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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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第18話 俺の時間、俺の家




「タクシー呼ぶね」


玲央がそう言った瞬間、かなえの胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。

終電まで。恋人じゃない。職場に持ち込まない。

——今日も、そのルールの中で帰れる。


そう思ったのに。


ビルの外は金曜の夜の匂いがした。

アルコールの残り香と、風に運ばれる揚げ物の匂い、誰かの笑い声。

さっきまでの店内の温度が肌の内側に残っていて、外気がやけに冷たい。


車が止まる。

玲央が先にドアを開けて、かなえに手を伸ばした。


「足元、気をつけて」


優しいのが、腹立たしい。

優しいから断りづらい。

優しいせいで——変な期待が勝手に育つ。


かなえが後部座席に乗り込むと、玲央もすぐ隣に座った。

近いのに、触れてこない。

触れてこないのが、逆に逃げ道を奪う。


運転手が「どちらまで?」と振り向く。

かなえが口を開いた、その瞬間。


玲央が息を吐くみたいに、ぽつりと言った。


「……でもさ」


かなえの声が喉で止まる。


「明日、俺の時間なんだから」

一拍置いて、当たり前みたいに続ける。

「俺と一緒に帰らないと、だめでしょ?」


だめでしょ。

問いかけの形をしているのに、決定事項の響き。


かなえの胃が、きゅっと鳴った。


(……何それ)

(いつ決まったの)

(私、そんな約束——)


反論が浮かぶより先に、今夜の店での玲央の顔が戻る。

目尻がくしゃっとなる笑い方。

名前で呼ばれたときの、あの温度。

それに絆されそうになってしまった自分の弱さ。


そして何より、断ったら終わる気がする怖さ。


「……明日だけですよ」


ようやく出た声は情けないくらい小さかった。


玲央は嬉しそうに笑わない。

勝った顔もしない。

ただ、満足だけを目の奥に沈めて頷く。


「うん。明日だけ」


同じ言葉で返されると、今の自分の返事が“許可”に変わるのが分かる。

許可したのは、私。

その事実が、胃を痛くする。


玲央は運転手に言った。


「すみません、行き先変えてください」

さらっと。

「俺の家で」


窓の外へ視線を逃がす。

街の灯りが滲んで流れていく。

車内は静かで、玲央の体温だけが近い。


(明日だけ)

(例外)

(……帰れないわけじゃない)


