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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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19/23

第19話 意外じゃ、済まない




月曜の朝は、いつも通りの顔を作るところから始まる。


アラームが鳴って、止めて、起き上がって。

洗面台で顔を洗って、鏡に向かって、息を整える。


——大丈夫。

——いつも通り。


そう言い聞かせながらシャワーを浴びたのに、背中に当たるお湯が少しだけ染みて、かなえは眉を寄せた。


痛い、というより。

熱が残っている。


見えない場所なのが、余計にたちが悪い。

自分では確かめられないくせに、服が触れるたびに主張してくる。

「あったよ」と、思い出させるみたいに。


(……最悪)


声に出すと自分が崩れそうで、かなえは心の中でだけ吐き捨てた。


それでもスーツを着る。

シャツの背中が肌を撫でるたび、じわ、と熱が滲んで、胃がきゅっと縮む。


——週末は終わった。

終わったはずだ。


なのに、終わっていない。


棚の一段。

洗面台の下の右。

自分のものが、あそこに残っている事実が、まだ胸の奥に引っかかっている。


(今日だけ)

(例外)


何度繰り返しても、もう「今日だけ」じゃない気がして、かなえは靴ひもを結び直した。





出社すると、フロアはいつも通りの騒がしさだった。

キーボードの音、電話の呼び出し、コーヒーの匂い。

週末を挟んだだけで、人はちゃんと月曜の顔になる。


かなえもなる。

なるしかない。


営業企画の席に荷物を置き、PCを立ち上げ、メールを開く。

数字。進捗。未処理。

頭の中が仕事の形に整っていくと、胃の痛みが少しだけ黙る。


——黙ってくれるなら、このまま今日を終えたい。


そう思った矢先、社内チャットの通知が弾んだ。


水野美緒。


営業二課の担当。

仕事が早くて、距離が近くて、余計な一言が多い。


『結城さーん!おはようございます☀️

 先週の実績、一次集計まとめたので共有しますね〜!』


添付ファイル。

ここまでは、助かる。

助かるのに、その次が来るのが分かってしまう。


案の定、続きが来た。


『あと、金曜って、結城さん毎回忙しいですか?』


金曜。


その二文字だけで、胃が鳴った。


かなえは呼吸を一つ整え、業務の顔のまま返す。


『共有ありがとうございます。受領しました。

 金曜の件は業務と関係ありますか?』


既読がつくのが早い。


『えっ、すみません;

 関係ないです!ただ、なんとなく…!』


なんとなく、が一番面倒だ。

なんとなく、の名で境界を削ってくる。


かなえは線を置く。


『業務外の話題は控えてください。数値の件のみでお願いします』


送って、画面から視線を切った。


胸の奥がざらつく。

ほんの少しだけ、もやる。


(……なんで、金曜のこと聞かれるの)


答えは分かってる。

聞かれて困るから、だ。


困るなら、困ることをしてる自分が悪い。

それも分かってる。


分かっているのに、背中の熱が、それを「悪い」だけで終わらせてくれない。





昼前、コピー機の前で資料を揃えていると、背後から声が落ちた。


「結城さん」


低い声。

会社の距離を保った呼び方。


かなえは、振り向く前から分かってしまうのが嫌だった。


「……相沢さん。何か?」


振り向くと、玲央が立っていた。

ネクタイを締めて、スーツ姿で、いつも通りの“営業の顔”。


いつも通り、なのに。

その目だけが、妙に落ち着かない。


目が合った瞬間、かなえは反射で視線を外した。

外したのに、視線の温度だけが頬に残る。


「さっき送った修正、見てもらえますか」


業務の話。

救い。


「後で確認します」


「ありがとう」


ありがとう、の響きが少しだけ柔らかくて、かなえは胃を押さえたくなった。


(……会社で、その声出さないで)


言えない。

言える立場じゃない。

恋人でもない。付き合ってもいない。


なのに、胸の奥は勝手に反応する。


玲央はそれ以上何も言わず、コピー機の横に並ぶ。

並ぶ距離が、仕事の範囲のはずなのに近い。


かなえが紙を揃えようとして指先を動かした時、玲央の手がすっと伸びた。


「それ、ホチキス先にした方が早い」


言いながら、かなえの資料に触れないぎりぎりで紙を整える。


触れていない。

触れていないのに、背中の熱が思い出されて、息が浅くなる。


(……やめて)

