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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第21話 迎えに行く、は命令じゃない顔をして


水曜の朝、かなえはこの前の会議室Bを思い出しただけで胃が重くなった。


金曜の夕方に、先方の都合でねじ込まれた短い打ち合わせ。

背景を一番把握しているのは自分――という正論で、きれいに押し切られる。


断る理由はない。断ったら仕事が崩れる。

——仕事は崩せない。


なのに、金曜にはもう一つ“予定”がある。


迎えに行く。

終わったら教えて。


玲央の言葉は「お願い」でも「相談」でもない。

命令じゃない顔をして、当たり前みたいに置かれる。

置かれるたびに、かなえは「違います」と言えない。


言えない自分が、いちばん怖い。

……恋人が苦手だって、自分で言ったくせに。

あの一言を盾にしたはずなのに、盾はいつの間にか、逃げるための言い訳に変わっている。



午前中は運用案の周知で埋まった。

営業二課の一次集計責任者が玲央、という形がすっと現場に染みていく。


「結城さん、これで大丈夫そうですか?」

「結城さん、すみません、ここだけ確認お願いできます?」


呼ばれるたび、かなえは仕事の声で返す。

返せる。返せるのに、昨日からずっと背中に残る熱が、ふいに顔を上げる。


(……残業が減ったら)

(その分の時間は、どこへ行くの)


どこへも行かない。自分の時間になるはずだ。

そう思いたいのに、“迎えに行く”の言葉が先に居座っている。

自分の時間のはずの枠に、いつの間にか彼が立っている。


社内チャットが鳴った。美緒だ。


『結城さーん!運用案、二課にも展開しました!』

『あと…この前言ってた金曜の飲み、やっぱりみんな行くっぽいです〜』


かなえは返信しない。

返信しない、と決めるだけで胃が少し軽くなる。

その代わり、仕事の資料に目を落とした。


数字は裏切らない。

数字の列だけが味方だ。

——そのはずなのに。


昼前、ふいに席の横に影が落ちた。


「結城さん」


玲央だった。

スーツ、ネクタイ、仕事の顔。周囲の目がある距離。

その距離に助けられる。

近かったら、多分、崩れる。



「……何か、ありました?」 


顔を上げずに返す。

視線を合わせると、昨日の自分が戻ってきそうで。


玲央は、声を落としすぎない範囲で言った。


「金曜、何時くらいになりそう?」


胃が重く沈む。


「……え。今、その話ですか」


思ったより尖って出てしまって、かなえは自分に舌打ちしたくなる。

年上のくせに。冷静でいなきゃいけないのに。


玲央は笑わない。

笑わないまま、困ったみたいに首を傾ける。


「うん。……終わったら教えて、って言ったし」


“言ったし”。

軽いのに、取り消せない言い方。

言われると、こちらの「拒否」は“約束破り”になる。


かなえはペンを握り直した。


「……分かりません。仕事なので」


言い終わってから、急に苦しくなる。

言葉の中身じゃなくて、“仕事なので”を盾にする癖が、彼の前では露骨になるから。


玲央は頷く。

頷き方が妙に素直で、むしろ腹が立つ。


「そっか」

一拍だけ置いて、さらっと続ける。

「じゃ、終わったらでいい」


引く。

引くのに、引いた後が残る。

“終わったらでいい”が、予定を確定させる。


玲央は去り際に、ほんの少しだけ声を落とした。


「……無理しないで」


それが一番、厄介だった。

心配なんて、言われると弱い。


しかもそれが本気かどうか――かなえにはまだ、分からない。

本気だったら怖いし、遊びならもっと嫌だ。



水曜の夕方、ミカからチャットが来た。


『金曜の打ち合わせ、先方が開始を30分遅らせたいって』

『終了も読めないかも。すまないけど、対応お願い』


30分遅れ。

終了も読めない。


かなえは画面を見つめたまま、息を止めた。


(……どうする)

(迎えに行く、って言ってたのに)


迎えに行く、は、正確には「迎えに行くから」だった。

拒否しない前提の言葉。


“恋人じゃない”はずなのに、予定の入れ方が恋人みたいで、だから余計に信じたくなる。

信じたくなるのが怖い。


かなえはミカに返した。


『承知しました。調整ありがとうございます。対応します』


送信。

仕事の返事はできるのに、もう一つの返事ができない。


プライベートの通知が震えた。玲央。


『金曜、予定入った?』


聞き方が軽い。

軽いのに、胃を締める。


“予定”って何。仕事の予定? 私の予定? 彼の予定?


かなえは返信欄を開いたまま止まった。


打ち合わせがある、と書けばいい。

終わりが読めない、と書けばいい。

それだけのはずなのに。


(書いたら、何が起きる)

(“迎え”が崩れる)


崩れてほしいわけじゃない。

崩れてほしくないと思ってしまう自分が、怖い。

恋人が苦手だと言ったのは、自分なのに。


かなえはようやく打った。


『金曜、夕方に打ち合わせが入りました。終了時間が読めません』


既読がつく。

返信は一瞬で来た。


『了解』

『終わったらでいい』

『待ってる』


短い。

短いのに、逃げ道がない。


待ってる。

その言葉が、金曜の夜を“玲央の時間”にする。

そしてその「時間」を、かなえが嫌いきれないのが、また怖い。



木曜。

美緒の刺し方は、今日も軽い。


「結城さーん、金曜ほんと忙しいんですか?」

「え、なんか最近、相沢さんも金曜だけ“絶対予定あり”って感じで〜」


絶対予定あり。

その言い方が、悪意の形をしていないのに刺さる。


かなえは資料を閉じて、目を上げた。


「水野さん」

声を低くする。

「業務に関係ない話は控えてください」


美緒はぱちぱち瞬きをして、すぐ笑った。


「すみません!つい!」

それから、わざと明るく付け足す。

「でも、相沢さんって“待ち合わせ”とか似合わないから、気になっちゃって〜」


待ち合わせ。

その単語に、背中の熱がうっすら疼く。


かなえは視線を切って、淡々と告げた。


「進捗だけください」


美緒は「はーい!」と笑って去っていった。

去り際、振り返らずにぽつりと落とす。


「金曜、結城さんも先約あるなら……仕方ないですけどね」


仕方ないですけどね。

——仕方ない? 誰の話?


