第23話 髪で隠れる場所
月曜の朝。
目を開けた瞬間、かなえは首の裏に残った熱を思い出して、反射で喉を鳴らした。
——じん、とする。
痛みじゃない。腫れでもない。
ただ、「そこにある」と分かる種類の残り方だ。
(……髪で隠れる場所)
(隠れるのに、見える場所)
隠れる、はず。
それでも自分の中で「ある」と分かってしまうから、結局ずっとそこに意識が吸われる。
自分の体なのに、自分のものじゃないみたいで腹が立つ。
昨日の夜、玲央は笑いながら言った。
“この家では玲央って呼んで。苗字で呼んだらペナルティ”
軽い口調。
目尻がくしゃっとなる、あのずるい笑顔。
(冗談みたいに言って)
(冗談みたいに従わせる)
「恋人は苦手」って言ったのは自分だ。
だから、こういう“ルールごっこ”は本当は避けるべきで。
避けるべきなのに、従った瞬間にルールは冗談じゃなくなった。
従った自分が、いちばん怖い。
かなえは枕に顔を押しつけて、深呼吸した。
(仕事)
(今日からは、仕事)
そう言い聞かせて起き上がり、髪を下ろす。
首の裏にかかる角度を何度も確かめる。
結ぶのは、だめ。今日は——だめ。
鏡の前で、いつもより丁寧に髪を整えた。
隠すために丁寧にする自分が、情けない。
年上のくせに。もういい大人のくせに。こんなことで。
◇
出社。
フロアのざわめきが、少しだけ救いになる。
キーボードの音、電話の声、誰かの笑い声。
いつも通りの世界は、かなえを「普通」に戻してくれる。
戻したい。
戻さなきゃいけない。
席に着いた途端、明るい声が飛んできた。
「結城さーん!おはようございます!」
水野美緒。
営業二課の担当。仕事は早い。距離は近い。
かなえは“仕事の顔”を貼り付けた。
「おはようございます。二課の実績、午前中にお願いしますね」
「もちろんです〜!」
美緒は笑って、ふっと声の温度を落とす。
「……結城さん、今日、目が疲れてません? 眠れてない感じ」
首の裏じゃない。
髪でもない。
“目”を見てくるのが、逆に怖い。
見抜かれるのは跡じゃない。今の自分の“揺れ”だ。
「週末、少し立て込んでました」
かなえは事務的に言った。
「業務の話だけでお願いします」
「はーい」
返事は軽いのに、視線が一瞬だけかなえの首元を避けた気がした。
避けた、というより——“避けるべき場所がある”と知ってるみたいに。
(……気づいてる?)
(いや、気づいてない。気づいてたらもっと刺してくる)
でも、分からない。
分からないから怖い。分からないから守りが強くなる。
かなえは心臓の音を飲み込んで、画面に視線を落とした。
◇
午前中は会議と数字で埋めた。
集中している間だけ、胃が黙る。
昼前、社内チャットが震える。
玲央から。
『今日は迎えに行く』
『遅くなる?』
短い。
確認じゃなく、予定の通知。
(迎え、って……)
(当たり前みたいに言うな)
当たり前にされると、断り方が分からなくなる。
断ったら、こちらが冷たいみたいになる。
それが一番嫌なのに、嫌と言えない自分がもっと嫌だ。
かなえは少しだけ指を止めてから返した。
『読めないです。遅れたら連絡します』
既読はすぐについた。
『了解。俺も今日は遅いかも』
『会議詰まってる』
——遅いかも。
その一言が、妙に現実的で腹が立つほど助かる。
玲央は暇じゃない。仕事はある。ちゃんと忙しい。
それでも「迎え」は外さない。
(……なんで)
(そこだけ、外さないの)
本気みたいに見える。
でも「本気」って言葉は出てこない。
優しさだけ積み上がって、確実な言葉だけがない。
疑問の形をした胃痛が残る。
◇
午後、会議。
営業二課の代表として玲央が同席していた。
いつものスーツ、いつもの姿勢、いつもの“会社の顔”。