(こういうの、やめて)


かなえが表情に出さないよう必死でいる間に、別の声が割り込んできた。


「相沢さーん」


明るい声。

美緒だ。


「お、どうした」


玲央は仕事の顔のまま返す。

軽い。

いつも通り。


美緒はコピー機の前に来ると、かなえと玲央を見比べて、笑った。


「結城さんもいた。タイミング良すぎる〜」


タイミング。

その言い方だけで、嫌な予感がする。


「二課の集計の件、結城さんに送ったんですけど〜」

美緒はわざとらしく言ってから、玲央を見上げた。

「相沢さん、最近ほんと早いですよね。金曜とか特に」


金曜、また。


かなえはコピー用紙を揃える手を止めない。

止めたら顔に出る気がした。


玲央は一瞬だけ瞬きをして、すぐに口角を上げた。


「早い? そうかな」


「そうです〜」

美緒は笑いながら、でも目は笑っていない。

「なんか、さっと消えるじゃないですか。帰り際」


“さっと消える”。


かなえの胃がきゅっと縮む。

美緒の言葉はいつも軽いのに、こういうときだけ鋭い。


玲央は曖昧に笑って、資料を受け取る手を止めない。


「用事がある時はあるでしょ」


用事。

恋人の話はしない。

好きも言わない。

でも、否定もしない。


かなえは心の中で舌打ちした。


(……なに、その返し)

(余計に探られる)


美緒は「ですよね〜」と笑ってから、今度はかなえへ向けて言った。


「結城さんも、金曜って忙しいんですか?」

軽い声。

でも逃げ道を塞ぐ角度。


かなえは呼吸を整え、仕事の顔で返した。


「金曜に限らず忙しいです」


我ながら、雑な返しだと思った。

でも、これ以上言うと藪蛇になる。


美緒は「あはは、それはそうか〜」と笑う。

笑ってから、ぽつりと落とした。


「でも、結城さんって“ちゃんとしてる”からなぁ」


かなえの胃が、きゅう、と鳴る。


美緒は続ける。


「こう、誰かに頼られてそうっていうか」

玲央の方をちらりと見る。

「相沢さん、結城さんに頼りたくなるの、分かる気がします〜」


胸の奥がざわつく。

頼られてそう。

頼りたくなる。

その言葉が勝手に輪郭を持って、背中の熱に繋がってしまう。


玲央は一拍だけ黙った。

ほんの一拍。

でもかなえには、その沈黙がやけに長く感じた。


次の瞬間、玲央は笑って答えた。


「仕事はね。頼ってますよ」


仕事はね。


“ね”をつけるのがずるい。

仕事だけだと言い切らない。

でも仕事の顔を崩さない。


美緒は満足げに「ですよね〜」と頷いて、去っていった。


美緒の背中が遠ざかった途端、空気が少しだけ重くなる。


かなえはコピー用紙を揃え直しながら、声を絞った。


「……相沢さん、変に曖昧にしないでください」


玲央は紙を揃える手を止めないまま、低く返す。


「曖昧?」


「探られるじゃないですか」


玲央はやっとかなえを見る。

目尻は笑っているのに、目の奥が笑っていない。


「……探られたくない?」


確認みたいな言い方。

そのくせ、答えに寄りかかってくる。


かなえは噛みしめる。


「当たり前です」


玲央は小さく息を吐いた。

笑ってごまかさない。

その代わり、言う。


「分かった」

一拍置いて、声だけ少し柔らかくする。

「……気をつける」


“気をつける”。

言い方が優しいのが腹立たしい。

優しいから、かなえの胃が痛む。


玲央は最後に、仕事の距離に戻って言った。


「修正、よろしくお願いします」


それだけ。

それだけなのに、背中の熱が増す気がした。





午後は会議が続いた。

今期の数字、営業二課の動き、締切の前倒し案。

一次集計を二課側で担って、営業企画の残業を減らす運用——玲央が言い出した施策が、形になっていく。


かなえは資料を映しながら淡々と説明する。

社交的で、サバサバして見える声の出し方。

それが“得意”だから、こういう場では崩れない。


崩れないのに。


視線の端で、玲央がこちらを見ているのが分かる。

ずっとじゃない。

必要なところだけ。

でも、必要以上に丁寧な視線。


(……見ないで)