かなえは奥歯を噛みしめた。

美緒の言葉はいつも曖昧で、だから刺さる。

曖昧なものほど、想像で補ってしまうから。



そして金曜。


夕方の打ち合わせは予想通り長引いた。

先方の担当が言う「ついでにこれも」が増えるたび、かなえの胃が縮む。


時計を見る。終わらない。


ミカは申し訳なさそうに眉を下げる。


「……ごめんね」


かなえは首を横に振った。


「大丈夫です」


大丈夫じゃない。

でも大丈夫と言うのが仕事だ。

そう言い慣れすぎている自分が嫌だ。


終わったのは、予定より一時間遅れだった。


会議室を出た瞬間、スマホが震える。玲央。


『終わった?』


短い。

でも、待っていた圧がある。

待ってる、と言ったそのままの圧。


かなえは息を吸って、打つ。


『終わりました。遅くなりました』


既読。すぐ返信。


『了解。今いる』

『外出る?』


今いる。


心臓が跳ねた。

いる、ってどこに。まさか、会社の前。


『どこにいますか』


『正面』

『寒い?コートある?』


寒い? コートある?

その気遣いが腹立たしいくらい自然で、

「迎え」が当然の行動みたいで、

かなえの胸が甘く痛む。


(……やめて)

(そういうの、信じたくなる)


かなえは会議室から廊下へ出て、エレベーター前で立ち止まった。


(帰るって言えばいい)

(帰れる)

(終電までルールだって、ある)


終電まで。

会社に持ち込まない。

恋人じゃない。

詮索しない。


決めたはずのルールは、守るためのはずなのに、

玲央の「今いる」が、そのルールを薄くする。


エレベーターが来た。扉が開いて、かなえは乗る。


下へ降りるほど、胃が痛い。

それでも足は、止まらない。


——正面玄関。


ガラス越しに、玲央が立っているのが見えた。

スーツのまま、ネクタイを外して、コートを着ている。

片手にスマホ。もう片方はポケット。


待っていた人の立ち方。


かなえが外へ出ると、玲央は目尻を少しだけ緩めた。

くしゃっとなりかけて、でもすぐ仕事の顔に戻す。


「お疲れさま」


その切り替えが上手すぎて、逆に怖い。

本気なら不器用であってほしいのに。

上手いから、“慣れてる”みたいに見えてしまう。


かなえは息を吐いた。


「……来たんですね」


「迎えに行くって言った」

言い切ってから、少しだけ声を落とす。


「遅いと……心配する」


心配。

その単語が、罪悪感を削ってくる。

押しに弱いところを、静かに押してくる。


かなえは視線を逸らした。


「金曜に迎えって、やめてください。目立ちます」


玲央は笑わない。

笑わないまま、頷く。


「……うん。分かった」

一回だけ飲み込んでから、言い直す。


「目立たないとこ行く。車、裏に停めてる」


車。裏。目立たない。

逃げ道が減る言い方。


玲央は迷いを見抜いたみたいに、少しだけ眉を下げる。


「嫌なら、帰っていい」


言いながら、でも目は逸らさない。

「……でも、今日はさ」


今日は。

その一言だけで、背中が熱くなる。


玲央は声を落とす。


「待ってる時間、長かった」


責めてない顔。

でも、欲しい顔。


かなえは拒否を探した。探して、見つからなかった。

正確には――拒否すると“自分が傷つく”気がしてしまった。


「……少しだけなら」


声が小さくて、自分で聞こえるのが恥ずかしい。

恥ずかしいのに、玲央の目尻がほんの少しだけ緩むのが分かってしまう。


「うん。少しだけ」


“少しだけ”と言いながら、玲央は当然のように歩き出す。

かなえはその背中を追ってしまう。


追ってしまう自分が、怖い。

年上なのに、追わされているみたいで。

でも――追いたいみたいで。


裏手の夜風は冷たかった。

玲央がさっと自分のコートの前を開ける。

「入れ」とは言わない。

言わないのに、風が当たらない位置に半歩だけ寄せる。


触れない。

でも、囲う。


かなえは息を飲んだ。


(……飼い慣らされてる)

(私が? それとも、私が勝手に)


そう思った瞬間、スマホが震えた。


美緒。


『結城さん、今どこですか〜?』

『相沢さん、もう帰っちゃいました?』


かなえは画面を見たまま固まった。


裏口へ向かう玲央が、ちらりとこちらを見る。

さっきまでの柔らかさが引っ込む。


美緒の名前が画面に出た瞬間、目の奥が静かに暗くなる。


かなえの喉が詰まった。


玲央は何も言わない。

言わないまま車の方へ手を伸ばして、ドアを開けた。


「……乗って」


命令じゃない声。

でも、拒否が浮かばない声。


かなえは返事をしないまま、乗り込んでしまった。


ドアが閉まる音が、やけに大きい。


金曜。迎え。先約。

その形は仕事のせいで揺れたはずなのに、

揺れた分だけ玲央の手が強くなる気がして。


かなえはシートベルトを締めながら、胃の奥が甘く痛むのを感じた。

痛いのに、嫌いじゃない。

嫌いじゃない自分が、いちばん怖い。



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