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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第25話 仕事の延長、のはず

 金曜の朝、かなえは目覚ましより先にスマホを見た。


 通知はない。


 ──出張三日目。

 いつもなら、たった一言でも来るのに。


(……忙しいだけ)

(仕事、だよね)


 言い聞かせて、画面を閉じる。

 閉じたのに、指先が落ち着かない。


 そもそも、こんなふうに待つ立場じゃない。

 恋人は苦手だって、自分で言った。

 「私に合わせなくていい」みたいな顔をして、逃げ道を用意したのも自分だ。


 なのに、来ないと落ち着かない。

 それが一番、みっともない。


 鏡の前で髪を上げた瞬間、首の裏の赤みが目に入って、かなえは反射で髪を下ろした。

 コンシーラーを薄く叩いて、髪で隠して、いつも通りのスーツを着る。


(今日も、仕事で上書きする)


 それだけでいい。

 それだけのはずなのに、玄関で靴を履く手が少しだけ止まった。


(……週末)

(帰ってきたら、会えるって思ってた)


 思ってない。思ってないはず。

 思ってないことにしたい。

 “期待”は、外れたときに自分が惨めになる。


***


 午前〜昼は、合同MTGの準備で埋まった。


 会議室の前で資料を揃えていると、廊下側から声がする。


「結城さん」


 神谷蓮。取引先の担当。

 きっちりした人なのに、堅すぎない。話が早い。余計な距離の詰め方をしない。


「おはようございます、神谷さん」


「おはよう。資料、もう揃ってる?」


「はい。前回の差分が出るところだけ、黄色でマークしてあります」


「助かる」

 神谷が少しだけ笑う。

「結城さん、こういう“手間の先回り”が上手いよね」


 褒め言葉が、仕事の範囲に収まっている。

 それが、かなえにはありがたかった。


(ちゃんとした仕事相手)

(こういう人となら、安心して“仕事”ができる)


 会議が始まると、さらにそれがはっきりした。


 現場の言い分、企画の都合、締切の現実。

 噛み合わないところを、神谷が一度“言葉”に落としてくれる。


「一次集計を現場で持つ」

「提出タイミングだけ前倒しして、最終締切は変えない」

「その分、形式は統一して差分の確認工数を落とす」


 かなえがうなずくと、神谷も同じ速度でうなずく。

 息が合う。会話が引っかからない。


 気を抜いて、かなえは小さく笑ってしまった。


「……神谷さん、やっぱり話が早いです」


「結城さんが早いんだよ」

 神谷がさらっと返す。


 その返し方が自然すぎて、かなえは一瞬だけ胸の奥が温かくなった。

 すぐに、胃がきゅっと縮む。


(……ダメ)

(今のは、嬉しいとかじゃない)

(仕事が回るのが、安心なだけ)


 安心、は厄介だ。

 玲央も、あの人は「落ち着く」とか「安心」とかを当たり前に言う。

 言われると、こちらが勝手に信じたくなる。

 勝手に信じて、後で痛い目を見るのはいつも自分だ。


***


 準備MTGが終わって、廊下に出る。


「今日ありがとう」

 神谷が会釈する。

「助かった。……それでさ、次の打ち合わせが一段落したら」


 神谷はスマホの画面を見せるふりをして、軽い口調で続けた。


「チームの人たち含めて、軽く飲み会どうかなって」

「“お礼”っていう名目なら、角も立たないし」


 かなえは一瞬だけ迷った。


 飲み会。

 仕事の延長。

 関係者。

 ──正しい理由。


 “正しい理由”がある方が楽だ。

 恋人が苦手、という自分の言い訳が、そこで生きる。


「……チーム皆、ってことですよね?」


「うん。結城さんのチームと、うちのチームと、必要なら営業側も数人」

「来週の金曜あたり、どう?」


 来週の金曜。

 金曜、という単語だけで、かなえの頭の隅に“玲央の時間”がチラつく。


(違う)

(来週は来週)

(今は仕事)


 かなえは、仕事の顔のまま頷いた。


「分かりました。ミカさんにも確認します」

「ただ、あくまで“関係者で”ですよね」


「もちろん」

 神谷は笑って、すぐに仕事の温度に戻す。

「チームの顔繋ぎも兼ねて。結城さん、場を回すの上手いから助かる」


 “場を回す”。

 言われ慣れている言葉なのに、今日は少しだけ、くすぐったかった。


 くすぐったい、で済ませていい。

 それ以上に行ったら、また自分が困る。


***


 夕方。席に戻ると、社内チャットが鳴った。


 玲央から──じゃない。

 取引先チームのグループチャットだ。


【神谷:皆さん、来週金曜、案件のお礼も兼ねて軽く飲みませんか?結城さん側も数名参加予定。詳細は追って】


 かなえの胸が、仕事の安心で少しだけ整う。

 “皆で”という枠は、盾になる。


(仕事の延長)

(正しい理由)


 そう思ったところで、スマホが震えた。


 玲央。


『今、戻りの新幹線』

『夜遅くなる』


 たったそれだけ。

 なのに、かなえの胃がきゅっと縮む。


(……金曜だ)

(帰ってくる)


