第21話 迎えに行く、は命令じゃない顔をして
水曜の朝、かなえはこの前の会議室Bを思い出しただけで胃が重くなった。
金曜の夕方に、先方の都合でねじ込まれた短い打ち合わせ。
背景を一番把握しているのは自分――という正論で、きれいに押し切られる。
断る理由はない。断ったら仕事が崩れる。
——仕事は崩せない。
なのに、金曜にはもう一つ“予定”がある。
迎えに行く。
終わったら教えて。
玲央の言葉は「お願い」でも「相談」でもない。
命令じゃない顔をして、当たり前みたいに置かれる。
置かれるたびに、かなえは「違います」と言えない。
言えない自分が、いちばん怖い。
……恋人が苦手だって、自分で言ったくせに。
あの一言を盾にしたはずなのに、盾はいつの間にか、逃げるための言い訳に変わっている。
◇
午前中は運用案の周知で埋まった。
営業二課の一次集計責任者が玲央、という形がすっと現場に染みていく。
「結城さん、これで大丈夫そうですか?」
「結城さん、すみません、ここだけ確認お願いできます?」
呼ばれるたび、かなえは仕事の声で返す。
返せる。返せるのに、昨日からずっと背中に残る熱が、ふいに顔を上げる。
(……残業が減ったら)
(その分の時間は、どこへ行くの)
どこへも行かない。自分の時間になるはずだ。
そう思いたいのに、“迎えに行く”の言葉が先に居座っている。
自分の時間のはずの枠に、いつの間にか彼が立っている。
社内チャットが鳴った。美緒だ。
『結城さーん!運用案、二課にも展開しました!』
『あと…この前言ってた金曜の飲み、やっぱりみんな行くっぽいです〜』
かなえは返信しない。
返信しない、と決めるだけで胃が少し軽くなる。
その代わり、仕事の資料に目を落とした。
数字は裏切らない。
数字の列だけが味方だ。
——そのはずなのに。
昼前、ふいに席の横に影が落ちた。
「結城さん」
玲央だった。
スーツ、ネクタイ、仕事の顔。周囲の目がある距離。
その距離に助けられる。
近かったら、多分、崩れる。
「……何か、ありました?」
顔を上げずに返す。
視線を合わせると、昨日の自分が戻ってきそうで。
玲央は、声を落としすぎない範囲で言った。
「金曜、何時くらいになりそう?」
胃が重く沈む。
「……え。今、その話ですか」
思ったより尖って出てしまって、かなえは自分に舌打ちしたくなる。
年上のくせに。冷静でいなきゃいけないのに。
玲央は笑わない。
笑わないまま、困ったみたいに首を傾ける。
「うん。……終わったら教えて、って言ったし」
“言ったし”。
軽いのに、取り消せない言い方。
言われると、こちらの「拒否」は“約束破り”になる。
かなえはペンを握り直した。
「……分かりません。仕事なので」
言い終わってから、急に苦しくなる。
言葉の中身じゃなくて、“仕事なので”を盾にする癖が、彼の前では露骨になるから。
玲央は頷く。
頷き方が妙に素直で、むしろ腹が立つ。
「そっか」
一拍だけ置いて、さらっと続ける。
「じゃ、終わったらでいい」
引く。
引くのに、引いた後が残る。
“終わったらでいい”が、予定を確定させる。
玲央は去り際に、ほんの少しだけ声を落とした。
「……無理しないで」
それが一番、厄介だった。
心配なんて、言われると弱い。
しかもそれが本気かどうか――かなえにはまだ、分からない。
本気だったら怖いし、遊びならもっと嫌だ。
◇
水曜の夕方、ミカからチャットが来た。
『金曜の打ち合わせ、先方が開始を30分遅らせたいって』
『終了も読めないかも。すまないけど、対応お願い』
30分遅れ。
終了も読めない。
かなえは画面を見つめたまま、息を止めた。
(……どうする)
(迎えに行く、って言ってたのに)
迎えに行く、は、正確には「迎えに行くから」だった。
拒否しない前提の言葉。
“恋人じゃない”はずなのに、予定の入れ方が恋人みたいで、だから余計に信じたくなる。
信じたくなるのが怖い。
かなえはミカに返した。
『承知しました。調整ありがとうございます。対応します』
送信。
仕事の返事はできるのに、もう一つの返事ができない。
プライベートの通知が震えた。玲央。
『金曜、予定入った?』
聞き方が軽い。
軽いのに、胃を締める。
“予定”って何。仕事の予定? 私の予定? 彼の予定?
かなえは返信欄を開いたまま止まった。
打ち合わせがある、と書けばいい。
終わりが読めない、と書けばいい。
それだけのはずなのに。
(書いたら、何が起きる)
(“迎え”が崩れる)
崩れてほしいわけじゃない。
崩れてほしくないと思ってしまう自分が、怖い。
恋人が苦手だと言ったのは、自分なのに。
かなえはようやく打った。
『金曜、夕方に打ち合わせが入りました。終了時間が読めません』
既読がつく。
返信は一瞬で来た。
『了解』
『終わったらでいい』
『待ってる』
短い。
短いのに、逃げ道がない。
待ってる。
その言葉が、金曜の夜を“玲央の時間”にする。
そしてその「時間」を、かなえが嫌いきれないのが、また怖い。
◇
木曜。
美緒の刺し方は、今日も軽い。
「結城さーん、金曜ほんと忙しいんですか?」
「え、なんか最近、相沢さんも金曜だけ“絶対予定あり”って感じで〜」
絶対予定あり。
その言い方が、悪意の形をしていないのに刺さる。
かなえは資料を閉じて、目を上げた。
「水野さん」
声を低くする。
「業務に関係ない話は控えてください」
美緒はぱちぱち瞬きをして、すぐ笑った。
「すみません!つい!」
それから、わざと明るく付け足す。
「でも、相沢さんって“待ち合わせ”とか似合わないから、気になっちゃって〜」
待ち合わせ。
その単語に、背中の熱がうっすら疼く。
かなえは視線を切って、淡々と告げた。
「進捗だけください」
美緒は「はーい!」と笑って去っていった。
去り際、振り返らずにぽつりと落とす。
「金曜、結城さんも先約あるなら……仕方ないですけどね」
仕方ないですけどね。
——仕方ない? 誰の話?