かなえは資料をめくりながら、意識して玲央を見ないようにした。
見たら、首の裏が熱くなりそうで。
熱くなったら、髪を押さえる仕草が出そうで。
——バカみたいだ。
会議が終わって廊下へ出ると、美緒が玲央に並んで歩いていた。
普通の先輩後輩。普通の業務会話。
美緒がかなえに気づき、笑顔のまま一段だけ踏み込む。
「結城さん、今日ずっと“守り”強くないですか?」
冗談みたいな声。
「いつもはもっと、サバサバしてるのに」
守り。
その言葉が刺さる。
かなえが返す前に、玲央が穏やかな声で言った。
「水野さん」
声は柔らかい。でも温度が低い。
「結城さんは元々ああいう人じゃないよ。仕事の時は特に」
“元々”。
知ったふうに言われて、胃がきゅっと鳴る。
知ってるのは、ここ数週間のはずなのに。
いや、私が見せたのは“仕事の私”だけのはずなのに。
美緒は「へえ」と笑った。
笑いながら、玲央の顔を覗き込む。
「相沢さん、結城さんのこと、よく見てるんですね」
言い方が、わざとらしく甘い。
玲央は会社の笑みを浮かべる。
でも目尻は動かない。
「担当だから」
嘘じゃない言い方。
嘘じゃないのに、嘘みたいに冷たい。
冷たいからこそ、余計に“本音”がどこにあるのか分からない。
美緒は少しだけ肩をすくめて去っていく。
残された廊下で、玲央がかなえへ視線を寄越した。
一瞬だけ。
その一瞬の目が、会社の顔をしていない。
沈んで、静かで、逃げ道を塞ぐみたいな。
かなえは反射で髪を首の後ろに寄せた。
隠す仕草を、自分で止めるより早く。
(やだ、今の)
玲央の視線がそこに落ちて——すぐ戻る。
見た、と言わないのに、
見られた、と分かる。
その確信が、胃を痛くした。
◇
残業で遅くなった。
外へ出ると、玲央の車が待っていた。
ハザードの点滅が呼びかけみたいで、かなえは目を逸らしたくなる。
助手席に乗ると、玲央は「お疲れ」と短く言った。
「遅くなると思ってた」
責めない口調。
でも“想定内”の言い方が、じわじわ効く。
(想定してたなら、放っておいてくれてもよかったのに)
「……すみません」
かなえが言うと、玲央は首を振るでも頷くでもなく、淡々と続けた。
「謝らなくていい」
「迎えに行くって言ったし」
確定。
正しいのに、逃げ道がない。
車が走り出す。
街灯が流れる。
玲央が、何でもない声で言った。
「平日の話、決めたい」
かなえの胃がきゅっと鳴る。
(決めるって、何を)
(恋人じゃないのに?)
「……毎日会うとかは、無理です」
先に釘を刺す。
「私も忙しいし、相沢さんも——」
言いかけて止めた。
会社の癖が口に乗りかけて、喉が冷える。
(違う。ここは会社じゃない)
(でも、“玲央”は言えない)
玲央はハンドルを握ったまま、声だけ優しくする。
「うん。毎日は無理」
「俺も無理。会議入るし、出張もある」
“俺も無理”。
同意されると、少しだけ安心してしまう。
それが悔しい。
玲央は続ける。
「だから、約束は一個だけ」
「月〜木、予定入れる前に俺に一回だけ言って」
「会える日だけ会う。会えない日は、五分だけ声」
五分。
短いのに、逃げ道がない。
“会わない日”まで玲央が入り込む。
(……何それ)
(それって、恋人じゃないのに恋人みたいじゃない)
かなえは喉の奥が熱くなる。
「……それ、意味あります?」
口に出した瞬間、自分で分かる。
本当は「意味がない」じゃない。
「意味がありそうで怖い」だ。
玲央は少しだけ笑った。
目尻がくしゃっとなりかけて、戻る。
「ある」
淡々と言い切る。
「かなえの一日の最初に、俺が入る」
恋じゃない言い方。
でも生活に侵食する言い方。
(入るって、何)
(私の中に、ってこと?)
