第22話 平日の夜も、って言うな
車のドアが閉まった瞬間、外の寒さと会社の空気がぷつんと切れた。
密閉された車内に、玲央の匂いがする。
スーツの布、コートの冷え、柔軟剤の薄い甘さ。
それだけで背中の熱がじわりと蘇って、かなえはシートベルトを引く手に変な力が入った。
(……匂いで思い出すとか、最悪)
(恋人みたいじゃない。恋人じゃないのに)
玲央は運転席でエンジンをかける。
ハンドルを握る指が落ち着いているのが腹立たしい。こっちは、まだ会社に置いてきたはずの自分が戻ってこないのに。
「……待たせて、すみません」
先に出たのは、それだった。
言った瞬間、胸の奥がほんの少し軽くなる。軽くなるのに、“借り”が増えるのが分かってしまって胃がきゅっとする。
玲央は視線を前に置いたまま、小さく鼻で息を抜いた。
「いいよ。遅いのは、分かってた」
責めない。
責めないのに、言い方がさらっとしていて、逆に落ち着かない。
(“分かってた”って)
(分かってるふり、じゃないの?)
信号で止まって、玲央がようやく横を見た。
顔はいつもの会社の顔。なのに目だけが、妙に近い。
「怒ってない?」
玲央が先に聞いてくる。
「……怒ってないです」
反射でそう言ってから、遅れて自分に腹が立つ。
怒ってない、じゃない。怒れない。怒ったら“面倒な女”になりそうで。
玲央は少しだけ眉を下げた。
「じゃあ、よかった。……いや、よくないか」
自分で言って、短く笑う。目尻はくしゃっとならない。
「待つのは平気。慣れてる。仕事だし」
“慣れてる”が、引っかかった。
慣れてるって、誰のこと。何のこと。
(……過去の女?)
(いや、そういう話にしたいわけじゃない。したくない。聞きたくない)
かなえは膝の上で指を組んだ。
「仕事なので……」
言い訳みたいに言った瞬間、胃が鳴る。
仕事は盾になる。盾にしたい。なのに盾を持つ手が震えている。
玲央は頷く。頷き方が、やけに素直で腹が立つ。
「分かってる。……分かってるけどさ」
少し間。
「長いと、色々考える」
色々。
曖昧にしておくことで、逃げ道を残す言い方。
なのにその曖昧さが、重い。
(色々って、何)
(私のこと? それとも……“帰らないで”とか)
(いや、そんな都合のいい方に取るな)
玲央は前を見たまま、さらっと続けた。
「結城さん、今日――帰る?」
帰る。
終電まで。ルール。
言えばいいだけなのに、答えが遅れた。
遅れた一秒に、玲央の口元がほんの少しだけ動く。笑わない。でも“分かってる”みたいな動き。
「……帰るって言うなら送る。ちゃんと」
玲央は淡々と言う。
「タクシーでもいい」
ジェントルな言い方なのに、置き方がずるい。
“選べる”形にして、実際は選べない形にする。
玲央はハンドルを握ったまま、最後だけ低く落とした。
「でも、俺は……帰したくない」
その一言で、背中の熱がまた疼いた。
腹が立つ。ずるい。年下のくせに。
「……ずるいです」
かなえが吐き捨てると、玲央は小さく笑った。今度は目尻がほんの少しだけゆるむ。
「うん。ずるいの自覚ある」
軽く認めて、軽くしない。
「だから、お願いする」
お願い。
命令じゃない顔。拒否できる形。
でも拒否した瞬間に、こちらが悪者になる形。
かなえは息を吸った。
「……何を」
玲央は信号が変わってもすぐに発進しなかった。
ほんの一秒だけ、間を作る。
その間が怖い。言葉が落ちてくる前の“確定”みたいで。
「金曜の夜以外の平日」
玲央は当たり前みたいに言った。
「……俺にちょうだい」
かなえの頭が一瞬、真っ白になった。
(え、なに)
(恋人でもないのに、枠取りする?)
(私、もう大人なんだけど)
言い返そうとした。
「無理です」って即答して、ここで線を引くべきなのに――
玲央がすぐに“逃げ道の形”を差し出してくる。
「全部じゃない」
早い。こちらが拒否を作るより早い。
「毎日じゃなくていい。短時間でもいい」
短時間、がまたずるい。
「帰ったって一言でいい日もあるし。会えたら、会う。会えない日は、五分」
五分。
またそれ。
“短いから大丈夫”の顔をして、生活に入り込む数字。
「……意味、あります?」
かなえは、わざと軽く言ってみせた。
軽く言えば、重くならない。重くしないで済む。――そのはず。
玲央は少しだけ笑った。今度は目尻がくしゃっとなる寸前で止まる。
「ある」
淡々と言い切る。
「かなえさんの一日の端っこに、俺がいるってだけで落ち着く」
落ち着く。
恋じゃないふりの言葉。
でも“落ち着く”でこちらを縛るのは、ずるい。
(落ち着くって何)
(私が、そこまで必要?)