かなえは奥歯を噛みしめた。
美緒の言葉はいつも曖昧で、だから刺さる。
曖昧なものほど、想像で補ってしまうから。
◇
そして金曜。
夕方の打ち合わせは予想通り長引いた。
先方の担当が言う「ついでにこれも」が増えるたび、かなえの胃が縮む。
時計を見る。終わらない。
ミカは申し訳なさそうに眉を下げる。
「……ごめんね」
かなえは首を横に振った。
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。
でも大丈夫と言うのが仕事だ。
そう言い慣れすぎている自分が嫌だ。
終わったのは、予定より一時間遅れだった。
会議室を出た瞬間、スマホが震える。玲央。
『終わった?』
短い。
でも、待っていた圧がある。
待ってる、と言ったそのままの圧。
かなえは息を吸って、打つ。
『終わりました。遅くなりました』
既読。すぐ返信。
『了解。今いる』
『外出る?』
今いる。
心臓が跳ねた。
いる、ってどこに。まさか、会社の前。
『どこにいますか』
『正面』
『寒い?コートある?』
寒い? コートある?
その気遣いが腹立たしいくらい自然で、
「迎え」が当然の行動みたいで、
かなえの胸が甘く痛む。
(……やめて)
(そういうの、信じたくなる)
かなえは会議室から廊下へ出て、エレベーター前で立ち止まった。
(帰るって言えばいい)
(帰れる)
(終電までルールだって、ある)
終電まで。
会社に持ち込まない。
恋人じゃない。
詮索しない。
決めたはずのルールは、守るためのはずなのに、
玲央の「今いる」が、そのルールを薄くする。
エレベーターが来た。扉が開いて、かなえは乗る。
下へ降りるほど、胃が痛い。
それでも足は、止まらない。
——正面玄関。
ガラス越しに、玲央が立っているのが見えた。
スーツのまま、ネクタイを外して、コートを着ている。
片手にスマホ。もう片方はポケット。
待っていた人の立ち方。
かなえが外へ出ると、玲央は目尻を少しだけ緩めた。
くしゃっとなりかけて、でもすぐ仕事の顔に戻す。
「お疲れさま」
その切り替えが上手すぎて、逆に怖い。
本気なら不器用であってほしいのに。
上手いから、“慣れてる”みたいに見えてしまう。
かなえは息を吐いた。
「……来たんですね」
「迎えに行くって言った」
言い切ってから、少しだけ声を落とす。
「遅いと……心配する」
心配。
その単語が、罪悪感を削ってくる。
押しに弱いところを、静かに押してくる。
かなえは視線を逸らした。
「金曜に迎えって、やめてください。目立ちます」
玲央は笑わない。
笑わないまま、頷く。
「……うん。分かった」
一回だけ飲み込んでから、言い直す。
「目立たないとこ行く。車、裏に停めてる」
車。裏。目立たない。
逃げ道が減る言い方。
玲央は迷いを見抜いたみたいに、少しだけ眉を下げる。
「嫌なら、帰っていい」
言いながら、でも目は逸らさない。
「……でも、今日はさ」
今日は。
その一言だけで、背中が熱くなる。
玲央は声を落とす。
「待ってる時間、長かった」
責めてない顔。
でも、欲しい顔。
かなえは拒否を探した。探して、見つからなかった。
正確には――拒否すると“自分が傷つく”気がしてしまった。
「……少しだけなら」
声が小さくて、自分で聞こえるのが恥ずかしい。
恥ずかしいのに、玲央の目尻がほんの少しだけ緩むのが分かってしまう。
「うん。少しだけ」
“少しだけ”と言いながら、玲央は当然のように歩き出す。
かなえはその背中を追ってしまう。
追ってしまう自分が、怖い。
年上なのに、追わされているみたいで。
でも――追いたいみたいで。
裏手の夜風は冷たかった。
玲央がさっと自分のコートの前を開ける。
「入れ」とは言わない。
言わないのに、風が当たらない位置に半歩だけ寄せる。
触れない。
でも、囲う。
かなえは息を飲んだ。
(……飼い慣らされてる)
(私が? それとも、私が勝手に)
そう思った瞬間、スマホが震えた。
美緒。
『結城さん、今どこですか〜?』
『相沢さん、もう帰っちゃいました?』
かなえは画面を見たまま固まった。
裏口へ向かう玲央が、ちらりとこちらを見る。
さっきまでの柔らかさが引っ込む。
美緒の名前が画面に出た瞬間、目の奥が静かに暗くなる。
かなえの喉が詰まった。
玲央は何も言わない。
言わないまま車の方へ手を伸ばして、ドアを開けた。
「……乗って」
命令じゃない声。
でも、拒否が浮かばない声。
かなえは返事をしないまま、乗り込んでしまった。
ドアが閉まる音が、やけに大きい。
金曜。迎え。先約。
その形は仕事のせいで揺れたはずなのに、
揺れた分だけ玲央の手が強くなる気がして。
かなえはシートベルトを締めながら、胃の奥が甘く痛むのを感じた。
痛いのに、嫌いじゃない。
嫌いじゃない自分が、いちばん怖い。




