第2話 先輩後輩は、安全
翌朝。かなえはアラームより先に目が覚めた。
……というより、ほとんど眠れていない。
自宅に帰ったのは午前三時過ぎ。
シャワーを浴びて、ベッドに入ったのが三時半。
目を閉じても、心が静かにならなかった。
——何してるんだろう、私。
思うだけで胸の奥が痛い。
痛いのに、昨夜の熱がどこか甘い。
甘いから怖い。怖いから、余計に考えてしまう。
カーテンの隙間から入る冬の光は白くて、部屋の隅に落ちる影がやけにくっきりしている。
昨夜の温度だけが、そこに取り残されている気がした。
かなえはベッドの上で息を整えた。
心臓の音が少し早い。身体の奥がまだ起きている。
——落ち着け。
——社会人。
——今日も仕事。
そうやって自分に言い聞かせるのは得意だ。
本音をごまかすのも、サバサバしたフリをするのも、昔から。
枕元のスマホに手を伸ばす。
通知が一件。
相沢玲央。
画面に名前が出ただけで、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
(来るな、来るな、来るな)
そう思いながら、指は勝手に開いてしまう。
『起きてる?』
短い。軽い。昨夜のことがなかったみたいな文。
かなえは一瞬で苛立ちが湧いて、でも同じ速度で冷えていく。
——軽いのは、私だ。
——こういう距離を許したのは、私。
昨夜、彼が言った「助かってました」「落ち着く」が胸の奥に残っている。
“役割”に向けた言葉のはずなのに、声の温度だけが妙に柔らかかった。
そのせいで、勝手に“人”として見られた気がしてしまった。
刺さった。
刺さったから、心が乱れる。
乱れる自分が腹立たしい。
かなえは返信しないまま起き上がった。
シャワーを浴びる。いつもより長く、熱い湯を浴びて、昨夜の匂いを落とす。
髪を乾かし、メイクをして、スーツを着る。
鏡の中の自分は、完璧に“いつもの私”だ。
社交的で、サバサバして、仕事ができる女。
そう見えるように作るのは得意だ。
——そう見えるだけで、本当は人見知りで、気を遣いすぎて疲れるのに。
駅までの道、冬の空気が肺を冷やす。
その冷たさに、昨夜の熱が嘘みたいに遠ざかる。
……はずだった。
改札を抜けて、ホームへ向かう途中で、また通知が鳴った。
『ちゃんと起きた?』
『昨日のタクシー代、今日返す。あと……昨日のこと、ちゃんと謝りたい』
謝りたい。
その単語が、やけに重い。
軽い男なら、こんな言い方はしない。
だから怖い。
怖いのに、胸の奥が少しだけ緩む自分が、もっと嫌だ。
かなえは短く打った。
『出社する。あなたも来て』
業務連絡。
そう言い訳して、胸の奥に沈める。
会社のロビーに入ると、いつもの空気がかなえを飲み込んだ。
挨拶。エレベーター。社員証。打刻。
“正しさ”の連続は、昨夜を夢にしてくれる。
席に着き、メールを確認し、会議の資料に目を通す。
いつも通り。いつも通り。
そうやって午前を片づけていく。
——なのに、ふとした瞬間に思い出す。
玄関で掴まれた手首。
「線、引こうとしてる」と言われた声。
落ち着く、と言われたときの胸の痛み。
気づけば、胃のあたりがずっと重い。
それが“恋”なのか“怖さ”なのか分からない。
分からないから、余計に気持ち悪い。
昼前。かなえが給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から声が落ちた。
「結城さん」
振り向くと、玲央が立っていた。
スーツはきちんとしている。髪も整っている。顔色も、昨夜よりずっといい。
昨夜の危うさは、どこにもない。
——普通の、会社の後輩。
それが逆に腹立たしい。
(私だけが変な夢を見たみたい)
「……相沢さん」
かなえが名字で呼ぶと、玲央は少しだけ困った顔で笑った。
「やっぱり、そこは苗字なんだ」
「普通です」
「……うん。まあ、そうだよね」
短く納得して、玲央は封筒を差し出した。
中身は現金だと分かる厚み。
「タクシー代。昨日、立て替えてもらったやつ。ちゃんと返します」
「……はい」
封筒を受け取った瞬間、指先が触れた。
一瞬。ほんの一瞬。
それだけで昨夜がざわっと浮き上がる。
かなえは反射で距離を取った。
「体調は?」
思わず出た問いに、玲央が目を丸くする。
「……心配してくれたんだ」
「してません。倒れられたら困るだけです」
玲央が小さく笑った。
「それ、昨日も言ってた」
昨日。
その単語だけで、胃がきゅっと締まる。
玲央は、周りに人がいないのを確かめるみたいに一度だけ視線を流して、声を少し落とした。
「……昨日のこと、ちゃんと謝りたい」