(……必要だったら、言葉で言ってよ)
でも、言われたら言われたで怖い。
本気って言われたら、受け止める覚悟がない。
恋人は苦手って言ったのは自分。逃げ道を作ったのも自分。
「嫌なら、嫌って言って」
玲央が優しい声で言う。
「言ったら引く」
引く。
引くと言うことで、こっちが“嫌”を言えなくなる。
かなえは窓の外を見たまま、小さく条件を並べた。
「……仕事が優先です」
「残業の日は無理です」
「急に呼び出されることもあります」
「……会社に持ち込まない」
“年上の意地”を、条件の形にして守る。
これなら、負けじゃない。
負けじゃない――と言い聞かせたい。
玲央は頷く。頷き方が腹立たしいほどまっすぐだ。
「うん。全部当然」
当然、が自然すぎて、逆に怖い。
「会社は今まで通り。持ち込まない」
それから声を落とす。
「……夜だけ、俺にくれる」
かなえは、弱い声で言ってしまった。
「……分かりました」
言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
軽くなるのが、いちばん怖い。
(従った方が楽って)
(それ、もうだめじゃない?)
◇
玲央の家に着く頃には、かなえの肩から力が抜けていた。
玄関の灯りがついて、室内の匂いがする。
この匂いがもう“安全”に近いものとして身体に刻まれつつあるのが怖い。
(この部屋に入ると)
(正確には、金曜の夜になると)
(私は少しずつ、おかしくなる)
線を引いていたはずの境界が、靴を脱ぐたびに薄くなる。
「お茶、飲む?」
玲央が振り返って言う。「紅茶かコーヒー」
「……紅茶で」
返事をした自分の声が、驚くほど素直で、遅れて胃が痛くなる。
素直に返事をしただけで、“馴染んだ”みたいになるのが怖い。
玲央は「了解」とだけ言ってキッチンへ向かった。
背中が落ち着いている。勝手に世界を“自分の家の夜”に切り替えていく背中。
紅茶が運ばれてきて、ソファに並ぶ。
マグを渡される指先は、触れそうで触れない距離。
「熱いから、気をつけて」
その一言が自然で、自然すぎて腹が立つ。
恋人みたいだ。恋人じゃないのに。
かなえが一口飲んだ瞬間、玲央が当たり前みたいに距離を詰めてきた。
肩に額を寄せる。擦り付けるみたいに、ゆっくり。
「……今日はたくさん待った」
拗ねたみたいに言う声が、やけに甘い。
「ちゃんと、その分回収しないと」
「……言い方」
かなえが刺すと、玲央は小さく笑う。目尻がくしゃっとなりかけて、すぐ戻る。
「うん。ずるいの自覚ある」
さらっと認めて、そのまま次を置く。
「この家では、俺のこと“玲央”って呼んで」
言い方は軽いのに、目が近い。
「苗字で呼んだら、ペナルティ」
ペナルティ。
その単語だけで背中がぞわっとする。
“遊び”の顔をしたルールなのに、守らないと困るのは自分になる気がする。
「……突然すぎませんか」
「突然じゃない」
玲央は淡々と言う。
「前から言いたかっただけ」
言いたかっただけ、の顔で言うのがずるい。
拒否が意地悪に見える。
年上のくせに、意地悪にはなりたくない。――その弱さを、ちゃんと掴まれている。
玲央が、今度は当たり前みたいに呼んだ。
「かなえ」
呼び捨て。
たった二文字で、固定される感覚が胸に落ちる。
ここに置かれる。逃げ道が減る。
「……っ、いきなり」
「この家では、そう呼ぶ」
玲央は嬉しそうに言う。
「かなえ、って」
反論を探す。でも、反論が見つかる前に口が動いてしまう。
「……分かりました」
その瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
軽くなるのが、いちばん怖い。
——従うことが、楽になる。
◇
マグをテーブルに置こうとして、無意識に口が滑った。
「……相沢さん」
言った瞬間、空気が止まった。
玲央は笑っていない。目尻も、くしゃっとならない。
怒ってないのに、引き返せない温度だけが増える。
「今、なんて呼んだ?」
声が低い。
低いけど荒くない。荒くないから余計に怖い。