 金曜が、勝手に“会う日”の形になっていたことを突きつけられる。

 そんな約束、していないのに。

 していないからこそ、余計に厄介だ。


 返信を打つ前に、もう一件。


『週末、会えると思ってた』


 思ってた、なんて。

 言葉にされると、こちらの心の形まで決められてしまう。


(思ってたの、私も、って)

(言えるわけないでしょ)


 年上の意地が、喉に引っかかる。

 「恋人は苦手」って口にした自分の手前、今さら“会いたい”なんて言ったら負けだ。


 かなえは、盾を先に出す。


『出張お疲れさまです』

『無理しないでください』


 既読がついて、少し間が空いた。

 その“間”が嫌な予感を連れてくる。


『ごめん』

『週末、無理かも』


 胃が、きゅっと鳴った。


(……あ、そう)

(やっぱり、そういうこと)


 期待してない、って言い聞かせたのに。

 落ちる。

 落ちる自分が腹立たしい。


『急に、何かあったんですか』


 指が勝手に動いた。

 聞かなくてもいいのに、聞いてしまった。

 “理由”があれば納得できると思ってしまうのが、弱い。


『家の用事』

『片付けないとまずい』

『……結城さん、怒る?』


 怒る。

 かなえは、怒らない。


 怒らない代わりに、静かに悲しんで、自分の殻に戻って離れていく。

 それを、自分がいちばん知っている。

 そしてたぶん、玲央ももう、うっすら分かっている。


(怒らない)

(でも、落ちる)

(落ちたのを、見せたくない)


 かなえは、いつもの安全な言葉を選んだ。


『怒りません』

『仕方ないです。用事優先してください』


 送信して、胸の奥がひやりとする。


 仕方ない。

 用事優先。

 正しい。


 正しいのに、妙に空っぽで、胃だけが痛い。

 “本気なら、言葉で埋めてよ”って思ってしまう。

 思ってしまうくせに、自分は何も言わない。言えない。


 玲央の返事は短かった。


『ごめん』

『来週、埋め合わせする』


 埋め合わせ。

 恋人みたいな言い方。恋人じゃないのに。


(……それって)

(「俺は続けたい」ってこと?)

(それとも、ただの気遣い?)


 信じきれない。

 信じたいのに。


 かなえはスマホを伏せた。


(私、何を期待してたんだろう)

(期待してないふり、上手くなっただけなのに)


***


 久しぶりの、ひとりの週末。


 土曜の朝、目が覚めても部屋は静かだった。

 キッチンの水音もない。コーヒーの匂いもしない。

 いつもなら“金曜の夜からの続き”が残っているはずの空気が、何もない。


 かなえは一度、布団の中で息を止めた。


(……落ち着かない)


 ひとりは、楽なはずだ。

 自分のペースで動ける。誰にも気を使わない。

 恋人じゃない、詮索しない、職場に持ち込まない。


 守れているはず。


 なのに、落ち着かない。


 冷蔵庫を開けて、何を食べるか決められない。

 掃除を始めても、途中で止まる。

 テレビをつけても、音が邪魔に感じる。


(……私、浮かれてた?)


 週末が来るのが、少しだけ楽しみだった?

 “金曜の夜”が当たり前になりかけていた?

 会うことが前提になっていた?


 認めたくない言葉が、じわじわ浮いてくる。

 水面から抜け出せないみたいに、動きが鈍くなる。


 かなえはスマホを手に取って、置いて、また手に取った。


 連絡してはいけない理由は、いくらでもある。

 恋人じゃない。

 重いと思われたくない。

 本気じゃなかったときに、惨めになる。


 でも、連絡しない理由が見つからない。


 ──それが怖い。


(連絡するのが当たり前)

(もう、当たり前にしてる)


 昼過ぎ、神谷から個別にチャットが入った。


『結城さん、来週金曜の飲み、ミカさんにも共有済みですか?』

『人数把握だけ先にしたくて』


 かなえは、その仕事の通知に救われるように指を動かした。


『共有済みです。こちら側の参加者、月曜に確定して連絡します』


 送信すると、胸の奥が少しだけ整う。

 仕事の正しさは、盾になる。


 その直後、玲央から通知が来た。


『今、家の用事終わった』

『……結城さん、ちゃんと休めてる?』


 責めない言葉。

 怒らせない言葉。

 放っておけない、という顔の言葉。


 かなえは返したいのに、返したくない。

 返したら、また当たり前が積み重なる。

 当たり前が積み重なって、もし突然途切れたら――その時の自分が想像できてしまう。


(信じたいのに)

(信じきれない)

(信じきれないから、近づきたくないのに)


 かなえは、指先で短く打った。


『休めてます』

『大丈夫です』


 既読がつく。

 返事は、すぐ。


『そっか』

『……会いたい』


 たった三文字。

 たった四文字。


 胃が痛い。

 痛いのに、胸の奥が甘くなる。


(……浮かれてたんだ)

(私、会いたいって言われて、嬉しいんだ)


 嬉しいって認めた瞬間、足元が少しだけ沈む。

 じわじわと、身動きが取りづらくなるような感覚。


 かなえは、返信欄に指を置いたまま動けなかった。


 “仕事の延長”って言い聞かせたのに、玲央の既読がついた瞬間、胃だけが先に痛んだ。

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