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『選ばれない私と、手放せない君』  作者:


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17/20

第17話 隣に座るのは、誰




『次回運用すり合わせ/神谷より(結城様)』


通知が光って、かなえは指を止めた。


仕事の連絡。

仕事の言葉。

仕事の安心。


それなのに胸の奥がざらつくのは——たぶん、今の私が仕事を盾にしているからだ。


もう一件、通知。


社内チャット:相沢 玲央

『今日、帰り』

『少しだけ時間ある?』


少しだけ。

優しい顔をした言葉が、いつも逃げ道を削ってくる。


(……どっちも“正しい”のに)

(どっちも胃が痛い)


かなえは息を吸って、吐いて、先に神谷へ返信した。


『神谷様

資料ありがとうございます。確認します。

不足があれば明日(金)午前に戻します。

結城』


送信。

仕事は、返せる。

線引きの言い訳が立つから。


——次は、玲央。


かなえは社内チャットを開いて、いちばん安全な形に整えた。


『今日疲れているので短時間なら』

『ビル1Fのカフェで。10分だけ』


送ってしまってから、息が止まる。


(……呼んだみたい)

(違う。安全な場所を選んだだけ)


既読がつく。


『了解。10分』

『ありがとう、結城さん』


“結城さん”。

職場の呼び方。

守ってるふり。


なのに、胸の奥だけが熱くなる。





カフェに着いたのは、木曜の退勤後、18時半過ぎだった。


会社のビルの一階。

人がいる。

明るい。

声が混ざる。

ここなら、何も起きない——はず。


かなえは壁際の席を選んだ。

背中が壁につくと、呼吸が少しだけ楽になる。


コーヒーを頼む。

砂糖は入れない。

甘さはいらない、と言い聞かせる。


スマホが震えた。

神谷から追加のメール。


『結城様

用語の定義を冒頭に置きました。誤解が出そうなので。

説明用の1枚スライドも添付します。

神谷』


淡い文面。

余計な熱のない言葉。


それが安心で、同時に、胃が痛い。


(……私は今、何に痛いの)


答えを見たくなくて、かなえは画面を閉じた。



「結城さん」


低い声が落ちる。


顔を上げると、玲央が立っていた。

スーツのまま。ネクタイもそのまま。

仕事の顔なのに、目だけが少し柔らかい。


「……早いですね」


「待てなかった」

言ってから、すぐ言い直すみたいに声を整える。

「……10分って言われたから、守りたくて」


守りたくて、が刺さる。

守るのは当然なのに、“守りたい”と言われると妙に重い。


玲央は向かいではなく、少しずらした斜め前に座った。

距離の取り方が上手い。

上手いのが怖い。


「疲れてる?」

玲央が聞く。


「疲れてます」


即答すると、玲央の目尻がほんの少し柔らかくなる。


「そっか」

それから当たり前みたいに言う。

「会議、おつかれ」


ただの労い。

それだけで胸の奥が熱くなるのが腹立たしい。


かなえは棘で返す。


「それだけなら、チャットで良かったのでは」


玲央が小さく笑って、でもすぐ笑いを引っ込めた。


「それだけじゃない」

一拍置いて、言葉を選ぶ。

「……今日の俺、変だった?」


かなえは視線を逸らす。


「……変でした」


玲央は頷いた。


「ごめん」

謝るのに、目を逸らさない。

「……苦手だった」


また、その言葉。


「苦手、って何ですか」


棘を立てないと崩れる。


玲央は息を吐いて、短く言った。


「神谷さん」

それから、言いかけて止める。

「……結城さんが、あの人と笑ってたの」


——今、かなえって言いかけた。


気づいた瞬間、胸の奥が痛い。

嬉しい痛みと怖い痛みが一緒に来る。

かなえは気づかないふりをした。言ったら許可になる。


「仕事です」


玲央は頷く。


「うん。分かってる」

分かってるのに、続ける。

「……分かってるけど、嫌だった」


嫌。

子どもみたいな言い方なのに重い。


「……じゃあ、見ないでください」


玲央が一瞬だけ目を見開いて、苦笑する。


「それ、無理」

軽く言って、すぐ真面目に戻る。

「……見ないって決めたら、もっと変になる」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


かなえが問い詰めると、玲央は少しだけ黙った。

そして、静かに落とす。


「確認」

また確認。

「……神谷さんと、仲いいの?」


“仲いい”。

説明できない曖昧さ。

一番嫌な単語。


かなえは正論に逃げる。


「仕事上、やり取りが多いだけです」


玲央は頷く。

頷くのに、目が沈む。


「……そっか」

小さく。

「じゃあ、俺は?」


俺は。


胃が、ぎゅっと掴まれる。


俺は後輩?

仕事の延長?

それとも——名前のない関係?