「……癖です。仕事の……」
言い訳が弱いのが自分でも分かる。
分かるから、胃が痛い。
玲央は一度だけ頷いた。
「うん。分かってる」
それから、さらっと落とす。
「でも、ペナルティ」
「……何ですか」
玲央は返事をしない。
返事をしないまま、かなえの手首を取った。強くない。痛くない。でも、離せない温度。
「かなえ。こっち」
導くみたいに言う。
「座って。背中、向けて」
「……やめ――」
言いかけて止まった。
“やめて”の続きが出ない。
やめて、って言ったら、線を引くことになる。
線を引いたら、この空気が壊れる。――それが怖い。
かなえはソファに座り直して、背中を向けた。
自分でも信じられないくらい素直に。
玲央が背後に立つ気配。
指先が髪に触れて、ゆっくり持ち上げる。
「髪、どけるね」
許可を取るみたいに言って、もう取れている顔で首の後ろを露出させる。
「……見えると困ります」
かなえが言うと、玲央は短く笑った。
「困るの、分かってる」
声が少しだけ落ちる。
「だから、ここ。隠れる場所」
息が触れた。
首の裏。髪の毛の影。隠れる場所なのに、皮膚は正直で熱を拾ってしまう。
唇が落ちる。
一回じゃ終わらない。
浅いのに、しつこい。
同じ場所を確かめるみたいに、熱が重なる。
「……っ、や、」
身をよじると、玲央の手が肩に置かれた。押さえつける強さじゃない。
“動かないで”を教える程度の、静かな圧。
「動くと、ずれる」
淡々と、でも甘い声。
「ここに残したい」
残したい。
率直すぎて腹が立つ。腹が立つのに、胸の奥が甘く疼く。
(……本気なの)
(本気なら、言葉で言えばいいのに)
(でも言われたら、私が逃げられなくなる)
玲央が一度離れて、低く言った。
「苗字で呼んだら、こうなる」
「覚えさせる」
覚えさせる。
躾けるみたいな言葉なのに、かなえは拒否できないまま指先を握りしめた。
唇が今度は背中へ移る。
シャツ越しに熱が落ちて、布が邪魔に感じる。
「……そこ、やめて」
「ペナルティだから」
さらっと言って、さらっと続ける。
乱暴じゃない。乱暴じゃないのに、逃がさない。
背中に、熱が増える。
ひとつ、ふたつ。
目に見えない場所で“印”が増えていくのが分かる。
かなえは俯いて、息を殺した。
(私は、いつから)
(こんなふうに“従う方”が楽になって)
背中の熱が増えるたびに、
“ここは玲央の家で、玲央の時間”が身体に刻まれていく。
玲央が最後にもう一度、首の裏に唇を落とした。
髪で隠れる位置。けれど、結んだら見えてしまうかもしれない位置。
べったりと熱を残して、玲央が息混じりに笑う。
ようやく目尻が、くしゃっとなる。
「かわいい」
その言葉がずるい。
ずるいのに、胸がきゅっとなるのがもっとずるい。
玲央は背後から、かなえの耳元に言った。
「俺の前では、玲央」
「ここでは守って」
それから少しだけ間を置いて、声を柔らかくする。
「……言って。今」
かなえの喉が熱い。
逃げ道がない。
逃げ道がないのに、そのことがどこか嬉しくて、怖い。
かなえは震える息で言った。
「……玲央」
玲央の目尻が、くしゃっとなる。
嬉しそうに笑って、額をかなえの肩に擦り付けた。
「うん。いい子」
その一言で、かなえの中の棘がまた一つ緩む。
(怖い)
(嬉しい)
(この嬉しさが、いちばん怖い)
金曜の夜になると、おかしくなる。
玲央の言葉が“決定”になる。
逆らえなくなる。
——そして、逆らえないことを、
心の底で少しずつ望んでしまっている。
玲央が、声を少しだけ変えた。
「……かなえさん」
呼び捨てじゃない。
熱が混ざる合図みたいに、“さん”が戻る。
「かなえさん、こっち向いて」
振り向く前に、玲央の指が顎に触れる。
やさしいのに、逃げられない触れ方。
「……かなえ」
呼び捨てに戻る。
その切り替えが、身体の奥を甘く揺らした。
かなえは目を閉じた。
抵抗の言葉が形になる前に崩れる。
従うことが怖いのに、
従えることがどこか嬉しくて。
その矛盾が、じわじわと身動きを奪っていく。