言い聞かせないと、胸の奥が勝手に甘くなるから。





玲央の部屋は、前に来た時と同じ匂いがした。

清潔な洗剤の匂いと、薄いコーヒーの香り。

そこに玲央の香水が少し混ざっていて、吸い込むたびに息が浅くなる。


玄関で靴を脱いだ瞬間、玲央が後ろからかなえの肩に手を置いた。

抱きしめるほどでもない。

でも、逃げ道を閉じるには十分。


「寒くない?」


「寒くないです」


即答したのに、玲央は手を離さない。

その“離さない”が、もう始まっている気がして胃が痛い。


リビングに入ると、玲央はキッチンへ行ってグラスに水を注いだ。


「水、飲む?」


「……うん」


素直な返事が出てしまって、かなえは自分に腹が立つ。

ここにいることに、もう返事をしてしまっている。


グラスを受け取るとき、玲央の指がかなえの指に触れた。

一瞬。ほんの一瞬。

それだけで、背中の奥が熱を思い出す。


「……かなえさん」


二人のときだけの呼び方。

呼ばれるたび、許可が一つずつ増える。


「……何ですか」


玲央は一歩だけ近づいた。

触れない距離で止まり、言った。


「帰すつもりだった」


「じゃあ、帰してください」


かなえが刺すと、玲央は首を横に振る。


「無理だった」

淡々と。

「……かなえさんの顔、浮かんだ」


浮かんだ。

まるで私のせいみたいで腹立たしい。


「浮かんだって何ですか」


棘を立てると、玲央は困ったみたいに笑って、

次の瞬間、目尻を柔らかくして笑い直した。


「分かんない」


分かんない、と言いながら距離だけが詰まる。

玲央の指がかなえの髪に触れて、耳の後ろへ滑る。

その触れ方が丁寧で、丁寧なのに逃げられない。


玲央が小さく鼻で息を吸ったのが分かった。


「……酔ってる匂い」

囁いて、目を細める。

「かわいい」


かわいい、が刺さる。

それを言われると、胸がいちばん弱る。


「……そういうの、やめてください」


「やめない」


淡々と言い切って、唇が触れた。


ゆっくり。

急じゃない。

急じゃないのに、逃げる余地はない。


かなえの息が、どこに行けばいいか分からなくなる。

鼻で吸うと玲央の匂いが入ってきて、頭がくらっとする。

口で吐くと唇が触れてしまう。


玲央の手が腰に回る。

服の上から背中へ滑って、肩甲骨のあたりで止まる。


「……かなえさん」


呼ばれるたび、だめなはずなのに頷きたくなる。

許したくなる。

それが一番怖い。


気づいた時には、ソファじゃなく寝室だった。





土曜の朝。


カーテンの隙間から光が落ちてきて、かなえは目を覚ました。

頭痛はない。代わりに背中の奥が熱い。じん、とする。


隣には玲央がいた。

寝起きの顔なのに、妙に機嫌がいい。

目が合うと、目尻がくしゃっとなる。


「おはよう」


その一言が、日常みたいに聞こえてしまって、

かなえは一瞬、何も言えなくなった。


(……私、何してる)

(ここにいるのが普通みたいになってる)


玲央がかなえの額に軽く口づけた。

跡が残らない程度の、軽い印。

軽いのに、“俺の”と書かれたみたいに感じてしまう。


かなえは反射で身を引きかけて、

でも引かなかった。


引かない自分に、遅れて驚く。


玲央の目尻が柔らかくなる。


「……今の、嫌じゃない?」


確認。

責めない声で縛る。


かなえは目を逸らして、小さく言った。


「……嫌なら、昨日来てません」


言ってしまった瞬間、心臓が跳ねる。

それは肯定に近い。


玲央は「そっか」とだけ返して、すぐ結論へ行った。


「じゃ、俺の時間は俺の家で過ごそ」


さらっと。

恋の告白じゃない言い方で、決定事項みたいに。


「場所、決めた方が落ち着く」

玲央が言う。

「……俺が」


また“落ち着く”。

それを理由にされると拒否が難しくなる。


「……勝手に決めないでください」


いつもの防御。

でも、拒否じゃない。


玲央は笑わない。

怒らない。

淡々と、言い直す。


「決めるっていうか……慣れよ」

目尻だけが少し緩む。

「今日だけで。今日の“居る”を、嫌じゃなくする」


嫌じゃなくする。

無理させない言い方のくせに、

一度慣れたら次が楽になる、と言われている気がして胃が痛い。


「……今日だけです」


かなえが言うと、玲央は嬉しそうに頷いた。


「うん。今日だけ」


同じ言葉で、今日が固定されていく。





玲央はキッチンでコーヒーを淹れた。

豆の香りが部屋の隅まで広がる。


「砂糖、いらないよね」


さらっと言われて、かなえはスプーンを止めた。


「……なんで分かるんですか」


「昨日、入れてなかった」


見てた、の言い換え。

それを当たり前みたいに言うのが怖い。


玲央はマグカップを渡して、自分の分を持ったまま棚の前へ行く。


「かなえさんの場所、作ろ」


「……は?」


棚の一段を空けて、指で軽く叩く。


「ここ。かなえさんの棚」


棚一段。

大したことないはずなのに、

そこに“私の場所”ができたら、次から帰りにくくなる。


(……分かってる)

(分かってるのに、言えない)


