第19話 意外じゃ、済まない
月曜の朝は、いつも通りの顔を作るところから始まる。
アラームが鳴って、止めて、起き上がって。
洗面台で顔を洗って、鏡に向かって、息を整える。
——大丈夫。
——いつも通り。
そう言い聞かせながらシャワーを浴びたのに、背中に当たるお湯が少しだけ染みて、かなえは眉を寄せた。
痛い、というより。
熱が残っている。
見えない場所なのが、余計にたちが悪い。
自分では確かめられないくせに、服が触れるたびに主張してくる。
「あったよ」と、思い出させるみたいに。
(……最悪)
声に出すと自分が崩れそうで、かなえは心の中でだけ吐き捨てた。
それでもスーツを着る。
シャツの背中が肌を撫でるたび、じわ、と熱が滲んで、胃がきゅっと縮む。
——週末は終わった。
終わったはずだ。
なのに、終わっていない。
棚の一段。
洗面台の下の右。
自分のものが、あそこに残っている事実が、まだ胸の奥に引っかかっている。
(今日だけ)
(例外)
何度繰り返しても、もう「今日だけ」じゃない気がして、かなえは靴ひもを結び直した。
◇
出社すると、フロアはいつも通りの騒がしさだった。
キーボードの音、電話の呼び出し、コーヒーの匂い。
週末を挟んだだけで、人はちゃんと月曜の顔になる。
かなえもなる。
なるしかない。
営業企画の席に荷物を置き、PCを立ち上げ、メールを開く。
数字。進捗。未処理。
頭の中が仕事の形に整っていくと、胃の痛みが少しだけ黙る。
——黙ってくれるなら、このまま今日を終えたい。
そう思った矢先、社内チャットの通知が弾んだ。
水野美緒。
営業二課の担当。
仕事が早くて、距離が近くて、余計な一言が多い。
『結城さーん!おはようございます☀️
先週の実績、一次集計まとめたので共有しますね〜!』
添付ファイル。
ここまでは、助かる。
助かるのに、その次が来るのが分かってしまう。
案の定、続きが来た。
『あと、金曜って、結城さん毎回忙しいですか?』
金曜。
その二文字だけで、胃が鳴った。
かなえは呼吸を一つ整え、業務の顔のまま返す。
『共有ありがとうございます。受領しました。
金曜の件は業務と関係ありますか?』
既読がつくのが早い。
『えっ、すみません;
関係ないです!ただ、なんとなく…!』
なんとなく、が一番面倒だ。
なんとなく、の名で境界を削ってくる。
かなえは線を置く。
『業務外の話題は控えてください。数値の件のみでお願いします』
送って、画面から視線を切った。
胸の奥がざらつく。
ほんの少しだけ、もやる。
(……なんで、金曜のこと聞かれるの)
答えは分かってる。
聞かれて困るから、だ。
困るなら、困ることをしてる自分が悪い。
それも分かってる。
分かっているのに、背中の熱が、それを「悪い」だけで終わらせてくれない。
◇
昼前、コピー機の前で資料を揃えていると、背後から声が落ちた。
「結城さん」
低い声。
会社の距離を保った呼び方。
かなえは、振り向く前から分かってしまうのが嫌だった。
「……相沢さん。何か?」
振り向くと、玲央が立っていた。
ネクタイを締めて、スーツ姿で、いつも通りの“営業の顔”。
いつも通り、なのに。
その目だけが、妙に落ち着かない。
目が合った瞬間、かなえは反射で視線を外した。
外したのに、視線の温度だけが頬に残る。
「さっき送った修正、見てもらえますか」
業務の話。
救い。
「後で確認します」
「ありがとう」
ありがとう、の響きが少しだけ柔らかくて、かなえは胃を押さえたくなった。
(……会社で、その声出さないで)
言えない。
言える立場じゃない。
恋人でもない。付き合ってもいない。
なのに、胸の奥は勝手に反応する。
玲央はそれ以上何も言わず、コピー機の横に並ぶ。
