第28話 帰ってきて、今夜
改札を抜けて、ホームへ向かう足が少しだけ重い。
さっきまで仕事の顔をしていたのに、ひとりになった瞬間、体の奥のほうから遅れて痛みが来る。
――玲央から、今日は何も来ない。
それだけのことなのに、胃が痛い。
期待してたわけじゃない、と言い訳したいのに、
沈黙が続くほど「待ってた」みたいに見える気がして、腹が立つ。
(私は、何を気にしてるの)
(……仕事だったのに)
電車のドアが開く音がする。
乗り込もうとして、スマホが震えた。
画面に出た名前は――玲央じゃない。
高瀬。
胸がひくりとした。
玲央の友人。会ったことはない。連絡先も知らない。
なのに、どうして。
恐る恐る通話に出る。
「……もしもし」
『突然すみません。高瀬です』
声は落ち着いている。酔っていない。
『玲央、ちょっと酔い方がまずくて……今、○○駅の改札前にいます』
『結城さん、乗り換えでそこ通ります? もし通るなら――頼みます』
玲央の最寄り。
ちょうど今、乗り換えで通る予定の駅。
(……なんで私に)
(……なんで、玲央の友人が私に)
でも、その疑問より先に、身体が動いてしまう。
胃が痛いのに、足は早くなる。
「……分かりました」
声が自分でも驚くほど早い。
「今、乗り換えで通ります。……どこですか」
『改札出てすぐの柱のあたりです。俺、少し離れたところにいます』
『玲央、今ちょっと……誰にでも絡む感じじゃないんで』
『……ほんと、すみません』
誰にでも絡む感じじゃない。
その言い方が、妙に引っかかる。
勝手に胸の奥がざわついて、それがまた嫌だ。
「……大丈夫です」
いつもの盾が口をついて出る。
「行きます」
通話が切れた。
(……何してるんだろう、私)
(でも、放っておいたら……)
放っておけない、と言葉にしたら負ける気がして、
かなえはホームの階段を下りた。
***
○○駅。
人が多い。金曜の夜の匂い。
居酒屋の看板、甘い酒の匂い、浮ついた笑い声。
改札を出た瞬間、見つけた。
柱の近く。
少し壁に寄りかかるようにして立っている男。
スーツの襟が少し崩れている。
ネクタイが緩い。
いつもの“会社の顔”が、今日はどこにもない。
玲央。
目が合った瞬間――
玲央の表情が、ふっと崩れた。
嬉しそうに、目尻がくしゃっとなる。
破顔、というほど派手じゃないのに、
「見つけた」って顔だけは隠せてない。
「……結城さん」
呼び方は会社のまま。
でも声が、近い。
近くて、幼い。
かなえは一歩だけ距離を詰めて、すぐ止まる。
近づきすぎたら、今夜の空気に呑まれる気がした。
「……どうしたんですか」
刺すように言う。
「高瀬さんから連絡が来ました。酔い方がまずいって」
玲央は小さく頷いた。
頷いたのに、反省の顔はしない。
代わりに、もう一度だけ嬉しそうに笑う。
「……会えた」
ぽつりと落ちる声。
「俺、会えて嬉しい」
胃が、きゅっと縮む。
嬉しい、なんて言葉を、こんな場所で言わないでほしい。
なのに胸の奥が、甘く疼くのがいちばん嫌だ。
「……自分で帰れますか」
「帰れる」
即答。
でも次の瞬間、玲央は少しだけ眉を寄せた。
「……でも、今日は」
言い切らない。
言い切らないまま、視線だけが絡む。
かなえが言葉を探していると、少し離れたところに立っていた男が目に入った。
高瀬だろう。こちらを見ているけれど、近づいてこない。
玲央が小さく手を挙げて、高瀬の方に「大丈夫」みたいな合図をした。
高瀬は頷いて、一歩、二歩と距離を取る。
会話に混ざらない。
ただ、見ている。
その配慮が逆に、現実味を増す。
かなえは玲央に向き直った。
「……とりあえず、座れますか」