「荷物、毎回持ってくの面倒でしょ」

玲央は軽く言う。

「今日だけでも、楽な方がいい」


楽、と言われると断る理由が減る。

断れない自分が嫌なのに。


かなえは結局、バッグを開けた。

ヘアゴムと、リップと、充電ケーブル。


「……自分で並べます」


玲央はすぐ頷く。


「うん。その方がいい」


意味を言わない。

言わないのに、分かってしまう。


——自分で作った場所は、捨てにくい。


かなえは棚に物を置きながら、胃が痛くなった。





「足りない物、買いに行こ」


棚の話が終わった直後に言われると、“ついで”の顔をした強制になる。


近所のスーパーは、休日の匂いがした。

野菜の青臭さと、パンの焼ける匂い。

人の声が柔らかい。


玲央は自然にかなえの少し前を歩く。

人の流れを読んで位置を変える。

ぶつからないように、勝手に守る。


「こっち、段差ある」


そう言って、かなえの手首に触れた。

繋ぐじゃない。ただ導くだけ。

それが一番ずるい。


「……掴まって」


言われて、かなえは反射で掴まった。

掴まってしまった瞬間、“許可”を渡した感覚が遅れて来る。


買い物かごに入るのは牛乳と豆。

次に玲央は迷いなくルームウェア売り場で足を止めた。


「……パジャマ、ないでしょ」


「あります。持って帰ります」


「毎回? それ面倒じゃない?」


「面倒じゃ——」


言いかけた言葉を、玲央は柔らかい声で切った。


「じゃあ今日だけ。買お」


“今日だけ”を盾にして、当然みたいに進める。

盾のくせに逃げ道が消える。


玲央は無地のルームウェアを手に取った。

薄いグレー。余計な柄がない。


「これなら外に干しても変じゃないし」

一拍。

「……かなえさん、こういうの好きそう」


「勝手に決めないでください」


「決めてない。提案」


言い直しが上手い。

上手すぎて、拒否が“わがまま”みたいになる。


次はシャンプーの棚。

玲央がふっと足を止めた。


「匂い、これがいい」


「……何の話ですか」


「かなえさんの」

言い方がやけに静か。

「ここで混ざる匂い」


胃が、きゅっと鳴る。

混ざる、なんて言葉をそんな顔で言うのがずるい。


「……買わなくていいです」


「じゃあ、選んで」

押し付けない形で押す。

「かなえさんが嫌じゃない匂いにして」


嫌じゃない、がまた増える。

増えるほど、逃げ道が減る。


かなえは棚の前で少し迷って、無難なものを一つ取った。


玲央はそれを見て、目尻をくしゃっとさせた。


「うん。これ」


嬉しそうなのが腹立たしい。

腹立たしいのに、どこかで安心してしまう自分がもっと嫌だ。





午後は、生活の音が続いた。

洗い物。片付け。買ってきたものを棚にしまう。

“普通の休日”に寄せれば寄せるほど、怖い。


玲央は隙があると、かなえの肩や腰に軽く触れてくる。

掴むほどじゃない。抱くほどでもない。

でも「ここにいるよ」と言われているみたいに、ちょうどいい。


かなえは一度だけ手を止めた。


「……触るなら、言ってください」


言い方は強い。

でも内容は、拒否じゃない。


玲央は一瞬だけ目を見開いて、

次の瞬間、目尻を柔らかくした。


「うん」

短く頷く。

「……触っていい?」


丁寧すぎて、逆に逃げられない。


かなえは視線を逸らしたまま、吐くように言った。


「……邪魔にならない程度なら」


「了解」


その言葉が妙に仕事っぽいのに、声が甘い。

腹が立つのに、背中の奥が熱くなる。


玲央の指が、かなえの手首に軽く触れた。

濡れた皮膚が、触れたところだけ熱くなる。


「今、これくらい」


確認。

嫌なら引く顔。

でも引かない。


かなえは黙って皿をすすいだ。

白い皿が眩しくて、

眩しいほど自分の内側だけが濁っていく。


(……飼い慣らされてる)

(分かってる)

(分かってるのに、嫌って言えない)





