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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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20/27

第20話 先約の形

火曜の朝、かなえは背中をそっと丸めた。


鏡に映るのは、いつも通りの自分。

髪をまとめて、口紅の色を薄めて、仕事ができる顔を作る。

そうすれば、昨日のことも、週末のことも、どこかへ押し込められる——はずだった。


シャツの背中が肌に触れる。

その瞬間、じわ、と熱が走る。


見えない場所に残されたものほど、厄介だ。

自分で確かめられないくせに、身体は確かに覚えている。


(……忘れたふり)

(忘れたふりだけでいい)


そう思ったところで、スマホが震えた。


社内チャット。

水野美緒。


『結城さーん!おはようございます☀️

 昨日の一次集計、運用案まとめたので今日お送りしますね〜!』


業務の話。

救い。


かなえは短く返す。


『ありがとうございます。今日中に確認します』


すぐ既読がついた。

その早さが、嫌な予感を連れてくる。


『あと、金曜の件なんですけど…』


やっぱり。


かなえは一度、目を閉じた。

返さなければいい。

返さないのが一番いい。


でも、返さないと返さないで、向こうは勝手に物語を作る。

“結城さん、図星で黙ってる”みたいな。


かなえは業務の盾で切る。


『金曜の件は業務に関係ありますか?』


『あっ、すみません。関係ないです!』

『でも…なんか気になっちゃって…!』


気になる、の一言で距離を詰めてくる。

こういう人は、悪気がない顔が上手い。


かなえはそれ以上返さなかった。





午前の会議は、締切前倒し運用の詰めだった。


「一次集計を営業二課が担当する」ことで、営業企画側の残業を減らす。

理屈としては正しい。現場が回るなら、かなえにとっても助かる。


議事録を取りながら、かなえは淡々と話を進めた。


「…締切を二日前倒しにします。二課側で一次集計を確定してから、企画に投げてください」

「フォーマットは統一。差分は二課内で吸収してもらいます」


一つずつ噛み砕いて言い切ると、会議室の空気が落ち着く。


その時、玲央が手を挙げた。


「二課側の一次集計、俺が責任者で回します」


さらっと言って、当たり前みたいに続ける。

「結城さんのところ、これで夜遅いの減ると思う」


——結城さん。


苗字呼び。

会議の場の距離。

それなのに、その一言が胸の奥を撫でた。


「助かります。…では、二課の責任者は相沢さんで」


かなえは仕事の声で返した。

返したのに、玲央の視線がほんの一瞬だけかなえに落ちる。


褒めてもいない。

何も言っていない。


でも「これでいいだろ」と確認するみたいな目で、かなえの逃げ道を削ってくる。


(……残業が減ったら、何)


(何が“当然”になるの)


喉の奥が苦くなる。

それを飲み込んで、かなえは会議を閉じた。





昼休み、給湯室で紅茶を淹れていると、また美緒が現れた。


「あ、結城さん!」


テンションが明るい。

明るいまま、距離が近い。


「さっきの会議、相沢さんめっちゃ頼もしかったですね〜」


美緒は笑いながら、紙コップを持ち替える。


「結城さんの残業減るって、わざわざ言うの…優しい」


優しい。

その言葉の響きが、かなえの胃をきゅっとさせる。


「チーム全体の業務改善の話です」


かなえが淡々と言うと、美緒は肩をすくめた。


「ですよね〜。でもね、結城さん」


声を少しだけ落とす。


「金曜だけ、相沢さんほんと別人なんですよ」


——また、金曜。


かなえは紅茶のカップを握り直した。

熱が指先に逃げる。


「何が言いたいんですか」


美緒は悪気のない顔を作る。


「え、だって…先約って言ってたから」


わざとらしく首を傾げる。


「相沢さん、誰と会ってるんだろーって。彼女なのかなって」


彼女。


その単語が落ちてきて、胃の底がひやりとする。

ひやりとするのに、胸の奥がざらつく。


かなえは言い切った。


「知りません」


美緒は「そっかあ」と笑い、でも引かない。


「じゃあ、結城さんも知らないんだ」


その言い方が、やけに意味深だ。


「……意外ですね」


意外。

またその言葉。


かなえはカップの湯気を見つめたまま、返さなかった。


返せない。

返したら、何かが始まる。


美緒は軽く手を振って去っていく。


「ま、いいや。仕事戻りまーす!」


明るい声だけ残して。

棘だけ残して。





午後は資料の整形に追われた。

業務のことだけ考えていたいのに、ふとした瞬間に金曜が浮かぶ。


——仕事終わったら連絡して。

——迎えに行くから。


昨日のあの口調。

お願いじゃない。相談でもない。

“決定”に近い言い方。


拒否が浮かばない自分が、まだ怖い。


そんな時、社内チャットが鳴った。


玲央からじゃない。

総務からでもない。


上司のミカからだった。


『結城、少し時間いい? 会議室Bで』


かなえは心臓が一つ跳ねるのを感じた。

このタイミングで呼ばれると、ろくな話じゃない。


会議室B。

ドアが閉まる音が、やけに大きい。


ミカはいつも通り落ち着いた顔で、資料を一枚差し出した。


「これ、週末の対応なんだけど」


指先でトントンと叩く。


「金曜の夕方、先方が急に枠を出してきた。短い打ち合わせを入れたいって」


金曜の夕方。


かなえの背中の熱が、一瞬強くなった気がした。


「…私が出るんですか」


「お願いできる?」

ミカの声は柔らかいのに、逃げ道がない。


「あなたが一番、背景分かってるでしょ」


仕事の正論。

正しい。

正しいから断れない。


かなえは唇を噛んだ。


「分かりました」


言った瞬間、胃がきゅっと縮む。


金曜。

迎えに行く。

先約。


どれも、自分が勝手に背負ってる。

背負ってるくせに、外からは仕事の予定は問答無用で入ってくる。


会議室を出ると、玲央から通知が来ていた。

社内チャットじゃない。プライベートの方。


『今日もお疲れ。無理してない?』


短い文。

それだけなのに、胸の奥が妙に熱くなる。


かなえは返さない。

返さないまま、次の通知が来た。


『金曜、終わったら教えて』

『迎え、行くから』


昨日の言葉と同じなのに、今日はもっと“確定”に聞こえる。


かなえはスマホを握りしめた。


金曜の夕方には、打ち合わせが入る。

終わる時間は読めない。


「迎えに行く」は、たぶん、譲らない。


かなえは返信欄を開いたまま、指が止まった。


(……どうするの)

(どう断るの)


断り方が浮かばない。

浮かばないことが、もう答えみたいで。


背中の熱が、静かに笑っている気がした。

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