並ぶ距離が、仕事の範囲のはずなのに近い。
かなえが紙を揃えようとして指先を動かした時、玲央の手がすっと伸びた。
「それ、ホチキス先にした方が早い」
言いながら、かなえの資料に触れないぎりぎりで紙を整える。
触れていない。
触れていないのに、背中の熱が思い出されて、息が浅くなる。
(……やめて)
(こういうの、やめて)
かなえが表情に出さないよう必死でいる間に、別の声が割り込んできた。
「相沢さーん」
明るい声。
美緒だ。
「お、どうした」
玲央は仕事の顔のまま返す。
軽い。
いつも通り。
美緒はコピー機の前に来ると、かなえと玲央を見比べて、笑った。
「結城さんもいた。タイミング良すぎる〜」
タイミング。
その言い方だけで、嫌な予感がする。
「二課の集計の件、結城さんに送ったんですけど〜」
美緒はわざとらしく言ってから、玲央を見上げた。
「相沢さん、最近ほんと早いですよね。金曜とか特に」
金曜、また。
かなえはコピー用紙を揃える手を止めない。
止めたら顔に出る気がした。
玲央は一瞬だけ瞬きをして、すぐに口角を上げた。
「早い? そうかな」
「そうです〜」
美緒は笑いながら、でも目は笑っていない。
「なんか、さっと消えるじゃないですか。帰り際」
“さっと消える”。
かなえの胃がきゅっと縮む。
美緒の言葉はいつも軽いのに、こういうときだけ鋭い。
玲央は曖昧に笑って、資料を受け取る手を止めない。
「用事がある時はあるでしょ」
用事。
恋人の話はしない。
好きも言わない。
でも、否定もしない。
かなえは心の中で舌打ちした。
(……なに、その返し)
(余計に探られる)
美緒は「ですよね〜」と笑ってから、今度はかなえへ向けて言った。
「結城さんも、金曜って忙しいんですか?」
軽い声。
でも逃げ道を塞ぐ角度。
かなえは呼吸を整え、仕事の顔で返した。
「金曜に限らず忙しいです」
我ながら、雑な返しだと思った。
でも、これ以上言うと藪蛇になる。
美緒は「あはは、それはそうか〜」と笑う。
笑ってから、ぽつりと落とした。
「でも、結城さんって“ちゃんとしてる”からなぁ」
かなえの胃が、きゅう、と鳴る。
美緒は続ける。
「こう、誰かに頼られてそうっていうか」
玲央の方をちらりと見る。
「相沢さん、結城さんに頼りたくなるの、分かる気がします〜」
胸の奥がざわつく。
頼られてそう。
頼りたくなる。
その言葉が勝手に輪郭を持って、背中の熱に繋がってしまう。
玲央は一拍だけ黙った。
ほんの一拍。
でもかなえには、その沈黙がやけに長く感じた。
次の瞬間、玲央は笑って答えた。
「仕事はね。頼ってますよ」
仕事はね。
“ね”をつけるのがずるい。
仕事だけだと言い切らない。
でも仕事の顔を崩さない。
美緒は満足げに「ですよね〜」と頷いて、去っていった。
美緒の背中が遠ざかった途端、空気が少しだけ重くなる。
かなえはコピー用紙を揃え直しながら、声を絞った。
「……相沢さん、変に曖昧にしないでください」
玲央は紙を揃える手を止めないまま、低く返す。
「曖昧?」
「探られるじゃないですか」
玲央はやっとかなえを見る。
目尻は笑っているのに、目の奥が笑っていない。
「……探られたくない?」
確認みたいな言い方。
そのくせ、答えに寄りかかってくる。
かなえは噛みしめる。
「当たり前です」
玲央は小さく息を吐いた。
笑ってごまかさない。
その代わり、言う。
「分かった」
一拍置いて、声だけ少し柔らかくする。
「……気をつける」
“気をつける”。
言い方が優しいのが腹立たしい。
優しいから、かなえの胃が痛む。
玲央は最後に、仕事の距離に戻って言った。
「修正、よろしくお願いします」
それだけ。