「ここじゃ人が多い」
「うん」
玲央は素直に頷く。
素直すぎて腹が立つ。
ベンチのある端のスペースへ移動する。
かなえが先に座ると、玲央は隣じゃなく、半歩ずれた位置に腰を下ろした。
触れそうで、触れない距離。
なのに、袖がかすかに擦れる。
それだけで、胃が痛い。
玲央はしばらく黙っていた。
黙ったまま、呼吸だけが少し乱れている。
酔っている。悪い酔い。
でも、乱暴じゃない。
乱暴じゃないのに、怖い。
玲央が小さく言った。
「……今日、神谷さんと飲んでたんだよね」
知っている。
玲央は知っている。
なのに口に出されると、胃がきゅっと鳴る。
「……仕事です」
「うん。知ってる」
玲央は頷いた。
頷き方が、妙に優しい。
「仕事だって、止めない」
そして、少しだけ声を落とす。
「……でも、俺、今日」
言い切らない。
言い切らないまま笑うのに、目が笑ってない。
かなえは息を吸って、吐く。
「……帰りますよ」
強く言わないと、自分が揺れる気がした。
玲央は「うん」と頷いた。
頷いたのに、次が来る。
「……どっちに?」
さらっとした声。
当たり前みたいな問い。
家が二つある前提。
選択肢の形をして、逃げ道を削ってくる。
(……ずるい)
(こんな言い方、反則)
「私の家に決まってます」
かなえは反射で刺した。
玲央は驚かない。
腹も立てない。
ただ、少しだけ目尻を下げる。
「うん。そうだよね」
頷いて、頷いたまま、言う。
「……でも、今日は」
また言い切らない。
言い切らないのに、視線だけが絡む。
かなえが言葉を探していると、玲央がぽつりと続けた。
「……来週は会えるよ」
子どもみたいに言う。
「今週、会えないって思ってたから」
「だから……今、会えて嬉しい」
胃が痛い。
痛いのに、胸の奥がほどけそうになる。
(会えないって思ってたの)
(……そんな顔、しないで)
かなえは、言い返す代わりに立ち上がった。
「……タクシー呼びます」
「酔い方、まずいんでしょ」
玲央は一瞬だけ目を見開いて、
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん」
小さく付け足す。
「ありがとう」
その“ありがとう”が、今日いちばん効く。
かなえはスマホを取り出し、タクシーアプリを開く。
画面を見ながら、息を整える。
玲央が隣で、そっと言った。
「……“うん”って言って」
「何ですか、それ」
「今、俺、揺れるから」
玲央は恥ずかしそうに笑う。
「結城さんの声で、落ち着きたい」
落ち着く。
いつもの言葉。
かなえは腹が立つのに、言ってしまう。
「……うん」
玲央の肩が、少しだけ緩む。
その変化が、怖いほど嬉しそうで、
かなえは目を逸らした。
***
タクシーが来る。
高瀬が遠くからこちらを見て、軽く頭を下げた。
玲央はタクシーに乗り込む前、ほんの少しだけ振り返って高瀬に手を挙げる。
高瀬はそれ以上近づかない。
その距離が、余計に「これはよくある酔いじゃない」と言っている気がする。
車内。
玲央はシートに背中を預けた途端、急に静かになった。
酔いが引いたわけじゃない。
ただ、気を抜いた。
かなえは窓の外を見ているふりをしながら、隣の気配だけが近い。
眠気の残る指が、何度もかなえの袖を探る。
触る前に止めて、止められなくて、結局、軽く指先が絡む。
それだけで、胸の奥が甘く疼いて、胃が痛む。
「……結城さん」
玲央が小さく呼ぶ。
「……何ですか」
「結城さん、じゃなくて」
玲央は少しだけ笑う。
目尻がくしゃってなる。
「……かなえさんは?」
その問いが、やけに素直で、やけにずるい。
(ダメだ)