言葉にしたら現実になってしまう。


かなえは逃げ道を選ぶ。


「相沢さんは、営業です」

淡々と。

「仕事の範囲でもやり取りします」


玲央は口角だけ少し上げる。

目は笑っていない。


「うん」

それから低く言う。

「それだけ?」


それだけじゃない。

分かってるくせに。





その時、カフェの入口が開いた。


「結城さーん」


軽い声。


水野美緒だった。

まだ酒の匂いはない。頬も赤くない。

これから一次会へ向かう途中らしく、スマホを握ったまま足取りが軽い。


美緒はかなえに手を振り、玲央に気づくと目を丸くした。


「あ、相沢さん!」

嬉しそうに笑って、かなえに視線を戻す。

「え、二人で……? 会議の続きですか?」


“二人で”の事実だけを、軽く釘みたいに打つ言い方。


かなえが答える前に、玲央が先に言った。


「そう。会議の続き」


平坦。

守ってるふり。


美緒は「へえ〜」と笑って、さらっと刺す。


「神谷さんの件、さっき二課でも話題になってましたよ」

にこにこしたまま。

「結城さん、神谷さんと話してる時、雰囲気違うな〜って」


雰囲気。

素っぽい、の別名。


かなえの胃がきゅっと鳴る。


玲央が低く言う。


「水野さん、それ今言う?」


美緒は「え、すみません〜!」と軽く頭を下げる。

軽いのに、引かない。


「でも、結城さんって普段サバサバしてるじゃないですか」

笑って言う。

「神谷さんの前だと、ちょっと柔らかいというか」

それから、玲央を見て。

「相沢さん、さっき会議室でずっと見てましたよね。仕事熱心だな〜って思って」


“ずっと見てた”。


かなえの胃が、もう一段痛くなる。


玲央は笑わない。


「仕事熱心」


嘘の形が上手いのが怖い。


美緒は「ですよね〜」と笑って、時計を見るふりをした。


「やば、一次会始まるので私もう行きます!」

軽く手を振って去り際に、かなえへだけ小さく言う。


「……結城さん、モテますね」


飴みたいで毒みたいな一言を残して、美緒は出て行った。





空気が戻ったのは外側だけだった。


玲央が小さく息を吐く。


「……ごめん」


かなえは視線を逸らす。


「……よく刺してきますね」


玲央は口角だけ動かす。

目は笑っていない。


「刺してる自覚あると思う」

それから、ぽつり。

「……俺も刺された」


誰に、とは言わない。

言わないのに、答えだけが分かってしまうのが嫌だ。


かなえは時計を見た。


「……10分、過ぎました」


逃げる。

逃げないと崩れる。


玲央は頷いた。

頷いたのに、すぐ立たない。


「最後に一個だけ」


声が少しだけ低い。


「……かなえさん」


名前。

二人の時だけの呼び方。

それを、わざと今ここで。


かなえは反射で顔を上げてしまう。

その瞬間、玲央の目尻がほんの少し柔らかくなる。


「今の、呼んでいい?」

静かに。

「……ここ、俺だけの呼び方にしたい」


俺だけ。


口に出されると甘くて痛い。


かなえは視線を落として、絞り出す。


「……会社では、だめです」


玲央がすぐ頷く。


「うん。会社では言わない」

それから、声を落とす。

「……二人の時だけ」


例外の増殖。

常態化の仕込み。


かなえの胃がきゅっと鳴る。


「……二人の時だけなら」


言ってしまった。


玲央の目尻が、くしゃっとなる。

嬉しそうに笑う顔が、ずるい。


「ありがとう」


その“ありがとう”が許可の回収みたいで胃が痛い。


かなえは立ち上がった。


「……帰ります」


玲央も立つ。


「送る」


「いりません」


「送る」

同じ調子で繰り返す。押し付けじゃない顔で押し付ける。

「……今日、俺が落ち着かない」


またその言葉。

それを盾にされると、断れない自分が嫌だ。



その時、かなえのスマホが震えた。


——神谷からのメール。


画面の上に件名が浮かぶ。


『結城様

月曜の合同MTGに向けて、資料の最終すり合わせをしたく、

明日(金)午前に10分だけお時間いただけますか。

神谷』


明日、金曜。

月曜に向けた、ただの段取り。

——そのはずなのに、影が落ちる。


かなえは反射で画面を閉じた。

既読がつかないように。

見なかったことにするみたいに。


でもその動きを、玲央は見逃さなかった。


「……今、誰」


静かな声。

職場の温度じゃない。


「仕事です」


嘘じゃない。

でも全部でもない。


玲央は一拍置いて、当てる。


「神谷さん?」


——当てるのがずるい。


かなえは答えられない。

答えた瞬間、現実になるから。


玲央の目の奥が、昏く、どろりと濁るみたいに沈む。

笑っていない。


「……かなえさん」

優しい声で呼ぶ。

でも優しさの形をした固定。

「今日、俺のこと」

ゆっくり言葉を落とす。

「選んだ?」


選んだ。


胃が、ぎゅっと掴まれる。


選んだのは誰。

安心をくれる仕事?

痛くて甘い玲央?

どっちも違う。

どっちも少し正しい。


かなえは息を止めた。


返事ができない。


返事ができないまま、玲央の指先がかなえのコートの袖に軽く触れた。

許可を取らない代わりに、逃げないでと言う触れ方。


「帰ろ」

玲央が低く言う。

「……今日は俺、無理」


無理。

その一言が、次の“例外”の匂いを連れてくる。


かなえの胃が痛い。

痛いのに、胸の奥が甘い。


その甘さが、いちばん怖い。



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