それだけなのに、背中の熱が増す気がした。
◇
午後は会議が続いた。
今期の数字、営業二課の動き、締切の前倒し案。
一次集計を二課側で担って、営業企画の残業を減らす運用——玲央が言い出した施策が、形になっていく。
かなえは資料を映しながら淡々と説明する。
社交的で、サバサバして見える声の出し方。
それが“得意”だから、こういう場では崩れない。
崩れないのに。
視線の端で、玲央がこちらを見ているのが分かる。
ずっとじゃない。
必要なところだけ。
でも、必要以上に丁寧な視線。
(……見ないで)
そんなふうに思う自分が、いちばん嫌だ。
会議が終わり、席へ戻る廊下で、美緒がまた現れた。
「あ、結城さーん!」
いつも通りのテンション。
そのくせ、目が真面目。
「さっきの会議の資料、二課にも回してもらっていいですか?」
「はい。後で送ります」
「助かります〜」
美緒は笑ってから、ふっと声のトーンを落とした。
「……あと」
来る。
嫌な予感が当たる。
「相沢さん、さっき誰かに“捕まってる”って感じしませんでした?」
かなえは一瞬、呼吸が止まった。
「どういう意味ですか」
自分でも声が硬いのが分かる。
美緒は悪気のない顔を作る。
「え、だって最近、相沢さんの機嫌、良い時多いじゃないですか〜」
肩をすくめる。
「誰かいるんだろうなーって。彼女とか」
彼女。
その単語が胃の奥に落ちて、ずしん、と重くなる。
かなえは表情を動かさない。
動かせない。
「……知りません」
それだけ言うのが精一杯だった。
美緒は「ですよね〜」と頷いてから、わざと軽く言った。
「でも結城さん、相沢さんと仲いいから知ってそうって思っちゃいました」
仲いい。
その言葉が嫌なのに、ほんの少しだけ甘い。
甘いのが嫌で、胃が痛い。
かなえは業務の盾を出す。
「資料送りますね」
美緒は「はーい!」と笑って去った。
残されたかなえは、指先が冷えるのを感じた。
冷えるのに、背中の奥だけが熱い。
噛み合わない温度が、胸の中でぐちゃぐちゃになる。
◇
退勤前、玲央から社内チャットが来た。
『今日、少しだけ時間ある?』
『短くでいい』
短くでいい。
押しつけない形。
逃げ道を残している顔。
それが、いちばん断れない。
かなえは画面を見つめたまま、息を吸った。
吐いて、打つ。
『何の用件ですか』
既読がつくのが早い。
『昼の件』
『美緒の』
美緒。
その名前が出ただけで胃が鳴る。
かなえは短く返した。
『五分だけなら』
『了解』
了解。
その一言だけで、もう決まってしまうのが怖い。
◇
ビルの外の裏手。
人の目が少ない場所を選ぶのは、かなえの癖だ。
癖で自分を守ってきた。
玲央が来た。
スーツ姿のまま、いつもの顔。
でも、目が少しだけ暗い。
「結城さん」
会社の距離の呼び方。
それが逆に、ここが“会社の外”ではないことを強調してくる。
かなえは先に刺した。
「美緒さんの話なら、私に聞かないでください」
玲央は一拍、黙った。
それから、少しだけ眉を寄せる。
「……あれ、嫌だった?」
嫌だった。
その一言で片づけられるほど軽くない。
でも説明できるほど言葉も持ってない。
かなえは視線を逸らして言った。
「嫌とかじゃなくて」
正論に変換する。
「職場です。余計な噂を立てられるのは困ります」
玲央は小さく頷いた。
「うん。困るね」
あっさり同意されると、逆に胸がざわつく。
同意されて終わりなら、さっきの暗い目は何だったのか。
かなえは思い切って聞いた。
「……相沢さんは、何を考えてるんですか」
玲央は少しだけ目を細めた。
一瞬、言葉を探す顔。
それから、答えが落ちた。
「考えてない」
淡々と。
「……でも、嫌だった」
嫌だった。
美緒が探るのが?
噂が立つのが?
