第29話 追いつけない場所
月曜の朝。
かなえは、鏡の前で髪をまとめながら、つい首の裏を指で探ってしまい——慌てて手を引っ込めた。
(触らない)
触ったら思い出す。
思い出したら、週末の熱が“仕事の顔”を溶かす。
コンシーラーを薄く重ねて、襟の角度を調整して、何もなかったみたいにスーツを着る。
“何もなかった”を作るのは得意だ。
けれど、その得意さが今日はやけに腹立たしい。
(私、いま何を隠したいんだろ)
(誰に? ……自分に?)
誤魔化しの問いを飲み込んで、かなえは玄関を出た。
出社すると、フロアはいつも通りの騒がしさだった。
週の始まりのメール。会議の準備。数字の更新。
ルーティンは心を整えてくれる——はずなのに、胃だけが最初から落ち着かない。
理由は分かっている。
金曜の夜に神谷と飲んだこと。
そのあと、玲央の悪い酔いを拾ったこと。
そして、翌朝まで続いた“既成事実”みたいな温度。
(……仕事に戻れ)
(戻れる。戻るのが私の得意分野)
そう言い聞かせて席に着いた瞬間、社内チャットが弾けた。
【ミカ:結城、今週のキックオフ案件、代表お願いしたい。午後イチで軽く打ち合わせしよう】
【神谷:先週の件、助かりました。今週の進行、叩き台作ります。時間いただけますか】
胃が、きゅっと鳴る。
キックオフ。
今期の大型イベント。両社合同で動く。社内外の目が集まる。
代表——つまり、表に立つ役。
(……逃げ道がないやつだ)
(逃げ道を作るのも得意だったのに、今日はない)
かなえは深呼吸して、返す。
【結城:承知しました。午後イチ、空けます】
【結城:ありがとうございます。叩き台いただけると助かります。時間はミカと調整します】
送信。
仕事の文面は感情を削ってくれる。
削ってくれるのに、削られたあとに残る痛みは消えない。
午前中は、打ち合わせ資料を整えた。
会議体、スケジュール、役割分担。
“整える”作業は得意だ。
整えてしまえば、何もなかったみたいに進められるから。
——何もなかった、って言えるほど軽い週末でもなかったのに。
気づけば、手元の資料に集中しているふりをしながら、耳だけが妙に静けさを探していた。
スマホが鳴らない。
金曜からの癖みたいな“おはよう”も、“大丈夫?”も、ない。
(当たり前じゃない)
(当たり前にしたくない、って言ったのは私)
(……なのに、来ないと落ち着かないの、何)
腹が立つ。
自分の矛盾にいちばん腹が立つ。
昼前、コピー機で資料を出していると、背後から声が落ちた。
「結城さん」
振り向く前から分かる。
温度が、少し近い。
かなえは顔だけを向けた。
「……相沢さん。何か?」
棘をわざと残す。
会社の距離を守るための、細い防波堤。
玲央はその棘に引っかからない顔で頷いた。
スーツ。ネクタイ。仕事の目。
表面はいつも通りなのに、奥のほうが静かで、少しだけ硬い。
「午後、キックオフの件で営業二課にも確認入ると思う」
「先に共有しときたくて」
「……ありがとうございます」
業務の話。
だから救われるはずなのに、胃がむしろ痛くなる。
玲央はそれ以上は言わない。
“かなえさん”も、“帰ってきてね”も、ここでは出さない。
それがルールだと分かっているのに、分かっているからこそ落ち着かない。
玲央は一瞬だけ視線を落として、淡く言った。
「……忙しくなるね」
たったそれだけ。
なのに、喉が詰まる。
(それ、私に言ってる?)
(それとも——自分に?)