夕方、玲央がスマホのメモを開いた。


「ルール、更新しよ」


軽い声。

軽いのに、逃げられない温度。


かなえの胃が鳴る。


「……そんな簡単に更新するものじゃ」


「簡単にしないと続かない」


玲央は淡々と言う。

“続く”が前提になっているのが、ずるい。


「恋人じゃない」

「詮索しない」

「職場に持ち込まない」


そこまでは、かなえのためのルールみたいに聞こえる。


玲央は少し間を置いて、続けた。


「職場は結城さん。二人のときは、かなえさん」


二人のとき。

その言い方で、二人の時間が当たり前になる。


「終電まで。基本」


“基本”。

そこに例外の余白が残っている。


かなえは息を吸って吐いて、釘を刺す。


「……例外は、今日だけです」


玲央はすぐ頷く。


「うん。今日だけ」


同意の形で、今日を固定する。


それから玲央はスマホを閉じて、少し迷う顔をした。

迷っている顔をされると、かなえは弱い。


「……ね」

玲央が言う。

「もう一個、お願いしていい?」


“お願い”。

かなえを動かす言葉。


「……何ですか」


玲央は日常みたいに軽く、でも目は妙に真剣に言った。


「レオって呼んで」


かなえは固まった。


「……無理です」


即答すると、玲央は笑いを引っ込める。

怒らない。拗ねない。

代わりに逃げ道を作る顔をする。


「じゃあ、条件つけて」

低い声。

「かなえさんが嫌じゃないやつ」


嫌じゃない、がまた来る。


かなえは言いながら、自分が追い込まれているのを分かっていた。

分かっているのに、拒否が出ない。


「……ここだけ」


「どこだけ」


「……あなたの家の中だけ」

喉が詰まる。

「外と会社では、無理」


玲央の目尻がくしゃっとなる。

嬉しそうなのが腹立たしいくらい分かる。


「うん。家の中だけ」

玲央は穏やかに頷く。

「……ありがとう」


ありがとう、が刺さる。

許可したのは私だと確定するから。





夜。


部屋の明かりが少し落ちて、音が減る。

コーヒーの匂いは薄れて、代わりにシャンプーの匂いが残った。


洗ったばかりの髪の匂い。

玲央がそれを吸い込むみたいに近づく。


かなえは反射で肩をすくめた。


「……嫌?」


玲央がすぐ聞く。

責めない声で縛る。


「嫌じゃないです」


言ってしまった瞬間、心臓が跳ねる。

自分で自分の首を絞めている。


玲央は嬉しそうに目尻をくしゃっとさせて、囁いた。


「……いい子」


その言い方が、怖いくらい優しい。


かなえは逃げるために、わざと刺した。


「猫に言ってるみたいですね」


玲央は一瞬だけ固まって、

それから困ったように笑った。


「似てるって思っただけ」

言い訳みたいに、でも本音みたいに。

「……くっつけるやつ、好きなんだよね」


くっつけるやつ。

恋人じゃない言い方で、恋人みたいなことを言うのがずるい。


「……私は猫じゃないです」


玲央は頷く。

ちゃんと頷くのに、近づく。


「うん。かなえさん」


名前で呼ばれて、背中の奥が熱くなる。

許可した呼び方は、もう戻れない。


玲央の手が背中へ回る。

ゆっくり。

丁寧で、逃げ道を潰す丁寧さ。


「……首、だめだよね」


玲央がぽつりと言った。


かなえは息を止める。


「……だめです」


玲央は素直に頷く。

頷くのに、目の奥に残念が滲むのが分かる。


「うん」

短く返して、声を少しだけ低くする。

「……ほんとは、残したい」


欲しいのを押し付けないふりで、欲しいと言う。

それが一番ずるい。


かなえは視線を逸らして、絞り出す。


「……見えるところは、困ります」


玲央はすぐ頷いた。

早すぎて、最初から分かっていたみたいで腹が立つ。


「分かってる」

淡々と。

「困らないとこ」


次の瞬間、背中に落ちる熱がひとつ増えた。

服の上じゃない。

皮膚に直接、ゆっくりと置かれる熱。

息を吸うのが遅れる。


「……っ」


声を飲み込む。

飲み込んだ分だけ、身体が正直になる。


背中に落ちる熱は、ひとつでは終わらない。

同じ場所じゃない。

少しずつずれて、重なって、増える。

見えないところにだけ、花束みたいに。


かなえはシーツを握った。

指先が白くなる。

匂いと呼吸と布の感触だけが世界になる。


(……だめ)

(……でも)

(……こんなに求められてるの、嬉しい)


