第20話 先約の形
火曜の朝、かなえは背中をそっと丸めた。
鏡に映るのは、いつも通りの自分。
髪をまとめて、口紅の色を薄めて、仕事ができる顔を作る。
そうすれば、昨日のことも、週末のことも、どこかへ押し込められる——はずだった。
シャツの背中が肌に触れる。
その瞬間、じわ、と熱が走る。
見えない場所に残されたものほど、厄介だ。
自分で確かめられないくせに、身体は確かに覚えている。
(……忘れたふり)
(忘れたふりだけでいい)
そう思ったところで、スマホが震えた。
社内チャット。
水野美緒。
『結城さーん!おはようございます☀️
昨日の一次集計、運用案まとめたので今日お送りしますね〜!』
業務の話。
救い。
かなえは短く返す。
『ありがとうございます。今日中に確認します』
すぐ既読がついた。
その早さが、嫌な予感を連れてくる。
『あと、金曜の件なんですけど…』
やっぱり。
かなえは一度、目を閉じた。
返さなければいい。
返さないのが一番いい。
でも、返さないと返さないで、向こうは勝手に物語を作る。
“結城さん、図星で黙ってる”みたいな。
かなえは業務の盾で切る。
『金曜の件は業務に関係ありますか?』
『あっ、すみません。関係ないです!』
『でも…なんか気になっちゃって…!』
気になる、の一言で距離を詰めてくる。
こういう人は、悪気がない顔が上手い。
かなえはそれ以上返さなかった。
◇
午前の会議は、締切前倒し運用の詰めだった。
「一次集計を営業二課が担当する」ことで、営業企画側の残業を減らす。
理屈としては正しい。現場が回るなら、かなえにとっても助かる。
議事録を取りながら、かなえは淡々と話を進めた。
「…締切を二日前倒しにします。二課側で一次集計を確定してから、企画に投げてください」
「フォーマットは統一。差分は二課内で吸収してもらいます」
一つずつ噛み砕いて言い切ると、会議室の空気が落ち着く。
その時、玲央が手を挙げた。
「二課側の一次集計、俺が責任者で回します」
さらっと言って、当たり前みたいに続ける。
「結城さんのところ、これで夜遅いの減ると思う」
——結城さん。
苗字呼び。
会議の場の距離。
それなのに、その一言が胸の奥を撫でた。
「助かります。…では、二課の責任者は相沢さんで」
かなえは仕事の声で返した。
返したのに、玲央の視線がほんの一瞬だけかなえに落ちる。
褒めてもいない。
何も言っていない。
でも「これでいいだろ」と確認するみたいな目で、かなえの逃げ道を削ってくる。
(……残業が減ったら、何)
(何が“当然”になるの)
喉の奥が苦くなる。
それを飲み込んで、かなえは会議を閉じた。
◇
昼休み、給湯室で紅茶を淹れていると、また美緒が現れた。
「あ、結城さん!」
テンションが明るい。
明るいまま、距離が近い。
「さっきの会議、相沢さんめっちゃ頼もしかったですね〜」
美緒は笑いながら、紙コップを持ち替える。
「結城さんの残業減るって、わざわざ言うの…優しい」
優しい。
その言葉の響きが、かなえの胃をきゅっとさせる。
「チーム全体の業務改善の話です」
かなえが淡々と言うと、美緒は肩をすくめた。
「ですよね〜。でもね、結城さん」
声を少しだけ落とす。
「金曜だけ、相沢さんほんと別人なんですよ」
——また、金曜。
かなえは紅茶のカップを握り直した。
熱が指先に逃げる。
「何が言いたいんですか」
美緒は悪気のない顔を作る。
「え、だって…先約って言ってたから」
わざとらしく首を傾げる。
「相沢さん、誰と会ってるんだろーって。彼女なのかなって」
彼女。
その単語が落ちてきて、胃の底がひやりとする。
ひやりとするのに、胸の奥がざらつく。
かなえは言い切った。
「知りません」
美緒は「そっかあ」と笑い、でも引かない。
「じゃあ、結城さんも知らないんだ」
その言い方が、やけに意味深だ。
「……意外ですね」
意外。
またその言葉。
かなえはカップの湯気を見つめたまま、返さなかった。
返せない。
返したら、何かが始まる。
美緒は軽く手を振って去っていく。
「ま、いいや。仕事戻りまーす!」
明るい声だけ残して。
棘だけ残して。
◇
午後は資料の整形に追われた。
業務のことだけ考えていたいのに、ふとした瞬間に金曜が浮かぶ。
——仕事終わったら連絡して。
——迎えに行くから。
昨日のあの口調。
お願いじゃない。相談でもない。
“決定”に近い言い方。
拒否が浮かばない自分が、まだ怖い。
そんな時、社内チャットが鳴った。
玲央からじゃない。
総務からでもない。
上司のミカからだった。
『結城、少し時間いい? 会議室Bで』
かなえは心臓が一つ跳ねるのを感じた。
このタイミングで呼ばれると、ろくな話じゃない。
会議室B。
ドアが閉まる音が、やけに大きい。
ミカはいつも通り落ち着いた顔で、資料を一枚差し出した。
「これ、週末の対応なんだけど」
指先でトントンと叩く。
「金曜の夕方、先方が急に枠を出してきた。短い打ち合わせを入れたいって」
金曜の夕方。
かなえの背中の熱が、一瞬強くなった気がした。
「…私が出るんですか」
「お願いできる?」
ミカの声は柔らかいのに、逃げ道がない。
「あなたが一番、背景分かってるでしょ」
仕事の正論。
正しい。
正しいから断れない。
かなえは唇を噛んだ。
「分かりました」
言った瞬間、胃がきゅっと縮む。
金曜。
迎えに行く。
先約。
どれも、自分が勝手に背負ってる。
背負ってるくせに、外からは仕事の予定は問答無用で入ってくる。
会議室を出ると、玲央から通知が来ていた。
社内チャットじゃない。プライベートの方。
『今日もお疲れ。無理してない?』
短い文。
それだけなのに、胸の奥が妙に熱くなる。
かなえは返さない。
返さないまま、次の通知が来た。
『金曜、終わったら教えて』
『迎え、行くから』
昨日の言葉と同じなのに、今日はもっと“確定”に聞こえる。
かなえはスマホを握りしめた。
金曜の夕方には、打ち合わせが入る。
終わる時間は読めない。
「迎えに行く」は、たぶん、譲らない。
かなえは返信欄を開いたまま、指が止まった。
(……どうするの)
(どう断るの)
断り方が浮かばない。
浮かばないことが、もう答えみたいで。
背中の熱が、静かに笑っている気がした。