そんなふうに思う自分が、いちばん嫌だ。


会議が終わり、席へ戻る廊下で、美緒がまた現れた。


「あ、結城さーん!」


いつも通りのテンション。

そのくせ、目が真面目。


「さっきの会議の資料、二課にも回してもらっていいですか?」


「はい。後で送ります」


「助かります〜」

美緒は笑ってから、ふっと声のトーンを落とした。

「……あと」


来る。

嫌な予感が当たる。


「相沢さん、さっき誰かに“捕まってる”って感じしませんでした?」


かなえは一瞬、呼吸が止まった。


「どういう意味ですか」


自分でも声が硬いのが分かる。


美緒は悪気のない顔を作る。


「え、だって最近、相沢さんの機嫌、良い時多いじゃないですか〜」

肩をすくめる。

「誰かいるんだろうなーって。彼女とか」


彼女。


その単語が胃の奥に落ちて、ずしん、と重くなる。

かなえは表情を動かさない。

動かせない。


「……知りません」


それだけ言うのが精一杯だった。


美緒は「ですよね〜」と頷いてから、わざと軽く言った。


「でも結城さん、相沢さんと仲いいから知ってそうって思っちゃいました」


仲いい。


その言葉が嫌なのに、ほんの少しだけ甘い。

甘いのが嫌で、胃が痛い。


かなえは業務の盾を出す。


「資料送りますね」


美緒は「はーい!」と笑って去った。


残されたかなえは、指先が冷えるのを感じた。

冷えるのに、背中の奥だけが熱い。

噛み合わない温度が、胸の中でぐちゃぐちゃになる。





退勤前、玲央から社内チャットが来た。


『今日、少しだけ時間ある?』

『短くでいい』


短くでいい。

押しつけない形。

逃げ道を残している顔。


それが、いちばん断れない。


かなえは画面を見つめたまま、息を吸った。

吐いて、打つ。


『何の用件ですか』


既読がつくのが早い。


『昼の件』

『美緒の』


美緒。

その名前が出ただけで胃が鳴る。


かなえは短く返した。


『五分だけなら』


『了解』


了解。

その一言だけで、もう決まってしまうのが怖い。





ビルの外の裏手。

人の目が少ない場所を選ぶのは、かなえの癖だ。

癖で自分を守ってきた。


玲央が来た。

スーツ姿のまま、いつもの顔。

でも、目が少しだけ暗い。


「結城さん」


会社の距離の呼び方。

それが逆に、ここが“会社の外”ではないことを強調してくる。


かなえは先に刺した。


「美緒さんの話なら、私に聞かないでください」


玲央は一拍、黙った。

それから、少しだけ眉を寄せる。


「……あれ、嫌だった?」


嫌だった。

その一言で片づけられるほど軽くない。

でも説明できるほど言葉も持ってない。


かなえは視線を逸らして言った。


「嫌とかじゃなくて」

正論に変換する。

「職場です。余計な噂を立てられるのは困ります」


玲央は小さく頷いた。


「うん。困るね」


あっさり同意されると、逆に胸がざわつく。

同意されて終わりなら、さっきの暗い目は何だったのか。


かなえは思い切って聞いた。


「……相沢さんは、何を考えてるんですか」


玲央は少しだけ目を細めた。

一瞬、言葉を探す顔。


それから、答えが落ちた。


「考えてない」

淡々と。

「……でも、嫌だった」


嫌だった。


美緒が探るのが?

噂が立つのが?