(ここで許したら、戻れない)
なのに、声が出る。
「……酔ってるからです」
「うん。酔ってる」
玲央はあっさり認めて、また小さく言う。
「でも、嬉しいのは本当」
かなえは返せない。
返せないまま、絡んだ指先だけがほどけない。
タクシーが信号で止まる。
玲央がふっと顔を寄せて、かなえの髪の匂いを吸うみたいに息を吸った。
「……そのシャンプー」
玲央がぽつりと言う。
「俺の家の匂いになってきたね」
胃が、きゅっと鳴る。
「……意味分かりません」
「分かんなくていい」
玲央は笑って、でも目は笑ってない。
「……帰ってきてね」
帰ってきてね。
言い方はお願い。
なのに、待つ側に回って逃げ道を塞ぐ。
かなえは窓の外に視線を固定した。
返事をしたら負ける気がする。
でも、沈黙も負ける気がする。
玲央がまた、囁く。
「……“うん”って言って」
かなえは、喉の奥で息を詰まらせた。
「……うん」
玲央の指が、絡んだまま少しだけ力を込める。
ぎゅっと。
それは抱きしめる代わりの合図みたいで、
かなえの胃がまた痛んだ。
***
玲央のマンションの前でタクシーが止まる。
かなえは「家」と言いかけて、飲み込んだ。
どっちの家、って聞かれるのが分かってしまったから。
支払いを終えると、玲央が先に降りる。
ふらつかない。ふらつかないように“見せている”だけ。
その意地が、玲央らしい。
エントランスを抜ける。
エレベーターに乗る。
沈黙が長いのに、指先だけがずっと繋がっている。
玄関。
鍵を開ける手つきが少し遅い。
それでも玲央は笑って、ドアを押し開けた。
部屋の匂いがする。
洗剤と、コーヒーと、彼の体温の残り香。
玲央が先に入って、振り返る。
「……おかえり」
かなえの胃が、きゅっと縮む。
「……ただ連れてきただけです」
かなえは刺す。
「私は帰ります。あなたを――」
「うん」
玲央は遮らない。
遮らずに、優しく言う。
「……どっちに?」
またそれだ。
かなえが言葉に詰まると、玲央は少しだけ笑って、
ほんの小さく付け足した。
「帰ってきてね」
「今夜だけでも」
「……俺、待てるから」
待てる、という顔をしているのに、
玄関の内側に立つ玲央は、かなえの退路を塞いでいる。
かなえは口を開いて、閉じた。
(帰るって言えばいい)
(言えばいいのに)
でも、言ったら本当に終わる気がした。
終わる、じゃなくて。
“離れる”になる気がした。
かなえは靴を脱いだ。
玲央の目尻が、くしゃってなる。
その顔がずるい。
「……ありがとう」
玲央は小さく言って、でもすぐに真面目な声になる。
「かなえさん」
「触っていい?」
許可を取る言い方。
そのくせ、もう答えを知っているみたいな距離。
かなえは睫毛を伏せる。
「……今日だけです」
「うん」
玲央は頷く。
「今日だけ、って言って」
また言質。
小さな同意の連打。
「……今日だけ」
玲央の指が、かなえの髪に触れる。
乱さない。梳くみたいに、確かめるみたいに。
匂いを閉じ込めるみたいに、ゆっくり。
頬に触れて、首筋に触れて、
見えない場所を探るように指が滑る。
かなえが小さく息を吸うと、玲央が笑った。
「……酔ってると、素直だ」
「……うるさい」
「うん」
玲央は穏やかに言う。
「可愛い」
可愛い、が刺さる。
褒められているのに、飼われている感じがする。
それが嫌なのに、嬉しいのがいちばん嫌だ。
玲央は一歩近づいて、抱きしめる。
強くはない。逃げ道を残すみたいに見せて、
でも腕の輪だけは、ほどけない。
かなえの肩に顔を擦り付けるみたいに、
玲央が小さく息を吐く。
「……落ち着く」
「やっと、落ち着いた」
腹が立つ。
私がいると落ち着く?