かなえは言い返したかった。
でも、言い返す言葉が見つからない。
見つからないのは、自分もどこかでそれを望んでいるからだ。
玲央が続けた。
「嫌なら、嫌って言って」
優しい声で言う。
「言ったら引く」
引く。
引くと言いながら、引くように見えない。
引くと言うことで、こっちが“嫌”を言えなくなる。
(ずるい)
かなえは窓の外を見たまま、小さく言ってしまう。
「……分かりました。連絡だけ」
連絡だけ。
自分に言い訳の形を与える言葉。
玲央は「うん」と頷いた。
頷きが、露骨に機嫌がいい。
その機嫌の良さが、いちばん怖い。
(私が“連絡する側”に回った)
(もう戻れない感じがする)
◇
玲央の家。
玄関の匂いを嗅いだ瞬間、かなえの棘が少し丸くなる。
その変化に気づくたび、胃が痛い。
リビングの灯り。
マグの並び。
ここに“私の居場所”がある気がして、落ち着かない。
居場所、なんて。
恋人でもないのに。
そう思って打ち消そうとしても、身体の方が先に緩む。
玲央が紅茶を淹れて戻ってくる。
「短時間」
そう言いながら、隣に座る。
距離が近い。近いのに、触れない。
触れないから、余計に意識してしまう。
玲央がぽつりと言った。
「さっき、車で言いかけた」
かなえの呼吸が浅くなる。
「……何ですか」
「苗字」
淡々とした声。
怒ってない。声を荒げない。
なのに、空気が硬い。
かなえは先に言う。
「……癖です。仕事で」
言い訳に聞こえた瞬間、自分で腹が立つ。
癖なら直せる。直してないのは自分だ。
「分かってる」
玲央は頷く。
頷きながら、次を落とす。
「だから、ここで練習しよ」
練習。
言い方は柔らかいのに、逃げ道がない。
玲央は笑っている。目尻がくしゃっとなる、あの笑顔。
でも——目の奥だけが沈んでいる。
(……本気なの?)
(本気なら、ちゃんと言ってよ)
(でも言われたら、私が困る)
「整理するね」
かなえが身構えるより先に、玲央は指を立てた。
「会社では、俺は“結城さん”って呼ぶ」
「で、かなえは俺を“相沢さん”って呼べばいい。——そこは仕事だから」
一拍置いて、玲央の声が少しだけ柔らかくなる。
「でも、家では逆」
「俺のことは“玲央”。……苗字はだめ」
言い切ってから、玲央は笑った。
軽い顔なのに、言葉だけは外さない。
「言って。今」
かなえは息を吸って、吐いた。
「……玲央」
呼んだ瞬間、玲央の目尻がくしゃっとなる。
嬉しそうに笑って、頬に短くキスを落とす。
それだけで、身体がほどけるのが分かってしまう。
(……だめだ)
(だめなのに、気持ちいい)
玲央は優しい声で言う。
「うん。いい子」
いい子。
褒め言葉の形をした鎖。
かなえが目を逸らすと、玲央はさらに続けた。
「もう一回」
「今度は“会社では何て呼ぶ?”って聞くから」
「答えて」
かなえの胃がきゅっと鳴る。
わざとだ。
引き出す気だ。
“言わせる”方が得意なのも分かってる。
「……それ、ずるいです」
玲央は笑う。
でも、その笑いは軽くない。
「ずるいよ」
あっさり認める。
「でも、かなえが“言わないようにしてる”のも、ずるい」
(……言わないようにしてる)
(そう。言うと、関係が決まるから)
決まるのが怖い。
決まったら、逃げられなくなる。
逃げられなくなるほど、信じきれてない。
言い返せないまま、玲央が同じ質問を落とす。
「会社では、俺のこと何て呼ぶ?」
かなえは一瞬だけ唇を噛んだ。
分かってる。ここで言ったら——。
でも、質問に答える形なら、
“間違えた”じゃない。
“うっかり”じゃない。
ただの業務の答えだ。
その逃げ道に、すがってしまう。
「……相沢さん、です」
言った瞬間、玲央の笑みが止まった。
止まったのに、怒らない。
ただ、目の奥がすとんと沈む。
沈んだまま、玲央は優しく言った。
「うん」
「正解」
正解——?