たとえそれが“くっつけるやつ”の延長でも。

たとえ猫みたいだと思われていても。

嬉しいと思ってしまう自分が、胃を痛くする。


玲央が額を寄せる距離で囁いた。


「……レオって」


お願いする声。

でも、逃がさない温度。


かなえは喉が詰まって、すぐには言えない。

言えないまま、背中の熱がまた増えて、

身体が逃げ道を失っていく。


「言って」


玲央がもう一度、静かに言う。

焦らさない。責めない。

でも、待つことが前提みたいに。


かなえは目を閉じて、息を吸って、吐いて、

やっと、小さく落とした。


「……レオ」


言った瞬間、玲央の気配がふっと柔らかくなる。

言葉は足さないのに、機嫌がよくなるのが分かる。

それが怖いのに——少しだけ、嬉しい。


玲央は背中を指でなぞって、満足そうに息を吐いた。


「……いい」


いい。

その一言が、背中の花束に水をやるみたいで、かなえは目を逸らした。


玲央が囁く。


「約束」


「……何ですか」


「週末、俺のこと以外考えない」

軽い声なのに、目は真面目。

「破ったら、背中に追加」


冗談みたいに言うのが冗談に聞こえない。

でも拒否したら、“考えたい誰か”がいるみたいで、それが怖い。


かなえは言葉が出ない。

出ないまま、玲央の腕の中に閉じ込められていく。


玲央が低く囁いた。


「かなえさんの週末、俺のもの」


恋人じゃないのに。

恋人よりも直接、囲ってくる。


かなえは答えられない。

答えられないまま、背中の熱だけが増える。





日曜の朝。


コーヒーの音で目が覚めた。

部屋の匂いが、自分のものみたいに感じてしまって胃が痛い。


玲央が戻ってきて、かなえの額に軽く口づける。

跡の残らない場所に、いつもの印。


「おはよう、かなえさん」


わざとらしい呼び方。

試すみたいに。


かなえはむっとして、反射で口が先に動く。


「……レオ」


言ってから気づいて、胃がきゅっと鳴る。

自分で自分を飼い慣らしている。


玲央は何も言わない。

ただ、目尻だけがくしゃっとなって、機嫌がいいのが分かる。


「……家の中だけです」


かなえが言い訳すると、玲央は頷く。


「うん。家の中だけ」


“だけ”が、今は嬉しそうで、

でも、いつか“だけじゃ足りない”になる気がして、胃が痛い。


かなえが起き上がろうとすると、

玲央の腕が自然に腰を抱いた。

抱きしめるほど強くないのに、離れられない。


「背中、あとで見て」


玲央が何でもないみたいに言う。


かなえは固まった。


「……何を」


「困らないとこにしたから」


困らないとこ。

それを選ばれた事実が、じわじわ効く。


かなえは自分の背中を見られない。

だから気づかない。

背中に“赤い花束”ができていることも、

それを見て玲央が静かに満足していることも。


知らないまま、玲央の体温に包まれる。


「今日、帰る?」


帰る。

その言葉が現実を連れてきて胸がざわつく。


「帰ります」

かなえはきっぱり言った。

「……今日だけです」


玲央は「うん」と頷いた。

頷いたのに、声が柔らかい。


「じゃあ送る」

さらっと。

「……帰したくないけど」


帰したくない。

恋人じゃないのに言うのが、ずるい。


昼過ぎ。

玄関で靴を履く。

かなえのバッグは昨日より少し軽い。

代わりに玲央の家の棚に、かなえの“今日だけ”が残っている。


玲央が鍵を持って、かなえを見る。


「かなえさん」


呼ばれるだけで胃が鳴る。


「……何ですか」


玲央は少し迷って、でも穏やかに言った。


「今週、金曜も」

軽い声。

「……例外、もう一回だけ」


例外。

例外って言い方で、常態化を進めてくる。


かなえは言い返したいのに、

背中の熱が邪魔をして、うまく言葉が出ない。


玲央が低く言う。


「お願い」


また、その言葉。

かなえを動かす合図。


かなえは視線を逸らしたまま、やっと吐いた。


「……考えます」


考えます、は否定じゃない。

そのことに気づいて胃が痛い。


玲央の目尻がくしゃっとなる。


「うん。考えて」

それから当たり前みたいに言った。

「帰ったら一言ね。着いたって」


“俺が落ち着く”は言わない。

言わないのに、そこにある。

言わない方が、余計に縛る。


かなえはドアノブに手をかけて、

最後に小さく言ってしまった。


「……レオ」


呼んだのは、家の中だから。

そう言い訳したいのに、

玲央の目尻が嬉しそうにくしゃっとなった瞬間、言い訳が薄くなる。


「なに」


「……見送らなくていいです」


玲央は笑った。


「うん。寒いし」

一拍置いて、声を落とす。

「……でも、今の呼び方、もう一回」


欲しがり方が、子どもみたいなのに狡い。


かなえは息を吸って、吐いて、

小さく落とした。


「……レオ」


玲央は何も言わない。

ただ満足そうに笑った。

その笑いが、次の胃痛の予告みたいに見えてしまって、かなえは目を逸らした。


ドアが閉まる。

廊下の足音が遠ざかる。


——遠ざかったのに。


玲央の体温と匂いだけが、背中の奥に残っている。

背中の花束が、熱を持って脈打つ。


スマホが震えた。


『帰ったら一言』

短い通知。

短いのに逃げ道がない。


かなえは画面を見たまま息を止めた。


(……慣れたくない)

(でも、もう少しだけ——)


指が勝手に返信欄を開く。

“着いた”の四文字を打つだけのはずなのに、

打った瞬間、週末が“続く”に変わる気がして怖い。


それでも、かなえは消せなかった。


背中の熱が、答えを先に出してしまう。


『着きました』

送信。


既読がつくのが、早い。


『えらい』

『金曜、空けといて』


“お願い”じゃない。

でも“命令”でもない。

一番たちが悪い言い方で、もう次を置かれている。


かなえはスマホを握りしめた。


(……飼い慣らされてる)

(分かってる)

(分かってるのに、嫌って言えない)


胃が痛い。

でも、背中の熱が——少しだけ甘い。


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