第24話 会えない日の、五分
玲央が出張だと聞いたのは、月曜の昼だった。
社内チャットの業務連絡。
「今週後半、関西。金曜夕方戻り」
その一行だけなのに、かなえの胃が先に反応した。
(……関西)
(会えない、のか)
“会う”という言葉を、自分の中でまだ許可していないのに。
金曜の夜が、いつの間にか玲央の時間として輪郭を持っていることが、悔しい。
恋人は苦手。
そう言い切ったのは自分だ。
なのに、彼の予定が一つずれるだけで、心が引っ張られる。
かなえは資料をめくる指を止めずに、画面だけを見た。
(仕事だよね)
(出張だし)
そう、正しい。
正しいのに――胸の奥が少しだけ落ちるのが、いちばん腹立たしい。
「落ちる」って何。
期待してるみたいじゃないか。
年上のくせに。自分で線を引いたくせに。
スマホが震えた。
玲央。
『今週、出張になった』
『金曜戻り。遅いかも』
“遅いかも”。
それがまるで、「その夜は会う前提」の言い方に聞こえてしまって、かなえは唇を噛む。
(……前提、なの?)
(それとも、癖みたいに言ってるだけ?)
玲央はたまに、優しさを当たり前みたいに置く。
置かれると、こちらが受け取ってしまう。
受け取った後で「勘違いでした」は一番みっともない。
返す言葉を選んでいる間に、もう一件。
『会えないの、嫌だな』
嫌だな、なんて。
軽いのに、逃げ道を塞ぐ。
でも――軽いからこそ怖い。
本気の言葉なら、責任がある。
軽口なら、いつでも撤回できる。
かなえは深呼吸して、盾を先に立てる。
『出張なら仕方ないです』
『仕事優先で』
既読はすぐについた。
返信も、すぐ。
『うん。仕事優先』
『……でも』
『声だけ、聞きたい』
声。
会うじゃなく、触れるじゃなく、声。
それなら“仕事の延長”に見える形が残る気がしてしまうのが、ずるい。
(ずるいのは私だ)
(逃げ道が欲しいだけ)
「恋人は苦手」って言ってしまった自分の、いちばん卑怯なところ。
近づきたいのに、責任は取りたくない。
かなえは、一拍置いてから打った。
『忙しいなら無理しないでください』
断っているようで、断っていない。
いつもの自分の逃げ方。
玲央の返信は、短かった。
『五分だけ』
『夜、時間ある?』
五分。
具体的にされると、断りづらくなる。
(この人、こういうところだけ上手い)
(上手いのが、癖なのか、本気なのか……分からない)
かなえは画面を見たまま、ため息を飲み込んだ。
『……帰宅して落ち着いたら』
送信した瞬間、胸の奥が小さく緩んだ。
緩んだ自分に、すぐ苛立つ。
(……当たり前みたいに約束してる)
(恋人じゃないのに)
(恋人じゃない、って言ったのは私なのに)
***
その夜。
家に帰ってシャワーを浴び、髪を乾かして、部屋着に着替える。
いつもの“金曜の儀式”の途中で止まるみたいに、かなえはリビングの真ん中で立ち尽くした。
会えない。
だから今日は、この部屋には自分しかいない。
それが、少しだけ安心で。
少しだけ寂しい。
(……何これ)
(私、何を感じてるの)
(寂しいって、誰に)
スマホが震えた。
『今、ホテル着いた』
『まだ起きてる?』
出張先のホテル。
その単語だけで、玲央が“遠い場所にいる”現実が刺さる。
遠いのに、私の生活の中に入り込むのが上手い。
『起きてます』
短く返すと、すぐに電話が鳴った。
ためらったのは、ほんの二秒。
押したのは、たぶん反射。
(出ちゃうんだ)
(私、出ちゃうんだよね)
「……もしもし」
『もしもし』
玲央の声が、耳の奥にすっと入ってくる。
距離がない。
会えないのに、近い。
近い、が嬉しいと思ってしまうのが怖い。
嬉しいと思った時点で、こちらの負けみたいで。
『……ありがとう。出てくれて』
「五分、ですよね」
わざと事務的に言う。
線を引いているつもりで。
『うん。五分』
玲央が小さく笑った気配がした。
『……でも、声聞けたら落ち着く』
また“落ち着く”。
その言葉を、玲央は当たり前みたいに使う。
それが、かなえの胃を痛くする。
(落ち着く、って便利な言葉だ)
(相手を“必要”に見せて、断りにくくする)
でも同時に――その便利さに、引っかかってしまう。
「必要とされる」って、恋じゃなくても甘い。
「出張、大丈夫なんですか」
話題を仕事に戻す。
戻せば安全。
恋人じゃないから、恋人みたいな話はしない。
『うん。大丈夫』
『こっちは慣れてる』
少し間が空いて、玲央が言い足した。
『結城さんの方が、今日は大丈夫?』
“結城さん”。
会社の呼び方。
なのに、声の温度が家の中みたいで、かなえは居心地が悪くなる。
(……距離が近い)
(近いのに、言葉は確実じゃない)
(だから、信じきれない)
「……大丈夫です。普通です」
『普通、便利だね』
「便利なんです」
『うん。便利』
玲央は否定しない。
否定しないから、こちらが崩れる。
(否定してよ)
(「便利じゃない」って言ってよ)
(そうしたら私は、少しだけ……安心できるのに)
『ちゃんとご飯食べた?』
かなえは一瞬だけ詰まった。
詰まる質問じゃないはずなのに。
こういう当たり前を聞かれるのが、苦手だ。
恋人みたいで、恋人じゃないから。
「……食べました」
『何』
「適当に」
『適当って何』
玲央が少しだけ笑う。
『ちゃんと、言って』
“ちゃんと”。
命令じゃない形。
でも、従わせる形。
かなえは、少しだけむっとしながら答えた。
「……コンビニのパスタと、サラダ」
『偉い』
玲央が、すっと言う。
褒める言葉が軽いのに、胸の奥がきゅっとなる。
(軽いのに、ちゃんと刺さるのが悔しい)
「偉くないです」
『偉いよ』
『結城さん、放っておくと食べないでしょ』
見透かされると、息が詰まる。
でも見透かされることで、変に安心してしまう自分が、もっと嫌だ。
(見てるの?)
