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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第26話 俺の家に帰ろう

土曜の昼下がり。

かなえの部屋は、休日らしい静けさのはずなのに、落ち着かなかった。


ノートPCの画面には資料。

社内チャットは「勤務中」表示。

テーブルの端に、冷めかけたコーヒー。


(……別に、急ぎじゃないのに)


月曜の会議。締切。確認。

理由はいくらでも作れる。作れるから、かなえは仕事をしてしまう。

やるべきことをやっていれば、余計なことを考えずに済む。——本当は、それが目的だ。


――ただ、今日はそれだけじゃない。


静かすぎる。

静かすぎて、耳が勝手に“足音”を探してしまう。


金曜の夜。土曜の朝。

いつの間にか、週末の体のリズムが玲央の家に寄っていた。

あの部屋の匂い。コーヒーと洗剤と、たぶん彼の体温の残り香。

思い出しただけで、胃の奥がきゅっとなる。


(やめよう。…やめよう)

(恋人とか、苦手なんだから)


自分で言った。

「恋人は苦手」って、先に逃げ道を作った。

年上としての意地もあって、あんなふうに言ってしまったのに——そのくせ、甘えたい気持ちがゼロじゃないのが最悪だ。


昨日、玲央は「家の用事で無理」と言った。

仕方ない、と言い聞かせた。

言い聞かせたはずなのに、ひとりの土曜が思ったより刺さる。


(私、浮かれてたのかな)

(……浮かれてたんだろうな。馬鹿みたいに)


仕事に戻ろうとした指が止まった瞬間、スマホが震えた。


玲央。


『家の用事、終わった』

『今から行っていい?』


短い。絵文字もない。

いつも混ざる「落ち着く」もない。

妙に真面目で、逆に怖い。


かなえは眉を寄せたまま、返信欄を開く。


(断ればいい)

(今日は仕事だし)

(そもそも、来る理由がないでしょ)


でも、断る文を組み立てた途端、胸のどこかが「来ないで」と言い切れずにほどける。

その“ほどけ方”が一番怖い。


代わりに、仕事を盾にする。


『今、仕事してます』

『昨日は無理って言ってましたよね』


既読がつくのが早い。


『昨日は無理だった』

『今日は行ける』

『今、家?』


分かっているくせに聞く。

確認の形で、逃げ道を削ってくる。


(そういうの、ずるい)

(ずるいのに……嫌いになれないのがもっとずるい)


『家です』


少し間があって、返ってきたのは短い一行。


『じゃあ行く』


“いい?”の顔をしていて、結局は決める。

かなえはスマホを伏せ、深く息を吐いた。


(来るなとは言ってない)

(でも、来てほしいとも言ってない)

(……この曖昧さが、結局いちばん面倒)


インターホンが鳴ったのは、それから十五分後だった。


***


ドアを開けると、玲央が立っていた。

私服のコート。髪が少しだけ乱れている。外気で頬が冷えている。

そのくせ目だけは、妙に熱が残っているみたいで、視線が落ち着かない。


「……来ちゃった」


その言い方は軽い。

でも目は軽くない。笑っていない。


(ほんとに来た)

(来るなって思ったのに、来たら来たで……心臓がうるさい)


「来ちゃった、じゃないです」

かなえはわざと冷たく言った。

「仕事してるって言いましたよね」


「うん。見た」

玲央は玄関の外に立ったまま、かなえの顔だけを見て言う。

「……でも、今日の結城さん、落ち着かない顔してた」


言い当てられて胃がきゅっと縮む。


(落ち着かないのは、あなたのせい)

(って言えたら、どれだけ楽なのに)


「落ち着いてます」


「落ち着いてない」

穏やかに言い切る。穏やかだから腹が立つ。逃げ道がない。


「……何しに来たんですか」


「迎えに来た」

玲央はさらっと言った。

「俺の家に、帰ってきて」


“帰ってきて”。


ここが自分の家なのに、そう言われると、まるで居場所を“選ばされる”みたいで胃が重くなる。

しかもそれが、嫌じゃない自分がいるのが最悪だ。


(私、年上でしょ)

