第27話 仕事の延長、のはず
金曜の予定は、いつもより早く埋まった。
――共同イベント:キックオフ会食(先方:神谷)
――当社代表:結城
――先方代表:神谷
――営業企画:同行
「代表」なんて言葉が、胃にくる。
肩書きの重さは、慣れているはずなのに。
大丈夫。
ミカもいる。
相手は取引先。
それだけ。
そう整えたところで、スマホが震えた。
玲央から。
『今度の金曜、会食?』
『ミカさんも一緒?』
さっき、口で話したばかりだ。
なのに文字でも聞いてくるのが、妙に落ち着かない。
確認の形をして、逃げ道を削ってくる感じがする。
(……やめて)
(まだ何も“私事”じゃないのに)
かなえは呼吸を整え、余計な温度が混ざらない文を選んだ。
『会食です。イベントのキックオフで』
『ミカさんも参加予定です』
既読がつくのが早い。
『神谷さんと飯、嫌だな』
胃の奥が、きゅっと縮む。
嫌だな、って何。
恋人じゃない。
詮索しない。
職場に持ち込まない。
守ってるつもりの線が、薄い紙みたいに頼りなく感じる。
かなえは正論を盾にするしかない。
『営業企画と取引先の皆さんなので無理です』
『そういうの言うの、ルール違反ですよ』
既読がついて、返事が少し遅れた。
数秒。たったそれだけ。
それだけで、胸の奥がざわつくのが嫌だ。
『ごめん』
『分かった』
『仕事、がんばって』
優しい言葉の形。
でも、温度がない。
いつもなら混ざる「落ち着く」も、
あの家に戻る前提みたいな「帰ってきてね」も、
今日は出てこない。
かなえはスマホを伏せた。
(……私、正しいこと言っただけ)
(なのに、なんで胃が痛いの)
分かっているのに、認めたくない。
***
――そして、当日。金曜。
午前からミカは明らかに忙しそうだった。
上層部からのチャットが鳴り続けて、会議室の出入りも多い。
差し戻し、追加、確認。
空気がいつもより硬い。
嫌な予感は、夕方に当たった。
「結城、悪い」
ミカが早足で近づいてくる。
仕事の顔のまま、眉だけが下がっていた。
「上層部から急に差し戻し。今日、私抜けられない」
かなえの胃が、きりっと鳴る。
「……分かりました。大丈夫です」
大丈夫なわけがない。
“ミカがいる”という柱に、勝手に寄りかかっていた。
それが抜けた瞬間、線引きの足場がぐらつく。
「神谷さんには私からも連絡入れる。本当にごめん」
ミカは一瞬だけ真剣にかなえを見る。
「でも、これは仕事。顔繋ぎ、大事。頼む」
仕事。
その一言で、かなえは頷くしかなくなる。
「はい。行ってきます」
言えた自分に、少しぞっとした。
慣れてしまったみたいで。
――追い打ちみたいに、神谷からも連絡が入る。
『先方同席者、急な家庭都合で欠席になりました』
『恐縮ですが、予定通りで大丈夫でしょうか』
四人が、二人になった。
(……別日にすればいい)
(やめればいい)
でも、かなえの指は勝手に動いてしまう。
『承知しました。予定通り伺います』
『お気遣いありがとうございます』
送信した瞬間、胃がまた痛む。
玲央の「嫌だな」が、まだ胸の奥に残っている。
温度のない「仕事、がんばって」も。
(……これは仕事)
(仕事の延長)
盾を胸に押し当てて、かなえはバッグを握り直した。
***
店は落ち着いた小料理屋だった。
派手さはない。照明は柔らかく、声が必要以上に響かない。
こういう“ちょうどよさ”が、今日は逆に逃げ場を奪う。
「結城さん」
神谷は先に来ていた。
立ち上がって、丁寧に頭を下げる。
「今日は……申し訳ないです。予定が変わってしまって」
「ミカさんも来られないとは」
「いえ。上層部都合なので」
かなえは仕事の笑顔で返す。
「今日はキックオフですから。お気になさらず」
口に出した瞬間、喉の奥が少し痛む。
“仕事”という単語で、自分の感情を切り落とす音がした。
神谷は小さく笑った。
「“切り替えが早い”って、前も思いました」
「資料の癖も覚えてるし、言葉の置き方も上手い」
かなえの胸がひくりとする。
前も、という言い方。
思い出す。
以前の打ち合わせで、神谷がさらっとフォローしてくれた瞬間。
こちらの意図を一拍で拾って、場を整えた人。
だから、息が合ってしまう。