それって、都合がいいだけじゃないの。
でも、玲央の声は今夜だけ少しだけ幼い。
幼いのに、頑固で、手放さない。
玲央が囁く。
「……かなえ」
呼び捨て。
部屋の空気が変わる。
かなえは反射で身を固くする。
「……それは」
「だめ?」
玲央は意地悪く笑わない。
ただ、確かめるだけの声で聞く。
「……俺の家の中だけ」
「ここでは、かなえって呼びたい」
断ればいいのに。
断れば、線を引けるのに。
でも、目尻がくしゃっとなる。
嬉しそうで、安心したそうで、
それに絆される自分が腹立たしい。
「……ここだけです」
玲央は、息を吐くみたいに笑った。
「うん」
そして、また言う。
「“うん”って」
「……うん」
玲央の指が、かなえの背中へ回る。
服の上から、ゆっくり。
見えない場所へ、確かめるように触れて、
離れない合図みたいに、何度も同じところを撫でる。
かなえの息が浅くなる。
「……今日は、跡」
玲央が小さく言う。
「見えるところは、だめ。分かってる」
「でも……」
言い切らないまま、背中に顔を寄せる。
熱と吐息が触れて、かなえの胃が痛む。
「……だめ、って言ったら」
「やめる」
玲央は即答する。
即答して、でも続ける。
「……でも、言わないって分かってる」
言い返したいのに、言えない。
言えないまま、玲央の手つきだけが少しずつ深くなる。
背中の上の方。
服の境目。
髪で隠れる首裏に近い場所。
玲央はそこを、ゆっくり、時間をかけて――確かめる。
痛い、じゃない。
甘い、でもない。
ただ、じわじわと「ここは俺の場所」って刷り込まれる感じがする。
かなえは唇を噛んだ。
嫌だって言いたい。
でも言ったら、ここに来た自分まで否定になる。
玲央が囁く。
「……かなえ」
「今日は、寝るまででいい」
「俺、ちゃんと寝かせる」
寝かせる。
それは優しさの言葉の形をして、
決定権を奪う言い方でもある。
でも、今夜の玲央は“責めない”。
責めないまま、抱きしめて、擦り付けて、離さない。
かなえの体から棘が抜けていくのが分かる。
それが怖いのに、
怖いからこそ、胸の奥が少しだけ楽になる。
リビングの灯りが落ちる。
ベッドルームへ向かう足取りが、もう“いつもの”みたいになっている。
玲央は背中側から、かなえを包むように寝かせた。
抱きしめて、頬を髪に押し付けて、息を吸う。
まるで、マーキング。
「……ねえ、かなえ」
眠りかけの声で、玲央が言う。
「来週、会えるよ」
「……金曜、終わったら」
「帰ってきてね」
かなえは返事をしなかった。
しなかったのに、玲央は満足そうに笑った気がした。
背中の熱が、じわじわ残る。
見えない場所に、見えない花束みたいに。
玲央の腕の中で、かなえはようやく息を吐いた。
――帰る場所が増えたみたいな感覚が、胃に刺さる。
***
翌朝。
かなえが目を覚ますより先に、玲央の気配が動いた。
背中側から、ゆっくり抱き直される。
「……おはよ」
声が機嫌いい。
昨夜の悪い酔いが嘘みたいに、甘い。
玲央が頬を寄せて、髪に鼻先を埋める。
「……落ち着く」
「今日も」
かなえは目を閉じたまま、喉の奥で息を詰まらせる。
(“今日も”って)
(……今日も、って何)
怒りたいのに、怒れない。
怒れないかわりに、胃が痛む。
玲央は低く笑って、また囁いた。
「かなえ」
呼び捨て。
当たり前みたいに。
かなえは目を開けて、玲央を見た。
玲央は笑っている。目尻がくしゃってなる。
嬉しそうで、安心したそうで、ずるい。
「……ここだけですからね」
「うん」
玲央は素直に頷いて、また言う。
「“うん”って」
かなえは小さく舌打ちしたくなる。
でも、声は出る。
「……うん」
玲央が満足そうに笑った。
その笑顔に絆される自分を、かなえはまだ“気のせい”にしたい。
***
——駅の改札。
昨夜、少し離れたところから見ていた高瀬は、
二人がタクシーに乗って去ったあと、ひとりで息を吐いた。
「……結城さん、って」
小さく呟いて、自分で笑ってしまう。
「営企の、あの結城さんじゃねぇか。あいつっ……」
玲央の口から何度か聞いたことがある。
“懐かない猫みたいな人”。
あれが、結城さん。
そりゃ難しい。
高瀬はポケットに手を突っ込んだまま、夜風に肩をすくめる。
「……あれ、猫っていうか」
「手ぇ出したら、戻れねぇやつだろ」
玲央の酔いが悪かった理由が、少しだけ分かった気がした。
高瀬はもう一度、改札の奥を見てから、背を向けた。