(流される側になるな)


「帰りません。私はここにいます」


かなえが言い切ると、玲央はほんの一瞬だけ眉を動かした。

困ったように笑いそうで、笑わない。


「じゃあ……仕事道具、持って」

「俺の家で、やって」


「……意味が分かりません」


「意味はあるよ」

玲央が一歩だけ近づく。触れない距離。触れそうな距離。

「結城さん、ひとりだと止めどき分かんなくなるでしょ」


心配の言葉みたいで、でも違う。

止めどきを“決める側”に立つ言い方だ。


(本気?)

(それとも、ただの気まぐれ?)

(優しいふりして、結局自分の都合じゃないの)


疑ってしまう。信じきれない。

好きだって言われてない。

こっちも言ってない。

だから、彼の行動を“好意”と決めるのが怖い。決めた瞬間に、自分が負ける気がする。


「止めどきくらい分かります」


「うん、分かる」

頷くくせに引かない。

「……でも今日は、そうしてほしい」


“お願い”とも言わない。命令でもない。

なのに断りづらい。断ったら、自分が“拒んでる”のがはっきりするから。


かなえは唇を噛んだ。


「……三十分だけです」

「仕事、少しだけ進めたいので」


「三十分、了解」

玲央は即答した。

「その三十分、ちゃんと取って。邪魔しない」


“許可”みたいに言うのが、腹が立つ。

腹が立つのに、胸の奥が少しだけ落ち着く。


結局、かなえはノートPCをバッグに入れた。


玄関で上着を掴むと、玲央が手を伸ばしてかなえのバッグを取った。


「持つ」


「自分で持てます」


「知ってる」

玲央は淡々と言った。

「でも、今日は俺が持ちたい」


意味が分からないのに、言い返す気力が削られる。

“持てる”のに“持たれたい”自分がいるのが嫌で、かなえは目を逸らした。


***


玲央の家のドアが開く。

部屋の匂いがした。コーヒーと、洗剤と、少しだけ彼の体温みたいな匂い。


コートを脱ぐ手が、勝手に慣れてしまっている自分に気づいて胃が痛い。

ここを“当たり前の場所”にしたくないのに、身体だけが先に覚えてしまう。


玲央はかなえの上着を受け取り、ハンガーに掛けた。

迷いがない。最初からそうするって決まっていたみたいに。


(本気っぽいこと、するな)

(本気だって思ったら、私が困るのに)


「……仕事、するんですよね」


「うん。する」

玲央は頷いて、キッチンへ行った。

「コーヒー淹れる」


「……要らないです」


「いる」

振り返らずに言う。

「結城さん、こういうとき、口より先に胃が疲れるから」


また見抜く。

見抜かれるのは怖いのに、見抜かれた方が楽な瞬間がある。

それを“救い”だと思いたくないのに、思ってしまうのが嫌だ。


かなえはテーブルにPCを置き、画面を開いた。

資料。数字。差分。

仕事の世界に戻る――はずなのに、視界の端に玲央がいるだけで集中が揺れる。


マグカップが置かれる。湯気。香り。


「ブラックでいい?」


かなえは頷くだけにした。


「……三十分、ね」

玲央が言う。軽い声に見せて、どこか硬い。


「はい。三十分で帰ります」


「……帰るんだ」

小さく、独り言みたいに落ちる。


その一言で、胸の奥が不意に疼いた。

“帰る”を口にしたのは自分なのに、寂しいと思ってしまう自分が腹立たしい。


(恋人じゃない)

(恋人っぽいこともしない)

(でも、こういう寂しさだけは……増える)