そこが、少し怖い。
乾杯は軽く。
一杯目は完全に仕事の話だった。
イベントの目的、当日の流れ、先方の意図、社内の調整。
かなえは慣れた手つきで会話を回す。
回せてしまう自分が怖い。
二杯目に入ったころ、神谷がふと箸を止めた。
「結城さん」
「社内で、やりづらいことってありません?」
唐突に来た質問に、かなえは一瞬だけ言葉を失った。
「……やりづらい、ですか」
「“ちゃんとしてる人”ほど、周りが勝手に期待しますから」
その言い方が刺さる。
玲央の声が勝手に重なる。
“ちゃんとしてる”――あの言葉の温度。
かなえは笑って流そうとして、うまくいかなかった。
酒が少し回って、言葉の堤防が緩む。
「……私、怒らないって言われるんです」
「怒らない?」
「はい」
かなえは肩をすくめる。
「怒るのが面倒で。怒るくらいなら、離れる方が楽で」
言ってから気づく。
これは仕事の話じゃない。
神谷は否定しない。笑わない。
ただ静かに頷いた。
「離れる人ですね」
「……嫌な言い方」
「嫌な意味じゃないです」
神谷は言葉を選ぶように続ける。
「静かに離れる人って、止められない」
「気づいたときには、もう戻ってこない」
胃が痛む。
なのに、少し息がしやすい。
かなえは話題を戻そうとして――戻せなかった。
「……昔、憧れてた先輩がいたんです」
口から滑り落ちた本音に、自分で驚く。
神谷の目がわずかに動く。
「憧れの先輩」
「仕事ができて、社交的で」
かなえは笑って誤魔化す。
「軽そうに見えるのに、意外とちゃんと見てて」
「……私、そういう人に弱いんだなって」
言ってしまった瞬間、胃の奥がぞくりとする。
(……何言ってるの、私)
神谷はしばらく黙った。
その沈黙が救いになる、と思ったのに。
「僕も、昔」
神谷は静かな声で言った。
「同じように憧れてた人がいました」
かなえが顔を上げると、神谷は仕事の顔をしていない。
「同じ会社の人でした」
「だから何もしなかった。手を出さないって決めてたんです」
胸の奥がきゅっと締まる。
「……偉いですね」
「偉くないです」
神谷は苦笑して、目を逸らさない。
「ただ怖かった。壊したくなかった」
壊したくなかった。
その言葉が、かなえの心臓を叩く。
「……今日は酔ってますね、私」
「少しだけ」
神谷は優しく言う。
「でも、いいと思います。結城さんがそういう話をしてくれるの」
優しいのに、逃げ道が減る。
「今は……他社になりました」
神谷は淡く言って、言い切らない。
「だからこそ、思ってしまうこともあります」
言い切らない温度が、余計に残る。
会計は神谷が済ませた。
「今日はキックオフですし、お礼も兼ねて。僕が」
「割り勘で」
「次があったら、割り勘にしましょう」
次、が刺さる。
店を出ると夜風が冷たかった。
神谷は歩幅を合わせる。近づきすぎない。離れすぎない。
「送ります」
「大丈夫です」
「大丈夫でも送ります」
神谷は穏やかに言った。
「……結城さん、無理して“大丈夫”って言う癖、あるでしょう」
見抜かれると胃が痛い。
でも、見抜かれてしまった方が楽な瞬間もある。
その自分が嫌だ。
駅の明かりが見えたころ、かなえのスマホが震えた。
反射で心臓が跳ねる。
――玲央、じゃない。
なのに胃は先に反応する。
玲央から、今日は何も来ない。
その沈黙の方が、じわじわ効く。
***
同じ夜。
玲央は久しぶりに高瀬と飲んでいた。
雑居ビルの二階、狭いカウンターの店。
揚げ物の匂いと、近い声と、昔みたいな距離感。
乾杯して、一杯目の半分が減ったところで高瀬が言った。
「なあ玲央、最近金曜どうした?」
「誘っても、だいたい“先約”って返ってくる」
玲央はグラスを持ったまま、一瞬だけ止まった。
「……仕事」
「嘘つけ。金曜の夜って、お前いちばん軽い時間じゃん」
高瀬は笑う。笑いながら刺してくる。
「付き合い悪くなった。っていうか帰るの早い。何があった」
玲央は笑って流そうとして、笑いが薄いことに気づいた。
薄いのに、やめられない。
「別に、何も」
「“別に”が怪しい」
高瀬は箸でつまみを突きながら続ける。
「女?」
玲央は即答しなかった。