「俺、結城さんが帰ろうとしてるの分かってたのに、止めた。……あれ、良くなかった」
“ずるい”とか、“事故”とか。
刺さる単語を避けて、真面目に言い直すのが逆に厄介だ。
かなえはサバサバしたフリで返す。
「自覚あるなら、もうしないでください」
「……うん。しない」
即答。
その早さが、反射みたいで怖い。
「……会社の人に迷惑かけたくないし」
少しだけ間を置いて、続ける。
「結城さんにも」
“結城さんにも”が、変に引っかかった。
優しい言葉のようで、責任はどこにも置いていない。
安全な場所に立ったまま、距離だけ詰めてくる感じがする。
かなえは、ここを“職場”に戻す。
「……ここ、会社です」
「分かってる」
玲央は頷いて、少し黙った。
黙ってから、ぽつりと言う。
「でも、昨日のこと、なかったことにするのも変だなって思って」
「変っていうか……俺が、落ち着かない」
落ち着かない。
昨夜の「落ち着く」と同じ単語。
かなえの胸が、嫌に鳴った。
「……落ち着かない?」
「うん。うやむやにされると、逆に引きずるタイプかも」
自嘲っぽく笑って、でも目は逸らさない。
「俺、そういうの苦手なんだと思う」
恋じゃない言い方で、執着の入口だけを置いてくる。
かなえは苛立ちをごまかすように、声を少し強めた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
玲央は息を吸って、きちんとした口調に戻す。
「まず、お礼させてください」
「昨日、助けてもらったのに、変な終わり方だったのが嫌で」
「ご飯、奢らせて。——それなら、先輩後輩の範囲で済む」
先輩後輩。
その言葉が、かなえの胃を少しだけ楽にした。
恋人じゃない。
重くない。
社会の枠の中に戻れる。
——なのに、胸の奥は楽になりきらない。
「……奢りとか、いらないです」
「いや、俺が落ち着かない」
言い切ってから、玲央は言い方を少しだけ柔らかくする。
「結城さんが嫌なら、カフェでもいい」
「とにかく、昨日の“続き”じゃなくて、ちゃんと区切りをつけたい」
区切り。
それもまた、かなえの弱点を突く。
区切りをつけたい。
——私も同じことを思ってる。
だから断れないのが、悔しい。
「……条件」
かなえは話を“契約”に落とす。
感情を扱うと壊れるから。
「会社では他人。噂、絶対に嫌。あと、私の時間を勝手に奪わないで」
玲央は頷く。
「会社では他人、了解。噂も嫌」
「ご飯は……結城さんの都合に合わせる。無理なら無理って言って」
「言ったら、引きません?」
言ってから、かなえは自分で自分に驚いた。
引かないで、なんて。
それはもう、“いてほしい”の言い換えだ。
玲央は一瞬だけ目を瞬かせて、それから少し笑った。
「引かない」
小さく付け足す。
「……先輩がそう言うなら」
先輩、と呼ばれると線が戻る。
安全な線。
そのはずなのに、呼び方の中に甘さが混じっている気がして、かなえは落ち着かない。
「……今週、どこかで」
かなえが言うと、玲央の表情がほんの少し明るくなる。
隠そうとして、隠しきれていない顔。
(……なんでそんな顔するの)
恋じゃないはずなのに。
先輩後輩のはずなのに。
「うん。ありがとう。……連絡していい?」
玲央が聞いてきて、かなえは一瞬だけ黙る。
連絡。
つながる、ってこと。
そこから先がどこへ滑っていくか分からない。
でも、断ったらこの場が変な空気になる。
そして——断りたいほど嫌じゃない自分がいる。
「……必要なときだけです」
玲央は「了解」と頷いた。
その短い返事が、なぜか“約束”みたいに重い。
給湯室を出ていく背中を見送って、かなえは自分のカップを握りしめた。
熱いのに、手が冷たい。
——面倒。
——なのに。
席に戻っても仕事が手につかない。
封筒の感触が、指先に残っている気がする。
夕方、スマホが震えた。
『さっきはありがとう。……無理しないで』
『ご飯、いくつか候補送るね。嫌なら言って』
“候補”なんて単語が、やけに丁寧で、やけに距離が近い。
先輩後輩のはずなのに、そこに私生活が差し込まれる。
胃が痛い。
痛いのに、少しだけ嬉しい。
その事実に、かなえはぞっとする。
返信欄を開いて、閉じて、また開く。
最後に届いた一文が、いちばん厄介だった。
『昨日のこと、事故って言い切られると困る。……たぶん、俺、忘れない』
忘れない。
恋じゃない言い方で、手を伸ばしてくる。
掴まれた気がして、息が詰まる。
(……言わないで)
(そういうの、言わないで)
なのに指は、返信欄に触れてしまう。
画面の白が、やけに眩しかった。