かなえはキーボードを叩いた。

仕事の文字を追う。

なのに胃の奥が先にざわつく。


玲央はソファに座ってスマホを見始めた。

“見ていないふり”が上手い男だ。

でも今日は、視線が時々こちらに落ちる。


仕事の進捗には口を出してこない。

出してこないのに、気配だけが離れない。


かなえが無意識に首裏へ手を伸ばしかけると、玲央の声が落ちた。


「……そこ、触らなくていい」


ぴたりと手が止まる。


「触ってません」


「触ろうとしてた」

玲央は責めるでもなく、ただ事実だけ言う。


(なんで分かるの)

(……見られてるのが怖いのに、見られてると落ち着くのは何)


かなえは画面をスクロールした。

その瞬間、社内チャットの通知が弾けた。


【ミカ:来月の共同イベント、上が窓口を結城さんにしたいって。先方は神谷さんが代表だってさ】

【ミカ:来週金曜、まず代表同士でキックオフ兼ねて顔合わせしよ。私も一応参加で押さえた】


かなえの指が止まった。


(……代表同士)

(顔合わせ)


ただの食事じゃない。

“仕事として正しい”予定だ。断る理由がない。


なのに反射でスクロールしてしまう。

隠す必要なんてないのに、隠してしまう。


(……なんで隠した)

(私、何してるの)

(玲央に、何を疑われたくないの)


背後で、玲央の足音が止まった。

覗き込まないまま、声だけが落ちる。


「……来週の金曜?」


心臓が跳ねた。


「何ですか」


「神谷さんと、外で会う?」


問い方は軽い。けれど軽くない。

“ただの確認”に見せて、温度だけが刺さる。


「共同イベントの窓口です。上が決めたので」

かなえは盾を立てるみたいに言った。

「ミカさんも参加予定です。代表同士の顔合わせってだけで――」


「うん、分かってる」

玲央は頷いた。

頷いたのに、いつもより声が乾いていた。


「結城さん、そういう席、ちゃんと座れる人だもんね」

さらっと言う。さらっと言うのに、言葉の端が硬い。

「上も安心する」


かなえは一瞬、言葉に詰まった。


(……それ、どういう意味)

(“俺じゃない”って言ってる?)

(当たり前でしょ。仕事は仕事)

(なのに、なんで胸が痛いの)


当然だ。

玲央は後輩で、営業二課で、まだ若い。

企画と取引先の代表同士の席に入れないのは当然。


当然なのに、玲央の声の温度がないと胃だけが先に痛む。


「……相沢さんは関係ないです」


かなえが言うと、玲央は少しだけ目を細めた。


「関係ないなら、その言い方もう少し優しくして」

冗談みたいに言う。けれど笑っていない。


(やめて)

(“優しく”って言われると、私が悪者みたいになる)


「……私は、仕事してるだけです」

かなえは言い直す。

「神谷さんは仕事相手です。代表に選ばれただけです」


「分かってる」

玲央は穏やかに返す。

穏やかだから余計に引っかかる。


玲央はキッチンに戻り、何かを探す音を立てた。

それから小さく、紙の束が置かれる。


「これ、営業側の一次集計」

テーブルの端に、整えられた数字の一覧。

フォーマットが統一されている。見やすい。余計な癖がない。


「……これ、どうしたんですか」


「昨日の用事の合間にやった」

玲央は淡々と言った。

「共同イベントなら、数字の見せ方、早めに揃えたほうがいいでしょ」


仕事してる。

ちゃんと。ちゃんと、してる。


その事実が、胸の奥を少しだけ落ち着かせて――同時に痛くする。


(本気かどうか分からない)

(でも、こういう“ちゃんと”は嘘つけない)

(なのに、好きって言葉だけは、ない)


