いですね」
胸の奥が、ほんの少しだけほどけた。
ほどけた瞬間、自分で分かって、かなえは指先に力を入れる。
(……ほら、こういうの)
(気持ちよく噛み合うと、勝手に顔が緩む)
「……普通です」
冷たく言いすぎた、と気づいたのは言った後だった。
神谷は気にしていない顔で、少しだけ肩をすくめる。
「その“普通”が、他の人にはなかなかできないんですよ」
会議が終わるころ、神谷が資料を閉じながら言った。
「一緒にやりやすいです」
言い直すみたいに、ほんの少し声を落とす。
「……担当が結城さんで、嬉しい」
嬉しい、が引っかかった。
仕事の文脈なのに、言葉だけが私的な匂いを持つ。
かなえは正しい返事を探して、正しい返事を口にする。
「……ありがとうございます」
会議室を出て、廊下のガラスに映った自分の口元が、ほんの少し柔らかいのに気づいてしまった。
(……最悪)
そして、もっと嫌なことに気づく。
この顔を、玲央には見せていない。
見せていないのに、五分の声ひとつでほどけるのは玲央の方だって、もう知っている。
(……私、どっちにほどけたいの)
(ほどけたら、戻せないくせに)
***
その様子を、少し離れた自販機の前で見ていたのが水野美緒だった。
紙コップを持ったまま、目だけで二人の空気を測る。
神谷の声の落とし方。結城の笑い方。仕事の顔なのに、ちょっとだけ柔らかくなる瞬間。
(へえ……)
美緒は、にこっとしてスマホを取り出す。
営業二課の相沢へ。
余計な説明はいらない。刺さりそうな部分だけ置けばいい。
『相沢さん、さっき見ちゃったんですけど』
『結城さん、取引先の神谷さんと会議してて、めっちゃ楽しそうに笑ってましたよ〜』
『あの笑い方、社内であんまり見ないやつです』
送信。
美緒はそれ以上、何もしない顔でコーヒーを飲んだ。
***
玲央は、その時間もPCに向かっていた。
運用、集計、周知、手順。
“誰かが困る前に潰す”仕事は、地味で、評価されにくい。
でも、いまはそれしかできない。
そこへスマホが震える。
画面に映る名前で、胸が一瞬跳ねた。
(水野)
玲央は通知だけ見て、指が止まった。
『結城さん、取引先の神谷さんと会議してて、めっちゃ楽しそうに笑ってましたよ〜』
『あの笑い方、社内であんまり見ないやつです』
息が、うまく抜けない。
(結城さん)
会社の呼び方で呼んだだけで、内側がざらつく。
(……かなえさん、だろ)
勝手に呼び直して、余計に腹が立った。
呼び直したところで、自分の立場が変わるわけでもないのに。
楽しそうに笑ってた。
俺の知らない顔で。
胸の奥がきゅっと縮むのに、それを何て呼べばいいのか分からないふりをする。
(仕事だ)
(仕事の顔だ)
分かってる。
分かってるのに、“社内であんまり見ないやつ”が自分に向かないことだけが、やけに悔しい。
悔しいから、キーボードを叩く。
速く、強く。追いつける気がして。
隣の席の高瀬が、ちらりと見た。
「玲央、叩き方が喧嘩」
「……うるさい」
「お前がうるさい」
高瀬は笑う。笑うけど、刺さない。
「画面、穴開くぞ」
玲央は画面から目を離さないまま、短く息を吐いた。
「……水野がさ」
言いかけて、飲み込む。
説明したら、自分の弱いところを出すみたいで嫌だった。
高瀬は待たない。
机の端を指でとん、とん、と叩いて言う。
「焦ってる時のお前、口数減る」
「で、今日は“猫ちゃん”の話は?」
喉が詰まる。
(猫、ね)
軽く言うための仮の名前。
重くしないための逃げ道。
でも今、その逃げ道が全然役に立たない。
「……今日は、連絡してない」
自分で言って、自分がいちばん驚いた。
言った瞬間、負けた気がした。
高瀬は驚かない。
「偉いじゃん」
「偉くない」
玲央は即答してしまう。
「……連絡したら、俺が負ける気がする」
「もう負けてる」
高瀬はあっさり言う。
「気にしてる時点で」
玲央は反射で言い返しそうになって、やめた。
言い返すほど余裕がない。
「……仕事で追いつけばいい」
「仕事で追いついて、私生活で縛る気?」
高瀬の言い方は軽いのに、芯がある。
玲央は返せない。
返せないまま、指だけ動かす。
動かしていると、落ち着く気がするから。
高瀬は責めずに言った。
「焦ってる時ほど、やること一個にしろ」
「今は仕事。終わったら考えろ」
玲央は頷かない。
でも、キーボードの音が少しだけ整う。
***
その夜。
かなえは自宅で資料を読んでいた。
スマホが静かだ。
静かなだけで、耳が勝手に拾ってしまう。何も鳴っていないのに、鳴った気がする。
(……来ないんだ)
来ないなら来ないでいい、と言い聞かせる。
言い聞かせるほど、待っている自分が浮き上がってくる。
(恋人は苦手)
(恋人にしないって言った)
(なのに、連絡ひとつで揺れるの、だめでしょ)
自分を叱ると、胃が痛い。
痛いのに、別の自分が小さく反論する。
(……恋人じゃないから揺れるんだよ)
(立場がないから)
(“言っていい言葉”がないから)
かなえはスマホを裏返した。
裏返しても、胸のざわつきは残る。
(玲央、頑張ってるのかな)
思ってしまう自分が悔しい。
年上のくせに、余裕のあるふりが得意なはずなのに。
***
深夜。
玲央はようやく保存を押して、背もたれに体を預けた。
画面の右下の時計が、日付を跨ぎそうになっている。
高瀬は帰った。「寝ろよ」とだけ残して。
玲央はスマホを手に取る。
通知は増えていない。水野の文だけがまだ刺さってる。
親指が勝手にトーク画面を開く。
——結城さん。
表示される名前が会社の距離で、玲央は苛ついた。
(かなえさん)
心の中で呼び直す。
呼び直しても、状況は何も変わらない。
文を打ちかけて止める。
『今、五分だけ——』
消す。
(今送ったら、負ける)
負けたくないのに、落ち着かない。
落ち着かないのが、もう負けてる。
仕事の顔で送れる文に逃げようとして、また止まる。
(……言い訳だ)
結局、繋ぎたいだけだ。
玲央は短く息を吐いて、正直だけ残した。
『今日は連絡できなくて、ごめん』
『……声、聞きたい』
送信。
送った瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
軽くなるのに、胃が痛い。
——五分で足りるわけがないのに。