即答しない自分に、さらに違和感が増える。
「……女って言うと、違う」
「は?」
「相手が、そういう感じじゃない」
玲央は言い訳みたいに言ってから、言い直す。
「……いや、違わないんだけど」
高瀬が眉を上げる。
「どっちだよ」
玲央は、笑って誤魔化すのをやめた。
代わりに、グラスの水滴を指でなぞる。
「……猫みたいな人がいる」
高瀬の動きが止まった。
「は?」
「猫」
玲央は淡々と言う。
「近づいたら逃げるし、放っておいたら二度と来ないタイプ」
「だから……金曜は、そっちに時間使ってる」
「それ、何。飼育?」
「違う」
「飼育だろ」
高瀬は笑いながら、目だけ真面目にして言う。
「金曜の夜、毎回“猫”のとこ行ってんの?」
玲央は否定の言葉が喉で詰まった。
行ってる、とは言える。
でも、“行きたくなる”は言いたくない。
「……行ける時は」
「へえ。お前が“行ける時は”って言うの珍し」
高瀬の声が少し落ちる。
「お前、今までそんなに誰かに合わせるタイプじゃなかったろ」
玲央は笑った。
笑うのに、胸の奥がざらつく。
「合わせてない。俺が勝手に――」
言いかけて止める。
勝手のはずなのに、金曜の予定がもう自分だけのものじゃない気がしている。
高瀬が、ふっと息を吐いた。
「お前さ」
「勝手に好かれて、勝手に期待されて、勝手に重くされて、勝手に失望されて終わるの、嫌がってたじゃん」
玲央は目を逸らしてビールを飲んだ。
喉が冷える。胸は冷えない。
「だから、軽い方が楽だった」
玲央はぽつりと言う。
「ワンナイトくらいが、ちょうどよかった」
「それが?」
高瀬が言う。
玲央は返せなかった。
返せないまま、指先でグラスを回す。
「で、その猫ちゃんさ」
高瀬は軽い声のまま確認する。
「今日どこにいるの」
玲央の胃が、きゅっと鳴った。
答えた瞬間、名前のない気持ちが形になる気がしたから。
玲央はスマホを裏返した。
見ないふり。
でも頭の中には浮かぶ。
――かなえさん。
会社では結城さん。
家では、かなえさん。
俺の腕の中にいるときは、俺のかなえ。
呼び分けが、もうルールじゃない。
自分の中の都合になっているのが分かって、胃の奥がざらついた。
「……金曜」
玲央はようやく言う。
「金曜は、俺が行かないとだめな感じ」
「何それ。誰が決めたの」
玲央は答えを飲み込んだ。
俺が決めたのか。彼女が許したのか。
どっちでもいいふりをしているだけだ。
高瀬が目を細める。
「それ、猫じゃなくて――」
「言うな」
「マジになってない?」
玲央は笑った。
笑ったのに、目が笑ってない。
「なってない」
言い切る声が少し硬い。
「ただ……落ち着かせたいだけ」
「それがもう、重いんだって」
玲央はビールを飲んだ。
喉は冷えるのに、胸の濁りは薄まらない。
――共同イベントの代表。
神谷。
社歴も場数も、向こうが上だ。
“ちゃんとした仕事”の土俵で、張り合えない。
悔しい、と言うには幼い。
でも悔しい。
自分の仕事はしてる。
数字も回してる。
なのに、あの人の隣で笑うかなえさんを想像すると、
腹の奥が、静かに濁る。
***
駅の改札前。
神谷が「ここまでで」と足を止めた。
「今日は本当にありがとうございました」
神谷は丁寧に言う。
「……また、改めて」
また。
次。
仕事の顔をしているのに、言葉だけが私的な匂いを持つ。
かなえは、うっかり笑ってしまう。
それが怖い。
「……今日は、仕事ですから」
盾を出すと、神谷は少しだけ目を細めた。
「分かってます」
「でも、結城さんのことを“仕事”だけで見れない瞬間があったのも本当です」
胃が痛い。
痛いのに、胸の奥が熱い。
「……今日は失礼します」
かなえは改札を抜けた。
その瞬間、スマホが震えた。
画面に玲央の通知――ではない。
なのに心臓が跳ねる。
玲央からは、今日ずっと“何も来ない”。
沈黙は、音より重い。
じわじわと身動きを奪ってくる。
(最近の金曜って、そういう意味になってる)
(……私の週末、いつから)
考えたくないのに、考えてしまう。
かなえは改札の向こうで、立ち止まりそうになった。
“仕事の延長”のはずなのに。
玲央の沈黙を思い出した瞬間、胃だけが先に痛んだ。