「助かります」

かなえは、正直に言った。

「……ありがとう」


玲央の目尻がほんの少しだけ緩む。

緩むのに、すぐ引っ込める。嬉しさを隠すみたいに。


「どういたしまして」

短く言って、玲央はかなえの頭に手を置いた。

撫でるでもなく、確かめるだけの触れ方。


「仕事、続けて」

そう言って、少し間を置く。


「……終わったら、帰ってきてね」


やわらかい語尾。お願いの形。

なのに、“選択肢”の匂いが薄い。


「ここ、あなたの家です」

かなえはわざと刺す。


「うん」

玲央はさらっと頷く。

「だから、結城さんが帰ってくる場所はここでいい」


決めつけじゃない顔をして、決めている言い方。

それを“本気”だと認めたら、次は自分が何か言わないといけなくなる。

それが怖い。


かなえは言い返そうとして、言葉が出なかった。


(私は、恋人が苦手)

(恋人になった瞬間、“普通”が押し寄せる)

(連絡、頻度、期待、責任……)

(玲央の本気が分からないまま、それだけ背負うのが怖い)


「……来週、会えるんですか」

かなえは、気づいたら聞いていた。

聞いてしまった自分に驚いて、すぐ胃が痛くなる。


玲央の指先が、かなえの髪を少しだけ掬う。

触って、離して、また触る。

触りたいのに我慢してるみたいな“間”が、いちばんずるい。


「会える」

玲央は低く言った。

「金曜、終わったら……帰ってきて」


“待つ側”に回る言い方。

選ばせる形なのに、断りづらい。


かなえは画面を見つめるふりをした。

数字は追えているのに、胃だけが先に痛くなる。


盾のはずの「仕事」が、今日は少し頼りない。


「……三十分、経ちました」


かなえが言うと、玲央はすぐに頷いた。


「うん。じゃあ休憩」

即答。待ってたみたいに。


「帰ります」


「うん」

玲央は遮らずに頷く。


その頷きが怖くて、かなえは一瞬だけ足を止めた。

引き止められた方が楽なのに、引き止められたら終わる気がする。

自分がどっちを望んでるのか分からないのが、いちばん嫌だ。


玲央は立ち上がり、かなえの目を見たまま、穏やかに言う。


「……どっちに?」


家が二つある前提の問い。


かなえの喉が詰まる。

言い返せない。否定できない。

否定したら、いま自分の胸の中にある“落ち着かなさ”まで否定するみたいで。


「……今日は、帰ります」

やっと出た言葉は、曖昧だった。

どこへ、を言わない逃げ。


玲央は、それを追わない。

追わない代わりに、かなえの指先を小さく握った。


「分かった」

声だけ、優しい。

「じゃあ……帰ってきてね。俺、待てるから」


待てる。

待つ、と言われると断りづらい。

断ったら、待たせた自分が悪いみたいになるから。


かなえは頷かない。

頷かないのに、指を引けない。


玲央の指先が、かなえの手の甲を一度だけ撫でて離れた。


「仕事、無理しないで」

玲央は最後にだけ“後輩”の顔で言う。

「……代表って、ちゃんとしてる人ほど、一人で抱えるから」


胸の奥が甘く疼いて、同時に胃が痛んだ。


(……やめて)

(そういうの、言わないで)

(好きって言わないくせに、好きみたいなことだけ増やさないで)


玄関で靴を履く背中に、玲央の気配が寄る。

抱きしめはしない。

けれど、耳元に落ちる声が逃げ道を狭める。


「来週の金曜」

玲央が言う。

「神谷さんと、外で話して。仕事して……ちゃんと終わらせて」


“終わらせて”の言い方が、少しだけ刺さる。


「終わらせますよ。仕事ですから」


「うん」

玲央は頷く。

頷いて、少しだけ間を置く。


「……終わったら、帰ってきて」


やっぱりそこに戻る。


かなえは振り返れなかった。

振り返ったら、頷いてしまいそうだったから。


ドアを閉める直前、玲央が短く言った。


「おかえり、って言わせて」


かなえの胃がきゅっと鳴った。


――何も約束していないはずなのに。

もう、戻る場所みたいな言葉だけが先に増えていく。


“代表”の予定を盾にしたはずなのに、

玲央の「帰ってきてね」が、胸の奥でいちばん重かった。

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