それとも——
かなえの胃がきゅっと鳴る。
「何が」
玲央は視線を外して、短く言った。
「結城さんが、ああいうのに巻き込まれるの」
巻き込まれるのが嫌。
それは優しさみたいに聞こえる。
でも、さっきの暗い目は、優しさだけじゃない。
かなえが言葉に詰まっていると、玲央が一歩近づいた。
近づいて、でも触れない。
触れない距離のまま、声だけを落とす。
「……帰り、誰かに捕まえられたりしない?」
かなえは息を止めた。
捕まえられる。
その言い方が、まるで自分が“捕まえる側”みたいで腹が立つ。
「そんなこと、ありません」
「そっか」
玲央はほっとしたみたいに息を吐く。
ほっとするのが、いちばん腹立たしい。
かなえは苦し紛れに刺した。
「相沢さん、心配しすぎです」
玲央は小さく笑った。
目尻がくしゃっとなりかけて、でもすぐ戻る。
「心配してるのかな、俺」
自覚がないふり。
でも、やめない。
そのやりとりのまま、かなえのスマホが震えた。
水野美緒からだ。
画面に出た通知文が、短いのに刺さる。
『結城さん、今日相沢さんと話してました?』
『なんか、相沢さん、機嫌悪くないですか…?私のせいかな;』
かなえは画面を見たまま固まった。
機嫌悪い。
私のせいかな。
美緒は自分を中心に話を作るのが上手い。
そういう人の“無自覚な刺し方”が一番厄介だ。
玲央がかなえのスマホに視線を落とした。
一瞬。
ほんの一瞬。
「……美緒?」
かなえは反射でスマホを伏せた。
「違います。業務連絡です」
嘘じゃない。
でも全部じゃない。
玲央は何も言わなかった。
言わないまま、声だけが少し低くなる。
「……結城さん」
会社の距離の呼び方なのに、温度が近い。
近いのに、触れない。
触れないから余計に、逃げ場がない。
かなえは息を整えようとして、失敗する。
(だめだ)
(落ち着け)
玲央が、ぽつりと落とした。
「金曜」
その二文字で、背中の熱が思い出される。
棚の匂いが蘇る。
胃が、きゅう、と鳴る。
かなえは言い返そうとした。
「金曜は忙しい」とか。
「予定がある」とか。
「無理です」とか。
——なのに。
拒否の言葉が、喉の奥で形にならない。
玲央は“お願い”をしない。
代わりに、当たり前みたいに次を置く。
「仕事終わったら、連絡して」
かなえの呼吸が浅くなる。
「……何のために」
やっと出た声は、かすれていた。
自分でも驚くくらい弱い。
玲央は軽く首を傾げる。
本気で不思議そうな顔で言う。
「迎えに行くから」
迎えに行く。
その言い方が、まるで“決まってる”みたいで、
まるで“あなたは来る”が前提みたいで、
かなえの胃が痛いのに、胸の奥が甘く疼いた。
(……いつの間に)
(私、断れなくなってる)
かなえは“予定”を押し返せない。
押し返せないまま、かろうじて線を引こうとする。
「……会社では、普通にしてください」
玲央はあっさり頷く。
「うん。そこは守る」
守る、という言葉に、かなえはまた弱る。
守ると言われると、こちらが信じてしまう。
信じたくなる。
玲央は一拍置いて、声だけ少し柔らかくした。
「……結城さんが困るの、嫌なんだよ」
困るのが嫌。
優しさの顔をした、囲い込み。
それに気づいているのに、かなえは嫌だと言えない。
スマホがまた震える。
美緒からの追撃だ。
『金曜って、相沢さんいつも誰と会ってるんですかね〜?』
『結城さんなら知ってそうって言われて、私ちょっと困ってます〜』
“困ってます”の仮面で、刺してくる。
かなえは画面を見つめたまま、動けなかった。
知らない、と言えばいい。
知らない、と言える。
言えるはずなのに。
言った瞬間、金曜の“迎えに行く”まで嘘になる気がして、
嘘にしたら楽なはずなのに、
楽になるのが怖い。
玲央が、かなえの顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
目尻がくしゃっとなりそうなほど、機嫌がいい。
その機嫌の良さが、いちばん厄介だ。
「……じゃ、金曜」
短く言って、玲央は最後に一言を足した。
「待ってる」
待ってる、じゃなくて。
迎えに行く、のくせに。
かなえの胃が痛い。
痛いのに、背中の熱が甘い。
拒否が浮かばない。
浮かばないほど、慣らされている。
そう自覚した瞬間、
かなえは自分が一番怖かった。