「いつも忙しいです」
可愛げのない返し。
年上の意地。逃げ癖。全部混ざった“安全な”言い方。
「そっか」
玲央は小さく笑って、でも笑いが薄い。
「……じゃ、後で」
去っていく背中は、仕事の背中だった。
その“ちゃんとした後輩”の背中が、少しだけ悔しい——と感じた瞬間、かなえは自分の感情を叩き潰した。
(違う)
(悔しいのは、私じゃない)
(私はただ、面倒を増やしたくないだけ)
そう言い聞かせるほど、玲央が悔しがる顔が浮かぶのが嫌だった。
***
午後イチ。
ミカとの打ち合わせは、思ったより短かった。
「結城、代表で進める。先方は神谷さん。向こうの経験もあるし、進行は向こうの叩き台が早い」
ミカは淡々と言う。仕事の割り切りの声だ。
「うちは社内調整と数字と現場の巻き取り。結城がいちばん適任」
「……適任って、便利ですね」
笑って言ったつもりが、声が少しだけ乾いてしまった。
「便利でいい。便利じゃないと回らない」
ミカは肩をすくめる。
それから少し声を落とした。
「無理はするなよ。顔色、金曜からずっと硬い」
胃がひくりとする。
「……大丈夫です」
大丈夫なわけがない。
でも、ミカ相手に本音を出したら、仕事の輪郭が崩れる。
崩れたら、立っていられないのは自分だ。
「じゃあ、決める」
ミカはそれ以上踏み込まない。
「神谷さんとの事前すり合わせ、今週の水曜か木曜。夜じゃなくて、業務時間内で行けるよう調整する」
「食事とかは“お礼”の範囲でいい。線は引け。な?」
線。
かなえの武器。
それを武器にしてきた分だけ、線の外側にある熱に弱いことも知っている。
「……はい」
返事はできるのに、胃が痛む。
線を引くほど、線の内側が狭くなるみたいで。
***
同じ午後。
神谷から届いた叩き台は、やっぱり綺麗だった。
読みやすい。迷いがない。
必要な情報だけを残して、判断の導線が整っている。
“通し方”を知っている人の資料だ。
かなえは、その資料を見ながら、素直に助かると思ってしまった。
助かると思ってしまって、胸の奥がざわつく。
(……こういうのに弱い)
(私、単純だな)
金曜の夜にこぼれた言葉が勝手に蘇る。
憧れでした、って。
弱いって、言ってしまったこと。
(あれ、言わなきゃよかった)
(言った瞬間、何かが進む気がしたのに)
かなえは画面を閉じて、仕事に戻ろうとする。
戻ろうとして——視界の端に玲央の席が入る。
玲央は静かにPCに向かっていた。
電話をしているわけでもない。誰かと笑っているわけでもない。
ただ、指が止まらない。
さっきまでの“薄い笑い”が消えて、仕事の顔だけが残っている。
その背中が、やけに固い。
(……頑張ってるのかな)
(追いつこうとしてるのかな)
そんなふうに思うのが、悔しい。
年上のくせに、後輩の機嫌を気にしてるみたいで。
——でも。
彼が本気なのかどうか、信じ切れないからこそ、仕事で踏ん張ってる背中だけは信じたくなる。
(都合がいいな、私)
かなえは問いかけてしまいそうになって、やめた。
業務の顔のまま、私的なことを聞くのはルール違反だ。
自分で決めた。
だから、見ないふりをした。
見ないふりをしたのに、胃だけが反応する。
***
夜。
かなえは帰宅して、鍵をかけた。
玄関の静けさが、やけに耳に残る。
いつもなら、ここで一度スマホが震える。
“おかえり”とか、“落ち着いた?”とか。
それが今日は来ない。
(……当たり前じゃない)
(当たり前にしちゃだめ)
(だって、恋人じゃない)
(恋人にしたくないって言ったのは——私)
自分に言い聞かせるほど、胸の奥がむず痒い。
来ないなら来ないでいい、と言い切れない自分が情けない。
ジャケットを脱いで、キッチンに立つ。
コーヒーを淹れるだけのはずなのに、手順が少しもたつく。
湯気の匂いが広がっても、胸の奥のざわつきは消えない。
スマホを見る。
通知はゼロ。
既読も未読も、ない。
——昼間の玲央の目が浮かぶ。
笑っているのに笑っていない目。
「忙しくなるね」と言った、硬い声。
(あれ、私のせい?)
(いや、違う。仕事のせい)
(……でも、私が代表で、神谷が隣にいるから?)
そこまで考えて、かなえは自分の思考を止めた。
(面倒)
(こうやって勝手に意味づけるのが、いちばん面倒)
カレンダーを開く。
金曜のキックオフ。
代表としての予定が、もうそこにある。
その隣に、見えない文字が浮かぶ気がする。
“帰ってきてね”
勝手に浮かぶ。
勝手に胃が痛む。
かなえはスマホを伏せた。
連絡が来ないなら、来ないでいい。
そう言い聞かせる。
――なのに、眠るまでの間、耳はずっと“足音”を探してしまった。
(期待してない)
(恋人じゃない)
(……でも、嫌いじゃない)
心の中で小さく漏れて、かなえは目を閉じた。