かなえが息を止めた時、玲央が続ける。
「だから、ここで言ったのは“間違い”じゃない」
「でも——」
声だけは柔らかい。
「今、俺の前でその音を聞くと、落ち着かない」
落ち着かない。
また、その言葉。
恋じゃないふりの言葉で、全部を自分のものにしていく。
玲央は、にこっと笑った。
目尻がくしゃっとなる。
笑いながら、決める。
「ペナルティ」
「覚えさせる」
かなえの背筋がぞわっとする。
「……今の、ずるいって言ったじゃないですか」
玲央は「うん」と頷く。
頷きながら、手を伸ばす。
髪を持ち上げる指先が、やけに丁寧だ。
「ずるいよ」
優しい声。
「でも、かなえが守りたいなら、覚えた方がいい」
守りたい。
何を? 誰を?
自分を、だ。
自分の意地を、自分の逃げ道を。
首の裏に空気が触れる。
昨日の熱がよみがえる場所。
玲央の唇が、そこに落ちた。
一回じゃ終わらない。
浅いのに、しつこい。
同じ場所を確かめるみたいに、熱が重なる。
かなえは息を殺した。
拒否の言葉が喉に上がるより先に、身体が“待つ”方へ寄ってしまう。
(……いや)
(いや、なのに)
(“嫌”って言ったら、終わりそうで怖い)
玲央が低く言う。
「髪で隠れる」
「でも、俺は分かる」
その言い方が、胸の奥をぞわっとさせた。
隠れているのに、見られている。
見えないのに、捕まっている。
玲央の唇が、背中へ移る。
服越しに熱が落ちる。
ひとつ、ふたつ。
“増やしてる”のが分かる。
かなえは俯いて、指先を握りしめた。
「……っ、玲央……」
名前を呼んでしまう。
呼んだ瞬間、玲央の目尻がくしゃっとなる。
嬉しそうに笑って、短く言った。
「うん」
「そう。ここではそれ」
褒められているのに、胃が痛い。
でも胸の奥が甘い。
甘いのが、怖い。
玲央が最後にもう一度、首の裏へ唇を落とす。
髪で隠れる位置。
でも、結んだら見えるかもしれない位置。
べったりと熱を残して、玲央は額をかなえの肩に擦り付けた。
「……充電」
甘えるみたいに言う。
「今日、ずっと我慢した」
我慢した。
忙しい日だった、と言うみたいに。
当たり前の顔で。
「明日は会えない」
玲央がさらっと言った。
「出張」
かなえの胸が一瞬だけ軽くなる。
軽くなる自分が情けない。
その軽さを見透かしたみたいに、玲央が続ける。
「でも、五分」
「声だけ。ちょうだい」
ちょうだい。
お願いの形なのに、断りづらい。
(断ったら、私が悪者)
(断らなかったら、私が負け)
かなえは唇を噛んで、小さく頷いた。
「……分かりました」
玲央は満足そうに笑った。
目尻がくしゃっとなる。
でも、その笑顔の奥で、何かが静かに沈んだままなのが分かる。
——優しい顔で、囲い込む。
◇
帰り道、かなえは髪を首の後ろへ寄せた。
隠れる場所。
でも隠しても、“ある”ことは自分だけが分かる。
分かるのに、消えない。
消えないから、明日も気にする。
気にするから、明日も玲央を思い出す。
その循環が、じわじわと身動きを奪っていく。
スマホが震えた。
玲央から。
『帰れた?』
『髪、結ばないほうがいいかも』
『あと、明日。五分。声ちょうだい』
命令みたいなのに、どこか甘い。
甘いのに、逃げ道がない。
かなえは画面を見たまま、動けなかった。
(……私、もう)
(“嫌”って言うより先に)
(連絡しようって思ってる)
その事実が、胃を痛くした。




