表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/40

第27話 仕事の延長、のはず



 金曜の予定は、いつもより早く埋まった。


 ――共同イベント:キックオフ会食(先方:神谷)

 ――当社代表:結城

 ――先方代表:神谷

 ――営業企画:同行ミカ


 「代表」なんて言葉が、胃にくる。

 肩書きの重さは、慣れているはずなのに。


 大丈夫。

 ミカもいる。

 相手は取引先。

 それだけ。


 そう整えたところで、スマホが震えた。


 玲央から。


『今度の金曜、会食?』

『ミカさんも一緒?』


 さっき、口で話したばかりだ。

 なのに文字でも聞いてくるのが、妙に落ち着かない。

 確認の形をして、逃げ道を削ってくる感じがする。


(……やめて)

(まだ何も“私事”じゃないのに)


 かなえは呼吸を整え、余計な温度が混ざらない文を選んだ。


『会食です。イベントのキックオフで』

『ミカさんも参加予定です』


 既読がつくのが早い。


『神谷さんと飯、嫌だな』


 胃の奥が、きゅっと縮む。

 嫌だな、って何。


 恋人じゃない。

 詮索しない。

 職場に持ち込まない。


 守ってるつもりの線が、薄い紙みたいに頼りなく感じる。

 かなえは正論を盾にするしかない。


『営業企画と取引先の皆さんなので無理です』

『そういうの言うの、ルール違反ですよ』


 既読がついて、返事が少し遅れた。

 数秒。たったそれだけ。

 それだけで、胸の奥がざわつくのが嫌だ。


『ごめん』

『分かった』

『仕事、がんばって』


 優しい言葉の形。

 でも、温度がない。


 いつもなら混ざる「落ち着く」も、

 あの家に戻る前提みたいな「帰ってきてね」も、

 今日は出てこない。


 かなえはスマホを伏せた。


(……私、正しいこと言っただけ)

(なのに、なんで胃が痛いの)


 分かっているのに、認めたくない。


***


 ――そして、当日。金曜。


 午前からミカは明らかに忙しそうだった。

 上層部からのチャットが鳴り続けて、会議室の出入りも多い。

 差し戻し、追加、確認。

 空気がいつもより硬い。


 嫌な予感は、夕方に当たった。


「結城、悪い」


 ミカが早足で近づいてくる。

 仕事の顔のまま、眉だけが下がっていた。


「上層部から急に差し戻し。今日、私抜けられない」


 かなえの胃が、きりっと鳴る。


「……分かりました。大丈夫です」


 大丈夫なわけがない。

 “ミカがいる”という柱に、勝手に寄りかかっていた。

 それが抜けた瞬間、線引きの足場がぐらつく。


「神谷さんには私からも連絡入れる。本当にごめん」

 ミカは一瞬だけ真剣にかなえを見る。

「でも、これは仕事。顔繋ぎ、大事。頼む」


 仕事。

 その一言で、かなえは頷くしかなくなる。


「はい。行ってきます」


 言えた自分に、少しぞっとした。

 慣れてしまったみたいで。


 ――追い打ちみたいに、神谷からも連絡が入る。


『先方同席者、急な家庭都合で欠席になりました』

『恐縮ですが、予定通りで大丈夫でしょうか』


 四人が、二人になった。


(……別日にすればいい)

(やめればいい)


 でも、かなえの指は勝手に動いてしまう。


『承知しました。予定通り伺います』

『お気遣いありがとうございます』


 送信した瞬間、胃がまた痛む。


 玲央の「嫌だな」が、まだ胸の奥に残っている。

 温度のない「仕事、がんばって」も。


(……これは仕事)

(仕事の延長)