(それとも、都合よく当ててるだけ?)
「……放っておいてください」
『放っておけない』
玲央は、さらっと言った。
恋の言葉じゃない顔で。
『静かに離れるタイプ、嫌いなんだよね』
心臓が、跳ねた。
なぜ知っているのか。
いつから見ていたのか。
“嫌い”って言い方もずるい。
私が悪いみたいになる。
でも、悪いのは私だ。静かに離れるのは、私の癖だ。
「……何の話ですか」
『んー……何でもない』
玲央の声が、少しだけ低くなる。
『今、結城さんの声、ちゃんと近いから』
近い。
会えないのに、近い。
かなえは、ソファに座り込んだ。
背中が少しだけ沈む。
それだけで、体の緊張が緩んでしまう。
(……だめだ)
(五分なのに)
(五分だから、って言い訳ができるのがいちばんだめ)
『……今日さ』
玲央が、少し迷うみたいに息を吸った。
『頼みがある』
頼み。
その言葉だけで、胸が固くなる。
また断れない形で来る予感がする。
「……何ですか」
『ほんとに五分で切るから』
『寝る前に、俺から……“おやすみ”って言わせて』
言わせて。
お願いの形をしているのに、断る理由が見つからない。
(私、恋人は苦手って言ったよね)
(なのに、こういうのは……許すんだ)
「……子どもじゃないんだから」
『子どもじゃないけど』
玲央は笑って、でも引かない。
『結城さんに言うと落ち着く』
落ち着く。
またその言葉。
落ち着くために、私を使う。
そう思うと腹が立つのに――その“必要とされ方”が、甘い。
甘いから、怖い。
これが本気じゃなかったら、私はどこに転べばいい。
「……分かりました」
返事が、口から先に出た。
あとから、背筋が冷える。
(今、私、即答した)
(年上の意地、どこに置いてきたの)
『……うん』
玲央の声が、少しだけ柔らかくなる。
『ありがと』
その“ありがとう”が、五分を五分じゃなくする。
かなえは慌てて言った。
「出張、いつまでですか」
『金曜の夕方戻り』
『遅くなるかも』
「仕事ですから」
『うん。仕事』
玲央は同じ言葉を返して、少し間を置く。
『……でも金曜、結城さんの顔、見たい』
言い切らない。
命令しない。
だから、断りづらい。
(“見たい”って言うなら)
(“会いたい”って言えばいいのに)
(言わないのは、逃げ道を残してるから?)
かなえは、息を吐いた。
「……分かりません。金曜、忙しいかも」
『忙しいなら無理しない』
『……でも』
『“終わった”って一言、して』
それはもう、ルールになっている。
いつの間にか、こちらの生活の中に滑り込んでいる。
「……します」
また即答しそうになって、かなえは噛み直す。
「……できたら」
『うん。できたらでいい』
玲央は、譲るふりをする。
譲るふりをして、当たり前を積む。
沈黙が落ちた。
五分のはずなのに、切り方が分からない。
(切ったら、戻っちゃう)
(この静けさの前に)
『……そろそろ切る』
玲央が先に言った。
その言い方が、少しだけ名残惜しそうで、かなえの胸がちくっとする。
「五分ですもんね」
『うん。五分』
玲央は笑った気配だけ残して、声を落とす。
『結城さん、おやすみ』
かなえは、ほんの一瞬だけ迷った。
迷って、でも言った。
「……おやすみなさい」
通話が切れた。
静かになった部屋が、急に広い。
広いのに、耳の奥だけが玲央の声で満ちている。
(……何やってるんだろう)
(私、五分の通話でこんなに)
(恋人は苦手って、言ったのに)
スマホの画面がまた震えた。
『明日も、五分いい?』
指が、勝手に動きそうになる。
断る言葉を探す前に、“当たり前”が先に出そうになる。
かなえは、息を吸って、ゆっくり吐いた。
『……明日、帰れたら』
送信。
既読がついて、すぐに返事。
『うん。待ってる』
待ってる。
恋人の言葉みたいで、違う顔をしている言葉。
かなえはスマホを伏せて、額に手を当てた。
会えない日のはずなのに。
縛られるほどじゃないはずなのに。
――連絡するのが、当たり前になり始めている。
⸻
必要なら次は、かなえの「信じきれない」部分をもう一段だけ鋭くして、“本気なら言葉で言って”が喉まで来てるのに言えない方向にも寄せられるよ。