それとも——


かなえの胃がきゅっと鳴る。


「何が」


玲央は視線を外して、短く言った。


「結城さんが、ああいうのに巻き込まれるの」


巻き込まれるのが嫌。

それは優しさみたいに聞こえる。


でも、さっきの暗い目は、優しさだけじゃない。


かなえが言葉に詰まっていると、玲央が一歩近づいた。

近づいて、でも触れない。

触れない距離のまま、声だけを落とす。


「……帰り、誰かに捕まえられたりしない?」


かなえは息を止めた。


捕まえられる。

その言い方が、まるで自分が“捕まえる側”みたいで腹が立つ。


「そんなこと、ありません」


「そっか」

玲央はほっとしたみたいに息を吐く。

ほっとするのが、いちばん腹立たしい。


かなえは苦し紛れに刺した。


「相沢さん、心配しすぎです」


玲央は小さく笑った。

目尻がくしゃっとなりかけて、でもすぐ戻る。


「心配してるのかな、俺」


自覚がないふり。

でも、やめない。


そのやりとりのまま、かなえのスマホが震えた。


水野美緒からだ。


画面に出た通知文が、短いのに刺さる。


『結城さん、今日相沢さんと話してました?』

『なんか、相沢さん、機嫌悪くないですか…?私のせいかな;』


かなえは画面を見たまま固まった。


機嫌悪い。

私のせいかな。


美緒は自分を中心に話を作るのが上手い。

そういう人の“無自覚な刺し方”が一番厄介だ。


玲央がかなえのスマホに視線を落とした。

一瞬。

ほんの一瞬。


「……美緒?」


かなえは反射でスマホを伏せた。


「違います。業務連絡です」


嘘じゃない。

でも全部じゃない。


玲央は何も言わなかった。

言わないまま、声だけが少し低くなる。


「……結城さん」


会社の距離の呼び方なのに、温度が近い。

近いのに、触れない。

触れないから余計に、逃げ場がない。


かなえは息を整えようとして、失敗する。


(だめだ)

(落ち着け)


玲央が、ぽつりと落とした。


「金曜」


その二文字で、背中の熱が思い出される。

棚の匂いが蘇る。

胃が、きゅう、と鳴る。


かなえは言い返そうとした。

「金曜は忙しい」とか。

「予定がある」とか。

「無理です」とか。


——なのに。


拒否の言葉が、喉の奥で形にならない。


玲央は“お願い”をしない。

代わりに、当たり前みたいに次を置く。


「仕事終わったら、連絡して」


かなえの呼吸が浅くなる。


「……何のために」


やっと出た声は、かすれていた。

自分でも驚くくらい弱い。


玲央は軽く首を傾げる。

本気で不思議そうな顔で言う。


「迎えに行くから」


迎えに行く。


その言い方が、まるで“決まってる”みたいで、

まるで“あなたは来る”が前提みたいで、

かなえの胃が痛いのに、胸の奥が甘く疼いた。


(……いつの間に)

(私、断れなくなってる)


かなえは“予定”を押し返せない。

押し返せないまま、かろうじて線を引こうとする。


「……会社では、普通にしてください」


玲央はあっさり頷く。


「うん。そこは守る」


守る、という言葉に、かなえはまた弱る。

守ると言われると、こちらが信じてしまう。

信じたくなる。


玲央は一拍置いて、声だけ少し柔らかくした。


「……結城さんが困るの、嫌なんだよ」


困るのが嫌。

優しさの顔をした、囲い込み。

それに気づいているのに、かなえは嫌だと言えない。


スマホがまた震える。

美緒からの追撃だ。


『金曜って、相沢さんいつも誰と会ってるんですかね〜?』

『結城さんなら知ってそうって言われて、私ちょっと困ってます〜』


“困ってます”の仮面で、刺してくる。


かなえは画面を見つめたまま、動けなかった。


知らない、と言えばいい。

知らない、と言える。

言えるはずなのに。


言った瞬間、金曜の“迎えに行く”まで嘘になる気がして、

嘘にしたら楽なはずなのに、

楽になるのが怖い。


玲央が、かなえの顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。

目尻がくしゃっとなりそうなほど、機嫌がいい。

その機嫌の良さが、いちばん厄介だ。


「……じゃ、金曜」


短く言って、玲央は最後に一言を足した。


「待ってる」


待ってる、じゃなくて。

迎えに行く、のくせに。


かなえの胃が痛い。

痛いのに、背中の熱が甘い。


拒否が浮かばない。

浮かばないほど、慣らされている。


そう自覚した瞬間、

かなえは自分が一番怖かった。



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