 盾を胸に押し当てて、かなえはバッグを握り直した。


***


 店は落ち着いた小料理屋だった。

 派手さはない。照明は柔らかく、声が必要以上に響かない。

 こういう“ちょうどよさ”が、今日は逆に逃げ場を奪う。


「結城さん」


 神谷は先に来ていた。

 立ち上がって、丁寧に頭を下げる。


「今日は……申し訳ないです。予定が変わってしまって」

「ミカさんも来られないとは」


「いえ。上層部都合なので」

 かなえは仕事の笑顔で返す。

「今日はキックオフですから。お気になさらず」


 口に出した瞬間、喉の奥が少し痛む。

 “仕事”という単語で、自分の感情を切り落とす音がした。


 神谷は小さく笑った。


「“切り替えが早い”って、前も思いました」

「資料の癖も覚えてるし、言葉の置き方も上手い」


 かなえの胸がひくりとする。


 前も、という言い方。

 思い出す。

 以前の打ち合わせで、神谷がさらっとフォローしてくれた瞬間。

 こちらの意図を一拍で拾って、場を整えた人。


 だから、息が合ってしまう。

 そこが、少し怖い。


 乾杯は軽く。

 一杯目は完全に仕事の話だった。


 イベントの目的、当日の流れ、先方の意図、社内の調整。

 かなえは慣れた手つきで会話を回す。

 回せてしまう自分が怖い。


 二杯目に入ったころ、神谷がふと箸を止めた。


「結城さん」

「社内で、やりづらいことってありません?」


 唐突に来た質問に、かなえは一瞬だけ言葉を失った。


「……やりづらい、ですか」


「“ちゃんとしてる人”ほど、周りが勝手に期待しますから」


 その言い方が刺さる。

 玲央の声が勝手に重なる。

 “ちゃんとしてる”――あの言葉の温度。


 かなえは笑って流そうとして、うまくいかなかった。

 酒が少し回って、言葉の堤防が緩む。


「……私、怒らないって言われるんです」


「怒らない?」


「はい」

 かなえは肩をすくめる。

「怒るのが面倒で。怒るくらいなら、離れる方が楽で」


 言ってから気づく。

 これは仕事の話じゃない。


 神谷は否定しない。笑わない。

 ただ静かに頷いた。


「離れる人ですね」


「……嫌な言い方」


「嫌な意味じゃないです」

 神谷は言葉を選ぶように続ける。

「静かに離れる人って、止められない」

「気づいたときには、もう戻ってこない」


 胃が痛む。

 なのに、少し息がしやすい。


 かなえは話題を戻そうとして――戻せなかった。


「……昔、憧れてた先輩がいたんです」


 口から滑り落ちた本音に、自分で驚く。


 神谷の目がわずかに動く。


「憧れの先輩」


「仕事ができて、社交的で」

 かなえは笑って誤魔化す。

「軽そうに見えるのに、意外とちゃんと見てて」

「……私、そういう人に弱いんだなって」


 言ってしまった瞬間、胃の奥がぞくりとする。


(……何言ってるの、私)


 神谷はしばらく黙った。

 その沈黙が救いになる、と思ったのに。


「僕も、昔」

 神谷は静かな声で言った。

「同じように憧れてた人がいました」


 かなえが顔を上げると、神谷は仕事の顔をしていない。


「同じ会社の人でした」

「だから何もしなかった。手を出さないって決めてたんです」


 胸の奥がきゅっと締まる。


「……偉いですね」


「偉くないです」

 神谷は苦笑して、目を逸らさない。

「ただ怖かった。壊したくなかった」


 壊したくなかった。

 その言葉が、かなえの心臓を叩く。


「……今日は酔ってますね、私」


「少しだけ」

 神谷は優しく言う。

「でも、いいと思います。結城さんがそういう話をしてくれるの」


 優しいのに、逃げ道が減る。


「今は……他社になりました」

 神谷は淡く言って、言い切らない。

「だからこそ、思ってしまうこともあります」


 言い切らない温度が、余計に残る。


 会計は神谷が済ませた。


「今日はキックオフですし、お礼も兼ねて。僕が」


「割り勘で」


「次があったら、割り勘にしましょう」


 次、が刺さる。


 店を出ると夜風が冷たかった。

 神谷は歩幅を合わせる。近づきすぎない。離れすぎない。


「送ります」


「大丈夫です」


「大丈夫でも送ります」

 神谷は穏やかに言った。

「……結城さん、無理して“大丈夫”って言う癖、あるでしょう」


 見抜かれると胃が痛い。

 でも、見抜かれてしまった方が楽な瞬間もある。

 その自分が嫌だ。


 駅の明かりが見えたころ、かなえのスマホが震えた。

 反射で心臓が跳ねる。


 ――玲央、じゃない。


 なのに胃は先に反応する。

 玲央から、今日は何も来ない。

 その沈黙の方が、じわじわ効く。


***


 同じ夜。


 玲央は久しぶりに高瀬と飲んでいた。

 雑居ビルの二階、狭いカウンターの店。

 揚げ物の匂いと、近い声と、昔みたいな距離感。


 乾杯して、一杯目の半分が減ったところで高瀬が言った。


「なあ玲央、最近金曜どうした?」

「誘っても、だいたい“先約”って返ってくる」


 玲央はグラスを持ったまま、一瞬だけ止まった。


「……仕事」


「嘘つけ。金曜の夜って、お前いちばん軽い時間じゃん」

 高瀬は笑う。笑いながら刺してくる。

「付き合い悪くなった。っていうか帰るの早い。何があった」


 玲央は笑って流そうとして、笑いが薄いことに気づいた。

 薄いのに、やめられない。


「別に、何も」


「“別に”が怪しい」

 高瀬は箸でつまみを突きながら続ける。

「女?」


 玲央は即答しなかった。

 即答しない自分に、さらに違和感が増える。


「……女って言うと、違う」


「は?」


「相手が、そういう感じじゃない」

 玲央は言い訳みたいに言ってから、言い直す。

「……いや、違わないんだけど」


 高瀬が眉を上げる。


「どっちだよ」


 玲央は、笑って誤魔化すのをやめた。

 代わりに、グラスの水滴を指でなぞる。


「……猫みたいな人がいる」


 高瀬の動きが止まった。


「は?」


「猫」

 玲央は淡々と言う。

「近づいたら逃げるし、放っておいたら二度と来ないタイプ」

「だから……金曜は、そっちに時間使ってる」


「それ、何。飼育?」


「違う」


「飼育だろ」

 高瀬は笑いながら、目だけ真面目にして言う。

「金曜の夜、毎回“猫”のとこ行ってんの?」


 玲央は否定の言葉が喉で詰まった。

 行ってる、とは言える。

 でも、“行きたくなる”は言いたくない。


「……行ける時は」


「へえ。お前が“行ける時は”って言うの珍し」

 高瀬の声が少し落ちる。

「お前、今までそんなに誰かに合わせるタイプじゃなかったろ」


 玲央は笑った。

 笑うのに、胸の奥がざらつく。


「合わせてない。俺が勝手に――」


 言いかけて止める。

 勝手のはずなのに、金曜の予定がもう自分だけのものじゃない気がしている。


 高瀬が、ふっと息を吐いた。


「お前さ」

「勝手に好かれて、勝手に期待されて、勝手に重くされて、勝手に失望されて終わるの、嫌がってたじゃん」


 玲央は目を逸らしてビールを飲んだ。

 喉が冷える。胸は冷えない。


「だから、軽い方が楽だった」

 玲央はぽつりと言う。

「ワンナイトくらいが、ちょうどよかった」


「それが?」

 高瀬が言う。


 玲央は返せなかった。

 返せないまま、指先でグラスを回す。


「で、その猫ちゃんさ」

 高瀬は軽い声のまま確認する。

「今日どこにいるの」


 玲央の胃が、きゅっと鳴った。


 答えた瞬間、名前のない気持ちが形になる気がしたから。


 玲央はスマホを裏返した。

 見ないふり。

 でも頭の中には浮かぶ。


 ――かなえさん。


 会社では結城さん。

 家では、かなえさん。

 俺の腕の中にいるときは、俺のかなえ。


 呼び分けが、もうルールじゃない。

 自分の中の都合になっているのが分かって、胃の奥がざらついた。


「……金曜」

 玲央はようやく言う。

「金曜は、俺が行かないとだめな感じ」


「何それ。誰が決めたの」


 玲央は答えを飲み込んだ。

 俺が決めたのか。彼女が許したのか。

 どっちでもいいふりをしているだけだ。


 高瀬が目を細める。


「それ、猫じゃなくて――」


「言うな」


「マジになってない?」


 玲央は笑った。

 笑ったのに、目が笑ってない。


「なってない」

 言い切る声が少し硬い。

「ただ……落ち着かせたいだけ」


「それがもう、重いんだって」


 玲央はビールを飲んだ。

 喉は冷えるのに、胸の濁りは薄まらない。


 ――共同イベントの代表。

 神谷。

 社歴も場数も、向こうが上だ。

 “ちゃんとした仕事”の土俵で、張り合えない。


 悔しい、と言うには幼い。

 でも悔しい。


 自分の仕事はしてる。

 数字も回してる。

 なのに、あの人の隣で笑うかなえさんを想像すると、

 腹の奥が、静かに濁る。


***


 駅の改札前。

 神谷が「ここまでで」と足を止めた。


「今日は本当にありがとうございました」

 神谷は丁寧に言う。

「……また、改めて」


 また。

 次。

 仕事の顔をしているのに、言葉だけが私的な匂いを持つ。


 かなえは、うっかり笑ってしまう。

 それが怖い。


「……今日は、仕事ですから」


 盾を出すと、神谷は少しだけ目を細めた。


「分かってます」

「でも、結城さんのことを“仕事”だけで見れない瞬間があったのも本当です」


 胃が痛い。

 痛いのに、胸の奥が熱い。


「……今日は失礼します」


 かなえは改札を抜けた。


 その瞬間、スマホが震えた。

 画面に玲央の通知――ではない。

 なのに心臓が跳ねる。


 玲央からは、今日ずっと“何も来ない”。


 沈黙は、音より重い。

 じわじわと身動きを奪ってくる。


(最近の金曜って、そういう意味になってる)

(……私の週末、いつから)


 考えたくないのに、考えてしまう。


 かなえは改札の向こうで、立ち止まりそうになった。


 “仕事の延長”のはずなのに。

 玲央の沈黙を思い出した瞬間、胃だけが先に痛んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